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木更津キャッツアイ
2004/1/4(Su)その1
2004年映画初(ぞ)め。
12月からこっち映画を殆ど観ていないので(忘年会と観劇と冬コミで時間とカネを持ってかれたのが原因。忘年会以外は自業自得ですか)、観たい映画には事欠かない。というか、観てない端から上映が終了していく。次の連休は福岡だから、次に映画を観るのは17日以降。此処は縁が無かったのだと諦める他ないのだが、久しぶりに「ぴあ」のシネマ欄を見ると胸躍り、目移りして知恵熱の余り、頭が真っ白になるのも事実。
新宿に着く迄は「精霊流し(2003・日)」を観るつもりでいたのだが、2本目に観る予定の「ミッション・クレオパトラ ASTERIX & OBELIX : MISSION CLEOPATRE(2002・仏)」がコメディとして愉めるか微妙なラインだったので、此処はウェルメイドよりもエンタとして手堅い(?)「木更津キャッツアイ日本シリーズ(2003・日)」に変更する。放送当時の視聴率不調(勿論!観てません)が嘘のようなロングラン(2003/11/15公開)で、次の金曜で閉館してしまう新宿東映会館も初夢と見まがう活気である。
「木更津キャッツアイ 日本シリーズ(2003・日/金子文紀)」 新宿東映会館
えー、以下はTVシリーズ未見の人間の感想という事でひとつ。
ちょっと前までは映画の興行形態として洋邦を問わず、2本立て3本立て興行が当然の時代があった。今でも「ゴジラ&ハム太郎」や「ドラえもん」「戦隊&仮面ライダー」など一部の子供向け(むしろオタク向けと云うべきか)の番組にその残滓が見られるが、そもそも僕が映画館へ行き始めた80年代中盤から終盤過ぎ迄は(こういう云い方は好きじゃないが)一般映画に於ける2本立て興行がかろうじて生き残っていたのだ。そして、そういうプログラムピクチャーには「同時上映」と冠された主作品に対して副作品の地位に甘んじる作品群があって(たとえば、そもそも「釣りバカ日誌」の1作目は「男はつらいよ」のB面からスタートした)、おまけというか存在自体が「付加価値」のB面映画は潤沢なカネも用意出来なかった替わりに、矢面に立つ興行成績の重責もなかった為、野心溢れる新進気鋭や確信犯的中堅を得て、仇花的な「怪作」をまま生み出す温床となった。
前置きが長くなったが、要するに「木更津キャッツアイ 日本シリーズ」はそういう手枷のないプログラムピクチャーの仇花を思わせる。喩えて云うなら、本来裏道でこそ本懐を見出すサブカル作品が、一億総サブカル時代にヒットした為に、心ならずもメインストリートに踊り出てしまった感じ。いや「心ならずも」というのは適当ではあるまい。総論するのは無茶である事を承知で敢えて書くが、此処数年で「踊る大捜査線」「ケイゾク」「トリック」といった作品群が「カルト系ドラマ→映画化」路線の先鞭をつけ、テレビ製作のノウハウを投入した「オルタナティヴ武装したグランドホテル形式(書いてるオレだって何だか分からない)」なる想像を絶したハイブリッド路線の土壌を築き上げた(後者については「平成ガメラ」シリーズも大きく寄与している筈である)。
オルタナティヴで云えば、本作の旨味は、機が熟した「小劇場」力にもある。
(クドカン作品に於ける阿部サダヲと古田新太の仕事は板の上と何処が違うのだ?)。
絶妙なタイミングというのは確かにあるものだ。この作品の宮藤官九郎らしさ、「大人計画」らしさは「今が旬」故に何物にも換え難い輝きを放つ。話がごちゃごちゃしている上に、テレビを観ていないひとには圧倒的に不親切で、裏設定や楽屋オチが藪から棒に飛び交うさなかを右往左往しているうちに「何だかよく分からないけど面白かった」とこうなる。
映画は全篇に渡って小ネタ完全武装で、これが本作のキモと云っていい。
ハナから哀川翔リスペクト炸裂の哀川翔主演1000本記念映画「やくざ球団VSテキヤ球団」だし(ヒーロー哀川は映画の最后まで見せ場満載)、レギュラーが顔出ししてすぐに、時系列を果てしなくすっ飛ばして初老の木更津キャッツアイ・メンバーとしてベテランの皆さんにコントをさせた時点で、オレはある意味試合を放棄したね。
かつて櫻井翔だったとは云え、中尾彬にあそこまではしゃがせますか。くねくね酒井若菜をグループ魂「竹内力」の歌詞にも出てくる伊佐山ひろ子に演らせますか。薬師丸ひろ子にセーラー服を着せますか(せめてシワくらい飛ばしてあげるのが薬師丸ひろ子リスペクトというものだ)。岡田義徳と渡辺いっけいのアレはもはや演技ですか。
取ってつけたような無人島ネタ(インファント島か、はたまたグラマ島か)や公害怪獣ゴミンゴ(ヘドラか)も、昔の東宝映画リスペクトと見せかけて(本当か)、その実一切の主義主張を持たない自在さは小劇場のフットワークそのものだと思う。断言してもいいが、以上は全部クドカンの私利私欲に因るものである。でも、この映画はそれでいい。「やっさいもっさい」を踊るバラエティ班のウッチャンに到っては余りにテレビ的だが、面白ければそれもありだ。突き詰めれば、ぶっさん(岡田准一)の余命ネタそれ自体が笑いの起爆剤なのかもしれない。銀幕から聞こえてくる「オレたちにはもっと面白がる心がなきゃいけねえ」という声には全面的に賛同する用意がある。
何も語らない強さがこの映画にはある。
そして、僕は「ゼブラーマン」にもその強さを期待している。
映画の余韻も覚めやらぬまま、急ぎ足で新宿東映に最初で最后の別れを告げると、都営新宿線新宿三丁目駅を経由して都営大江戸線で夢にまで見た(?)六本木ヒルズを目指す。かねてからの予想通り、最初のヒルズ行きはヴァージンシネマズ六本木に行くので、ヒルズがおまけについてくるかたち。
…と、ヒルズがまた予想を遥かに上回る迷宮城砦だったから、さあ大変。
この項、続く。
ミッション・クレオパトラ
2004/1/4(Su)その2
都営大江戸線に乗っている時間はたいしてなかったのだが、駅を下りてから六本木ヒルズに辿り着くまでが結構かかったのと、実際に辿り着いてからのくだんの施設の迷宮具合にかなりてこずる。正月休みで人が多くて動きにくかったのも勿論だが、いちいち出入り口がまったりと動く回転ドアなのにも神経を逆撫でられる。このバブリーさは一体何?
メトロハット前の豆腐ドーナツなどを店頭販売をしているトーフカフェ・フジノを抜けて、何となく映画館寄りの名前な気がしたハリウッドプラザを突っ切って(実際はメイ牛山の「ハリウッド化粧品」の「ハリウッド」であった)暫く彷徨した後、ウェストウォークからけやき坂コンプレックスを目指しているうちにようやくヴァージンシネマズ六本木へ続く階段に辿り着く。此処に比べれば、リバーウォーク北九州など目をつむっていても目的地を見つけ出せる(はい、大嘘です)。殆ど機械化母星メーテル(…古いなァ)も吃驚の未来都市振りで、六本木ヒルズツアーがあるのも充分むべなるかな。
で、ヴァージンシネマズ六本木。
これが、あきれたガラス張りファーストクラス系シネコンである。
二階建て吹き抜けのエントランスは、上からヒーリング効果でも醸すつもりか、ガラスの壁伝いに流しそうめんの誘惑にかられそうな滝が流れ、2階行きのエレベータを降りると、何処もかしこも天井が果てしなく高い上に、売店へ抜ける通路は床照明を施した宇宙ステーション仕様と来た。キューブリックの描いた未来デザインって感じで確かに凄いのだが、味わういとまもなく(というか、むしろ居心地の悪さを感じつつ)既に予告篇の始まっている劇場へ駆け込む。
「ミッション・クレオパトラ ASTERIX & OBELIX : MISSION CLEOPATRE (2002・仏/アラン・シャバ)」
これ、原題を見ると分かるんだけど、日本未公開作品「アステリスクとオベリスク ASTERIX ET OBELIX CONTRE CESAR(1999・仏)」のPART2である。日本では第7回フランス映画祭横浜1999で上映されたものの、原作の知名度が今イチな事からお蔵入り。本作は本国フランスでの大ヒットを売りにしているが、前作だって仏国民の3人に1人が観た勘定になる国民的映画だったそうだから、今回のゲストであるモニカ・ベルッチとクレオパトラという題材の知名度を以って、日本公開に踏み切ったと思われる(だから日本版のポスターやチラシでは彼女の名前が主役のオベリスク(ジェラール・ドパルデュー)やアステリスク(クリスチャン・クラヴィエ)よりも先に来ている)。
尤もフランスのコメディ映画って日本ではなかなかあたらない。
エスプリだか何だか知らないが妙に取り澄ましていたり、或いは顔をしかめる類の下品さを発揮したりして、なかなかこちらの笑いのツボにヒットしない。国民レベルで笑いのセンスが異なっているのに相違ないと僕は勝手にそう決めてしまっている。
本国で大ヒットした「おかしなおかしな訪問者(1992)」もまるで笑えなかったし(実際PART2の日本公開は見合わされた)、一連のパトリス・ルコント作品も人間ドラマとしてはともかくコメディの部分では俄然響いて来ない(但しショートフィルムの「パトリス・ルコントのボレロ LE BATTEUR DUBOLERO(1992)」は別格。三谷幸喜が「オケピ!」や古畑3の「絶対音感殺人事件」でボレロを用いているのは絶対この作品からのインスパイアだと勝手に決めている)。個人的に仏喜劇で本気で面白かったのは「ディディエ(1997)」と「奇人たちの晩餐会(1998)」の2作くらい。
それでも観る気になったのは、監督・脚本が「ディディエ(1997・仏)」で監督・脚本・主演したアラン・シャバだったからだ(本シリーズではジュリアス・シーザーを演じている)。とは云え「奇人たちの…」のフランシス・ヴェベール(「Mr.レディMr.マダム」シリーズの脚本家でもある)の次回作「メルシィ!人生(2000)」がそれなりに面白かったものの「奇人たちの…」の破壊力には及ばなかった事を考えると油断は禁物である(それにしてもあの「ディディエ」がいつまでもDVD化されないのは何かの陰謀ではないかとさえ勘ぐりたくなる。「ボレロ」だって他ルコント作品の特典映像についてくれたら、僕は臨終の床から這い出してでもそれを買うと思う)。
相変わらず本篇の感想まで辿り着かないが(余り書かないから大丈夫)、結論から書けば「普通に面白い」が、一作目が公開されない事を憤慨する程ではない(誰も知らないんだが)。尤も公開されれば観に行っちゃいそうな気がする。
肝腎のストーリーだが、皇帝シーザーにエジプトを小バカにされカチンときたクレオパトラが、3ヶ月で砂漠に宮殿を建ててみせるからエジプトの民を尊敬しろと無謀な約束をした挙句、新進建築家ニュメロビス(ジャメル・ドゥブーズ)に全てを丸投げしてしまう。窮地に立たされたニュロメスは、魔法の秘薬を使うガリア人(アステリスク、オベリスクにクロード・リッシュ扮するパノラミックス)に応援を頼むが、彼の出世を妬む宮廷建築家アモンボーフィス(ジェラール・ダルモン)や、クレオパトラに頭を下げたくないシーザーの妨害工作は日々激化していく。果たしてこのプロジェクトXの行方は…て、そういうお話。
局所では笑えるんだが(ピラミッドで真っ暗になった途端に目だけのアニメになるあたりは大いにウケた)、木で笑えて森で笑えないというか、全体的に、はんなりとしているのだがまったりとしすぎていて破壊的ギャグ── たとえばクライマックスのニュメロビス vs アモンボーフィスの天下一武闘会 ──すらゆるーく感じる場合があるというか。各キャラは立っているし、テンポも悪くないし、不条理ギャグ、おばかギャグも満載なのだが、処々で何故かその波に乗り損ねてしまうんだよねえ。…皆んな、オレの話についてきてる?
こう書くと余程面白くなかったようだが、実際は何度も大笑いしている事だけはお断りしておく。
以上は、映画を観終わった後にそういう印象を覚えたという事だ。
やはりこれは僕と仏コメディとの相性みたいなものなんだと思う。微妙な処で行き違う。
開店前の「ラトリエ・ドゥ・ジョエル・ロブション」を指を加えて眺めた後、そのまま、どう見てもマザーエイリアンの本家取りしか思えない、腹に沢山の卵を抱えたルイーズ・ブルジョア作「ママン」(写真中央照)の下で妻子と待ち合わせて、そのまま66プラザのいけすかない村上隆のロクロク星人を子供に踏み絵させる。「けん・けん・ぱ」になっていて悠都がはまってしまい、ちとシャクである。
トーフカフェ・フジノでくだんの豆腐ドーナッツを買ったあと、親子してウェストウォークやら、グランドハイアット東京やらを暫く散策(というか探検)する。最初はヒルズの店で夕食をとも思ったが、よほどの記念日でもない限り、親子連れで食べるような価格帯の店は絶無だったので(帰省を控えている事だし)、六本木けやき坂通りを歩いてから都営大江戸線、迷わず清澄白河のバーミヤンで回鍋肉を食べる。これが庶民の暮らしというものである。
時期ずらし帰省
2004/1/10(Sa)
時期ずらし帰省という事で3連休を福岡で過ごす。
両親に孫をあてがうのが主目的なので、余計なイヴェントは何ひとつ入れていない。
犬山は犬山で、また妻の方で適当に計画してもらうという事でひとつよろしく。
朝の8時過ぎに大荷物を背負いつつ家を出て、深川の佃煮屋さんで土産用にあさりの佃煮と白魚の佃煮を2つずつ包んでもらって、都営大江戸線で「大門」まで行ってから、徒歩で「浜松町」まで移動して(という程の距離でもない)、東京モノレールで羽田空港に着いたのが9時半頃。ヴィ・ド・フランスで朝食用のパンを買い込んだり、お土産用に東京ばな奈系列の「チーズうさぎ」を買ったりしているうちにすぐ搭乗時間になってしまう。羽田発10:30の予定が滑走路の混雑で30分遅れの離陸。今回はJAL便だったが、妻が云うには国内線はANAが強いらしい。おのれ、ANA。でもバースデー割引の格安プライスだから余り不平はこぼすまい。
機内にて、福本清三/小田豊二「どこかで誰かが見ていてくれる―日本一の斬られ役 福本清三」(集英社文庫)読了。
小田豊二は「のり平のパーッといきましょう」(小学館文庫) を書いたひと。聞き書きでも、録音テープに出来るだけ忠実に採録するスタイルなので、脇で小田さんと一緒に話を聞かせてもらっているような臨場感がある。今回の本もまさにそんな一冊。この本で大部屋俳優に定年があるのをはじめて知った(尤も、フクちゃんの場合、東映の正社員になるからという事らしいが)。マイホームパパなのと、オレがオレがと出て行かない控えめな佇まい、これは何処かで似たようなひとの本を読んだ事があるなと思ったら、伊東四朗「この顔でよかった!」(集英社be文庫)の伊東さんがまさにそんなひとなのであった。
フクちゃんは去年の2月で定年(つまりはフリー)になった筈だが、水戸黄門1000回スペシャルの悪党船頭の時は定年前と後、どちらだったのだろうか(彼は悪党としてのお約束通り、揉み合っているうちに川に突き落とされていたが、それはそれは見事な落とされっぷりであった)。これは何としても「ラスト・サムライ(2003・米)」でトム・クルーズの傍らに立つ彼の雄姿を早く観なければなるまい(て、いつ行くつもりなんだよ)。
そう云えば、この本の中でフクちゃんが語る「恋のサヤあて」の「サヤあて」の語源は68へぇ程あった。
往来で擦れ違う侍の二本差しがぶつからないよう、当時の町は左側通行だった。刀の鞘が当たったのをとがめ立てする事を「鞘当て」と云い、たとえばならず者が一方的にケンカを売る場合などに使われた手口だと思われる。転じて、恋愛に於けるツラあてを「恋のサヤあて」と呼ぶようになったらしい。尤も知らなかったのは僕だけかもしれないので、エラそうに披露するものでもないのかもしれない。いや、お恥ずかしい。ほんまに情けない(フクちゃん風に)。
飛行機が福岡に着いた時は12:40を大きく回っていた。
地下鉄で天神まで出て、バスで南薬院へ行ってから、メルパルクホテルにチェックインして大荷物を下ろす。
その足で夢にまで見た(嘘)「16区」へ行き、昨日誕生日を迎えたハハの為と、個人的な趣味で「16区」の迎える新年と云えばこれ、「ギャレット・デ・ロワ(王様のパイ)」をホール買いする。正月6日(公現祭)には間に合わなかったが、今年の冬もこいつを食べる事が出来るしあわせ。「ギャレット・デ・ロワ」については、2000年1月8日「王様のパイ」に詳しく書いたので、興味のある方はそちらを読んでください。悠都がショウケースに飾ってある王冠に目をつけ、かぶりたいと駄々をこねる。どうやら今夜のギャレット・デ・ロワ・ゲームは誰が買っても、悠都が王様になってしまうらしい。
再びバスに乗って、六本松で乗り換えて親父宅着が15時。
妹の携帯に伝えた時間ドンピシャである。
思えばスパシオを売っ払ってから福岡に来るのは初めてだ。
東京では全く気にならないが、馴染みの福岡でマイカー移動出来ない不便さを噛みしめる。
両親、そして妹たちが出迎えてくれる。こうして家族が揃うのもイヴェントごとになってしまった。
それからはハハによるご馳走責めが夜まで延々続く。
(親というのは実際、ありがたいものである。これは本気でそう思う)
遅昼のカレーに始まって、「旨い肉が食べたい」とリクエストしておいたので佐賀牛の焼肉。あいだにフルーツが入ったり、昨夜のケーキの残りが入ったり、そして僕らが買ってきたギャレット・デ・ロワが入ったり。
フェーブはあろうことか僕のパイに入っていた。
両親や次妹は此処のパイは初めてだったが、シンプルだが技量の問われるミルフィーユに焼き上げたパイ生地で拵えたギャレット・デ・ロワは我が家には好評で迎え入れられた(あのハハが「美味しい」という程度には美味しいのだ)。王冠の方は初めから決まっていたかのように悠都の頭へ、陶器のフェーブは初めてパイを食べた記念に次妹の懐へ。
21時を回る前に、両親や妹たちと別れて、バスでホテルに向かう。
部屋は6階(最上階)。元々郵便局の回し者である妻は此処のホテルを謙遜というか卑下するが、今回の部屋代を考えると過ぎた施設である(ちょっと暖房が効き過ぎだったが)。窓の下にはまがりなりにも空中庭園があるし、腐っても浄水通り、車通りはそれなりにある筈だが、閑静な住宅街故に騒音もそれ程気にならない。
(部屋にベッドがあるので)ホテル泊をこよなく愛する息子に大はしゃぎされて、心身ともにくたくたになる。ヤツはどんなに草臥れていても、ほんの少し眠っただけでチャージが完了する。羨んでも憧れても3度目の年男。此処はひたすら寝て蓄電するしかあるまい(いっそ逐電してやろうか)。
ココハワイアン
2004/1/11(Su)
福岡滞在2日目。
午前中は妹たちと誘い合わせて、生の松原の叔母宅へ。
此処も妹共々随分足が遠のいてるなあ。
あいにく従妹たちは出払っていたが、叔母夫婦が歓待してくれる。
思えば、親父が脳梗塞で倒れて2年か其処らで叔父さんが同じ病で倒れた。叔母はハハの妹なので、遺伝的な因果は一切ない。叔父さんはオトナだから、僕らの前では決して焦燥を見せずに穏やかな表情で居る。ウチの両親にいちばん欠けているのが、此処んちの夫唱婦随なのだなと嘆息する事しきり。ウチの親父は善人だが、殊ハハに対する態度だけは、彼がかつて嫌った筈の、祖父の祖母への振舞いと瓜二つになってしまった。亭主関白というのは、妻がエラいからこそ成り立つ制度なのだ。親父が「あと10年は元気で居る」と豪語してくれるのは頼もしい限りだが、夫婦だからこそ夫婦で居る事に寄りかかっちゃいけない、とこれは自戒の念もこめて。
テーブル一面にショートケーキやプリンやスイートポテトを並べて「ほら、皿が空になってる」と僕らを急き立てる処はさすがはハハの妹である。叔母さんの心遣いはありがたいが、TVチャンピオンの甘味王になる特訓を受けている気になってくる。しかし、このDNAは非常に高い確率で僕や妹たちに脈々と受け継がれているのでそれは諦めてくれ → 妻。
悠都は叔父さんが大好きなので、いとまを乞う段になって泣いて抵抗するのに、少し手を焼く。
処で、仲の良い従弟のひとりが、リニューアルした博多井筒屋でカフェをやっていると話だけは聞いていたのだが、なかなか当人と連絡が取れず(月イチでウチの親父の処には顔を出しているらしい)「そのうち顔出さなきゃ」などと油断していたら1年以上過ぎてしまった(そもそも悠都が生まれてから一度も会っていない)。
この帰省を機会に、叔父さんに聞いた従弟の携帯へ留守電を入れた処、早速「待ってるからいつでも来て」と返事が来たので、懐かしき天神Z-SIDEで妻お気に入りのパスタソースなどを手に入れ、Z-SIDE前広場でホットペッパーみゆきちゃん(って、何だよ)と暫し戯れた後、井筒屋4Fデザートカフェ「ココハワイアン」へ、妻子と妹たち5人で押しかける。
4Fはコンテンポラリー・アベニューと名付けられた、ちょうど僕の世代前後の(多少懐に余裕のある)女性をターゲットにした白いフロアで、バスセンター側のエスカレーターを上がって、セオリーだのナラカミーチェだのトミーヒルフィガーだの23区だの、全く縁遠い区画を通り抜けると、フロア内にリゾートホテルのテラス席が出張ってきたような空間が現れる。実際、飛び石のように区画は分断されていて(意図的なのか、2区画を借りてそういう効果を狙ったのかは聞きそびれた)、手前、出島部分のケーキショップと擬似テラス席と、奥まった区画に南国ムード漂う店舗本体から構成されている。
当の従弟は、擬似テラス席の方で接客をしていて、僕らに気付くとすぐ「いらっしゃい」と近寄ってきた。水色に小さな白い椰子の木が連なったアロハがまたリゾートの空気を演出している。他のスタッフは皆、生成りの白いシャツだったので「オーナーの制服なの?」と訊ねると「いや、皆んな持ってるけど寒いから着てないんだよ」と照れくさそうないらえ。「へえ、単に私服でうろちょろしているだけなのかと思った」などと長妹が憎まれを叩く。
「何しろコンセプトを一から詰めてこさえた店だからね」と従弟の矜持が頼もしい。
「ホームページはないの?」
「其処まで手が廻らなくて。…作ってよ」
…其処まで手が廻らなくて。
遅昼という事で、僕はコースディッシュ1700円(スープにメインディッシュ、デザートにフレッシュジュース)をオーダーする。メインディッシュに「ロコモコ Rocomoco」、デザートに「スウィーツロックあっぷるパイ sweet's rock apple pai」そして、ピンクグレープフルーツジュース。皆は叔母宅のスイーツがまだ響いていて(笑)各自ロコモコ(いや、フードメニューは「アボガドとエビのクリームパスタ」や「シーフードドリア」などまだまだあるのだが、「ロコモコ」がいちばんハワイっぽいという事で一致した)。以下、食譜。
・ピンクグレープフルーツジュース:鮮やかな紫色のトロピカルフラワーをあしらった大振り(10オンスはある)で足の短いバロン・グラスに赤いストローが挿してあるという、ハワイアンというコンセプトにたがわぬリゾートスタイルがうれしい。
・スープ:コーンポータジュ。コースにありがちなカップものではなく、大皿になみなみと注がれている。一口二口いただいた処で悠都に全部持っていかれてしまった。
・ロコモコ Rocomoco:深めの皿に、グリーンサラダが付け合せになったブラウングレービーたっぷりのハンバーグ丼、半熟目玉焼き乗せ。ハワイ料理とは云うものの、1949年に日系二世の夫婦が経営する小さなレストラン「リンカーングリル」で腹ペコでカネのないアメフト学生に作ってあげた即席料理が元なので、エスニックなどとは異なり、日本人であれば老若男女の舌に合う。身びいきと云われればそれまでだが、従弟のプロデューサー感覚には大いに感心する。個人的にはハクション大魔王も喜ぶ肉厚のハンバーグがおすすめ。女性には多いのかとも思ったが、妹たちには大丈夫だったのでそこらあたりも勘定のうちなのだろう。
尚、ロコモコについては下記サイト≪ロコ・モコの話≫ に詳しい。
http://www.bigrakuen.com/know/loco.htm
・スウィーツロックあっぷるパイ sweet's rock apple pai:シナモンを効かせたアツアツのアップルパイのバニラアイス添え。この組合せは以前、博多大丸の東館5Fにある「レピシエ・ヴァン テ アン」でも食べた事があるが、このお皿の身上は温度差の激しいスイーツが舌の中でカオスになっていく愉悦にこそある。無論、此処のお皿のジャムセッションも合格。機会があったら双方を食べ比べてみるのも一興かもしれない(尤も、今も「レピシエ・ヴァン テ アン」のメニューにくだんのアップルパイがあるかどうかは未確認)。従弟曰く「つけあわせのアイスはパイの甘さを引き立てる為にも味は薄めに作っといた方がいいんだよ」。一方、堪え切れなくなった長妹が頼んだ「ハワイアンミルクプリン」にトッピングしてあるコナコーヒーのアイスは従弟お奨めの一品。一口食べた妻が「これだけ食べたい」とこぼした程である。
従弟は僕より7つ下なので29歳。若い頃はアメリカでネイティヴ・アメリカンの許でホームステイした事もあるが、今はなき大名の某リストランテに勤めた後、某メジャーコーヒーショップの店長となって数年を過ごした。後半は掛け持ちで複数店の店長をしていたと聞くが(親情報なので余り正確ではない)、こうしたキャリアを重ね乍ら貯めたノウハウが、この「ココハワイアン」として結実したのだろう。けれど、こういうコンセプチュアルなお店を拵えたという事はこれがゴールではないという事だ。
「うん、次は全然違う店を考えてる」
商品開発のための情報収集でよく上京しているそうなので(故に店のメニューは刻々と変わっていくので油断なきよう)、近いうちに東京でメシを食う約束をして辞する(妻は摘み食いしたアップルパイが気に入ったらしく、テイクアウトしていた)。街のスイーツ好きとしては、身内に我が身を削ってメニューの一品一品にこだわったデザートカフェをやっているヤツがいるというだけで何ともしあわせなことである。しかも親戚の欲目でなく一スイーツ・ファンとして訪れてもリピーターになってしまいそうな店をこさえてくれちゃってるのがひときわ嬉しいし、何だか誇らしい。博多にはさんざん映画を観に通っていたというのに、どうして福岡在住時に訪ねておかなかったのか(だって知らなかったんだもん)つくづく悔やまれる。
お店の紹介記事は今の処、下記サイトがいちばん詳しい(偶然にもアップルパイを紹介している)。
ちなみにページ中にある「スタッフより一言」の隣の写真が従弟である。
http://www.q-style.jp/b1f/depachika/kikaku/iz_0211.html
博多駅で妹たちと一旦別れた後、バスビルに移動して明日の朝食用に「ふきや」でじいちゃんの手ずからチーズ玉と野菜のかぶりをこさえてもらう(普段なら満腹中に次の食べ物のことなど考えられないのだが、今回、帰省前から「ふきや」のお好み焼きを食べる事だけはスケジュールに組んであった)。たかだか3ヶ月の間に若いスタッフが増えていたが、じいちゃんの手さばきは健在であった。
それから1時間かけて親父宅へ。
ハハの手料理(コロッケをリクエストした。毎日「肉」も何ですから)に舌鼓を打ち乍ら「新選組!」の第一回目を観るが、案の定話の半分も理解出来なかったので、ホテルに戻った後で衛星放送の分を改めて観てから寝る。確かに大河ドラマとしては破格に「軽い」トーンだが、これならNHKの視聴者もついてきてくれるのではないか。個人的には今後も石坂佐久間の暴言振りと邦衛父の暴走振りから目が離せない。
ココハワイアン再訪
2004/1/12(Mo)
福岡滞在最終日。
成人の日、という事は、今年は今日が公民館あたりで逮捕者続出の日なのか。
確かに昨日今日と博多・天神を晴れ着の娘が大勢で闊歩していた。
そう云えば昨日、ものすごいいきおいで振袖姿のおねーさんが化粧室に駆け込んでいるのを見かけたが、あれはタイヘンなんだろうね、と何気に妻に問うと「想像を絶するくらいタイヘン」と体言止めで返される。
「けど、まだ洋式なだけマシなんだろ?」
「洋式も凄いタイヘン」
全く他意はなく、あそこで一体どんなタイヘンな事が起きているのか非常に気にかかるが、オレがそれを知る日は永久に来ないのかと思うと、次に生まれてくる時は女で生まれてきたいなどと埒もなく希ったり(ま、救いがたいバカではあるな)。何処かにそういう莫迦な事を教えてくれる大人電話相談室はないものか。
朝はゆっくり起きて、ふきやのかぶりを朝食にチェックアウト間際までのんびり過ごす。
こちらに来る時に往生した大荷物は配送してもらい、チェックアウトを済ませてホテルを出ると「折角だから「16区」でお茶していかない?」と妻が提案してきた。思ってもみなかったが、確かに浄水通りに居る地の利を活かさない術はない。「16区」でおめざ──なかなか佳いアイデアではないか。
此処の店は9時オープンなので、今から行けばバッチリである。
云うまでもないが、2Fのティーサロンは僕ら家族の貸切であった。何と云う贅沢。
窓際に並べられた「16区」らしい正月飾りの小さなツリーが愛らしい。店内を流れているのも琴の音色である。さすがに「春の海」ではなかったが、何だか我が家の正月の総決算をしている感じ。
予め1Fのショーケースで狙いを定めてきたので(今回のテーマは日本のお正月)、迷わず僕はシャルロット・テヴェールにカフェラテ、妻は黒豆のタルトレットに紅茶をオーダーする。ふきやのかぶりを2枚食べた直後にしてはなかなか豪気なことである。
・シャルロット・テヴェールとカフェラテ:
「テヴェール」とはグリーンティーの事。
抹茶ムースを帽子型の抹茶ベースのスポンジで取り囲んだ上に、大納言小豆と金箔のトッピング。
此処のカフェラテはトールサイズのトディ(取っ手付のスタンドに入ったホット・ドリンクス専用グラス)で供される。此処のカフェラテはカプチーノ仕立てになっていて、単なるスチームミルクではなく、フォームミルクのきめの細かい泡がなみなみと入っていて(カウンターの奥でジューッといきおいよく音を立てていたのはエスプレッソマシンだったか)、グラスに口をつけても、泡の層が厚いせいでアツアツのカフェラテ本体までなかなか辿り着けない(笑)。クリーミーでシルクの如き滑らかな触感の泡を味わうのは朝の時間にこそ相応しい。無論、シャルロットとの相性も最高である。
・黒豆のタルトレット:
こちらは16区お得意の香り高く焼き上げたタルトに大粒の黒豆と金箔のトッピング。ま、こちらは眺めただけなので、くどくどと描写できないが、何やら美味しかったらしい(云わずもがなか)。
相変わらず、悠都はその過剰な元気さでスタッフに可愛がられていた。
夫婦して実感したのは、やっぱり「16区」は最高のパティスリーだねって事。
──次はいつ来れるものやら…お盆あたりか?
胃袋がフル回転のまま、親父宅へ出向くと、ハハがすき焼きをふた鍋ぶん拵えてお出迎え(迎撃とも云う)。思わず絶句してしまうが、「親孝行、親孝行」と胸のうちで唱えて爆食に励む。ぶーたれていた息子もすき焼きうどんに陥落する。やはり子供を落とすには粉物に限る。
宇佐の友達とメールをしたいというハハに、妻がメール指南。ハハのモチベーションが高まるように、時折孫の写真を添付したメールを送ってあげる事にする。これで親父も釣られると尚良いのだが。14時過ぎに辞去。どうにか親父に泣かれずに済む(病気してから急激に涙もろくなった。妹たちが今日来なかった理由のひとつは親父が泣くのを見るのがイヤだったからである。勿論、僕もイヤである)。
空港で買ったチーズうさぎ(レアチーズケーキのチーズクリームを餅でくるんだ冷菓だと思えばよい)の包みの余分がひとつに残っていたので、空港へ向かう途中、昨日に引続き、博多井筒屋に立ち寄ってココハワイアンの従弟に手渡していく事にする。
従弟の顔が見えなかったので「折角だし(…お、前にも同じ台詞があったような気がする)とりあえずお茶でも飲んでいくか」とテーブルにつくと、「いらっしゃい」と何処からともなく水色のアロハが現れたので、早速、チーズうさぎの保冷材の包みを手渡して肝腎の要件を先に済ませておく。「さ、あとはお茶お茶」ひとつひとつアロハの生地を手張りしたという、大振りのメニューを開くと、試すような顔をした従弟。
「何にする?」
「じゃ、このベークドチーズケーキを」
「えー、そっちにするの? こっちのレアチーズにしなよ」
「ベークドじゃ駄目なの?」
「ベークドは普通に美味しいんだけど、レアチーズの方を食べて欲しい」
「そこまで薦めるんなら、レアチーズケーキを。ドリンクは紅茶にして」
「ダージリンティーとハーブティーとライムティーとあるけど、どれにする?」
「そうだな、じゃ、ライムティーで」
妻は昨日長妹が頼んだハワイアンミルクプリン(…やっぱり)とカフェラテをオーダーする。
「あ、分かった。『16区』でオレが頼んだからだろ」
「うん。美味しそうだったから」
「『16区』行ったの?」と従弟。「──それって食べすぎじゃない?」とニヤリ。
其処で「あら」と今更乍ら我に返ったりして。
うっかりしていたが(本当に意識していなかったのだ)、何と今日は朝からデザートのハシゴをしているではないか。
「それはもう折込み済だから」と妻。今日はスウィーツ無礼講の日と決めた(覚悟した)らしい。
ま、どちらの店もなかなか顔を出せない事には違いないし。
出てきたレアチーズケーキは、表面にカチカチの薄い氷状になったカラメルの膜が張っていて、まるでクレーム・ブリュレのようであった(ちなみにクレーム・ブリュレは、かのジョエル・ロビュションがアヴァンデセール用に考案したものである)。スプーンですくうと、カラメルがパリパリと割れて中からとろりとしたカスタードクリームの替わりにチーズクリームが出てくるという仕掛けになっている。成程、従弟はこれを食べさせたかったのか。
「ね、これは経験したことないでしょ」
「うん、こんなのは初めてだなあ」と本気で感動する。
「ね、ね、これは他所にはないと思うんだなあ。好きじゃないとやれないよ」
確かに確かにこれは日々の研鑚と創意工夫がしのばれる一皿である。
ライムティーをサーヴしたガラスのカップとソーサー、それとティーポットの趣味もいい。カップとソーサーはガラスの質感が違うので、ひょっとすると単品同士を組み合わせて使っているのかもしれない。あ、それから断っておくが、従弟はいつでもこんなに能書きをたれる人間ではない。きっと相手が僕だから雄弁になっていると思われる。尤も、スウィーツについて熱く語り合う用意はいつでもあるそうなので、希望する方はざっくばらんに申し出てください。
悠都に本物のクレーム・ブリュレまでサービスしてもらった。お心遣い、いたみいります。
近いうち必ず再会する事を約束してお店を辞してから、地下鉄で福岡空港へ。
もはや力尽きたので細かい話は端折るが、19時羽田着、東京モノレール(早速、ハハに夜の車窓を眺める悠都の写真を送っておく)と都営大江戸線を乗り継いで、東京には珍しい小雨の中、近所のバーミヤンで夕食を取ってから(それにしても今日はひときわよく食べたと思う)家に辿り着いたのが21時。まさに爆食の3連休であった。
野仲のなかの山のなか失敗は成功の元
2004/1/15(Th)
ひょんなことから、チェッキーさんを追うロングフェイス(「HR」参照)こと野仲功さんが自作されている「野仲のなかの山のなか失敗は成功の元」を発見する。オフィシャルサイトというよりは、「谷山浩子プライベートページ」のスタンスを、更に個人の道楽を押し進めたつくりになっていて、ご自分の出演情報の宣伝など一切なさらず、趣味の山登りや日々の雑感をたんたんと日記に綴っているという「おじさんもちょっとホームページ始めてみました」スタイル。のんびりとマターリといい味の手作りサイトです。
たまたま最初の日の日記に「野仲功」と記名しているから検索エンジンに捕まったようなもので、ご本人のフルネームは其処にしか出てこないから、このサイトを発見して、且つ野仲功が自作していると気付くのはかなり難しい筈(2003/11/21開設らしい)。
それでも、ご自分が俳優である事をひた隠しにしている訳ではなく(だから此処で紹介するのだが)、日記の端々に伏字乍らもキーワードが点在する。たとえば「2003年12月12日 宴会」に出て来る「ある番組の1000回記念パーティー」とは水戸黄門1000回スペシャルを指すと思われるが、別にこんな有名なひとと知り合いだとかひけらかすのは野仲さんの美学に反するらしくイニシャルトークばかりで、役者ファンの僕のような輩には隔靴掻痒なこと夥しい。
それでも開設初日の日記「2003年11月21日 久しぶりに」には手がかりがかなりある。
先日、11年前に辞めた劇団の同期の友人が初めて主演をやるというので観に言ってまいりました。
悪趣味と云われればそれまでだが、そんな風に書かれるとその友人と舞台が何だか知りたくなるのが人情というもの。「辞めた」と云われて僕らが真っ先に思い浮かぶのは「東京サンシャインボーイズ」だが、あれは活動休止したのであって、「辞めた」とは微妙にニュアンスが異なる。しかも最終公演「罠」の上演は94年の秋だから「11年前」ではないし「同期」というのもTSB的にはおかしな表現だ(ちなみにTSBに在籍していた宮地雅子も斉藤清子もこの時期主演舞台は踏んでいない事を確認)。
野仲さんは鈴木光枝が主催していた(今は娘の佐々木愛が代表)「文化座」にも在籍していたので、此処の秋公演を探すと「たつのおとしご亭」という二人芝居を発見、酒場の女主人ガートルード(高村尚枝)と船乗りのハリー(斎藤志郎)の物語は、野仲さんの日記にある「女性が男性に乳房を揉まれていた」芝居に合致し、また高村さんの写真を見ると「同期の友人である彼女はその豊かな乳房を揉まれるのだろうな」と見事に符合する女性なのだった(このひとはかつて「あぐり」の方言指導をしたひとらしい)。
でまあ、僕はこんな風にして高村尚枝という女優を知り、人様から見てムダ知識の裾野を広げていく訳だ。
処で、この野仲さんのようなスタンスの役者さん自作のホームページって実は結構あったりする。
処で、久し振りに閉店間際の大丸へ駆け込んで、キースマンハッタンの「Dizzy」(1000円)を買って帰る。
竹で編んだ籠に此処のスイーツにしては野趣溢れる風貌(隙間から覗く塊はちょっと見ローストビーフ、さもなければ大きなバケットである)を紙で包んで紐で縛って。栗が入っているとは云え、結んであるカード(写真参照)も含めて季節はずれの秋仕様(暖色系の栗の写真に、キースマンハッタンのロゴとレシピのロゴ「marron | azuki | pie | custard cream | cookie」のレイアウトがスタイリッシュで流石はニューヨークスタイル)。その真逆さにいっそ魅かれたり。
写真の断面図では分かりにくいかもしれないが、栗の渋皮煮を中心に据え、あずき餡の層とそのふたつを包みこむカスタードクリーム。土台はシナモン入りのクッキーで、それらをパイ生地で包んだローストビーフ大の塊を拵え、その表面にアーモンド・スライスと粒の粗いシュガーをまぶしてバターで焼き上げてある。
アーモンドや砂糖が散らばってしまうので、まな板でざくざくと切り分ける際の、その包丁の塊を切り進んでいくその手応えまでも愉悦。スタバで買ったグアテマラのコーヒーを相棒に、まさに「秋の収穫」としか云い表せない各種甘さの総力戦にむふふのふとほくそ笑む。とても一回では食べきれないので、明日のおめざ、夕食後のスイーツ続投を即座に決定する。いや、1000円の価値は充分にある。
書き漏らしていたが、通勤図書だった吉田篤弘「針がとぶ Goodbye Porkpie Hat」(新潮社)をマンション帰宅中に読了(僕は面白い本の場合、歩き乍ら街頭の灯りだけで読み進めてしまう)。早く吉田音ちゃんにも再登場願いたいのだが、これはまた珠玉。短篇集なのだが、全ての物語が暗渠で繋がっていて、透明な水がさらさらと血流のように循環して完結している感じ。このひとのユーモアのセンスは村上春樹に通じる処があるが、どちらがどうと云うのではなくて、「地に足がついていない」度は実はこちらの方がより高い気がする。
いつかクラフト・エヴィング商會についてはじっくり語るつもりだが、今日はこのへんで。
あ、Yさんご結婚おめでとうございます。
年賀状の中の花嫁姿に思わず目が点になってしまいました。
油断大敵
2004/1/17(Sa)その1
日比谷、有楽町界隈を飛び廻って映画三昧。
安売チケット屋で前売を買うために、有楽町9:30到着。
今日は邦画狙いだが、初日公開モノは舞台挨拶狙いで行列になるのでは、と食指が動かなかったが、たまたまスバル座の前を通りがかったら「油断大敵(2003・日)」の9:50の回、監督とメインキャストによる舞台挨拶、というのを見つけ、早い時間でキャストは豪華だが地味な作品だし、これなら並ばずに済むと踏んで、再び安売チケット屋に引き返す。上映5分前に会場に飛び込むと、9割方は埋まっていたものの、どうにか3列目の空席を確保する事が出来た。
早起きは三文の得であるとはよく云ったものだ。
「油断大敵(2003・日/成島出)」 有楽町スバル座
「油断大敵」というタイトルから、泥棒と泥棒刑事、プロ同士の抜き差しならぬ頭脳攻防戦をスマートに描くかと思いきや、サスペンス要素を悉く排除して、追う者と追われる者の10年に渡る「好き同士、敵同士」の奇妙な友情に関川と娘・美咲(菅野莉央、前田綾花)の父娘モノをからめたウェルメイドな人間ドラマだったので、佳い映画なんだけど、ちょっとだけ拍子抜けしたのも事実。
新米刑事・関川(役所広司。「大阪極道戦争 しのいだれ(1994)」「シャブ極道(1996)」等、成島脚本には縁が深い)が、彼を気に入ったプロの大泥棒・猫田(柄本明)から泥棒刑事の指南を受けて、猫田が出所した暁はプロとして手加減せずに勝負しようと約束する。10年後、泥棒刑事としてベテランの域に入った関川の前に、とうとう猫田が挨拶にくるが、第2ラウンドはまた猫田がプロフェッショナルとしての己の引き際と向き合う闘いでもあった…。
この映画、ピンチ脱出のおまじない「オイッチニィ、オイッチニィ、オイッチオイッチオイッチニィ」が物語を通しての通奏低音になっていて(映画の冒頭、救急車の中でも関川が娘・美咲(菅野莉央)の手を握って囁き続けている)、成長して看護士見習になった美咲(前田綾花)が、手術を控えた女の子の手を握っておまじないを教える、その「時の流れ」の見せ方が旨い。痛々しい点滴の跡が見える女の子の手首と、握りしめる美咲の指先の霜焼け、そのふたつの手のアップで多くを語る成島演出の確かさ。僕はてっきり、瀕死のベッドに横たわる猫田の手を握って関川父娘が「オイッチニィ」をやると踏んでいたのだが、そうはならなかったのがちょっと残念。それにしても、タコさんウィンナーとかピラニアのえさとか小ワザの非常に多い作品である。
それから、本作の夏川結衣には三十路ィフェロモン賞を謹んでお受けいただきたい。
(どーして舞台挨拶に来てくれないのだっ!)
これと決めたオトコを射止めるためには、「素足に破れない靴下」攻撃、「あたしお酒呑めないんです」攻撃、「仁さんの手、大きい」攻撃は必定である。自分から誘った大胆さと裏腹に、関川が獣と化した時の「え…」みたいに戸惑う初々しさにまた胸がきゅんとしたり(…えー、余りにオヤジな意見を深く反省いたします)。30美貌女の計算高さと猛進振りは一部の同性には眉をひそめられるだろうが、彼女をライバル視した美咲にハンガー・ストライキされて、その審判を待つ間、「オイッチニ、オイッチニ」とおまじないを唱え乍ら、モップ掃除をする牧子先生が背負う「可憐」の二文字やよし。
(それにしても、夏川結衣には「薄幸」の二文字がよく似合う)!
…もう何処までだってついていきますから ← おい!
牧子先生が関川を誘惑するのに、ビール瓶の笛を上手に吹けるか、というのがあるのだが(観ていないと何の事だか分からない)、役所さんと夏川さんが口をすぼめているのを見ているとつい自分まで口をすぼめてしまうのは私だけでしょうか?(だいたひかる風)。
役者往来。
この映画を観て「映画って昔はこうだったよなァ」という懐かしさを感じたのだが、その理由のひとつに役者の使い方があるかもしれない(あと山田組の名キャメラマン長沼六男が参加しているのも大きい筈)。ローバジェットなりに映画的な配役というのは確かにあって、それはどんな小さな役にも手抜きをしないことだと思う。津川雅彦(医者)や奥田瑛二(パチンコ屋社長。成島監督とは「恋極道(1997)」「an adolescent 少女(2001)」でタッグを組んだ)は顔見世的要素が強いが、たとえばだるま職人の「おかしくもやがて哀しき」夫婦(笹野高史&千うらら。笹野さんが「自殺してやる」とピラニアの水槽に顔を突っ込むシーンは圧巻だった)だとか関川の幼馴染(田中隆三。草野球チームの監督らしく、ふたりが会うのはいつもグラウンドである)といった采配の、その手の抜かなさ加減をこそ「映画」と呼びたい。
関川とネコを取り持つ女将、淡路恵子が味わい豊かなのはいちいち断るまでもなかろう。
最后に今日の「江口徳子をさがせ!」(そんなコーナー、いつこさえたんだよ?)。
このコーナーでは「ジョゼと虎と魚たち」のノリコ役でいい味を出していた、東京乾電池@江口徳子の活躍を追っていきます。
本作は、柄本明主演映画(役所さんとダブル主演)なので、東京乾電池から(僕が分かるだけでも)綾田俊樹(関川の最初の赴任地の先輩刑事)と角替和枝(世話焼く暇があったらパンを焼けと関川に罵られるパン屋のおばさん)が出演している。江口さんは、美咲(菅野莉央)が盲腸で担ぎ込まれた警察病院の看護婦としてワンショット出演。台詞はオロオロする関川に向かって「大丈夫ですよ」と元気付ける処があった。これは、如何に彼女にとって「ジョゼ」のノリコが大役であったかという証左でもある。
会場が明るくなると、拍手喝采になるのはやはり舞台挨拶を意識してなんだろうな。
司会の女性のリードで壇上に、成島出(いづる)監督、役所広司、柄本明(寝起きそのままの頭なのが柄本さんらしくて可笑しい)、前田綾花、菅野莉央の5人が舞台下手から登場する。写真では分かりにくいが、かなりの至近距離。役所・柄本ご両人目当てで来た甲斐があったというもの。
今回が初監督作品の成島監督。
「クランクインの前日でも緊張しませんでしたが、初日を迎える一週間前は本当に緊張しました」
柄本さん、役所さんの「監督と柄本さんと仕事が出来て良かった」という発言を受けて、「えー、役所クンも勉強になったと思います」に場内爆笑。すかさず「ウソですよ」を連発していたのが可笑しかった。
それから菅野莉央ちゃんの「(撮影は去年だったので)映画の中の自分が小さいのがおかしかった」だが、おとうさんと牧子先生のあんなコトやこんなコトを10歳に満たない児童に観せたのか。あ、女の子はませてるからいいのか…て、違う違う(ぷるんぷるん)。と、まあ終始和やかなムードであった。
耳がちぎれそうな寒さの中、日劇PLEXのある有楽町マリオンへ向かう。
舞台挨拶直後の回なら立ち見という事はあるまいという事で、お次は三池監督「着信アリ(2003・日)」。
この項、続く。
着信アリ
2004/1/17(Sa)その2
日劇PLEXに辿り着くと、まだ初回上映が終わっておらず、席に余裕があるので(賑やかしとして)舞台挨拶に参加して構わないとのこと。瓢箪から駒とばかり、ロビィに入ると(ドア付近で「着信アリ」キャンディを手渡される)入口付近は業界人の溜まり場になっていて、角川歴彦らしきおとっつぁんがご高説をぶっていたりする。しかし、華のないひとである(余計なお世話)。
終映と共に開場。さすがに前方の席はマスコミ含めびっしり埋まっていたため、前から1/3あたりの空席にツバをつける。程なく、日テレの新人アナが登場、とちり乍らも合コン司会のノリで進行(きっと友人たちの間では重宝がられているに相違ない)
、三池監督、柴咲コウ、堤真一、吹石一恵、秋元康の5人が壇上に上がるや、悲鳴にも似た歓声で会場が埋め尽くされる。確かに今をときめく柴咲コウに堤真一だもんなあ(オレ的には初めて生三池崇史を目の当たりに出来た事が重要だが)。「油断大敵」とは客層が180度違うというのもある。後ろの女子中学生の一群はナマ柴咲を見て本当に失神しかけてた。
柴咲コウはシックな黒のカクテルドレスで登場したが、ヒールが合わないのか(或いは履き卸したばかりなのか)ややガニ股になっていたのはご愛嬌。その洗練とは程遠い処が、個人的には好感が持てる。トークは懐かしの「ポンズ・ダブルホワイト」を思い出させる訥々さで、顔は派手でも、内面は地味なひとなのかもしれない。そういうひとに限って女優としての瞬発力や集中力に長けている場合が多いのだが。
トーク的にはとりたてて特筆すべき話はなし。
三池監督が「着信アリ」キャンディの宣伝をしていたくらいか。
ちなみにこのキャンディ、赤いのが出るとあたりらしい(映画で不慮の死を遂げた若者たちの口から赤い飴玉がこぼれ落ちるのに因んでいる。通常は黄色い飴が入っているとのこと)が僕は未開封。
あとは「着信アリ」着メロのダウンロードサービスで柴咲コウもその着メロを使っている話とか。
あの映画を観た後ではとても使えないと思うのだが…て、いうか、夜にひとりであの着メロを聴きたいか?
「着信アリ(2003・日/三池崇史)」 日劇PLEX
東京にいる以上は、劇場公開される三池作品を全部劇場で観ようと決意した、これはその一作目。
破綻が魅力の三池作品にして、意外な迄に破綻の少ない作品。
いや、破綻が気にならない作品と云うべきか。
ジャンル映画としてのJホラーは中田秀夫の「女優霊」「リング」シリーズ、黒沢清の「回路」、清水崇の「呪怨」シリーズ、あと佐々木浩久の「発狂した唇」シリーズ(高橋洋の名前は出しておかなきゃいけないな。それと「富江」シリーズは余り加えたくなかったり・笑)とある種、破綻こそがエンタ、みたいな処がある為、これらの毒気をふんだんに浴びた受け手的には、少々の破綻には驚かないどころか待ち侘びているきらいさえある。
そういう目で見た場合、以上の流れを汲みつつも(物語の骨格は「リング」と全く同じ、次の被害者に選ばれたヒロインが協力者と共に呪いの謎を解き明かしていくというもの)、案外、正攻法なホラー映画と云えるかもしれない。
Jホラーの文脈では、もはや主人公がさんざん怖い目には遭うものの決して死なないというセオリーは毀れてしまったが、本作がそれに当てはまるかどうかは各人の判断に委ねたい。と云うか、本作は、解釈が十人十色になるくらい難解なラストなのでヘタな事が書けないのだ(特に背中に隠し持った…おおっと、これ以上は自粛する)。
あと観客の怖がらせ方も21世紀的というか、映画館の音響設備は整っていたほうがいい。
(逆に怖がりなひとは閉館寸前の古ーい映画館で観てください)
ネタばれになるけどどうしても云いたいのが、立てこもった部屋のドアというドアの前にホルマリン漬けの胎児の入った大瓶を置いていくという行為の無意味さはある意味凄い。「脅かす」のが目的な幽霊というのも余りに三池作品らしくて、いっそ愉しい。
水沼マリエ(筒井真理子)のキャラ造型(といっていいのか)は、貞子(伊野尾理枝)や伽椰子(藤貴子)の鮮烈な個性の前には、どうしても二番煎じの謗りを免れまいが、基本ガジェットとなる「死の予告」着信のディテールは秀逸だし(これは秋元さんの手柄だろう。携帯電話というだけで「ヴォイス」の真似で片付けられるのは不幸だと思う)、恐怖の源泉が由美自身のDVだったり(覗き穴恐怖症!)、怨みの根源が「話しても分からない」**の**だったり(赤い飴玉の謎が解けた時は思わず膝を叩いた)、最初の犠牲者の凄惨な最期への拘りの絵づくりや、なつみ(吹石一恵)がTVのワイドショーという物見遊山な衆人環視の中でおぞましい最期を遂げるという十重二十重の露悪さも三池演出ならでは。
ヒロインを支えるのが陰気な葬儀屋さん(堤真一)だというのも、考えてみればかなり凄い設定である(何となく彼が以前主演した「卒業」に匹敵するダメ人間のようだし)。
役者往来。
三池組としては、東映Vシネ系の強持ては鳴りをひそめ、常連組では唯一と云っていい息抜き担当の石橋蓮司と映画の予告篇で鍛えた美声を武器に声だけの出演、遠藤憲一。養護施設の園長に「極道恐怖大劇場 牛頭 GOZU」でアングラ芝居と割り切ったか、ホルスタイン系鬼畜遣り手婆ァを演じ抜いた冨田恵子、そして死体マニアの葬儀屋に「新・仁義の墓場」の岸谷五朗。「リターナー」では鼻についた作り込み過ぎの役作りも、この映画にはその歪みっ振りが欠かせないスパイスとして機能、改めて三池作品の懐の底知れなさを思い知る。ちなみに、ねじりんぼうの吹石一恵も三池演出は「SABU」で体験済。尤も三池的にはあの作品は異端の部類に入ると思われ。
さて、御馴染み、今日の「江口徳子をさがせ!」。
このコーナーでは「ジョゼと虎と魚たち」のノリコ役でいい味を出していた、東京乾電池@江口徳子の活躍を追っていきます。
今回は自分からの着信が入ったなつみの携帯から、自分のメールアドレスを消去する友人A。
なつみを取り囲んだ友人の一番手として登場、「ジョゼ」で耳馴染んだクールな関西弁も我が身可愛さの保身(て、誰に責められようか)の文脈で聞くと、非常に薄ら寒い。患者の家族を安心させるナースから観客の心を寒々とさせる女子大生まで、幅広い役柄でお送りしております。
ちなみに彼女の出演作品で公開待機中なのは「ドラッグストア・ガール」「is A.」「スウィングガールズ」「69」の4作品。おそらく殆ど観るので、このコーナー、確実に後何回かは続きます(てへ)。
さあ、次はいよいよ「ゼブラーマン」を待つばかりだ。
──おれの背中に立つんじゃねえ。
ホラー映画を観ると、全身の筋肉に力が入るので結構肩が凝る。
新作3本立てのラストが号泣癒し系というのは正しい選択だったかもしれない。
(単に上映時刻の関係なんだけど)
日比谷の、ヅカファンがたむろしている界隈へと足を急がせる。
この項、続く。
解夏
2004/1/17(Sa)その3
未消化映画が溜まっているのに、3本とも公開初日映画たァいい度胸である。
けど、「着信アリ」と「解夏」は公開初日に観ると決めていたんだから仕方がない。同んなじさだまさし原作映画としては先に公開された「精霊流し」と前後してしまうが、原作的にも監督的にもこちらの方がプライオリティが高かったんだから仕方がない。ただ、さだまさしは好きだが、さだまさしファンは嫌いなので(ひねくれ者)、舞台挨拶だけは決して行くまいと心に決めていた(尤も、さださんの挨拶はなかったらしい)。
「解夏(2003・日/磯村一路)」 みゆき座
原作はハードカヴァー出版(1年程前)と同時に読んで以来、読み返していない事を断った上で云わせてもらえば、此処迄原作リスペクトな作品だとは思わなかったというのが正直な感想(いや、いい意味で)。よく「原作のイメージを毀す事なく」などと云うが、この映画は原作原理主義なファン(いるのか、そんなのが?)も決して失望させない自信がある(拵えたのはオレじゃないが)。隆之の悪夢までが忠実に再現されているのにも吃驚したが、磯村監督が足し算した設定(モンゴルのくだりもそうだが、渡辺えり子扮する饅頭屋のおばちゃんとのやりとりで母(富司純子)の心のあやを表現してみせたのは見事な腕前だと思ふ)や台詞が原作の空気を全く損なっていない。これは、実はかなり凄い事なんではないか。
主演の大沢たかおと石田ゆり子のパブリックイメージが原作通りなのは勝因のひとつ。
それからこのフィルムに松村達雄翁を迎えられた事。この映画では、何と卆壽を迎えんとする松村翁(林老人)の枯淡をたっぷりと味わう事が出来るのだ(僕なんぞそれだけでリピーターになりそうである)。反面、田辺誠一、古田新太の和食に珈琲みたいな意外な食べ合わせの面白さ(こちらはむしろ、真逆のパブリックイメージではないか)。柄本明のベーチェット病で失明したひとや林隆三の大学教授は、逆にこのひとがそうだったんだよと教えられた感じ。そんな風に全部が全部、カチリとパズルがはまった映画も珍しいと思う(鴻上尚史だけはよく分からなかったけど・笑)。これだからキャスティングという仕事は侮れないし、やめられない。
長崎の町並みもこの上なく美しく撮れていると思う。実は此処が大事。
尤も磯村さんの「町」を絵画のように強く美しく描き出す力は「がんばっていきまっしょい」「船を降りたら彼女の島」といった愛媛シリーズ(いずれ、3部作になったりして)で既に実証済みである。そもそもこのひとの映画はワンシーンワンシーンがきわめて絵画的である。
余談だが、「群青の夜の羽毛布」で、磯村監督は玉木宏と本上まなみとの一夜を、如何に下世話にせず、本上の肩から上のショットだけで艶かしくも水彩画のようなセックスを描くかに腐心した(と思っている)。あの映画については個人的に色々云いたい事もあるが、此処ではよしておく。
という訳で、映画の狙い通りに何度も泣いてしまったのは事実。
バスタオルまでは要らなかったけど、久し振りに沢山泣いちゃいましたねえ。
特に、受け持ちの生徒達からの手紙を陽子(石田ゆり子)が読み上げるシーンは要注意だ。最后の手紙など、とどめの一撃過ぎて、無防備だと声をあげて泣いてしまいそうになる。いい大人だから歯を食いしばって頑張ったけど。
エンドロールの「たいせつなひと」がまたぴたりとはまっている。音楽監督のナベちゃんによると、他の楽曲のキーをこの歌に合わせて、違和感なく前奏に繋がるよう細心の注意を払ったとの事。今回はちょっと褒めすぎだと自分でも思うが、佳い映画だったのだよ、実際。
4本目に行く体力もなくはなかったが、映画も腹八分目がいい頃合と見切りをつけて、数寄屋通りの福家書店に寄って美術手帖の最新号(会田誠と山口晃の特集だったもので。「Girls Don't Cry 2003」なるトラウマ・ロックなボディペイントに驚愕する。しかもモデルは声ちゃんだし)を買う。
そう云えば、隣で立ち読みしているおじさんの処に娘らしい若い女性が「お待たせ」と云ってやってきたのだが、彼女のあとからついてきた若い男がおずおずと「初めまして、高橋雅弘(仮名)と申します。て、こんな処で挨拶するのも変ですけど」。最后の「て、こんな処──」以降の無理にちゃらけたセリフに思わず耳が感度良好になる。此処で待ち合わせして、これから3人してお食事かァ。呑気に立ち読みなんかしている場合じゃない。
初対面。ヤな響きである。
こういう時、彼氏も男親もなすすべを持たないものなのだ。「あたし、雑誌買ってくるから」と娘がレジに並んでいる間のふたりの気まずさったらない。互いに目を合わせないよう、目を合わせないようとしているのが丸分かりである。たまに間違って目でも合おうもんなら、意味もなく「あ、ごめんなさい」などと謝り合っている。心持ち、娘がにやにやしているのは気のせいか。意識しているかどうかはともかく(きっと意識している)、彼女がこの場の主導権を持っているのは確かで、傍で見ていても何だか小憎らしい。
娘は妙に得意げな様子で、ふたりの男を従えて店を出て行った。
苺のボンブクーヘン
2004/1/21(We)
会社で名古屋土産に本物の納屋橋饅頭をいただく。
わざわざ「本物の」と断ったのは以前、妻に名古屋土産に納屋橋饅頭のスクイーズを貰ったからである。
饅頭を一口齧ったフォルムで、饅頭を押すと鳥モチというかスライムのような弾力のあるあんこがにゅうっと飛び出す。これに驚かないひとはいないので大変楽しいのだが、かつてのスライムがそうであったように、あんこに粘着性がある為に徐々に埃やゴミをまとって表面がざらざらと小汚くなっていくのが困りものである(ためしに切ってみたら、あんこは小さくなったものの見事復活(写真参照))。けれど、これは妻から貰った贈り物の中でも上位に来るおもしろグッズであった。
思えば、「淋し見舞い(新盆見舞)」なる言葉と風習も妻に教わったのだった。
(実際、妻もお通夜やお葬式でしか、この饅頭を食べた事がなかったらしい)
いや、初めて口にする納屋橋饅頭はとてもおいしゅうございました。
会社帰りに閉店間際の大丸のデパ地下に寄って、鎌倉ニュージャーマンで苺のボンブクーヘンを買う。
お店のスタッフに「ボンブクーヘンって何ですか」と訊ねると「ふわふわのシフォンケーキの中にカスタードクリームをたっぷりと詰めたものです」との答え。ま、シフォンケーキだからだが、大粒の苺を幾つもトッピングした上に、大きさは一抱えもあるのに750円という、思わず口笛を吹きそうになるリーズナブル価格。
ケーキを詰めた専用の箱のデザインも苺の蔓と葉をあしらった、なかなか可愛らしいもの。
包丁でスフレシフォンケーキを切り分けると、はちきれんばかりのカスタードクリームが溢れてきて、皿に寝かしてサーブするしかなかったり。かまくらカスターが売りの店なので、カスタードクリームの美味しさはまた格別。
スウィーツに目がない一家で、本当にすみませんね。
桂平治の会 番外編
2004/1/22(Th)
お江戸日本橋亭にて若手特選会「桂平治の会 番外編〜ちょっといい噺」。
お江戸日本橋亭は会社(大手町)から徒歩10分余という超近距離にあるのだが、開演時間が17時半とべらぼうに早い。予定では17時迄の会議が予想外に盛り上がって終わったのが18時過ぎ。それから不在中のメールを整理したり、電話をかけてから退社したのが18時半。挙句、日本橋亭のサイトにあった地図が余り古かったために三越と千疋屋の位置関係がぐちゃぐちゃでPHS越しに妻にナビしてもらい乍ら、ようやく会場に辿り着いたのは19時直前であった。
スタッフは親切なおかあさんだったが、生憎釣銭が切れていて、やむなく傍らの自販機でコーヒーを買って硬貨をこさえたりして(当日券2000円の処を噺家割当チケット割引で1500円)何かと手間取る(僕より少し後から来たひとは僕の崩した500円を貰っていた…まあ、そんな日もある)。
会場では、昔々亭桃太郎師匠が、師匠・春風亭柳昇の漁色振り(という程どぎつい話ではない)を熱く語っている処だった(演目「柳昇と私」)。客席中央畳席は空いていたが、高座の最中だったので、ひとまず後方壁際で桃太郎師匠の漫談を聴く。毎回、師匠の連れの女性が変わっていたのは、師匠がもてていたというよりは、同じ女性が決して再びデートに応じてくれなかったからだ、というくだりはコトの真偽はともかくロジックとして可笑し。少なくとも柳昇師匠が「可愛らしいおじいちゃん」として一見ウケするキャラだった事の証左である(僕が女性でもついていったと思う)。
仲入りを機に、会場中央の座布団席を確保する。少なくとも、本日のメインイベントであるやっさんの2席と太神楽に間に合ったのなら、1500円は決して高くない(慾を云えば、三遊亭圓馬さんの噺だけは聴きたかったな)。
桂平治「甲府い」
開口一番、桃太郎師匠の高座に触れて「いいですよね、あれでひとつ噺が出来ちゃうんですから」で大ウケ。自分だって、本にして4、5巻ぶんのネタはあるが、師匠が元気でいるうちは色々と差し障りがあるのでもう少しお待ちください、と締める(2/2記:やっさんが文治師匠の本当の病名を告げられるのは翌23日であり、この時点ではまだ風邪をこじらせた位にしか考えていない)。
いつぞや、さだまさしが「両親については歌にしたい佳いエピソードが沢山あるが、二人とも元気なので今暫く待って欲しい」と冗談めかして何処かに書いていた事を思い出す。思わず、表現者の業(カルマ)について考えさせられた一言であった。何しろ「カルマは急に止まれない」(by 間寛平)。
この処、やっさんの高座を聴く機会に恵まれて思うのは、噺の筋という大きな目抜き通りを1本据えた上で、箸休め的な横道や迂回路を自在に操るひとになったなァという事。「甲府い」でもネタに入ってから、すうっと内弟子時代の思い出を挿入して、また違和感なく本筋に戻る手管たるや見事なものである。
噺自体の背骨がぶれないから、寄り道しても全然危なっかしくないし、だから寄り道そのものがひどく楽しみになる。憶測でモノを書くとやっさんに叱られるかもしれないが(何しろ、もはややっさんがこの日記を読む可能性は大いにある・笑)、思うに地噺、特に「源平盛衰記」が得意ネタになった事で、やっさんの「ぶらり途中下車の旅」力が強化されたのではないか。最終目的地は決まっている旅の道すがらこそを、如何に演じ手が楽しく過ごしてみせるかが地噺のひとつの醍醐味だとすると、そのスキルは他の演目でも応用出来る筈で、短い噺や笑いの少ない人情噺など、桂平治らしさを深めていくネタと機会はそれこそ無限にある。
おそらくやっさんの落語の旅・第二章はまだ始まったばかりだ。
桂平治はこれからこそが面白い。
噺の穴でやっさん自身が「甲府い」は、如何に美しくサゲに着地出来るかで、噺の出来が決まるみたいな事を書いているが、そういう意味では、今日の高座でやっさん会心の「甲府ぃー、お参り、願解(がんほぉど)きぃー」を聴けたんじゃないかな。
鏡味正二郎 太神楽
鏡味正二郎さんはボンボンブラザーズのお弟子さん。
「かがみしょうじろう」ではなく「かがみせいじろう」と読むのだそうだ。
太神楽の魅力はブラウン管からは決して伝わらないとつくづく思う。
息遣いが聞こえる近さの場所から見て聞いて初めてその芸に惜しみない拍手を送れる気がする。
五階茶碗と傘廻しの曲芸も御馴染みだが、実際に目にするとその迫力が違う。上へ上へと伸びていくヌーベルキュイジーヌの盛り付けの如き高さへの挑戦と間近で目にする刃物の切っ先が放つ鈍い光。このシズル感は寄席でなきゃ味わえない。間にぽつぽつとはさむMCも味わい深くていい。
そう云えば、偶然かもしれないが、僕は太神楽のひとのトークで退屈した事がない。
桂平治「井戸の茶碗」
マクラは今年に入ってビッグカメラでPCを買った事から(ほんの2日前に妻子がやっさん宅へお邪魔して基本設定と基本操作の指南をしてきたばかり。案の定、悠都はやっさんになついて帰ってきた。彼にはステキなおじちゃんが沢山いるのである)、ネット通販の話などかましつつ、屑やさんの売り声(本題)へつないでいくその流れに、実に無理がないなあとヘンな処で感心したり(木で竹を接ぐようなマクラくらい気持ちの悪いものはない訳でして…)。
地方在住だった事もあって、直に聞いた噺の数では決して他人に誇れないのだが、何故か「井戸の茶碗」だけはよく聴いている。しかも蝠丸さん、右團治さん、快治さんと文治一門から3人がこの噺を演るのを聴いている(小文治さんも演るそうだし)。やっさん版「井戸の茶碗」は勿論これが初めて(上京してからこっち、やっさんの演目がずっと被らないのが嬉しい。しかも新宿で聴いた「尻餅」を除くと、僕にとっての初ネタが続いている)。
つい最近も快治さんでこの噺を聴いたばかりだが、落語というのは筋を知っているからいいというものでもない。演者で全然異なる清兵衛さんや千代田墨斎や高木作左衛門が出て来る訳で、古典は名作として名高い舞台の再演に通うようなものだ。演出家が変われば、見せ方も変わる(「3番テーブルの客」が凄かったのはそれを毎週、ドラマでやった事だ)。で、個人的好みで云えば、これまで聴いた中では、やっさん版「井戸の茶碗」がいちばん僕の肌に合っているかも気がする。特にやっさんの演る千代田墨斎のラストサムライな血の通い具合がいい。
因みにこの噺でも、歌丸師匠が来月から芸協の会長に就任するなんてェ時事ネタ(まさに今日の役員会で決定したのだそうだ)でぶらりと途中下車。文治師匠と米丸師匠がダブル「最高」顧問になってしまう人事措置をチクリ。僕も文治師匠は「江戸顧問」がいいな。茨城出身の噺家さんが居たら、いずれは「水戸顧問」になれるチャンスがある訳で、響きだけならほぼ最高顧問に匹敵する威厳である。しかも庶民派っぽいし(可楽師匠は茨城だけど惜しむらくは鹿島出身であった)。
処で、鑑定家が井戸の茶碗を見入っている時に、客席から「いい仕事してますね」と野次が飛んだので(だからおじさんはキライなのだ)「いい仕事してますね」とは意地でも云ってあげないやっさんがこれまた小気味良かった。
終演後、明日も仕事なので、楽屋へ顔を出して挨拶だけしていく。
やっさんに「じゃあ、日記用の写真、撮ってく?」と誘ってもらったので、緞帳の下りた舞台の内側から日本橋亭の銘の入った暖簾を身に纏ったやっさんをパチリ(今、思えば高座に座ったショットも頼めば良かった)。暖簾の文字の不鮮明さにCCDカメラの限界を痛感する。
一旦、お江戸日本橋亭をロックオンしてしまうと、実はほぼ一本道で会社まで帰れる事が判明(所要時間は10分かかってないかも)。さくさくと帰り、さくさくと潜り、さくさくと東西線改札口へ。此処は毎月下旬に若手特選会をやる(2月は右團治さんの「落語マニア」がある)ので、また一つ楽しみが増えた。
そう云えば、日本橋亭を以って都内の主だった演芸場は鈴本以外、完全制覇。
そういう意味でも、やっさんにはお礼を云わなくちゃいけないね。
ポーリーヌ
2004/1/24(Sa)その1
新宿で映画三昧。さすがに今日は新作を控えて、消化作品モード。
とは云え、新宿で3本ハシゴで組み立てると、最初の1本だけ初日公開を観る事になった。
そんな訳で、新宿武蔵野館にて「ポーリーヌ PAULINE EN PAULETTE(2000・仏ベルギー英)」。
入口で初日来場者プレゼントのいちごのワッフルを受け取る。
(どうもベルギー映画だかららしいが、ベルギー国民はもっと怒った方がいい)
「ポーリーヌ PAULINE EN PAULETTE(2000・仏ベルギー英/リーフェン・デブローワー)」 新宿武蔵野館
知的障害のため、66歳になり乍ら少女の時間を生きるポーリーヌ(ドラ・ファン・デル・フルーン)。
彼女は花が大好きで、朝目覚めるとまず、自宅のお花畑の水撒き。彼女の脳内に流れるチャイコフスキー「花のワルツ」に乗せて、身体毎スイングし乍ら如雨露を揺らすのが至福の時間。彼女には、献身的に世話をしてくれる姉マルタ(イドウィグ・ステファーヌ)と、彼女が憧れてやまない、地元のオペレッタで活躍する妹ポーレット(アン・ペーテルセン)、ブリュッセルでフランス人の恋人と暮らす末妹セシール(ローズマリー・ベルグマンス)がいる。
ある日、マルタが急死した事で、遺産相続の条件としてポーリーヌの扶養を義務付けられた妹たち。ポーリーヌは、自慢の妹であり、お花畑のように色彩豊かな生地に溢れた(薔薇の包装紙!)お店を切り盛りするポーレットと暮らす事を望むが、当のポーレットは自分の人生に突如闖入してきたこの姉を厄介なお荷物だとしか思えなかった…。
この映画も天願大介の「AIKI(2002・日)」と同じで、先が読める展開をどうこう云うよりもむしろその着地点に到る道程をこそ楽しむべきお話。リゾート地のマンションでリタイア・ライフを満喫する事を夢見ていたポーレットは、ポーリーヌを施設に預け、夢の成就に前進する。しかし、自分の拠り処でもあったオペレッタの引退公演で舞台に独り取り残された時、また念願のオステンドでの一人暮らしが「孤独」と同義だったと気付いた時、あれほど疎ましかった姉が、実は自分の命綱だったと気付く。無邪気にひとり遊びに嵩じる姉を見守るポーレットのおだやかな眼差しは、シーズンオフの浜辺の寒々しさも手伝って、故にあたたかくもひどく哀しい。
姉の純真さがポーレットの孤独の幾許かを癒してくれるのは確かだが、実は自分が孤独であったという事実は決して消し去る事は出来ない。もう二度と自分が傲慢でいる事が出来た、あの満ち足りた日々は帰って来ない。施設の友達に貰った切手が潮風で風花のように吹き飛ぶさまは「覆水盆に帰らず」の隠喩ではなかったか。そうしてポーレットは真の意味で「老人」になってしまう。字ヅラだけではない、玄冬期、人生のリタイア。──て、何てネガティヴな感想に着地するんだ → オレ。
印象的だったのは、恋人(まさかハゲた親父が出て来るとは思わなかった)との板ばさみの中でも、姉を見つめる末妹セシールの眼差しがひどく愛情に溢れたものだった事。これも一重にベルギーのお国柄だろうか。セシールを悪く書かなかったお陰で、盥回しという悲壮感を感じなかったのは、この物語の救いだったかも(そもそもポーレーヌが勝手にブリュッセルから帰って来ちゃう訳だし)。あと肉屋のおばさんの活躍をもっと見たかった気も。
「ぴあ」の出口調査のおねーさんたちを擦り抜けて、高島屋に移動、映画館の場所を確認した後でお昼を食べようと思ったが、何処も彼処も行列が出来ていたので諦めて紀伊國屋で本を物色する。ふと装丁が美しかった石田五郎「天文台日記」(中公文庫)をつい衝動買いしてしまう(さして厚くもない文庫なのに1000円もした)。ひょっとしてクラフト・エヴィング商會の仕事かとも思ったが、何処にもそれらしい記述がない。ぱらぱらとめくった限りでは、眠っていた少年の夢を指南してくれる、なかなか面白そうな本である。通勤読書が楽しくなりそうな予感。
上映時間が迫って来たのでテアトルタイムズスクエアへ取って返す。
この項、続く。
精霊流し
2004/1/24(Sa)その2
「精霊流し(2003・日/田中光敏)」 テアトルタイムズスクエア
何しろクサい映画である。
何故か演劇でたとえてしまうが、「解夏」がPARCOプロデュース公演なら、「精霊流し」が大衆演劇の全国座長公演。厚塗りのドーランに目張りまできっちり入れて、大立ち回りした挙句「おっかぁ!」とヨヨと男泣きすれば、客席から「待ってました!」…あの世界である。よく云えば「分かり易い」映画なのだ。物語の何処が泣きどころか、派手な音楽と練り上げたカメラワークと何処かで聴いたようなクサい台詞(酒井美紀の「私を見て!」には開いた口が塞がらなかった)と3割増し大きな演技とで懇切丁寧に教えてくれる。実際、映画が終わって場内が明るくなると、僕の後ろの中高年仲良しグループのおじさんおばさんたちが「良かったわねェ」「いい話だった」と口々に絶賛していたから、田中監督の試みは正解だったのだろう。
全篇これドラマチック、さわりの雅彦(内田朝陽)の少年時代からして、走る列車を追いかける高島礼子の「何処かで観た」泣きの芝居(断じて高島を非難しているのではない)を、空撮と流麗なストリングス(断じて大谷幸を非難しているのではない)が追いかける。観客のエンジンが温まっていない内から、もう飛ばす飛ばす。何だか首根っこ押さえられて引き廻されている気分。中高年や小学生はどうか知らないが、僕にはその懇切丁寧さが鼻について仕方がない。
思えば、田中監督の前作(デビュー作)「化粧師(2002)」も実はそんな映画だった。
(田中邦衛と椎名桔平が友情出演しているのは前作からの縁ですね)
ただあれは原作が石ノ森章太郎の劇画だったし、劇画タッチであれば、このクサさこそを世界観と好意的に解釈したのだが、バジェットが小さくなっても彼の作風は変わらなかった(「さだまさしはクサい」という言説は確かにありだが、原作小説はあそこまで浪花節を歌っていない)。ひとつは「化粧師」からコンビを組んでいる脚本の横田与志のクサさが相乗効果を生んでいるのだと思う。
横田与志…「姉さん、事件です!」の「ホテル」を書いているひとであり、後期大映ドラマをクサく仕上げるのに貢献した立役者のひとりである。つまりクサさには一家言あるひとなのだ(しかも「化粧師」が東京国際映画祭最優秀脚本賞で獲った事で「世間が認めて」しまった)。
あまつさえ、文部科学省選定(青年向け)という追い風もある。
誤解されるのを承知で書けば、松坂慶子という女優は田中&横田の「大衆演劇」にぴたりとはまった、それは確かだ。ただ、高島礼子の「妹」だと強弁するには無理がある(高島礼子の夫が田中邦衛なのも大概無茶だが)。尤も「大衆演劇」に演じ手の実年齢は関係ないし、上映館が増えているのも、映画が評価を得ている事の証左だ。勝てば官軍、田中&横田の「大衆演劇」はなくてはならないジャンルとして、邦画界で或る居場所を確保した。理屈では分かるのだが、抑え切れないこの苦々しさは何だろう。
役者往来。
雅彦の伯父、蟹江敬三はさすがの存在感(けど、邦さんの兄はヤだったんじゃないか)。
山本太郎、このひとも「大衆演劇」映画で光り輝くタイプ(「ゲロッパ!」の名演再び!)。椎名桔平とのコンビネーションでお送りする駅のホームの別れは「何処かで観た」乍ら佳いシーンになっていると思う。ヤクザ(石丸謙次郎:相変わらず憎々しげな役がお上手で)の情婦を演じた大西結花は喋るまで誰だか分からなかった(笑)。酒井美紀は初登場シーンのつんつるてんのブラウスに思わず目が点になりました。み、美紀ちゃん…。
次回上映作の「アドルフの画集(2002・ハンガリー加英)」に心惹かれ乍ら、テアトルタイムズスクエアを後にする。
(処で「精霊流し」は新宿武蔵野館での続投が決まった。やはり世間はアレを求めている)
この項、続く。
ラスト サムライ
2004/1/24(Sa)その3
「渡辺謙」効果たるや、戦後の闇市の如し。新宿松竹は広い階段にも拘らず、既に100人規模の待ち行列(怒号が聞こえてこないだけまだまし?)。公開初日じゃないんだから。さすがこの冬の興行収入を「ファインディング・ニモ」と2分している映画だけな事はある。
「ラスト サムライ THE LAST SAMURAI(2003・米/エドワード・ズウィック)」 新宿松竹
ダンス・ウィズ・ウルヴス・ジャポネーゼ。
この映画を一言で括るとそうなる。
ちなみにセトロさんは「ラストサムライ」=「ダンバイン」説を提唱している。
ショウ・ザマがバイストン・ウェルへ堕ちてくるように、ネイサン・オールグレン(トム・クルーズ)は勝元盛次(渡辺謙)の村で客人として過ごし、遂には異世界側の戦士となって働く。分からなくもないが、我儘を云えば「東京上空」が欲しい処。
それじゃ、福本清三はチャム・ファウか(川村万梨阿が吹き替えたりして)。
南北戦争終結後、見世物に身を窶した(それはベトナム帰りの後遺症を想起させる)ネイサン・オールグレン大尉は、もはや人生をリセット出来ないまま止まった時間の中を生きている。戦争の暗部に打ちのめされ乍らも、戦士としてしか生きられぬという苛烈な自己矛盾を抱えた彼の魂を癒せる先はやはり戦場にしかなかった。美学をもって滅び行くサムライなる「スウ族」は、死に場所を探していたネイサンにとって安息の場そのものだった(て、おめおめと生き延びるんだけど)。当事者ではない異国の兵士が「衆寡、敵せず」を小気味良いと思えるその精神状態こそ、既にネイサンが病んでいる証である(ストックホルム症候群というのもなくはないが)。
彼(そしてトム・クルーズとエドワード・ズウィック)にとってサムライとは、手の届かぬ憧れであり、かつては確かに存在したけれど今は決して存在しない(此処、ポイントね)イリュージョンなのだ。非常に明解な悪役として登場する大村(原田眞人が意外な好演。アフロをとったパパイヤ鈴木かと思いました)こそが米国に毒された(しかも米国より強気な処は、今の米国の気分を反映していると思われ)「現在の日本」の象徴なのだから(何しろ、劇中でサムライを一人残さず殲滅してしまう。おそらくラストサムライとは、呆れた事にネイサンそのひとである)、日本人は素直に喜んでばかりはいられない。
僕らはサムライの末裔ではなく、サムライ・スピリッツを失ったなれの果てだと云われているに等しい(それはある意味に於いて非常に正しい)。尤もサムライなんて当時の日本の一握りの特権階級に過ぎなくて、新政府の兵隊として小バカに扱われている農民こそが日本の国土を支えていたのであり、ネイサンの感傷はちゃんちゃら可笑しいのだが、彼は兵士としての視点でしか日本を睥睨しなかった男なので。
サムライ・スピリッツは日本人を規定するアイデンティティなどでは決してない。
にも拘らず、それを日本国自身が悪用したのが、神風特攻隊というシステム。滅び行く美学などというイリュージョンを、サムライではないひとたちに強要した、あれこそは立派な犯罪です。
…と、これはちと横道が過ぎました。
役者往来。
渡辺謙も確かに佳いが、真田広之(氏尾)も忘れないでね。この映画の真田さんは凄くいいです。気迫の籠った脇キャラ。小雪は演技的には普通。世界的にはエキゾチックなムードを楽しむべきアイテムなんでしょう。フクちゃんこと福本清三は外国人が理解できない日本人というのを、サイレント・サムライとして具現してみせた功績は大きい(フクちゃん的にはいつものキャラなんですが)。中村七之助(明治天皇)は奈良橋陽子のキャスティングの勝利。
英国からはマイク・リー作品常連のティモシー・スポールが、コメディー・リリーフとして登板、(アメリカ人にとって)異世界と現世を繋ぐ狂言回し装置として、上手く機能していた。あ、入道・菅田俊の好助演もお忘れなく(そう云えば、このひとは「キル・ビル」にも出ていましたね)。
紀伊國屋新宿本店に立ち寄って、哀川翔「百本締め」(東邦出版)を即買いする。
ま、莫迦である事は否定しませんやね。
半落ち
2004/1/25(Su)
日曜とて妻子もいないし(犬山に帰省中)、もういっちょ映画へ行くかとばかり銀座に出る。
色々と思いあぐねた挙句、丸の内東映で、油断するとこのまま観落としそうな「半落ち(2003・日/佐々部清)」。
処が晴天が災いしてか、初回だと云うのにおじさんおばさんの待ち行列でロビーはざわざわ。そ、そんな人気作品だったとは…これは寺尾聰人気なんですか?
予告篇上映で「死に花」、「恋人はスナイパー<劇場版>」を観て、期待に胸を膨らませる。そっかァ、「恋人はスナイパー<劇場版>」には長さんが出てたんだ(確かにTVシリーズのレギュラーだ…でかした、君塚さん!)。けれど、声が出ていないのがかなり痛々しい…。老人ピカレスク・コメディ(とカテゴライズしていいものやら)の「死に花」も犬童一心作品らしく、達者なベテラン勢に加えて、星野真里を押さえている。森繁翁が映画出演最長不倒距離を更新した、その一点だけ取り出してみても非常におめでたい作品だ。
「半落ち(2003・日/佐々部清)」 丸の内東映
えー、今回は映画の筋については全く触れない事にする。
アルツハイマーだとか尊厳死だとか、そんな重たいテーマを手短に語るには、僕は未熟過ぎる。
どんな小さな役にも細かい気配りの効いたキャストの映画を観ると、頭から尻尾まで餡のぎゅうぎゅうに詰まったたい焼きを目の前に出されたような、そんなしあわせを感じる。豪華キャストとは顔見世興行で御馴染みの顔が居並べばいいというものではなく、出来ればそのひとに出て来る事に意義のある、そんな作品が望ましい。佐々部監督は幸運なひとでデビュー作「陽はまた昇る(2002)」に続いて、3作目もそんな数多の映画人が羨むようなたい焼き映画の演出を任されて、またそんな東映さまの期待によく応えて、重厚であり乍らウェルメイドな法廷劇を完成してみせた。
ミステリー映画としての評価はともかく、これだけの役者を束ね、交通整理し、奥行きあるドラマを構築した手腕は、「金融腐食列島[呪縛]」「突入せよ!『あさま山荘』事件」を編み上げた原田眞人(そう、「ラストサムライ」の原田眞人である)にも匹敵すると思う。確かに助監歴が長いからなあ。
犯人である梶聡一郎(寺尾聰)を軸に据え、警察機構(柴田恭兵、石橋蓮司、斉藤洋介、嶋田久作、中村育二、豊原功補etc)と検察庁(伊原剛志、西田敏行、田山涼成 ─このひとは3作通して参加している─ etc)の攻防に、報道サイド(鶴田真由、田辺誠一etc)、被害者(にして家族)サイド(樹木希林、原田美枝子etc)、弁護士サイド(國村隼、高島礼子etc)、裁判官サイド(吉岡秀隆、本田博太郎、井川比佐志、奥貫薫etc)、そして梶のホワイダニットを握るキーマン(奈良岡朋子、高橋一生)、ドラマのちょっとしたスパイスたち(笹野高史、岩本多代)…ついつい好きで並べ立てたが(こんなに出演者が多いと、役者往来なんか語っていられない)、ミステリーとは云え、生命の尊厳を巡るドラマに於いて、彼ら登場人物の中に精彩を欠いた「死に駒」はひとりとしていなかった。
確かにラストシーンの笹野高史の使い方は「遥かなる山の呼び声(1980)」のハナ肇のようでクサい(あの男泣きするハナさん、大好きですけどね)。報道陣に囲まれて沈黙してしまう植村弁護士(國村隼)を見守る妻(高島礼子)の台詞もあざとい(思えば「陽はまた昇る」の人文字だってあざとさで云えば、これほどあざといシーンもない)。けれど、このクサさあざとさは「精霊流し」のクサさよりうんと映画的にリアルで、観ている客まで気恥ずかしくさせたりなんかしない。クサさあざとさを愛しつつ、何処まで抑制してみせるか、その寸止め加減が佐々部監督の力量であり拘りなのだと思う。
更にこのひとは3作通してずっと人生の応援歌を謳い続けている。
これだけの演出力に裏打ちされているのなら、そんなスタンスも決して悪くない。
映画館の壁に飾ってあった「恋人はスナイパー」の看板に長さんの雄姿を見つける。…あんまりうれしくて涙が出て来るよ。
HMVにて、前からずっと気になっていた「銀幕ロック(演歌)─ 御意見無用 ─」(テイチクエンタテインメント)を購入。「続・銀幕ロック(演歌)─ 生きたい様に生きて死ね ─」も出ていたが、さすがに正篇を堪能してからでないと財布の口は緩められません。銀座でランチとも思ったが、ひとりで良いものを食べるのも侘しいので、木場のヨーカドーで弁当や惣菜系を買い込んで、後は家でごろごろ過ごす。
夜、宇佐に帰っているハハから電話。
結局お友達に押し切られて、カメラ付携帯を買ってしまったらしい(尤も、家の電話からかけてきた上に携帯の番号も教えずに切ってしまったが)。「でも使い方が分からなくて、今の処、着信専用になってるわ」──嗚呼、かあさん。
哀川翔「百本締め」(東邦出版)、インタビュー集な事もあり、さくさくっと読了。
脚注の1つに内村光良が「ゼブラーマン」の試写の後「オレって高倉健さんの映画に出ている武田鉄矢みたい…」と呟いたエピソードが載っていて、大ウケする(と同時に膝を打つ)。すぐに「遥かなる山の呼び声(1980)」「駅/STATION(1981)」「居酒屋兆治(1983)」あたりが走馬灯のように浮かぶオレも相当病んでるなあ。でも、ウッチャンって確かに腕っ節の太い処とか、カンフーオタで動きが独特(コミカル)な処とかが武田鉄矢その人と重なるんだもん。第一、ウッチャン、「刑事物語」シリーズのファンだったじゃん。
JAL名人会
2004/1/28(We)
18時、深川江戸資料館(小劇場)にて「JAL名人会」。
JALの機内放送で聴ける落語チャンネル、あれの収録である(右團治さんに聞いた処、4月以降の放送らしい)。
こちらに来てからずっと右團治さんの高座を聞いていなかったので、どうしても行きたかった落語会。昨日朝の時点では定時退社は絶望的だったのだか、夜まで続いた6時間マラソン会議(うへぇ)の結果、提出資料の締切が次週に延びたので、どうにか顔を出せることに。
午後、PHSメールで右團治さんに出演時間を確かめると「6時だと思います」との返事に、周囲に因果を含めて17時退社を敢行(この時期、結構勇気がいる)、自分のデスクから半蔵門線の改札まで所要時間8分で移動する(ぜぃぜぃはぁはぁ)。開場5分前に清澄白河駅のホームに降り立つと、人の殆ど居ないホーム脇の近隣マップで道順を確認しているいなせな和服姿が目に止まる。驚いたことにこれが右團治さんそのひとであった。
こちらに越してから初めての邂逅にしては結構劇的ではないか。
どちらからともなく「まさか、こんな処でお会いするとは」などと頭を下げ合ったりして。右團治さんは全然真逆の方向出口から出ようとしていたので(おそらく彼女は僕と同じくらいには地図に弱い・笑)、「いやいや、こっちです」と生活圏に居るものの強みで出口を案内するが、道案内している傍から、帰宅ルートに乗ってしまって(江戸資料館へのルートが半蔵門線と都営大江戸線とごっちゃになってしまった。だって意識して前を通ったのって一回しかないんだもん)途中で慌てて、道を聞いたりして軌道修正、どうにか右團治さんを遅刻させる事無く、会場に辿り着く。
話は戻るが、僕の知る限り、右團治さんが平素和服なのは見た事がなかったのだが(動きやすさを重視してかジーパンの印象が強い)、冬はあわせの着物で移動する事が多いとの事。
外套がさまになっていてこれがすごく格好いいのだ(しまった、日記用に写真を撮らせてもらうんだった)。
「JAL名人会」は深川江戸資料館(小劇場)が常宿である。楽屋入りする右團治さんと別れ、老若男女の行列が何処までも伸びていて、階段を登ったり降りたりせわしないったらありゃしない。
予めキョードー東京でネット予約してあったので、予約番号を云って1000円払う(安い!)。
とりわけ本日は右團治さんに加えてエド山口、談春、そして落語協会会長圓歌と僕でも知っているような凄いひとが居並ぶ、かなり豪華なプログラム。同じメンバーを福岡で集めれば、市民会館クラスのハコでまず4000円はくだらない。これが都心ライフって事なのね。という事で今回もぬけぬけと最前列に陣取る。
以下、簡単に各演目の感想とメモなど。
前座「酒の粕」
名乗らなかったので、何処の一門か不明。
順当なのは圓歌一門だが、公式サイトにはそれらしい顔を見つけられなかった。
JAL機内放送らしく、前説というか、本プログラムが始まるにあたっての諸注意など(主に携帯とデジタルアラームがご法度な事。そりゃそうだ、収録だもん)を高座内で話す。前座さんだというが、なかなか達者な話っぷり。あの如才なさは立川流かとも思うが、さて。
桂右團治「あわび熨斗」
右團治さんが黒紋付で現れると予想しなかった展開(女性の噺家)にざわめく場内。
右團治さんも馴れたもので「えー、こう見えてもあたくし子供じゃありません」でお客の心を引っ掴んで「うーちゃんどぇーす♪」と持っていく。
これはかなりの荒技だが、ある意味右團治さんらしいアプローチ(笑)。
これまで、その演目しか知らなかった「あわび熨斗」を初めて聴かせてもらう。
殆ど所帯を持った与太郎と云って差し支えない甚兵衛さんが、しっかり者のおかみさんに入れ知恵されて、祝言の祝い返しのお釣りでお米を買おうと奮闘する「海老で鯛」ならぬ「アワビ三枚でお米」の可笑しくも涙ぐましいお話。おかみさんvs大家さんvs魚屋さんの頭脳戦でもあるが、(落語に出て来る)魚屋さんにあんなに学があるとは。振り回される甚兵衛さんが右團治さんのキャラ造型も相まってとことん愛らしくて由。右團治さんの早口の云い立てはいつも乍ら見事(是非、今度息子に本物の「寿限無」を聞かせてやってください!)。ああ、久し振りに「錦明竹」の云い立てが聴きたくなったぞ。
エド山口(歌謡漫談)「エド山口の作詞作曲講座」
これはご本人の演奏ではないが出囃子がパイプラインというのがすごい。
三味線を弾いていたひとに心から敬意を。
舞台の仕切りスレスレまで出てきてエレキギター漫談。
内藤やす子に作った「六本木ららばい」の製作過程をネタに、ラジオで鍛えたトークとギターテクと時には人生幸朗師匠張りの作詞ツッコミとで、客席を大いに沸かせる。知り合いが居たのか、時折ひどく照れて頭を掻いているのが可愛らしかったり。
今回、初めて「エド山口」の芸名の由来を知る。
親子4代「江戸っ子」で、本籍地が「山口」だからだそうだ。59へぇ。
ついでに「モト冬樹」の芸名の由来も教えてくれるといいのに。
(やっぱり兄弟だねえ、話し方や声の質が本当にそっくりだった)
立川談春「厩家事」
今回いちばんの収穫かもしんない。立川流の凄みというヤツを見せてもらった気がする。
冒頭から「最初に機内で流れない事話します」だもんな。さんざん喋った後「『結構面白いから』ってんで使われるとまずいんで」とANA賞賛攻撃(笑)。「流石にこんだけ演れば使えないでしょ」だって。
「(放送に使えるように)これから3秒黙ってから、何事もなかったかのように古典落語を始めますんで、皆さんは何事もなかったかのようにしててください。時々居るんですよ、あたしが喋り出した途端に笑い出すひとが。放送聴いてるひとが怪しみますからお願いしますよ」って本当に3秒黙ってからおもむろに「厩家事」のマクラへ。
噺の背骨はぶれないのだが、キャラの掘り下げが凄い。
モノはまるで知らないんだけど、負けずぎらいな性質がわざわいしてすぐ話の腰を折っては叱られて減らず口を叩くという、あたかも磯野貴理子のような髪結いの女房は白眉。「髪結いの亭主」である旦那の八公が無駄に年をとっただけで若い娘にもてるおそれがあるというロジックの明快さは、日ごろ皆んなが何となく感じ乍らもそのままほったらかしている事をコトバにしてみせる雌的感性の鋭さを的確に描き切っていた。荒削りな処もあるけど、これが家元の云うイリュージョンってヤツの尻尾なのかもしれない。機会があったら是非もう一度。
幸いってん(浪曲)「雷電と八角」
中入り明け、緞帳が上がると黒に銀の龍が躍った演壇が設えてあって、かなり目をひく。
茶髪のイケメンが出て来たのでまたも客席がどよめく。「女性じゃないんだ…」
「幸いってん」は「紅一点」じゃなくて関西弁の「こう云ってん」なのかもしれないな。
──とネット検索したら、2000年にいってんさんがデビュー記事が出て来ました。
「紅一点にというように、雑魚ももろこも数多いる芸界の中でひときわ輝く存在になって欲しいという思いと、当面は浪曲だけに固まってしまうのではなくでなく何にでもチャレンジできるマルチタレント担って欲しいという願いから、浪曲師らしからぬ名前をつけました」と師匠・京山福太郎の言葉。
今回、唯一お顔を存じ上げなかったのがこのひと。関西で活躍する淡路島出身の浪曲師。
20代でしかもイケメンだが、若者らしからぬ威風堂々。
伝統芸能の王道を往く芸風で朗々と「雷電と八角」を。
講談もそうなんだけど、独演会じゃないと肝腎な処でお話が切られてしまうのか非常に淋しい。
三遊亭圓歌「坊主の遊び」
若手に小さい小さいと揶揄されるだけあって、小柄な体躯に45へぇ。
(昔、やっさんの真打披露パーティーでちらっとお姿を見かけただけだからなあ)
今回は、40年前に教わったという圓歌師匠以外は余り演るひとが居ない廓噺。
息子に家督を譲って隠居した大旦那の趣味は吉原通い。ひとりで行くのもバツが悪いのでいつも近所の床屋さんをお供に連れて行くが、床屋の酒癖が悪く暴れる度に絶交しては、翌日床屋が謝りに来たのをきっかけにまた吉原へ向かうという毎日。その日も仕事を抜け出して謝罪に来た床屋の気が変わらぬうちにと彼の剃刀を懐に預かって吉原へ行くが、またも酒で暴れて床屋だけ先に帰ってしまい、大旦那は結果的にひとりぼっちに。
今宵褥を共にする花魁の如月太夫(このひと、顎を見ていると額を忘れてしまうような長い顔をしている)は別のお座敷から酔って戻って「私は坊主と年寄りがキライなのに、おじいちゃんはその両方を兼ね備えているなんて最悪だ」と大旦那をないがしろにしてさっさと寝入ってしまう。腹が立った上に暇を持て余した大旦那は、懐から床屋の剃刀を取り出し、眠っている如月の眉と頭を綺麗に剃りあげてしまう。ふと我に返った大旦那は慌てて明け方早くに店を出てしまう。下足番に起こされた如月、自分の顔や頭を撫で回して一言。「何だ、まだいるんじゃないの」と独白するのがサゲ。
こうやって筋を書いていると何だかやっさんの「噺の穴」を清書しているみたいだ(笑)。
「最初っから坊主でおじいちゃんだった訳じゃないんだ」「おじいちゃんって呼ばれたくないから此処に来ているんじゃないか」「吉原来て孫の事気にかけているようじゃおしまいだな」などと大旦那の口を借りて、圓歌節炸裂。大変に結構な一席でした。
終演後、ロビィで妻に電話するものの、悠都の具合がイマイチだと云うので(朝から熱っぽかった)、妻子を呼び出すのは諦めて、折角だからまた改めてお食事でもしましょうと、楽屋から出て来た右團治さんを清澄白河の駅まで送る。
──いや、ほら、だからあのう、一応念の為にね(笑)。
あー、楽しかった。
シービスケット
2004/1/31(Sa)その1
週末、いそいそと有楽町─日比谷界隈へ出かける。もはや定番。
此処んとこ邦画偏重気味だった映画観賞を軌道修正すべく(僕は油断すると絨毯爆撃的に邦画を観に行くきらいがあるのだ)、今日は所謂ハリウッド大作(底抜け大作ではない)を重点的に攻めてみる。
「シービスケット SEABISCUIT(2003・米/ゲイリー・ロス)」 日比谷スカラ座1
色彩の無い「古き良き時代」をモチーフにした、文明論コメディ「カラー・オブ・ハート(1999)」。
『プレザントヴィル』というTVドラマの貞淑で道徳的な世界が後半、色彩を得ると同時に何物かを失っていく「変容」の展開のニヒリズムをちと負担に感じつつも、モノクロが徐々に色づいてゆく美術含めて、実はフェイバリットな作品。ゲイリー・ロスが4年ぶりに挑んだのは競走馬を題材にしたヒューマンな大河ドラマだった。こういうスケール感は邦画ではなかなか味わえないもの(尤も時折「レジェンド・オブ・フォール(1994)」なんて、とんだ大河ドラマが輩出されたりするので油断は出来ない)。
僕が愛してやまないのは、ロバート・レッドフォードの「ナチュラル(1984)」みたいなスポ根をからめたタイプ。本作もカテゴリー的には「ナチュラル」寄りの、どん底から這い上がった騎手と競走馬が浮き沈みを繰り返す感動巨篇。骨折して足がばらばらになっても、走るために生まれてきた男たちは後先も考えずにやっぱり走っちゃう──その愚かしさこそが僕らの胸を熱くさせるんですよ。
尤も感動巨篇ったって、ゲイリー・ロスは元々コメディ作家である。
「ビッグ(1988)」や「デーヴ(1993)」や余り云いたくはないが「ミスター・ベースボール(1992)」を書いたのはこのひとだ。本作もジョニー・"レッド"・ポラード(トビー・マグワイア)とシービスケットの、挫折と栄光と奇跡が綾なす人生のタペストリーに一喜一憂するのもいいが、個人的には別の意味で競馬に一生を捧げる名物実況アナの"ティック・トック"・マクグローリン(ウィリアム・H・メイシー)の華麗なる足跡を辿るコメディとしてこそ本作を記憶しておきたい。
ウィリアム・H・メイシー(彼は前作「カラー・オブ・ハート」でも理想の米国的父親、ミスター・パーカーを怪演している)もまた監督の期待によく応えた。オンエア・ブースに処狭しと並んだ、合いの手用の打楽器にサクラ用のブロンド美女(きっと愛人だと思う)。エンタとして完璧な放送を目指す彼のプロ魂はそれだけで1本映画が撮れる。というか撮ってくれ。再起にかけるシービスケットの特訓を、何気にスパイする小狡さとおとぼけの表情も何処までもキュートだ。
この映画がDVD化されたあかつきには、ウィリアム・H・メイシーを主役に再編集したミニドラマを作成してくれる事を切に望む(実は「ディープ・ブルー(1999)」も、LLクールJ扮するコックを主役にアクションコメディとして再編集した方が俄然面白くなると信じている)。
「遠い空の向こうに(1999)」で頑固なおやっさんを演じたクリス・クーパーは、今度もまた野に生きる、不器用だが一徹な調教師(何しろベッドが落ち着かなくて、夜中に外へ抜け出して木陰に身を横たえるようなひとである)を彼にしか出せない存在感で創出。貫禄満々のジェフ・ブリッジスも悪くないが、ぺえぺえの自転車工の頃から偉そうなのはどうにかしたい。死んだ息子のケーム盤で遊ぶ背中はもらい泣きポイント高し。自己の半生を彷彿とさせるジョージ・"アイスマン"・ウルフになりきったゲイリー・スティーヴンスの名演も忘れ難い。
お昼は日比谷シャンテの地下に潜り、「ヴィ・ド・フランス」で菓子パン2つと「具だくさんミネストローネ(350円)」を買って、脇に設えられたイートインでヅカファンのおねーさんおばさんの間で小さくなって食事する。此処のミネストローネはペーパーカップなんだけど、大振りのロールキャベツやらグラッセカットしたおっきなニンジンやらが入っていてとても美味しい。
セトロさんから「13時くらいに東京着」と携帯メールが届く。
彼はセシオン杉並で開催される大地丙太郎のトークショーに参加するため、上京してくるらしい。
僕は「おじゃる丸」くらいしか知らないが、セトロさんによると彼はアニメ業界の逸材であるようだ。
名古屋〜東京は小回りが利くので、何かと便利ですね。
この項、続く。
ニューオーリンズ・トライアル
2004/1/31(Sa)その2
「ニューオーリンズ・トライアル RUNAWAY JURY(2003・米/ゲイリー・フレダー)」 日比谷映画
のっけから何だが、これはオールスター映画と云ってしまっていいのではないか。
個人的にはダスティン・ホフマンとレイチェル・ワイズの2人が出ているのが大きいが(来週にはやはりこの2人が出演する「コンフィデンス(2002)」も公開される。近頃、ダスティン・ホフマンは重厚な脇役でこそ真価を発揮しているようだ)、ジョン・キューザックにジーン・ハックマンにブルース・デイヴィソンと演技派が揃い踏みの法廷サスペンスである(「フラッシュ・ダンス」のジェニファー・ビールスや性格派俳優のビル・ナンだって出てるぞ)。
陪審員制度を扱った傑作「12人の怒れる男たち」的な人間ドラマ(これだけでも充分面白く出来ている)にぶつけるように、外側から評決の遠隔操作を狙う陪審コンサルタント(ジーン・ハックマン)と人権派弁護士(ダスティン・ホフマン)の攻防と、「評決」を売るべく暗躍する二人組(ジョン・キューザック、レイチェル・ワイズ)のクライム・ゲームが同時進行する多層構造のミステリー。そして物語の通奏低音として扱われるのは銃器産業の内幕(原作ではタバコ訴訟の話だったのを、ダスティン・ホフマンが「銃器訴訟の話に変えてみない?」と提案したらしい)。
チャールトン・ヘストン翁が元気だったら、ティム・バートン版「猿の惑星」の時のように旨く騙くらかして証人席の銃器メジャーの会長か何かを演らせたかったなァ。案外、あのひとは嬉々として演じてくれたと思う(老いたせいか何しろよく分かっていないから)。
何しろミステリーなので、余計な事が書けないのだが、役者のアンサンブルに頼る事無く(勿論、陪審員役の役者さんと云い、皆さん素晴らしい限りなのだが)、謎解きの面白さもなかなかの力作。尤も、これだけビターテイストのドラマなのだから、あっさり勧善懲悪に着地してしまうのは心持ち物足りない気もする。裁判制度そのものを掌の上で転がしていた筈のランキン・フィッチ(ジーン・ハックマン)が全てを失って投げる呪詛の言葉が、負け犬の遠吠えになっていくラストは見事だとは思うが、見事すぎるのがいささか鼻につく(これって、我儘ですかね)。確かによく出来た話なんだけど。
ダスティン・ホフマンって初老を迎えてますます笑顔が愛らしくなったね。
処で「ニューオーリンズ・トライアル」の最初の邦題は「ニューオリンズ・トライアル」であった。
「ニューオ『ー』リンズ」、いつのまにか余計な「ー」がくっついている。僕の知る限り、これまで「ニューオリンズ」を「ニューオーリンズ」と書き表す習慣はなかった筈なので(アメリカ横断ウルトラクイズでも「ニューオリンズ」だった)、この妙なアクセントはあくまでもインパクトを狙ったものと思われる。たとえば「ゼブラーマン」とかドクトルG(千波丈太郎)の「仮面ラーイダV3ィ」とか飯塚昭三の「ドールゲェ」みたいなものだろう(後ろの2つはちょっと違うかもしれない)。映画のタイトルとしては確かに「ニューオーリンズ」の方が胸に引っかかる。タイトルを見て「おや?」と思わせる、此処がポイント。
映画を観終わった処で、秋葉原で買い物に時間を食っているというセトロさんの為、有楽町駅まで移動して(たかだか徒歩5分だが)、本日を以って閉館となる銀座シネ・ラ・セット(旧有楽町シネマ)の前で待ち合わせ。セトロさんやはるさんにとって此処は思い出の映画館であるらしい。僕にとってのシネテリエ北天神やKBCシネマ、昭和館にあたる小屋なのだろう(今の処、そのいずれもが健在の筈である)。
シネ・ラ・セット正真正銘の最終日である今日は「ブラス!」と「さよなら、クロ」の2本立てであったが(話を聞くと「ブラス!」は此処でロングラン・ヒットしたらしい)、外からちらりと覗いた限りでは、最后を惜しむオールド・ファンの姿も余り見かけない、寂しい最終日であった。
そんなに大恩ある作品なら、いっそピート・ポスルスウェイトを呼べば良かったのに(何だかあの親父さんなら、声をかければ二つ返事で飛行機代だけで飛んできてくれそうな気がする)。セトロさんはロビィ迄入ってパシャパシャと記録写真を撮っていた。
近くのドトールに入って、ケーキセットだけで(僕はモンブランをいただいた)「結果的に」4時間ばかり鼎談する。懸案だったブツを渡して安堵したせいかもしれない。無計画にくっちゃべっていると、夏コミの相談やら映画の話だけで幾らでも時間が過ぎてしまう。群馬の後輩の家に一泊するというセトロさんと別れて家に辿り着いたのが22時過ぎ。
「恋のから騒ぎ」を観ていたら、脇でアサヒコムを読んでいた妻が悲鳴を上げた。
僕らはそんな風にして、文治師匠の訃報を知った。
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