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ファンサイト「古畑任三郎」がいつになく荒れている。
PART2の「VS若林仁(間違われた男)」を彷彿とさせる,窮地に落ちた犯人のピカレスク・コメディとでも呼ぶべき「雲の中の死」(昨日オンエア分)の出来について,賛否両論真っ二つに割れた事がその発端である。賛成派はSITCOMとしての完成度の高さに軍配を上げ,反対派は通常の古畑のドラマ・スタイルから逸脱し過ぎている事を駄作の事由に挙げている。
で,それが双方共「古畑」ファンであり乍ら「『古畑』を三谷のいいようにはさせない」的なアンチ三谷派の台頭を招く。
アンチ三谷派がひとつ見落としているのは,三谷さんがドラマを書くに際して「一切,手を抜いていない」事である。彼はいつか大御所になってしまったが,決してお大尽作家ではない。産みの苦しみがどんなにきつくても,決して投げ出さない。立ち止まらない。出来るだけ同じことをやらない。安住しない。エンターテインメント作家としての冒険と挑戦は,西園寺守の登場を始めとして,とりわけ本シリーズにおいて「も」顕著だ。常にクリエイターとしてのスタンスが変わらない。そもそも「一作目」の登場自体が画期的だったのを皆,忘れている。存在自体,画期的だった(日本では試みられていなかった)ドラマが,新シリーズの度に画期的なエピソードを用意する心意気(と実績)こそ並大抵のものではない。そういうひとたちは,日本のニール・サイモンと呼ばれるような極上の喜劇作家がミステリィを書いている事を知らないか,忘れているのである。既存(という書き方が適切かどうかは別だが)の「古畑」の犯人を追い詰めていく面白さは,喜劇作家としてのドラマツルギーによって成り立っているのだ。
「優れた喜劇の書き手は必ず優れた人間ドラマの書き手でもある」というのは,もはや動かしがたいセオリーである。
勿論,限定空間,レギュラーを含む周到に配された登場人物(コメディの装置としてのもたいまさこ,もしくは彼女と玉置浩二の関係性は完璧である),大いなる危機とその回避というテーマはSITCOMの王道であり,僕は本作「雲の中の死」肯定派である。
それをやるのが「古畑」でなくても良かったではないかという意見には,こう反駁したい。
「それが『古畑』だからこそ,やって良かったのだ」と。
今回のタイトル・アバンで古畑自身もうそぶいている。「はい。何でもアリ,なんです」
誤解を怖れずに書けば,所詮はテレビドラマなのだ,嗜好品である以上,受け手は幾らでも好き勝手に云う立場にあるし,ドラマ自身もその好き勝手な声に依って立つ。作家は,演出家は,役者は,スタッフは,受け手のそんな発言に一喜一憂して浮き沈みする他ない。
三谷さんが「ドイルがホームズを殺したかった気持ちがよく分かる」「田村さんが『これで終わり』って云っているからたぶん終わりなんでしょう。やっと解放されます」と語ったのも,全て自然な発露だと思う。三谷さんにとって,おそらく最も巨大な敵は「古畑任三郎」自身である。作家である三谷さん自身がもはや彼を,彼をとりまくムーヴメントを制御出来ない。全ての愛憎の源は彼へ彼へと集約されていく。
それはきっと田村さんにとっても同じであるに相違ない。「はまり役」という,まこと疎ましき呪縛の存在である。
夕食の後,昨夜の残りのパフェ・ド・フリュを全部いただく。
食べても食べても無くならない至福の刻に,夫婦して歓喜の歌を歌う(嘘)。
いや,まったく「サント・ノーレ」のケーキにハズレなし。
**奥さんのネット懸賞日記**本日の戦果
一、図書カード3,000円、商品券1,500円 Knot's Club
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