ヴィレッジ / テイキング・ライブス new
東京駅ライヴ / 世界でいちばん不運で幸せな私 / CODE46
▼ 2004年08月の都を旅する
今日は朝から有楽町・銀座界隈で映画を2本。
本当は「スウィング・ガールズ」を初日で観たかったのだが、シャンテが全上映で監督とガールズの舞台挨拶を敢行するという暴挙もとい快挙に出た為に時間のやりくりがつかなかったので、今日はひとまずシャマランの新作を片付けておく事にする。
「ヴィレッジ THE VILLAGE (2004・米/M・ナイト・シャマラン)」 日劇3
シャマラン作品は新本格だと大森望さんが云っているが、けだし明言だと思う。
この項、続く。
以下、ネタばれのないように精一杯頑張ってみる(全く保証はしない)。
本作について当のシャマランは「これは愛の映画だ」などとうそぶいているが、最初にまずアイデア(トリック)ありき(某B級映画からのパクリ云々の話はよそでさんざんされている話なので此処で敢えて蒸し返したりしない)の作品である事は、物語の主観がルシアス(ホアキン・フェニックス)から盲目のアイヴィー(ブライス・ダラス・ハワード。映画の中ではあれだけ可憐だったのに、来日した彼女がおばさんくさかったのは髪型のせいだろうか)、そして「ヴィレッジ」を統治するエドワードたち(ウィリアム・ハート)へと次々に移っていく事で「ヴィレッジ」と外界との関係を浮き彫りにする手法からも明らかだ。
一応「動機」に「愛」を用いてはいるものの、このひとがやりたかったのは壮大な密室トリックのヴァリエーション。キャリアを積んだ大人の役者たちに語らせる事でかろうじて粗を隠しているものの、アイヴィーを送り出すのにああ愛を連呼されたんじゃ聞かされる方が萎えてくる。「松本零士じゃないんだから」と苦笑しかけた処で、ふと顧みればシャマランは僕の妻と同い年、つまり僕らと同じようなカルチャーを浴びて育ったヲタな訳で(これまでの作品を振り返れば彼が何故ヲタであるかの説明はスルーする)、実は「愛」を口に出す作劇を身を以って学んだ世代なんだな。映画に対するシャマランの視点は神が自分の作った「世界」を見下ろすそれである。云い方は悪いが、彼がインタビューで答えていた「愛」なるものは方便でしかない。
それはそれとして1897年という舞台設定(「ヴィレッジ」をくるりと取り囲んだ松明の怪しさ、美しさ)、否が応にも緊張感を煽る色づかいに、小道具の数々、その組合せの妙はやはり巧いと唸らざるを得ない(黒沢清「回路」の世界のお膳立てがやはりそうだった)。無味乾燥な冬木立があって、其処に黄色いコートを着て、黄色いペンキを塗るだけで、そしてモノトーンの森に少し赤を散りばめるだけで、物語が立ち上がってくる。確かにこの監督のセンスには惹かれるものがある。尤も、この世界の「綻び」とも云うべきノア・パーシーは、エイドリアン・ブロディの過剰な演技が裏目に出ていた気がするが、これは意見の分かれる処。それからどんどん脱線してしまうが、ルシアスを演じたホアキン・フェニックスは達者なんだが、並々ならぬ老け顔がわざわいしてどう見ても若者に見えない(個人的に「グラディエーター(2000)」で見せたアクの強さがデフォルトになっている、というのはある)。何かよからぬ事を企んでいる顔なんだよ、このひとのツラがまえは(笑)。
最后にシャマランのカメオに触れておく。前作「サイン」を観た時にまさか次回は主役を張るんじゃないだろうなといささか恐れたものだが、今回は勇気ある後退、きわめて慎ましく実相寺演出のようにかそけく登場している。尤も19世紀のペンシルヴァニア州にどう無理なくインド人を置くかと考えれば、さすがにヴィレッジの住人には出来ないものね。
何だかんだ云っても、彼の次回作には必ず足を運ぶと思う。
(そしてまたあーだこーだ云うのである・笑)
「テイキング・ライブス TAKING LIVES (2004・米/D.J.カルーソー)」 丸の内シャンゼリゼ
実は映画が始まって暫く経つまでアシュレイ・ジャド主演「ツイステッド(2004・米)」と混同していた。本作のことをせいぜい豪華キャスト&エロチックサスペンス位にしか認識していなかったのが原因だ。「あれ、何か予告篇と違うぞ」だって。違うのはてめェの脳みその方だって。さすがに此処迄気付かなかったのは初めてである。もう後がないんじゃないか → オレ。
以下、ネタばれ満開なので未見のひとは大注意(一応、隠しておくけど)。
テイキング・ライブスとは「他人の人生をまるごと乗っ取る」事。けれどこの映画で本当に衝撃的なのは冒頭、マーティン少年が初めて人生乗っ取りを実行する処までだ。風采の上がらぬキャラ(→尤もこれが後々のフーダニットのミスリーディングに使われる)が「あんた、突然何やらかすねん」てヤツ。此処迄はかなりイケてるんですが、本篇へ入った途端面白いくらいその魔法が解けていく。
何と云っても、イーサン・ホークが初登場から「オレが真犯人だ」オーラ放ちっぱなし。エキセントリックにも程がある。おそらく演出の意図としては一見怪しそうだったんだけど実は普通のひとで…と思わせといてェ、をやりたかったと思うのだが、いつまで経っても何処迄行っても劇中イリアナ(アンジェリーナ・ジョリー)がすっかり彼を信用してみせていても「オレが真犯人だ」オーラが途絶えない。もしかしてこれって作り手と観客が結託して皆でブービートラップにかかったイリアナを嘲笑うって趣旨で製作されたの?それはあまりに悪趣味だ。
尤もブービートラップにかかったのは主演のアンジェリーナも同様で、チェッキー・カリョやジャン=ユーグ・アングラード、キーファー・サザーランドにジーナ・ローランズといった錚々たる面々を惜しげもなく「役者として」無駄死にさせるという巧妙な罠に引っかかって、惜しげもなく物語的にはなくても特に困らないハードなベッドシーンに身を投じている。ひょっとしてこの映画は壮大なる「アンジェリーナ・ジョリーお脱がせ」企画だったのかもしれない。銀幕の外では、カノッサ金貨が飛び交っていたりとか。
しかしのっけからホームズ張りに奇行を連発してキャラに拘ったプロファイルの天才が、見る間に単なるオンナに堕ちていく有様は何だかイマイチ乗りにくいものがあった。尤も彼女が捜査官として使い物にならなくなったことを差して「テイキング・ライブス」と云いたかったのかもしれないし、映画は其処で終わらず、解決篇でオトコに捜査官としての、いや女性としてのメンツを潰されたイリアナが本来の持ち味であった奇行を発揮するんだが、最后が奇行と奇行の一騎打ちというのはいかがなものか。そして結局、本当に怖いのはサイコパスよりも裏切られた怨念オンナだったというショボい結末。どうやら電話の前でずっと待ってたらしいチェッキー・カリョの上司がお茶目。
けれどこれだけ突っ込み処が満載だと、逆説的に却って小気味良かったりするので、ビデオが出たら真っ先に借りてきて皆んなで「ばっかでー」などと盛り上がるのにうってつけの作品かもしれない。そしてふと我に返って、名だたる役者たちの無駄死にで築き上げた屍の山に涙してしまうのだ。…て、それはない。
帰国早々(という程大仰なものでもないが)、午後から品川で某社企業セミナー。
ウチの会社の僕が所属する部門をターゲットにした囲い込み営業セミナーという事もあり、某社の講師陣もCEOだの本部長だのと鼻息が荒い。そう云えばテーブル毎に置かれたペットボトルの水もマイナスイオン入りだった(んな事はどうでもいい)。尤も、こちら側も末席を汚している一部のスチャラカ社員(僕の事だ)を除けば、取締役クラス、部長クラスが大挙参加している訳だが。
北九州からも僕を現業務に送り出した張本人のFさんが出席。僕の顔を見るなり「偉くなったじゃないか」とニヤニヤ。相変わらずイケズなひとだった。尤もセミナーの質疑応答時には、コスト意識の強く滲んだ、鋭いツッコミも健在で、さすがはFさんと改めて感心することしきり。
旅の疲れに負けて寝る事もなく、どうにか3時間強の長講に埋没する。
懇親会は体調不良を理由にドロンさせてもらう。
同じくドロンしようとしたIさんがK部長に捕まって恨めしげに僕を睨んでいたが、此処は心を鬼にして見なかった事にする。
東京駅まで戻って、構内の書店で雑誌を物色していたら、耳憶えのある生唄が聴こえてくる。書店のすぐ脇の人群れの中で、庄野真代が、ウッドベースにギター、パーカッションとアコースティックな編成で「飛んでイスタンブール」を歌っていた。「庄野真代 with 浜田山〜ず」なるユニットなのだそうだ(ベース:渡辺茂、ギター:田中章、パーカッション:高村BUN太)。東京と上野の駅構内で定期的に行われているBreak Station LIVEというヤツらしい。
これはいいものに出くわした。
庄野真代の生唄の迫力とアンプラグドの心地好さについつい最后まで聴き惚れてしまう。
M1 飛んでイスタンブール
CDセールスを意識しない処で音楽をやるには、それ相応の覚悟がいる。オカネがないから既有名曲のカヴァーアルバムやインディーズ盤、小編成のアンプラグドや打込主体という制約を自らに課して、それでも本当にやりたい音楽だけをやっていく。其処にはある種のダンディズムを感じる。庄野さんもそんなダンディな女性アーティストのひとりなのだろう。
M2 Automatic(宇多田ヒカルのカヴァー)
M3 月夜のワルツ
M4 Be yourself
18時の回のライヴが終了して、CD即売会になった処で、彼らには申し訳ないけれど既に先約で埋まったサイフを懐に大丸の山野楽器でさだまさし「恋文」、隣の三省堂でTVLIFEの田村正和特集号を買って帰る。
妻は旅行疲れが一気に出たらしく、ひどい頭痛で本日は使い物にならなかった模様。
旅行前の準備に始まって、台北での日々も寝る時間を削って色々と立ち働いていたからなあ。
おかげで僕はすっかりのんびりさせてもらった。本当にお疲れ様でした。
旅行疲れを背中にずっしりと感じつつも、映画が恋しくてせめて近場でと銀座方面。
まずは本日初日の「世界でいちばん不運で幸せな私(2003・仏)」から。
女性客がわんさと押し寄せそうな作品ので此処は無難に初回狙い。
既に長あい行列が出来ていたけれど、入ってみれば実際の入りは6割程度か。
「世界でいちばん不運で幸せな私 JEUX D'ENFANTS (2003・仏/ヤン・サミュエル)」 シネスイッチ銀座
あ、ネタばれいきます。
天気もいいので、てくてくと銀ぶら(死語)し乍ら、銀座テアトルシネマまで。
所謂「アメリ」系の、エキセントリックでファンタスティックな仏流ラヴロマンス。尤も個人的にはロマンスとは云いたくないんだが。これはむしろ童話です、残酷系の。ちなみにヤン・サミュエル監督は絵本作家でもあるらしい。
母親が末期癌である為温もりに飢えた少年ジュリアン(チボー・ヴェルアーゲ)とポーランド移民の貧しい少女ソフィ(ジョゼフィーヌ・ルバ=ジョリー)。ある日ジュリアンの母がくれたメリーゴーラウンドの絵の描かれたお菓子の缶をバトンに「相手が仕掛けたお題に、必ずのる」という賭けをソフィが思いついた処から、腹心の友となったふたりが成人して(ギョーム・カネ、マリオン・コティヤール)本当に結ばれるまでの長いゲームによる悪辣な災禍が描かれる。
子供の悪戯が過度に残酷なのは、特に仏映画で顕著な気がするのだけど、好き合っているふたりが「好き」と打ち明けられないばかりに(「好き」と云ったら其処でゲームオーバー)多分に意趣返しを孕んだゲームは天井知らずにエスカレートして、お互いを(そして自分自身を)底なしに傷つけていく。セーターとジーンズの上から下着をつけさせるなんてのは序の口で、好きでもない女の子を落とさせたり、結婚の承認者として選んだり、結婚そのものを滅茶苦茶にしたり、好きでもない男と結ばれたり(肝腎のジュリアンとは最后に着衣で抱擁なのに、意趣返しで結婚したスポーツ選手の旦那とは乳出しで熱演するマリオン・コティヤールって…ま、殆ど自棄なシーンな訳ですが)、虚偽申し立てをして犯罪に陥れたりと、ただ相手をやりこめるためだけに行われる、コメディというにはとても笑えない(別名「渇いた笑い」とも云う)シリアスなハードルばかり。互いがマゾとサドとを交互に繰り返し、このゲーム(のパートナー)なしでは生きていけない体質になってしまっている(尤も、間に10年ばかりブランクを空けるが広い意味でこれもゲームの一環だ)。本作をラブロマンスと云ってしまうのは「アメリ」をキュートでポップなガールズ・ムービーと称す以上に罪が重い。
ビョーキのふたりが20年かけて世界をさんざん掻き回した挙句、もう決して離れない、とばかりに強く抱き合ったコンクリートの海に沈みましたとさ。めでたしめでたし。──て、フランスで140万人の観客動員を記録したオッシャレーな映画のこれが全貌だ。何て傍迷惑な…などと眉をしかめるようじゃ、オイラも遂におぢさん的思考に縛られ始めたって事か(これもある種のセカイ系なんだよねー)。
水中のメリーゴーラウンドとか絵的なセンスはかなり来たんだけどね。
(だから、映画自体そんなにキライな訳じゃない)
この項、続く。
銀座テアトルは右團治さんと「彦馬がゆく」を観に来て以来(て、何年前だよ)。
来月上演の「ローズのジレンマ」はニール・サイモン翁の最新作か。誰かチケットを恵んでください。
斜向かいにある南欧旬菜パスタ「すぺっつぃぇ」で映画前売り割引ドリンクサービスでパスタ・ランチ(大盛無料)を食べた後、ぽっかり時間が空いたのですぐ隣に警察博物館で時間を潰す。子供がコスプレ心を満足させられる白バイ試乗やヘリ試乗はともかく、3Fの殉職警官の顔写真入りの詳細データと殉職当時身に付けていた遺品を展示した「顕彰コーナー」というのはどうよ。意図は分からないでもないけど、博物館というコンテンツには素材が生々しすぎると思うのだが。
「CODE46 CODE46 (2003・英/マイケル・ウィンターボトム)」 銀座テアトルシネマ
ウィンターボトムは観逃した作品を数える方が早いのだけれど(「ウェルカム・トゥ・サラエボ(1997)」「24アワー・パーティ・ピープル(2002)」「イン・ディス・ワールド(2002)」の3作品。でも、何だかポイント処を選りすぐって観過ごしたような気がする)本作は間違いなく極私的ベスト・オブ・ウィンターボトム。身をよじる程に切なく不幸な恋愛を描かせたら、全くこのひとの右に出るひとがいません。
さすがに3本ハシゴする気力と財力はなく、京橋を抜けてそのまま八重洲まで歩いて(途中で「シェ・イノ」を見かけたり。いや、メニューだけ眺めて早々に立ち去りましたが)久し振りに八重洲ブックセンターで長居して、目移りした挙句、とり・みき「とり・みきの映画吹替王」(洋泉社MOOK)のみ買って帰宅。全くツボを押さえた人選(出来ればキンキンと武藤礼子も呼んで欲しかった)にただ涙、涙。
法規46【CODE46】
(1) 子作りの前に遺伝子検査を義務づける。遺伝子が100%、50%、25%同一の場合の受胎は許されない。
(2) 計画外の妊娠は胎児を検査すること。100%、50%、25%同一の場合は即中絶すること。
(3) 両親が遺伝子の同一性を知らない場合、法規46違反を避けるべく医療介入する。
(4) 同一性を知りながらの妊娠は、法規46に違反する重大な犯罪行為である。
クローン技術が発達して誰が誰の子やら出自不明な市民社会。不慮の近親交配を避ける為制定されたのがこの法規46な訳で、自由恋愛は遺伝子セーフティの名の許に制限を受けるし、遺伝子を脅かす行為は重大犯罪として厳しく処罰される。世界は市民と非市民とに二極分化され、非市民は都市の外に広がる環境破壊のなれの果てである砂漠化した「外界」での生活を余儀無くされる。故にパスポートとビザの機能を併せ持つパペル(滞在許可証)は市民生活の命綱だが、パペル認可は個人の遺伝子情報を精査して行われる。それは一見理不尽なようでいて、極めて合理的な事由に基づくものであった。
上海で多発するパペル偽造事件を調べる調査員ウィリアム(ティム・ロビンス)とパペル印刷所で働く(真犯人の)マリア(サマンサ・モートン)の運命的な出逢いはまた法規46に抵触する許されない恋の始まりだった──。
という訳で、近未来ディストピアSFなんだけど都市描写は上海オールロケ。外界に広がる砂漠はドバイのオールロケ。現在の上海とドバイを繋いで見せると確かに未来世界のいっちょあがりで、あとは細々とした小道具だけCGの手を借りてそれらしく仕上げれば、「ブレードランナー」の向こうを張る管理社会が現出する。同じくローバジェットで遺伝子管理社会を描いた「ガタカ」より都市の巨大さが体感出来る点で作劇の進化をうかがわせる。それから薬品服用によるコンピュータ・ウィルスを遺伝子情報に書き込むという設定が秀逸(決して斬新ではないけれど)。ウィリアムがテレパシーを使えるのも、或いは法規違反のセックスをしたマリアが本人の意思とは無関係に当局へ報告の電話をするのも全てこれで説明がなされる。絵で見せるばかりがSFじゃないです。
サマンサ・モートンって中秋の名月のようなムーンフェイスで(特に本作ではベリーショートだし)、おせじにも美人女優とは云えないのだけれど、逃避行の宿で彼女が恋人に見せる熱病のような眼差しと口許は、オレ映画史に燦然と輝く艶やかさ。当局によって法規違反の相手とはセックスを拒むように身体が反応する為に、マリア自らが望んで逃げられないように両腕をベッドに固定して(合理的な倒錯状況を拵えてから・笑)愛し合うのだが、ウィリアムの視点になったカメラを熱く見つめた彼女は、愛するひとにしか決して向けないプライベートな表情で「愛しているわ」を繰り返す。とっておきのプライベートな表情をカメラに向けた、あらゆる理屈をも超越した女優魂と、それをフィルムに焼き付けた監督のお手柄。実は本作が極私的ベストなのは、このサマンサ・モートンの剥き出しの喜悦と通奏低音のように彼女自身が呟く「I Love You」に魅入られたからだ。どんな女性にでも美しく在る瞬間が等しくあるのだとすれば、それはこのマリアの心の動きとシンクロした瞬間なんじゃないか。そして女性にとってそれは等しく、恥ずかしくて決して他人様にお見せするものではないものであり、故に僕ら男たちにとって「とっておき」なのである。
あと、本作ではティム・ロビンスの大男振りが際立っている。
まるでアジア人の中にたった独りで放り込まれたアメリカ人を見ているような感じ。
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