Diary 備忘の都 2005

ロング・エンゲージメントエターナル・サンシャインカナリア
龍口酒家チャイナハウス
海を飛ぶ夢コンスタンティン阿修羅城の瞳
恋は五・七・五!猟人日記
エレニの旅 new9SONGS new

 2月の都も更新中 

シベリア超特急5 new

 ロング・エンゲージメント  2005/4/1(Fr)


仕事的には昨日迄の都合半月に渡った年度末煉獄を抜け、どうにか一息つけた。
妻子がこの春入園する幼稚園の制服持参で昨日から犬山へ帰省中なのをいい事に。会社帰りにヨーカドーへ寄って、陳建一麻婆豆腐店で4月限定回鍋肉(さすが四川風で辛かった。今月のスープが春らしく菜の花。此処のこういう気遣いが好きである)で夕食を済ませた後、書店で細野不二彦「ヤミの乱破(1)」(講談社KCデラックス)を購入して10日振りに映画鑑賞。先月は5本しか観てなかったので(忙しい中やりくりして、芝居観たり落語聴いたりはしてたんです)これだけは観ておきたい映画をチョイスしても底の方から腐り始めている気配。…ああ、やってもた。

4月限定回鍋肉 菜の花スープ、旨し 店内

「ロング・エンゲージメント A VERY LONG ENGAGEMENT (2004・仏/ジャン=ピエール・ジュネ)」 109シネマズ木場
ジュネ映画が「アメリ」以前とそれ以降で大きく変わったこと。
オドレイ・トトゥが主演なんてのはこの際、置いておく。

マルク・キャロの不在。オレ的には「ヴィドック(2001)」は不発。ただこの2作は彼の出番が不要なのも確か。
ロン・パールマンの不在。これはかなり不満。尤もそれを補うようにドミニク・ピノンが出ずっぱりで活躍している。
・それまで拘ってきたスタジオのセット撮影から、屋外へ飛び出した事。本作に到っては360度大パノラマのド迫力。そのスケールたるや、ハリウッド映画の如し(ワーナー・ブラザーズ謹製)。

以上を除けば(て、大きな変化なんだけど)、ジャン=ピエール・ジュネにしか撮れないエンタ大作と云っていい。世界を構築するディテールや小道具への偏執的なまでのこだわり。そして最大の特徴と云ってもいいフリークス・ショウは、小児麻痺で足の不自由なヒロインを置き、戦争の惨禍が残した傷痕へかたちを変える事で、より邪悪に(そしてユーモラスに)息づいている。そんな禍々しい世界の中で主人公たちがひたむきな愛を貫く処は決して「アメリ」で開花したのではない。嘘だと思ったら「ロストチルドレン(1995)」をご覧なさい。

ジュネ映画を堪能するのに原作小説セバスチャン・ジャプリゾ「長い日曜日」を読んでいないのは余りたいした事ではない。少なくともジュネ映画を観に来た僕にとっては取るに足らない問題である。

ロン・パールマン不在の穴を埋めるように(嘘つけ)錚々たる顔ぶれ。監督に出演を直訴したジョディ・フォスター(リセ出身だけあってネイティヴさながらのフランス語さばきである)の仕事はカメオの粋を遥かに超えているし(しかも彼女のプライベートに切っ先を突きつけるようなハードな役柄である)、チェッキー・カリョドニ・ラヴァン(すっかりおっさんになったので、さすがに渚を全裸で走り回ったりしない)、そしてパウダールームでマチルダと言葉を交わすドイツ人女性が何とエレナ・レーヴェンソン「クロコダイルの涙(1998)」ジュード・ロウの毒牙にかかって以来ではないか)。彼女の老け具合で、自分の老け具合を思い知る、物差しのような女優さん。

この映画で感心したのはラストシーン。
物語の伏線として、マネク(ギャスパー・ウリエル)が掌にマチルダの鼓動をずっと感じている(実際は指を吹き飛ばした傷口の疼きかと思われる)というのが事あるごとに強調されていたので、記憶を失ったマネクとマチルダが再会した時、僕はてっきりマチルダが恋人の手を我が胸に押し付けて記憶を取り戻させるものと確信していたのだが、実際は彼女が椅子に座ったまま背筋を伸ばして、マネクを見つめたままエンドロールが流れたのだった。つまりこれは寸止めというか引き算の美学なんですね。皆まで語るは無粋という事か。


 エターナル・サンシャイン  2005/4/2(Sa)その1


「エターナル・サンシャイン ETERNAL SUNSHINE OF THE SPOTLESS MIND (2004・米/ミシェル・ゴンドリー)」 渋谷シネパレス
「エターナル・サンシャイン(2004・米)」 「エターナル・サンシャイン(2004・米)」 ええ。勿論、僕らのケイト・ウィンスレット目当てです。
チャーリー・カウフマンで本気にはまったのは「マルコヴィッチの穴」だけでした。「ヒューマンネイチュア」には今ひとつ乗り切れなかったので、mustじゃない。これは「マルコヴィッチ」もそうだったのだけど、このひとの作品は、物語の筆運びが設定の面白さ(奇抜さ)に負けていた気がする。だから最后まで観るのが時に苦痛に感じたのだ。

さて、「エターナル・サンシャイン」
オタク作家のカウフマンにして、何と(表向き)デート映画ですよ。何てんだろ、庵野監督が「エヴァンゲリオン」のあとで「カレカノ」に手を出してみた、あの感じ(尤も、企画はミシェル・ゴンドリーから出たらしい)。いやもっとずっとうんと、マッドでパラドキシカルなSFテイストですが。

実を云えば、如何にもカウフマンだぞ的な作劇上の目新しさはさほどない。
物語の時系列をバラしてるのは昨今の常套だし(或る種の時間SFでこういう構成を取っている映画は珍しいかもしれない)、これまでの弾け飛んだ設定に右往左往させられた観客にはあっけない程、シンプルな物語である(単純に彼の手口に馴れただけかも)。だが、設定が落ち着いた分、腰を据えて物語を楽しむ事が出来た。恋人との記憶を現在から過去へ遡るように消して行く事で、ふたりが歩いた足跡を辿り、改めてパートナーの大切さを思い知る、というのは観客に(実際は失っていく記憶の残像を残して)ジョエル(ジム・キャリー)とクレメンタインの歴史を追体験させるというファンタジーとして極上の、真っ赤な嘘。成程、恋人泣かせの見事なデート映画に仕上がっています。結氷した池に寝そべって星空を見るシーンは今後色んな処で引用されそう。

主役のふたりが芸達者なのは云わずもがな、ケイト・ウィンスレットは何故か余り使われないけれど、現代劇でもよく映えるし(さすがに毎回色の変わるブリーチには驚いたけど)、ジム・キャリーも4歳児になる処以外は至極真っ当な(?)うだつのあがらない男を好演しているし。

それからヒロインであるクレメンタイン(あ、脇キャラのキルスティン・ダンストも含めて)が一般的に見て友達の少なそうな、イタい存在として灰色の日常を生きているのもいつも通り(て、オレはクレメンタイン、キライじゃないけどな)。尤も、カウフマン作品に於いて非オタクもしくは非ヒッキーを見つけ出すのは至難のワザである。今回だとイライジャ・ウッドなんか社会不適格者の域にまで達してる。そもそもラクーナ社のスタッフ自体、経営者のDr.ハワード(トム・ウィルキンソン)を始めとして職業意識、倫理意識が極めて薄いんだが、これもカウフマン作品の大きな特徴ですね。とにかく私利私欲優先。

そうそう、決して忘れちゃいけないケイト露出度調査隊だが、今回「脱ぎ」はなし。サービスショットは氷上で尻餅をついた時に出来た臀部の痣を鏡で確認するあたりか。無造作にむぎゅっとね。此処は「素晴らしき日」ミシェル・ファイファーがあられもない姿で歯を磨く、女性たるものの舞台裏シーンに匹敵する。オトコはこういうのに弱いんです(ああ、莫迦だとも)。
この項、続く。


 カナリア  2005/4/2(Sa)その2


「カナリア CANARY (2004・日/塩田明彦)」 アミューズCQN
「黄泉がえり」で映画職人に徹した塩田監督が作家としての発意のままに撮り上げた本作。オウム真理教(劇中では教団ニルヴァーナ)が世間に残した不幸な爪痕を、少年たちの真っ直ぐな瞳を通して描く。テーマ的には是枝裕和「ディスタンス」に重なるが、「どこまでもいこう」「害虫」といった子供たちの孤高な世界描写に手腕を発揮する塩田監督らしいアプローチ。商業映画に潰されはしないかとひやひやしたけど、これで一安心。しかもメジャー映画を拵えて手に入れた作劇のダイナミズムが加わって、ひと回り大きくなった気さえする。

「カナリア(2004・日)」 兎に角、主役の子役(光一:石田法嗣、由希:谷村美月)が狂おしいまでにいい。これだけ映画という作為に拠っているのにウソをリアルに感じさせるのは彼らの佇まいが大きい。オッチャン(奥村公延)に裸を見せてカネをとる由希の、少年のように細い手足と背中に浮き上がった肩甲骨。逆さ吊りされた折檻部屋で母親(甲田益也子)との壁越しの邂逅に慟哭する光一の掠れ声。きっと彼らにとっても本作は勲章のようなキャリアになる。

逆風を迎え撃つように子供たちは前に進む。
大人たち(たとえば母、たとえば行きずりの女性(りょう)、たとえば教育係シュローパ(西島秀俊:彼の存在感は最優秀助演男優賞モノです)、たとえば祖父(品川徹))が逆風に逆らえずそれぞれの落としどころを求めて立ち往生、或いは途中下車していく中、一瞬にして髪が白くなる程の絶望の中、子供たちは行く手の見えぬ「銀色の遥かな道」を歩いていくのだ(由希が裏声で歌う拙い歌がまたいいんだな)。物語は最后の最后で宙に放り出されるが、遠ざかる子供たちの背中は塩田監督の「祈り」なのだと思う。彼らの青臭さそのものが神なき時代に対する救い(可能性)ではないのか。エンドロールのラップ(向井秀徳)のコトバが胸を直接穿つのはだから故ある事なのだ。

職人と作家の振り幅の中で、この次、塩田監督は職人として何を見せてくれるのだろう。
ただ懸念は、次回作「この胸いっぱいの愛を」の主演がミムラキノコ男だということ。TBSの思惑が何処まで反映されているかは謎だが、何もこんな観賞モチベーションの下がるキャスティングをあてがわなくても。激しく萎え〜。

余談だが、我らの江口のりこはニルヴァーナ元信者で、盲目の老婆(井上雪子)の世話役として数シーン登場。「パッチギ!」のスケ番といい化けるねえ、このひとァ。以上、備忘まで。
勢いにまかせてもう1本、と行きたい処だが、今日は永田町で文治師匠追悼興行「桂前治の会」
この項、続く。


 龍口酒家チャイナハウス  2005/4/7(Th)


先月末くらいにとんくんから、出張で川崎に2、3日滞在するので何処かでメシでも食わないかと連絡があったので、かねてよりやっさんを連れて行きたいと思っていた幡ヶ谷「龍口飯店チャイナハウス」を強く推す。折りよく、一昨日のアニドウ上映会で唐沢さん植木さんとお会いする事が出来たので「チャイナハウス」詳細情報を改めて伺って準備は万全、昨日のうちに電話で19時に予約を入れておく。

仕事的には、アクロバティックに18時15分退社。
東京〜新宿間を中央線で15分弱、其処から京王新線で幡ヶ谷までほんの3分。ただ新宿駅のJRから京王新線までの移動が結構手間。京王新線のホームまで辿り着いた処で、やっさんから先に着いた旨メールを貰うが、ホームで擦れ違ったか、何故か先に店へ着いてしまう(改札を出て左折した先のゴールデンセンターを入って程なく2号店、ついで1号店がある)。慌てて取って返して、やっさんと到着したばかりのとんくんを出迎え、どうにか19時10分過ぎにはテーブルを囲む事が出来た。「中国漢方料理」なる或る種、異形の店構えも、鹿の角やベーコンが吊るされていて、トレイに山と積まれた豚足が覗くガラス張りのオープンキッチンも事前情報としてもはや折り込み済。お客が多い時には店先のテーブルまで人が溢れているらしいが、週の中日で時間が早かったからか、奥のテーブルの一画の家族連れ(?)とカウンターの単身客のみ。

龍口酒家チャイナハウス カウンターの上の棚には時代の入った謎の瓶詰めが並び、入口脇には、ウワサに聞く蟻酒の巨大な瓶が見える。壁には知る人ぞ知る「平田隆夫とセルスターズ」の巨大パネル。お店の奥様ジュンさんは、セルスターズのツインボーカルのひとり、みみん・あいさんそのひとである。僕ややっさんにとってはギリギリ小川真由美・田中邦衛「続・浮世絵女ねずみ小僧」の主題歌「ハチのムサシは死んだのさ」を歌ってたサイケなおねえさんとして刷り込まれている(どーもとんくんは記憶にないらしいが、70年代前半のドラマなので無理からず)。

厨房ではマスター石橋さんと若いお弟子さんが豚足料理の下拵えをしている。
少し遅れて2号店の方から奥様もやって来る。

まずは生ビールとアイスジャスミンティー(ソフトドリンクはジャスミンティーのホット/アイスのみ。でも氷は水割用の綺麗な球体のもの)を頼んで乾杯。お酒は他に紹興酒と蟻酒、八珍酒などあるが(グラス一杯500円)とんくんは頭っから「滅相もない」とかぶりを振っている。それより携帯が圏外で奥さんと連絡が取れない事におろおろしていたり。愛妻家の鑑である。と日記には書いておこうムフフ。

このお店にはメニューがない。着席した処で石橋マスターが次から次へと鍋を振るって出された皿を気が済むまで食べるスタイル。お客が「もうお腹一杯です」と意思表示した処で、〆めの麺 or 炒飯をいただいてお勘定という段取りになる。実にシンプル且つ料理への自信のあらわれ(でも確かにネット上で此処の悪い評判というものを読んだことがない)。レギュラー料理も勿論あるが、運が良ければ、珍しい食材の一期一会な皿に巡り逢えるかもしれない、というおまけつき。唐沢さんや植木さんの日記でさんざんに褒め称えられてきた珠玉の皿々とようやく対面出来る。

以下、本日のメニュー。
よく分からなかった料理も、植木さんの過去日記の食譜でほぼアタリがつくのが非常にありがたい。
炙り鶏 黄ニラとベーコンの炒め 金針菜とホタテ貝柱の炒め うるいと蟹肉の炒め

1.炙り鶏

突き出しではないが、此処ではコースの最初に必ず「炙り鶏」が出されるらしい。
骨の髄まで染み込んだ鶏肉の凝縮された旨味とパリッパリの鶏皮の食感。のっけからこれはヤバい。

2.黄ニラとベーコンの炒め

「黄ニラァ?──黄ニィラねェなァ」
やっさんのお約束はさておき、全然気に入らなくない。
黄ニラのシャキシャキ感が次なる食欲を誘発する不思議。
何て事のない野菜料理だと思うんだが、何だろな、この旨さは(此処は化学調味料を一切使わない)。
白いご飯をリクエスト出来ない事だけが恨めしい。

3.金針菜とホタテ貝柱の炒め

金針菜(デンツェンツァイ)は石橋マスター曰く「ゆりの花のつぼみ」。
こちらはインゲンのような歯をキュッキュッと半すべりする食感。ほのかに青く甘い。
味付け自体は黄ニラから大きく離れていないと思うのだが、食感だけで料理は全然違うものなる。

4.うるいと蟹肉の炒め

「うるいって何ですか?」
「山形で採れる山菜です」

学名はオオバギボウシ。味覚の向こうでほどよい苦みが瞬いている感じ。食感自体は葱に近いかも。
野菜料理が三皿続くが(ベーコンもホタテも蟹肉もあくまで脇役に撤した絶妙な匙加減の自己主張)どれもが歯触り、舌触りを愉しむ料理なのが嬉しい。

のれそれの玉子炒め 蟻酒 蟻酒(拡大)。なかなか壮観な眺めである おそるおそる蟻酒を呑むやっさん

5.のれそれの玉子炒め

のれそれとは穴子の稚魚のこと。
じゃマスオさんの同僚のアナゴくんの子供はのれそれちゃんなのか。

マスター曰く「ちょうど今が旬でね、あと一週間くらいしか出て来ません」

ぱっと見、卵炒めに紛れた「にゅうめんの切れ端」にしか見えないのだが、稚魚と云われて改めて目を凝らすと、成程頭の先に小さな目がないこともない。おそるおそる口に運ぶと、いわゆる骨の感触が全くなく、融けるような肉のやわらかさと、口の中で無抵抗のまま瞬時にすり身になっていく処は、宛ら粉モノ、うどん粉を削ったもの、或いは台湾の麺腺を食べているかのようだ。やっさん、とんくんと三人してオドロキの余り、悲鳴を上げる。

「生でいただいても美味しいんだけどそのままじゃはらわたが苦いから、こうやって卵で炒めてやると苦味が取れて甘くなるんです」

此処で唐沢さん植木さんに教えていただいた旨、伝えると奥様が「では『蟻酒』は是非試してみなきゃ」
とんくんはまるでソノ気がないので、やっさんをけしかけてグラス一杯を皆で試して見る事に。

「それじゃ蟻をたっぷり入れておきますね♪」

と差し出されたグラスの表面は期待通りのヴィジュアルで、黒い蟻の遺骸たちが薄い層を作っている。
「う…」思わず言葉に詰まる、僕たち私たち。
マスターの話によると、この蟻は中国と北朝鮮の国境に横たわる長白(チャンパク)山脈で取れるそうで、木の上に巣を作って生活している為、酒に土や砂といった不純物が紛れにくいのだそう。
蛮勇を奮って(?)やっさんが一口呑んだ後、けしかけた張本人として、箸で蟻を掬って口に放り込む。
口中に広がるフルーティーな味わいは勿論蟻酸のせいだ。おかげで舌に纏わりつく蟻の粒々も果物の種くらいにしか感じられない。渋るとんくんに蟻を避けさせて一口だけ口に含ませるもすぐにギブアップ。蟻もツラいが、アルコール度数もかなり強くてマスター曰く「度数は35度ですね」。さしものやっさんもグラスを3分の2空けた処でギブアップ。僕も話のアテにもう一度二度蟻を食べるが、本当のハードルは蟻よりも酒そのものにある(笑)。

エゾ鹿のカシューナッツ揚げ エゾ鹿のカシューナッツ揚げ(拡大) 里麺(リーメン) チャイナハウス、カウンター越しに厨房を臨む

6.エゾ鹿のカシューナッツ揚げ

背ロースのいちばん柔らかい処を叩いて更に柔らかく。添えられた岩塩をつけていただく。
野のもの特有の臭みは全くなく、やっさんが開口一番云ったように食感は鯨肉のそれに近い。
カシューナッツの面白い食感と相俟って大変美味しい。

7.里麺(リーメン)

そろそろお腹いっぱいになってきたので、コースの〆めをお願いする。
勿論、此処は有名な里麺(リーメン)でお願いする。
これはクロレラを練り込んだ目に鮮やかな深い緑色の麺をごま油で和えたもの。具は自家製チャーシュー。
う、旨いっ。最后の最后までやられちゃった感じ。
あんなにお腹一杯だった筈なのにこれがするすると胃の腑に納まっていく。
嗚呼、妻や子供にも是非食べさせてやりたい。こうなったらランチタイムに連れて行くしか。

奥様にガラスのティーポットで煮出した温かいジャスミンティーを振舞っていただく。誠に忝し。
22時近くになってお勘定をお願いすると、3人で11,600円。
一人5,000円くらいと聞いていたので、レジで「思ってたより安いんですね」と訊ねると、
奥様曰く「だってあなたたち全然食べなかったもの」。
…そ、そうだったかァ。量が食べられなくなると、さすがに年齢を感じるなァ。
あと、お酒関係が程々だったというのも安価な原因のひとつかもしれない。

名刺をいただいた後、店の前に並ぶ漢方薬の材料(シフゾウの骨、なんてのがあって驚く)をマスターに説明してもらっている処へ、図ったかのように唐沢さん植木さんたちが夕食にいらっしゃる。改めて先日のお礼などして、興奮の余韻冷めやらぬまま、のれそれを大絶賛した後(お見苦しい処をお見せしました)、折角なのでやっさんを紹介しておく(唐沢さんは「本家立川流」の座談会で小蝠さんと面識があるし、蝠丸さんとは「ヒマラヤ無宿」つながりでやはり面識がある)。

新宿でやっさんと別れ、東京駅のホームでとんくんの電車が走り出すまで見送る。
帰宅後、メールでセトロさんへ色々と報告する。


 海を飛ぶ夢  2005/4/16(Sa)その1


映画を一週サボったので、今日はちょっと気張って映画のハシゴ。
もはやフォローしきれない程未見映画が溜まっているが、己の欲望に忠実にまずは日比谷へ向かう。

「海を飛ぶ夢 THE SEA INSIDE (2004・西仏/アレハンドロ・アメナーバル)」 日比谷シャンテ・シネ
「オープン・ユア・アイズ」「アザーズ」と徹底的に作り込んだサイコスリラー(若干香るトンデモ風味がまたクセになるのだな)を提供してくれていたアレハンドロ・アメナーバルの新作は実話を下敷きにした感動ドラマ(しかし、アカデミー外国語賞は尊厳死映画の登竜門みたいになっちゃったね)。人によっては「転向」だとか、オタク作家としてこのていたらくはどうよみたいに眉をひそめる向きもあるが、前2作が、現実と非現実の間で、自らの身の置場を求めて懊悩する(或いは逃避する)ひとびとを描いたものだとすれば、28年間の四肢麻痺という極限の現実から魂を解放すべく安楽死を望み続けたラモン・サンペドロ(ハビエル・バルデム)はつまり、「オープン・ユア・アイズ」エドゥアルド・ノリエガそのひとであり、「アザーズ」ニコール・キッドマンそのひとである。

彼らは皆、支えきれない現実を前にして「此処じゃない何処か」を生きるか、目指すかする。若干テイストは変わっても、何者をも救わない一点に於いて、これもまた紛れもなくアメナーバル監督作品であり、登場人物たちの細やかなきびも「オープン・ユア・アイズ」から一貫したものだ。尤も個人的には、監督に是非また「アザーズ」方面へお立ち寄りくださいと一言添えたいのも事実。

しかし呆れたのはラモンを演じたハビエル・バルデムである。
精巧なハゲヅラまで着用した初老メイクにすっかり騙されたが、若き日の彼こそが現実のハビエル(実齢は36歳。これぞアメナーバル・マジック)、何処かで観た顔だと思えば、伝説のビガス・ルナ「ハモンハモン」ぺネロぺ・クルスを性奴隷にする為に送り込まれたセックスマシーンではないか(当時23歳)。生ニンニクを齧りつつ全裸闘牛に挑む劇画みたいな男だったのが、穏やかな笑みの裏に、死への静かなる闘志を燃やす孤高の詩人を演じ切る罠。デ・ニーロ・アプローチも吃驚のバルデム・アプローチである。
溜めるだけ溜めて、物語の終盤、「死」の決行前夜に彼は初めて抑えていた感情を爆発させて慟哭する。
「何故、皆んなのように人生に満足出来ない? 何故、僕は死にたいんだ?」
本作の背骨のようなシーンである。

彼を取り巻く周囲のひとたちも、悲しい「恋のさやあて」を繰り広げる弁護士フリア(ベレン・ルエダ)とロサ(ロラ・ドゥエニャス)を始めとして、全員が魅力的だが、此処では特に「アザーズ」フィオヌラ・フラナガンクラスの名助演として義姉マヌエラ(マベル・リベラ)を挙げておく。TVで訳知り顔で家族をなじったフランシスコ神父に向かって「私にも解る事は…あなたはやかまし過ぎます」と、彼女らしく控えめに怒りをぶつけたのは喝采ものだった。ああ、兄のホセ(セルソ・ブガーリョ)も良かったな。息子(タマル・ノバス)を納屋に連れ込んで「分かっているのか。もう二度と逢えなくなるんだぞ」と襟首を抑えるシーンとか。

けれど、彼らの愛が強ければ強いほど浮かび上がるのは、ラモンにとって大切なのが、彼を愛してくれるひとがいる事ではなく、自分がこの魂の牢獄から解き放たれる事。ラモンは自分を愛してくれるひとの為に、ではなく、自分の為にこそ生を全うしたいのだ。ひとつだけはっきりしているのは、四半世紀を越えて四肢麻痺でいる苦しみは誰にも共有出来ないという事だ。

愛は時に愛という名を借りただけの、無関心よりも残酷なエゴなのかもしれない。
それでも尚捨てきれない想いに縛られているから、僕らはこの映画に涙する。
この項、続く。


 コンスタンティン  2005/4/16(Sa)その2


色々考えあぐねて、有楽町の安売りチケット屋で「コンスタンティン」「阿修羅城の瞳」の前売を手に入れてから木場へ取って返す。あと2回木場で映画を観ると、無料鑑賞券をもらえるのを思い出したもので。遅昼に陳建一麻婆豆腐店で麻婆豆腐Bをひいひい云い乍ら食べる。未だにいちばん辛い麻婆豆腐Aには手を出した事がない。小倉そごうの最上階にあった四川飯店の陳麻婆豆腐はBほど辛くなかったと思うんだけどなあ。

「コンスタンティン CONSTANTINE (2005・米/フランシス・ローレンス)」 109シネマズ木場
無論、レイチェル・ワイズ目当て(て、そんなのばっかし)。
ハナからシリーズ化を約束されたアンチヒーロー娯楽活劇としては上出来の部類。

ヘビースモーカーで肺癌末期だが有能なエクソシストのコンスタンティン(キアヌ・リーブス)を始め、エクソシスト志願のイエローキャブの運転手チャズ(シア・ラブーフ)、 天使と悪魔の中立地帯に位置する底知れぬクラブオーナーのミッドナイト(ジャイモン・フンスー)、ボーリング場に棲むエクソシスト御用達兵器屋ビーマン(マックス・ベイカー)、男装の麗人にして冷酷な天使系ハーフブリードのガブリエル(「オルランド」「バニラスカイ」ティルダ・スウィントンが好演。このひと自身、ロートレックの絵画のような印象的な顔立ちをしている)、悪魔系ハーフブリードのバルサザール(ギャヴィン・ロズデイル)、そしてコンスタンティンを執拗に目の仇にするルシファー(「ファーゴ」の無口な殺人鬼ピーター・ストーメアが饒舌な悪魔を怪演)と、登場人物の誰もがキャラ立ちしていて(肝腎のアンジェラ/イザベル・ドットソン(レイチェル・ワイズ)がキーマン乍ら狂言回しなのが残念)、これが2クールくらいの深夜のTVシリーズ(30分)ならディープなファンが売るほどつきそう(ただTVでやるんならヘビースモーカーって設定を何とかしなくちゃならない)。

本作導入部のアジア少女の除霊エピソードだけで第一話<コンスタンティン登場篇>なんて、おお、考えただけでわくわくする。

「自殺者は地獄行き」というカトリックの掟(て、よく分からずに書いている)を「自己犠牲(一応、ネタばれ自粛)」で解決するあたりのご都合主義のショボさもオレ好み。映画としてどうかと云われたら「東映まんが祭り‐ハイパー」ぐらいに思え、とひとまず答えておけ。何しろ適度にぬるかろう(処で≪ロンギヌスの剣≫は何処行ったの?)面白かろうって類の映画なんで、肩肘張って観るもんじゃありません。

ま、そんな映画なんでサービス精神旺盛です。
どんなにエンドロールがかったるくても決して最后まで席を立たないように。
この項、続く。


 阿修羅城の瞳  2005/4/16(Sa)その3


「阿修羅城の瞳(2005・日/滝田洋二郎)」 109シネマズ木場
うーん、生でいのうえ歌舞伎を体験しているお客は行かぬが吉。

舞台故に味わえたカブキ者たちの満漢全席の至福が、映画になった事で大幅にスケールダウンした事は否めない。冒頭の香川・旧金毘羅大芝居(金丸座)で敢行したロケはともかく、大部分がセット撮影とCG(闇のつばきが跋扈する甍の波とか、「インディペンデンス・デイ」の如き、逆しまの城に覆われ、炎に包まれたお江戸八百八町とか)の行きつ戻りつで、セットを組むのにどれだけカネがかかるかは重々承知をしているが、それが絢爛豪華さに全然繋がっていかない哀しさ(せめて中国みたいに人海戦術が使えるとまた印象が違うのかもしれない)。セット撮影の限界は空間の広がりがない事で、そりゃ「リディック」のような自棄に広大なセットは望むべくもないとしても、出て来るセット出て来るセットが同じ間尺では、映画にまで裾野を広げた甲斐がないというもの。

もっとロケに活路は開けなかったのか。たとえばクライマックスの病葉出門(市川染五郎)と阿修羅(宮沢りえ)の決闘シーンを首都圏外郭放水路(「ウルトラQ dark fanatasy」「楽園行き」に出て来た地下世界)他何箇所かを組み合わせて撮って後からCGで加工するとか。結局は撮影スケジュールとロケ地確保の壁が立ちはだかるのか。このへんが現在の邦画の限界なのか。狭い処であっぷあっぷしている印象なのがひどく切ない。

「阿修羅城の瞳(2005・日)」 映画的ベクトルは鬼たちの蛍光スプラッタな死に様(ウェズリー・スナイプス「ブレイド」シリーズを思い出しますた)や、先に書いたお江戸「インディペンデンス・デイ」へ向かう。後者は殆ど市川版「竹取物語」平安京「未知との遭遇」を洗練した感じ。ジャッジメントは微妙である。「陰陽師」シリーズで時代劇壊しの冒険を続けてきた滝田監督にはむしろこれでもまだ足りないのかもしれないが。

尤もいのうえ歌舞伎を知らないひとにはかなり辛口な感想に映ると思う。
既成の時代劇を打ち砕くゴッテゴテの衣装、ジャッカジャカな音楽(菅野ようこがやってくれた)、少なくとも「梟の城」のカブキ具合くらいは確実に凌駕している(てェのが、どれだけ褒めた事になるのか皆目見当がつかないが)。

キャストに関しては全く文句はない。
染五郎というチョイスはありだったし、つばき、阿修羅を両方演じ切る事の出来る、この世代の女優として宮沢りえなのは全く納得のキャスティングだ(でも彼女のベストシーンは予告篇の「何だこりゃ?」だったので、本篇で初めて巡り逢いたかった気もする)。邪空(渡部篤郎)、美惨(樋口可南子)あたりも全然申し分ありません。滝田作品なので螢雪次朗はお約束、あと笑死(えみし)には「ピストルオペラ」韓英恵なんて仰天のキャスティング。大倉孝二皆川猿時の賑やかしコンビも映画ならではの重厚具合。ちゃらけていてもその実「地獄変」なリアリズム作家・四世鶴屋南北に小日向文世をアテてみせたのは78へぇ。僕が愛する山田辰夫が瞬時にして上半身人形に置き換えられてしまったのに少なからずショックを覚える。ううう…。

本作を観る前は、興行成績が良ければこの先いのうえ歌舞伎の映画化二弾三弾もありだなとひそかに思っていたのだけど、今はそれだけはやっちゃいけないと心変わりしました。少なくとも滝田さんとは別のアプローチが必要。北村…は冗談じゃない。金子…監督もちょっと違う気が。三池…監督でもないな。此処は敢えて中島哲也の先進性とセンスに500カノッサ。
必要以上に「阿修羅城の瞳」への評価が厳しくなったのは、今日のラインナップが余りにくどすぎたせいもある。これは個人的なポカ。
映画を数観るというのは、それに伴う集中力の低下も重なって後半になればなる程、グラムあたり幾らの勘定で映画のクオリティまで量ってしまいそうで、確かに怖い部分もあるのだが、逆に感想に「つまらぬ遠慮」がなくなっていいという側面もある(これが何故か僕には多い)。でも脂っこいものの後はあっさり系が欲しくなるというのは料理でも、映画のハシゴでも鉄則だと思う。


 恋は五・七・五!  2005/4/24(Su)その1


土曜はつい家を出そびれてやっさんや小蝠さんのサイト、あと自分の日記を久し振りに更新などして一日を過ごしてしまう。
悠都が退屈で死にそうだったので、夕方ヨーカドーへ買い物に連れてって、ミスドをおごってやる(特にミートボルシチを気に入ったらしい)。

という事で今朝は9時に家を出て渋谷へ向かう。
映画を2本程観て昼下がりに帰宅するコース。

「恋は五・七・五!(2004・日/荻上直子)」 渋谷シネ・アミューズ・ウエスト
PFFスカラーシップ「バーバー吉野」は作劇として設定のオモシロさを凌ぐ展開を見せきれなかった反省は残るものの──とは云え、オーソドックスなドラマづくりという点に於いては新人らしからぬ手堅い演出を見せてくれた──監督・荻上直子の作家性を十二分に期待させる佳作であった。対して、昨今鉱脈と見なされているスポ根青春ジャンルに文科系競技である「俳句甲子園」をぶつけよというプロデューサーの課題を如何に料理するか、職業監督としての資質を問われたのが「恋は五・七・五!」なのだ(尤もブームの先駆者たる矢口史靖「ウォーターボーイズ」事始めも経緯は似たようなものだと思われる)。そして結論だけ云えば、二番煎じの誹りを受けようと彼女は充分及第点を越える青春映画を撮りあげた、それに尽きる。

話はそれるが、くだんの矢口演出は4コマ漫画みたいな日常スケッチに優れているが(まさに「ワンピース」シリーズ)、それが裏目に出ているのが「ウォーターボーイズ」「スウィングガールズ」の前半部だと思う。彼の持ち味であるナンセンスに裏打ちされたヌルさがドラマのテンポにブレーキをかけている(主人公がカッコ悪かったり、強欲だったり、負のキャラである事自体は全然OK)。それでも後半の熱血格闘篇が魅せるのでどうにかかたちにはなっているが、物語の血肉となる4コマ漫画な学園生活は実は不得意だったりする(古厩智之「ロボコン」は未見なので留保)。同じ漫画的演出(たとえば嶋田久作が顧問を務める古池高校俳句部のカリカチュア)でも荻上監督のそれには矢口演出が抱える危なっかしさがないのだ(俳句への偏見やコンプレックスの表現が若干ベタだが、それはま、許容範囲内)。説得力を持たせられない試合運びをキャラの力技でねじ伏せてスルーするあたりも至極自然な仕上がりだし。

あとクライマックス(俳句甲子園準決勝大会)で俳句部の面々を輝かせる対比として、其処に至るまでの彼らの恥ずかしい日常を容赦なく恥ずかしく描く。孤高な帰国子女、ヒロイン治子(関めぐみ)にしてから世界一みっともない姿でパンティを開帳するし(演出意図は分かるのだが、あれだけ眉を整えたデルモな娘が色気の極北にある下着を身につけるかね、と思うのは僕が女性を理解していないからかね)、目撃したツッチー(細山田隆人)がそれを夜のおかずにする背中をカメラは捕らえて放さない(このへんの、男子の生理としての性欲は「バーバー吉野」でも旨く描けてた記憶がある)し、プレッシャーに弱い山岸(橋爪遼)は最后まで見せ場がないんじゃないかとハラハラした。いじられキャラであるマコ(小林きな子)に到っては殆ど女優個人に対する拷問だったと云っていい。役者に人権がないのは承知していたが、まさか芸人に人権がないのと同じ意味だったとは。

ヒロシのサイン会はスルー 「恋は五・七・五!(2004・日)」 で、この役者泣かせなコマの動かし方で主人公たちを輝かせていく手法は大林宣彦「青春デンデケデケデケ」に通じる手口(あと周防正行「シコふんじゃった」とか、実は矢口作品もそうなんです)。ピンポイントで映画を締める校長(もたいまさこ)や爺ちゃん(柄本明)の扱いも程良く抑制が効いていていい。顧問のマスオちゃん(杉本哲太@邦画界の「縁の下の力持ち」)とヨーコ先生(高岡早紀)のドラマをもっと観たかったけど、それは欲張りに過ぎるというもの。
次の青山通りへ向かう途中、ブックファーストにて、北上次郎×大森望「読むのが怖い! 2000年代のエンタメ本200冊徹底ガイド」(ロッキング・オン)を購入。このあとヒロシのサイン会があるようだったが、時間がないのでスルー。でもネタはひとつふたつ聴いてみたかったかも。

この項、続く。


 猟人日記  2005/4/24(Su)その2


「猟人日記 YOUNG ADAM (2003・英仏/デヴィッド・マッケンジー)」 イメージフォーラム
「猟人日記」と云われて思い出すのは中平康なのだけど本作は無関係(原作はノワール小説アレグザンダー・トロッキ「ヤング・アダム」)。別にユアン・マクレガーが仲谷昇を、ティルダ・スウィントンが戸川昌子に扮している訳ではありません。

「猟人日記 YOUNG ADAM (2003・英仏)」 豪華キャストを揃えた挙句、こんな鬱蒼とした生活臭たっぷりの映画を撮るのが英国式。

世にファム・ファタールがあるならば、これはオム・ファタール(運命のダメ人間)の映画。
作家ワナビーとして燻り続けるジョー(ユアン・マクレガー)は行く先々で節操なく(或いは求められるままに)女ったらしを繰り返す。ダメ人間が周囲を巻き込んで坂を転げていくのを黙って見守る事を強いる、我慢大会のようなお話(濃霧のトンネルを進みつつ船の梶を取るのは彼の人生の暗喩ですか)。

彼自身に悪意は全くないが、昔の恋人キャシー(エミリー・モーティマー)は再会した彼との諍いが元で(事故とは云え)溺死し、彼が警察に届けなかったばかりに彼女の今の恋人が起訴され(ジョーが無記名の投書をしたにも拘らず)無実の罪のまま死刑判決がくだってしまう。彼を可愛がったレズリー(ピーター・ミュラン:何も此処まで可哀想な役を引き受けなくとも…)はジョーと関係を持った妻エラ(ティルダ・スウィントン)に追い出されるが、当のエラもまた自分の妹(テレーズ・ブラッドリー)と恋人の火遊びに心を痛めることとなる。

自分の怠惰に無自覚な災厄は、旨く転がらない己が未来に苛立ちつつ、いっぱしに良心の呵責に苛まれたりもするが、決してその甘えた生き方を改め(られ)ない。つまりはそれがオム・ファタール。露出度はかなり高くて、ユアン(ひょっとして露出狂なのか?)、ティルダ(是非「コンスタンティン」とセットで観ていただきたい)、エミリー(ジョーが彼女に繰り出したカスタード・クラッシュにはあっけに取られました)と限界なく裸身を晒しているが、エロ度は露出度に見合うほど高くない。ティルダの乳首にとまった小蝿を執拗にズームするショットはアラーキー的頽廃というよりむしろ生活を背負った倦怠なのかも。この映画では、文字通り真っ黒になって働く男たちは外見とは裏腹に繊細なおもてを見せ、所帯やつれした女たちの方が余程強かでクソ度胸が座っている。女が力強いのも、イギリスというお国柄なのか。

予告篇を観て、期待したまんまの映画だったんで僕は満足です。
2003年のカンヌ映画祭で大絶賛だったというのはちと大袈裟だけれども。
映画が終わったのが14時半。

鯉のぼり in こどもの城。逆光で見えにくくってすみません 麦工房シベール 「A.R.I」のお食事マフィン

こどもの城にたなびく鯉のぼりを眺めた後で、南青山「A.R.I(エー・アール・アイ)」で、スイートマフィン(パッションフルーツ、レモングラスなど)とお食事マフィン(ドライトマト&バジル)を買い込み、更に妻のおつかいで「麦工房シベール」にてラスク各種を二袋ばかり買って帰宅、遅昼で「A.R.I」のマフィンを妻子に振舞う。それにしても此処のお食事マフィンは生地がしっとりとしていて、且つ胡椒が程良く効いていて本当に美味しい。


 エレニの旅  2005/4/30(Sa)その1


GWは突入したが5月は色々と物入りなので、此処は鑑賞作品を2本に厳選。初回にレイトショウと、タイムスケジュール的に無茶、日比谷に渋谷と地理的にも無茶と、無茶の二重奏なのだが、ま、連休は長い。2日は出勤だし(だからどうした)。本当はなるべく早い時期に恵比寿でウディ・アレン「さよなら、さよならハリウッド(2002・米)」も観たいのだが、あそこは下手すると一日を棒に振りそうだからなァ。

「エレニの旅 ELENI, LA TERRE QUI PLEURE (2004・ギ仏伊独/テオ・アンゲロプロス)」 日比谷シャンテ・シネ
テオ・アンゲロプロスとしては「永遠と一日(1998)」以来6年振りの新作。
なのにアンゲロプロス的視点で20世紀を俯瞰する3部作の第1作目。て、一体何年計画で映画を撮る気なんですか。

「エレニの旅 ELENI, LA TERRE QUI PLEURE (2004・ギ仏伊独)」 まず何よりも呆れたのは(ぉぃぉぃ)、土曜日初回、2回目ともシャンテ・シネがほぼ満席だった事。
確かに「エレニの旅」は都内で此処でしか観られないのだが、アンゲロプロス作品に此処まで集客力があるとは福岡在住中には夢にも思わなかった。個人的にアンゲロプロス作品というと必ず何処かで意識を失うのが常であり、本作に到っては予告篇開始10秒で意識が遠のきかけたという前科があるだけに(処が今回、本篇では全く寝なかった。自慢出来た話ではないが、アンゲロプロス鑑賞では初の快挙である)、空席が見当たらないという「現象」だけで感動してしまう。しかも老若男女まんべんなく座っている不思議。いや、不思議って云っちゃいけないのか。

ロシア赤軍のオデッサ入城で父母を奪われ、孤児として拾われる事から始まり、夫と生き別れ、息子たちを戦争に奪われるエレニ(アレクサンドラ・アイディニ)の「受難」の半生に、ギリシャという国そのものの「受難」が投影されているという意味で(「エレニ」とはギリシャの愛称でもある)、本作はアンゲロプロス映画の王道であり、集大成であると云っていいんじゃないか。もっと云えば、エレニはあくまで受難の民としての一サンプルに過ぎず、夫・アレクシス(ニコス・プルサニディス)、双子の息子たちヤニスとヨルゴス、義父・スピロス(ヴァシリス・コロヴォス)、そしてアレクシスの音楽家としての才能を買っていた初老のヴァイオリン奏き・ニコス(ヨルゴス・アルメニス)と出て来るひとの全てが、見えざる巨大な手のひらに翻弄されていく受難の民なのだ。彼らは蟷螂の斧でわずかばかりの抵抗を試みるが、慈悲なき神の視座(カメラ)は彼らが理不尽ななにものかに力尽き、倒れていくのを、ただ静かに見守るのみだ。

映画のラストシーン近くで、控え目で言葉少なだったエレニが、息子たちとの生活を奪われた監獄での日々をうわ言で繰り返すのだが(ちなみに彼女を介抱する老婆(トゥーラ・スタトプロウ)はアンゲロプロスの長編デビュー作「再現(1970)」でヒロインのエレニを演じていた)、いささかバランスを欠くのではと眉をひそめる程、長回しで且つ台詞がくどいのだが、少し時間を置くと、あのバランスの悪さこそが本作の肝だったのかもしれないなと改めて思い当たったり。

アンゲロプロス作品の観どころである映像叙情詩だが、本作でも深く鮮烈なイメージが何枚もの絵画のように次々と立ち現われる。冒頭の霧の中から現われる難民たちのシルエットに始まり、難民窟となったテサロニキの市民劇場、若い二人を演奏で出迎える音楽家たち(ブズーキ弾きがいるあたりがさすがはギリシャである)、無数の白いシーツがはためく白布の丘、水平線と空がグレイ一色に塗り潰された波止場、水没したニューオデッサ村の一連のシークエンス、そして戦死した息子たちを迎えにきた「銃後の母」列車(余りに寓意に満ちているが…まさか実話なのか)、死んだ息子が待つ水上の監視小屋。

あ、そうそう。雨降りで寒いからって、昼間っからウゾをダブルで呑み干すギリシャの親父に乾杯。

処で、20世紀末のNYを描く3作目はSFにする構想があるらしい。
…難解にならなけりゃいいんだが。とりあえず(不条理系)時間SFになるに500億ディナール。
劇場前に待機するぴあ出口調査隊をやんわり断ってから(て、初日は昨日だった筈だが)、山野楽器銀座本店に移動して、遅れ馳せ乍ら大江千里「ゴーストライター」を購入する。明日、此処のJAM SPOTでインストア・イヴェントがあるらしいので思わずスケベ心を起こしてこんな処まで足を伸ばしたのだが、さすがに前日では整理券は残っておらず。幾ら何でも千ちゃんを舐め過ぎていました。

有楽町駅前の吉野屋へ入って、牛焼肉丼で遅めの昼食。三省堂を冷やかしてから、一旦帰宅して、「そんな歌、つまんない」という息子の罵倒を無視しつつ(折角帰って来たのに遊んでくれないのが気に入らなかったらしい)、千ちゃんの2年半振りのオリジナルアルバムを通しで聴く。
アーティスト自身の加齢に伴うファン層の高齢化、CDセールスのゆるやかな下降、そしてメジャーどころとの契約切れに伴う個人レーベル設立、つまりはローバジェットな製作費との格闘という、この世代の(オレが贔屓で聴いている)ミュージシャン特有の制作環境にあって、千ちゃんもまたブルーノート系音づくりに移行しつつあるが(それを「ゴーストライター」とコンセプチュアルに云ってみせる千ちゃんのセンスの良さ!)ポップスライターとしての詞のレベルの高さ、切り口の斬新さを維持し続ける「不断の努力」には心から頭が下がる(特に「ゆくとしくるとし」「ゲームオーバー」の2曲は聴かない事を後悔する佳曲たちです)。そして不惑を越えたからこそ書けたのかも知れない「母の手」

大江千里というアーティストが涸れずに歌を書き続けてくれる事。
15年以上聴いている者には、これ以上の励みはない。

この項、続く。


 9SONGS  2005/4/30(Sa)その2


19時過ぎに夕飯は帰宅後っという事で、再び家を出て渋谷へ。
映画までにかなり余裕があったので、とよ田みのる「ラブロマ(4)」(アフタヌーンKC)を購入すべく「BOOK 1st」へ立ち寄る。
コミック売場は5Fなので、来たばかりのエレベーターに慌てて乗り込むと、エレベーターの中には僕と、20代前半位のOLらしい二人組だけだった。彼女たちは今まで「切れ痔」の話題で随分と盛り上がっていたらしく、話の流れ上、僕が傍らにいるにも拘らず、その話題をやめようとはしなかった。

「…ていうかさ、切れ痔ってそうなっちゃうらしいよ」
「へえ。本当に知らない知らない。郁恵がそうらしいってのは聴いたけど」
「えー、マジで? 信じられない。あの娘、あたしがイボ痔だって云ったら、ふふんって鼻で笑ってたんだよ」

──信じられないのはあなたがたの方ですよ。フランクなのにも程があります。

見れば、本当に普っ通のOLな女性ですよ。そりゃ確かにボラギノールの止め絵のCMって、世間の痔への敷居を低くするのに一役買っているとは思うけど、如何に密室とは云え、女子ロッカーじゃないんだからせめてTPOくらい弁えてもらえないものか。そもそも、どうしてオレの方がドキドキしなくちゃならないんだよ。という訳で、ボラギノールの女子高生たちの会話が決して絵空事じゃないことをしっかりと受け止めた渋谷の夜。

「ナイン・ソングス 9 SONGS (2004・英/マイケル・ウインターボトム)」 渋谷シネ・アミューズ・ウエスト
「ナイン・ソングス 9 SONGS (2004・英)」 ウインターボトム監督の前作「CODE46」で僕が声を大にして云いたかったのは、恋人がパートナーにだけ見せる極私的な表情(姿態)という至福のスペシャリテについてだったのだが、奴さんはとうとうセックスの極私性だけを取り出して映画にしてしまった。しかも自己資金を掻き集めたインディーズ・ムービー。

「CODE46」で記憶を改竄されたマリア(サマンサ・モートン)に対して、本作のリサ(マルゴ・スティリー)はひとつの恋の終焉(留学期間修了という余りにもあっけない幕切れ)と同時に記憶を封印してしまう。つまりは何処にでもある、ありふれた恋の結び。マット(キーラン・オブライアン)が赴任先の南極の茫漠たる氷原で、五感に染み付いた彼女の思い出を何度も咀嚼するのとは鮮やかなまでに対照的である。少し脱線させてもらえば、「CODE46」でSF設定を用いて必然的に緊縛プレイへ導いていたのが、今回はそのものズバリ趣味の領分で緊縛に行っちゃうあたりのストレートさがいっそ小気味いい。

そう云えば、監督のフェイバリット・ムービーのひとつに「愛のコリーダ」があるらしい。どんどん性戯がエスカレートしていく処、および個々の性戯のディテールにかの作品からのインスパイアがあるようなないような(朗読プレイというのはなかったような)。あとバスタブのシーンに「ラスト・タンゴ・イン・パリ」の面影を垣間見た気がしなくもないが、普遍性と極私性がせめぎ合うのがメイクラヴにまつわる物語なのかも知れない。

手にべっとりつけたシェイビングクリームで彼氏の背中に天使の羽根をこさえるリサの戯れがどんなに技巧的でもどんなに微笑ましくても、あれもまた極私的行為の裾野に相違ない。尤も、昨今の若いカップルは極私的行為の一般公開が過ぎると苦々しく思うのは、オレの老化のあらわれなのかね。マット&リサもライヴ会場で、興奮の余り汗と体臭に塗れた熱いハグとウェットなキスを繰り返すんだが、これを日本人がやるのを見たらドン引きすると思う。似合わない国民性というか…いや、これは大きく話がそれた。

寝物語とロックンロール。いずれも永遠に手許に繋ぎ止めてはおけない、刹那的でエモーショナルで、赤裸々で熱病のようなもの。
誰もが心当たりのある(ウインターボトムはそれに「男ならば」と付け加える気がする)、苦くも仄甘い記憶。獣が発するのと同じ汗の匂い。湿度と体温、それから倦怠感。多幸感と同じ重さの寂寥感。けれど男にとっては困った事にそれが生きるたつきになる場合がある。女性はどうだか知らないけど…と遠い目をして呟く男共。これはそんな映画だ。

遠い恋人との情事の記憶のBGMに、マイケル・ナイマンの旋律を聴いているのは、実は男だけなのかも知れない。
いや、笑いたければどうぞ笑ってくださいっていうね。オトコが莫迦でナイーブなのは当のオトコがいちばん承知している。
性愛についての映画を観た帰りの電車で、とよ田みのる「ラブロマ(4)」(アフタヌーンKC)を読むこの落差がたまらない。


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