飛竜の涙11
喋犬
飛竜の涙10
再び、風が原へ。
馬が前足を上げ、高くいななき、騎馬兵はそれがあまりに急であったため、持ちこたえられず、落馬した。彼は、落馬した際に痛めた肩に傷みを感じながら、泥の着いた顔を上げ、周囲をキョロキョロと見回した。
彼の眼前の空間が歪み、自分の目がおかしいのかと思い、まだ、動かすことのできた方の手で目をぬぐい、彼がそうこうしているうちに眼前のゆらぎは実体化し始めていた。
ブルッと震えた。ひんやりとした冷気に気づいた。
彼は眼前に、二つの平べったい顔が現象していくのを呆気にとられて見ていた。逃げようとしたが足腰に力が入らず、 地面を手でかき、はって、その場から逃れ、爪が割れ、指先が赤く染まった。
彼が、まるで、そうせずにはいられないとでもいうように、後ろを振り返ると、2つの頭を持つ蛇が、ゆらゆらと鎌首をもたげていて、彼は、その視線に射すくめられたかのように、動きを止めた。
何だ。これは夢なのか。悪夢。そう。悪い、わるい、夢。そう。いつかは覚める。おわってくれるゆめ。
その彼の物思いを引き裂いたのは、彼の死だった。
オノベの他の者も呆気に取られて、その様子を見ていた。
おおっ。活気づいたのは、解船城の兵たちだった。
「城主様の魔道だ。」
2頭蛇が、さらに、オノベの一人を丸呑みにした。
明らかに、オノベの兵には動揺が見られた。彼らは、事態を把握できず、眼前の解船城の兵たちが、まるで存在しないかのように、2頭蛇の存在に注意を奪われていた。無論、彼らは、じきに平静さを取り戻したが、ゴサクたちはその隙を逃さずに、後退を続けた。
戦場で、最も恐慌に陥ったのは馬だった。彼らの知性は、彼らに、ここから逃げだすことのみを告げていた。ほとんどの騎馬兵は馬を取り押さえるのに精一杯でとても戦どころではなかった。歩兵の一人が勇敢にも2頭蛇に槍を打ち込んだが、結果は無残なものに終わった。
「うまく行ったようだな。どうやら、彼らは魔道に慣れていないとみえる。」
クニミがロエに言った。
「城主様の魔道にかかれば、どんな敵でも、持ちこたえることはできないでしょう。」とロエ。クニミは、ロエの強い口調に引き寄せられるようにして、その顔を見た。その顔には、誇らしげなものがあった。まるで、自らの魔道で、敵を混乱に陥れ、戦局を有利に展開でもしたかのように。
エンゼンは馬上で少し休んだ。
周りを見回すと味方が押しているのは明らかだった。この勝負、我らの勝ちか。彼はそう思った。近衛隊の中にも負傷して後方に下がった者もいたが、見慣れた顔の多くが、まだ、近くにいて、彼らの多くが返り血で身を染めていた。その幾ばくかは自らの血なのだろう。
「皆の者。もう一押しだ。」エンゼンはそう叫んだ。こうして叫ぶのは、今日、何回目、いや、何十回目だろうか。枯れた自分の声を聞いてそう思った。周りからそれに反応する声が返ってきた。
それとは別に前方で声があがった。
「新手か。」彼は馬上で背伸びして、声のした方をうかがったが、よく見えなかった。
「皆の者。続け。」彼はそう叫ぶと、そちらに馬首を向けて、馬腹を蹴った。
確かに新手のようだった。彼らは、こちらの勢いを押し止めるどころか、押し返していた。馳せ参じたエンゼンはそのうちの一人と切り結んだ。
何だ。こいつらは。彼は相手の剣さばきに何とかついていきながら、驚いていた。執拗に首筋めがけて打ち込まれる剣をかわしつつ、彼は相手の隙をつき肩口に切り付け、相手はバランスを崩して落馬した。
エンゼンはとどめをさそうと、剣を打ち下ろしたが、敵はすばやく反転してかわした。新手がエンゼンに横合いから切りつけてきた。エンゼンはそれを背をのけぞらせてかわした。今度はこちらから打ち込んだ。敵はそれを剣で受け止めた。その衝撃が手首から肘、そして、肩に伝わった。
彼らは白地の旗さしものに墨書で書いたものを掲げて縦横無尽に暴れまわっていた。明らかに、解船城の騎馬隊が押されているのが、エンゼンには見てとれた。それは、精鋭ぞろいの近衛隊が戦いに加わっても変化しなかった。
エンゼンは、何とか、もう一人を片づけた。
「伝令。」
「はい。」伝令の騎馬武者が駆けつけた。
「クニミに至急、ここへ援軍を送れと伝えろ。至急だ。」
「はっ。」伝令は、やっと仕事が回ってきたとばかりに本陣にかけ戻って行った。
また、一人の兵士がエンゼンにうちかかってきた。ユズの仇と叫ぶのが聞こえた。隣で、敵と味方がもつれあって、馬上から落下するのが彼に見えた。
エンゼンは相手の剣を高く跳ね上げると、二の太刀で、頚部をなぎ払った。しかし、相手は腕を上げてそれを防いだ。手甲共々、手首の骨が砕ける鈍い音がした。一方の手首はなかば落ちかけているにも構わず、相手は、もう一方の手で剣を打ち込んできた。
こいつらの闘争心のもとは何なのだ。エンゼンは歯を食いしばって相手の一撃に耐えた。
「将軍。将軍は一端、お下がりください。ここは我らが保ちます。」横から、助太刀に駆けつけた近衛隊の者が叫んだ。
「うむ。」
エンゼンの体には披露が蓄積していた。これだけ戦が長引くことは計算外だった。若い頃のようにはいかぬか。体調の管理には気を使い、稽古も怠らずやってきた。気持ちでは、若い者に、もちろん負けていない。しかし、腕や肩の筋肉はしびれて、力が入らなかった。若い頃は今より、はるかに重い剣を使っていたものだが。彼は軽めに造ってある剣を見つめた。まるで、今日の激戦を物語るかのように刃こぼれがし、血糊が赤く柄を染めていた。
そして、周囲を見た。皆、若い。少し前までは、自分より年上の者ばかりに囲まれて戦っていた。周りにいる者の年齢は変わっていない。変わったのは自分の年齢だけだった。
「わしは少し休ませてもらう。」彼は副官を呼び付け、その旨を伝え、馬首を返した。
アンジュは体の熱さを感じていた。その熱は、馬を駆り剣を振るい敵の剣をかわすことにより体の中に保たれていた。彼は一声上げると、馬腹を蹴り敵と味方が密になっている方へ馬を駆った。入り乱れる者の声や息や体温が感じられた。
昨夜のことが頭をよぎった。俺には余裕があるのだろうか。息は切れても、頭はすんでいた。昨夜、俺は、恐怖感に取り付かれていた。戦の前になるといつもこうだった。戦場から逃げ出したくなる。しかし、戦が始まってしまえば、そんな感情は全くなくなる。それは、今日のような大戦でも、小競りあいでも変わりがなかった。
アンジュは敵の首をはねた。頚動脈から吹き出る血が周囲に朱の霧を漂わせた。彼は腕に手応えを残したまま新たな敵に切りかかった。今日の敵はいつもより格段に手強かった。それでも、自分の剣術は通じるという手応えはあった。
アンジュの属する隊は同じ道場の者で固められていた。道場出身のユズが城主暗殺の刺客として選ばれた時には嫉妬を感じた。ユズとアンジュは道場でも最上位の剣術の腕を誇り、幼いころから、ずっと腕を競いあってきた。己の腕がユズに劣ると思ったことはなかった。やはり、道場の息子は扱いが違うのかと思った。こうした家柄を重んじるオノベの風潮をアンジュは好まなかった。ただ、彼自身それほど悪い家柄に生まれたわけではないこと、そして、生きるに際して、それを利用してきたことは、十分、自覚していた。
アンジュは今朝方、小高い丘から戦の推移を見つめていた。味方が押されているのは明らかだった。そもそも、相手の軍勢の方が多数だったし、遠めにも今日の敵は何かが違っていた。早く戦に加わりたい、そう思いながら、その模様を見ていた。言ってみれば、隊はオノベの切り札だった。それを温存し最も重要な局面で戦場に投入するということは彼にも理解できた。
しかし、戦の推移を見ている限り、手後れになりそうな印象さえあった。そう思ったのは彼だけではなかったらしく、隊の者は隊長を努める師範代に掛け合ったし、師範代は師範代でそれらの声に後押しされ、オノベの参謀格の武将に掛け合った。しかし、なかなか、隊投入の許可は下りなかった。
それが下りたのはどれくらい待った後であったろうか。その許可が下りた直後、隊の者達は先を争って、丘を駆け下り戦に参入した。
それからはあっという間だった。自分たちが入ったことで相手を押し返しているのがアンジュにも分かった。
ふいに、戦場では聞きなれない悲鳴が聞こえ、恐怖の感情に覆われた表情をして馬を駆って走り抜けて行く味方の兵が視界に入った。周囲の様子を改めてうかがうと、なぜか、こちらの者は動揺し、敵軍は活気づいていた。
いつのまにか、戦の流れに急速な変化が見られ、こちらが押していたにもかかわらず、今や、相手が押し返していた。アンジュはその原因を探るため、敵の攻撃をかわしつつ、戦場で馬を走らせた。
アンジュは、その原因を知っているらしき男を見つけた。その男は、恐慌に取り付かれて、わき目もふらず、馬を駆っていた。
アンジュは男に声をかけた。しかし、男にはこちらの声も姿も捉えられないらしく、そのまま通り過ぎようとした。アンジュは仕方なく愛馬を並走させ、男の肩をつかんで、引き止め、声をかけた。男は、血走った目をこちらに向けた。その網膜には、まだ、恐慌の源が焼きついていた。しばらくしてから、やっと、こちらを認識した気配が目の動きに現れた。
「どうしたというのだ。」
「化け物が。」その男は震える声でそう告げた。「化け物が現れた。」
「どこに。」
「あちら。」男には、それ以上、言葉を続けることは困難だった。
アンジュは男の肩から手を放すと、男の指し示した方向に馬首を向け、馬に笞を入れた。
化け物だと。
少し馬を走らせると、異質な雰囲気を周囲に感じた。馬も敏感にそれを察したらしく、どうしても、それ以上は進みたがらなかった。アンジュは仕方なく馬を味方の兵に預け、徒歩で異質な圧迫感の源へと向かった。周囲は、敵も味方も、疎らだった。そして、彼らの視線が自身に集まっているのに彼は気付いていた。彼らは、自身の生死がかかったこの場においてでさえ、アンジュの行為に注目しているのだ。それが意味することの異様さをアンジュは肌で感じていた。
「おい。無闇にそいつに近づくな。」声が聞こえた。彼は、一瞬、躊躇した。
そして、ユズの顔が目に浮かんだ。道場での稽古中の顔だった。汗にまみれていても、目だけは、異様な精気に満ちていた。それは、まるで、つきものが付いたかのような顔だった。そうした時のユズは滅法強く、アンジュは手ひどく打ちのめされた経験が何度かあった。そのユズの訃報は、既に届いていた。
ユズの死。死。死。
アンジュは再び歩き始めた。
先ほどから漂っていた独特の臭気が、ますます強まった。ここに長く留まっていると、この臭気だけで体調を崩しそうだった。その臭気の中心に彼はうごめくものを認めた。それはまるで誰かの気まぐれにより創られた生物といった印象を与えた。見ていて気持ちの良いものでないことだけは確かだ。体はムカデのような多足多節であり頭にはトカゲのそれがついていた。
魔物がこちらに顔を向けた拍子に、その無機質な目と目が合った。アンジュは、息を止め、思わず後ずさった。何だ。こいつは。呪術の類か。
彼は呼吸を落ちつかせ、オノベにおいて皆の崇拝を集める呪術師の様々な色で彩られた顔を思いだした。オノベにおいては呪術師は、戦を前にした勝利祈願ぐらいはするものの、直接に戦闘に参加することはなかった。
彼が戸惑っている間に魔物が近づいてきた。彼は、手慣れた動きで相手の牙を避けた。速くはない。
そして、相手の脳天に剣を叩き下ろした。彼は確かな手応えを感じた。しかし、魔物は痛くもかゆくもないといわんばかりに、緑色の血を滴らせながら、再び、食らいついてきた。
もう一撃。今度は、その大きく広げられた口の中に剣を差し込もうとした。 しかし、剣先が相手の喉をえぐる前に腕を巨大なあぎとに食いちぎられそうになった。彼は、慌てて剣を引いた。魔物の肉片が、剣先に付いてきた。
魔物は、声にならない呻きを漏らし、その目に凶暴な兆候が現れた。口から、細長い舌を神経質そうに、出したり引っ込めたりしていた。魔物は、なぜか、じっとしていた。
ふいに敵は反転した。虚をつかれた彼はしっぽによる一撃をかわすことができなかった。しまったと思うのもつかの間、彼の体は弾き飛ばされ、地面を何度か転がった。
立ち上がろうとした。足が動かなかった。体に力が入らない。立ち上がろうとした。手元に剣がないのに気付いた。あたりを手さぐりした。視界は赤く染まっていた。指先に痛みを感じた。言葉を発した。立ち上がろうとした。地面の揺れが感じられた。口の中に砂が入り込んでいた。何とか顔だけ上げた。視界は赤かった。目に痛みを感じた。少し離れたところに人間が転がっていた。地面は赤く染まっていた。自分の血だろうか。あいつは。あのムカデ野郎はどこに行ったんだ。
「ユズ。ユズはどこに行ったんだ。」彼は、半ば、朦朧としてくる意識の中で叫んだ。しかし、口中に溢れる血のために、それは、くぐもったそれとなった。
ユズのことが思い出された。仲がいいというわけではなかった。
「しかし、あいつが死ぬなんて。あいつが。刺客に選ばれたあいつが。道場で最も腕の立つあいつが。俺の稽古相手がいなくなっちまった。そんな年なのだろうか。死ぬような年なのだろうか。」彼の声の印象は、まるで、親しい人と話をしているかのようだった。
足が動かない。
彼は、ずるずると這って行った。
クニミのところ迄後退してきたエンゼンは、再度、自軍が押し返すのを見ていた。
「どうやら間に合ったようだな。」
「はい。」
「勝負を決したのは城主様の魔道ということか。」
「今回はそのようです。」エンゼンはクニミの声に抑圧されきれなかった内心の感情を聞き取った。
「不満か。」とエンゼンが尋ねた。
「いえ。」
そして、話は二人の魔道士へと。
やがて、流亀は次なる目的地に到達した。そこに入ってすぐに二人は、娘がいないことを悟った。
「ここは、魔のための領域だよ。何らかの形で魔に関与している者しか生存できない領域だ。早く出よう。」とキチベエは、顔をしかめつつ、うながした。
ここに入って以来、キチベエは、皮膚を通して、魔の波動が体内に侵入してくるのを覚えていた。流亀の結界のおかげで直接の影響は防いでいるものの、己自身が使う魔とは性質が異なるために、不快なこと、この上なかった。
「それが、流亀が動かないんだ。どうやら、ここは通常の結界とは異なるようだ。」象鼻が途方にくれて言った。
「それでは、出られないのか。こんなところに長居していたら命も危ないぞ。通常の結界なら、人間のように魔に関係ない者も生きていけるが、ここは違う。ここで生存するには、充満する強力な魔の波動に対抗する手だてが必要になる。このまま晒され続けたのでは、俺達でも、この蝕む波動に耐えられるものではない。」
「この部屋の状態のひどさは分かっているよ。わしも魔道士だからな。」と象鼻も不快さを滲ませた口調で告げた。
「俺が、わさわざ、口に出しているのは、お互いの状況認識をすり合わせる必要があるからだ。共に生き残るためには、そうする必要がある。何せ、俺達が行を共にするのは、今回が始めてだから。」とキチベエは、二人の間にわずかに生じた亀裂を、それ以上、大きくしないためにも言った。
「分かったよ。」
周囲の壁といわず、天井も床も多くのヒダを持ち、その表面に粘液が粘ついているのが見えた。
「しかし、何というところだ。」と象鼻が吐き捨てた。
「これだけ、強力な魔の波動だ。じきに、精神も体も変調をきたすだろう。特に、判断能力が鈍れば、致命的な失敗を犯すことになりかねない。くそ。魔道を使うぞ。このままでは、魔道を使う力さえ失ってしまう。流亀の結界を解いてくれ。」とキチベエ。
「分かった。」
キチベエは、流亀の結界が喪失した途端に押し寄せてきた魔の波動のあまりの不快さのために、うめきを漏らした。彼は、慌てて自己の結界を張り終えた。
それから、キチベエはうねうねと脈打つヒダに覆われた壁に、懐から取り出した小さな杭を打ち込んだ。
「これには、俺の魔力を込めてある。」とキチベエは、無闇に象鼻を驚かせたり、疑心暗鬼にさせないために言った。
杭を打ち込んだ後からは、どくどくと血のような赤いものが吹き出て、結界に妨げられたからよかったものの、危うく顔にまともに浴びるところで、その光景は、さしもの彼にも吐き気をもたらした。
キチベエは、四方の杭の中心に移動すると呪句を唱えだした。それに四方の杭が共鳴し、結界の強度が増幅された。不快感が弱まり、自己の内部から力が湧き出る感覚に彼は包まれ、この高揚感に身をゆだねていたいという誘惑に彼は襲われた。
象鼻は、自身の結界を解き、キチベエの結界の中に入った。徐々に増幅するキチベエの結界が、周囲の壁を打ち壊すと思えた瞬間、ヒダに覆われた壁に、白髪の男の顔―その顔はキチベエにも象鼻にも複雑な感情を抱かせた−が、浮かび上がった。
「城主。」象鼻が思わず声をもらし、その声には、様々な感情が−憎しみのそれが、一番強く感じられたが−籠ってた。
「久しぶりだな。象鼻よ。そちらは見かけない顔だが。どうやら、魔道士のようだな。魔道士二人が、わしの腹の中で、何をしているのだ。」
「腹の中だと。」といい、キチベエは改めて周囲を見回し、「ろくでもないところに入ってしまったものだ」と吐き捨てた。
「そのろくでもないところがお前さん方の墓場になるのさ。」城主は、ほとんど、口を開くことなく話しを続けた。
「せいぜいわしの腹の中で、戯れてから死ぬがよい。魔道士諸君。しかし、象鼻よ。一度は、命を助けてやったものをむざむざ捨てに来るとは愚かな奴だ。」
それを聞いた象鼻は、苦虫を噛み潰した顔になった。
言い終わった城主の額に、キチベエの放った一本の火矢が突き刺さり、そのまま、城主の顔は笑みを浮かべながら、ヒダに埋もれて消えた。
「象鼻。先程、秘策があると言っていたな。それは、ここでも使えるのか。」
「やってみる。そのまま結界を張りつづけていてくれ。」
「ああ。しかし、魔の圧力はどんどん増しているんだ。そういつまでも持たせることはできない。」
この魔の領域の波動は増幅し続け、結界を圧迫していたので、先程から、キチベエの張った結界は縮小を続けていた。
象鼻の脳裏には、影人の姿が、浮かんでいた。なぜ、わしらは負けたのだろう。なぜ。わしと影人が組んで。たしかに、あの時、わしの魔道は通じなかった。わしには信じられなかった。わしの魔道が通じないなんて。わしは、霧亀湖では、伝説の呪術士の生まれ代わりといわれたものだった。影人よ。わしは、お前に守ってやるといったが、それも、果たせずじまいだった。そう。あの時以来、わしらの運命は変転してしまった。お前は、どこに行ってしまったのだろう。
彼は、もの思いを振り切り、外套を払い、図形を描きこんだ左腕をあらわにした。そして、懐から小瓶を取り出し、中の液体を左腕に振りかけた。
ツンと鼻を突く臭いをキチベエは嗅いだキチベエが尋ねた。
「何をしようとしているんだ。」
「廃体法だ。知っているか。」
「ああ。その腕を使うのか。廃体法を使ったらその腕は使いものにならなくなるぞ。」
「気にするな。どうせ、このままでは死ぬだけだ。それに、わしは魔道士だ。片腕でも生きていくのには困らないさ。それより、廃体法を使っている間、わしは、魔物を支配するために無防備になる。しっかり守ってくれよ。」
「分かった。任せておけ。もう一踏ん張りくらいはできる。」そうは言っても、キチベエは、かなり疲れてはいたが。
象鼻は左腕を見つめて、呪句を唱え始めた。徐々に左腕に振りかけた液体が蒸発しはじめ、それと伴に、彼の左腕は変形しはじめた。
廃体法か。キチベエにはとても使う気になれない魔法の一つである。彼は、師の言葉を思いだしていた。
『普通、魔道士が使える魔物というのは、自分より魔力の弱い者であり、自分より強い魔物を呼び出した時は、魔物を支配できなかったり、逆に自身が使われたりする。廃体法というのは、自分の体の一部に自分より強い魔物を降ろして使うものだ。自分の体の一部という、より自己の支配力の強い領域を使うことにより、始めて可能になる法だ。そして、自分の体、例えば腕を使うように魔物を使うというものだ。しかし、その代償は大きく、魔を降ろしたその体の部位は、使い物にならなくなる。魔道士の魔の支配力と魔物の力が反発するゆえに。これは力の差による契約に基づくのではなく、強引に呼び出し、降ろすのだ。』
象鼻は、自分の腕に痛みを感じていた。それは、最初、うずきのようなものだった。それが徐々に大きくなり、間欠的に走る痛みの周期も短くなっていった。
象鼻は、独特の呼吸法を行っていた。それにより、痛みの感覚を緩和し、集中力を高めることができた。いくら、廃体法とはいえ、というか、廃体法ゆえに、下手をすると、体を通じて、自分の体全体を魔物に乗っ取られることもあることを彼自身、知っていた。
象鼻の腕の皮膚が弾け飛ぶとともに、強力な魔の波動が辺りに満ちた。
おい。おい。大丈夫かよ。いくら、廃体法とはいえ、呼び出した魔物が強力すぎないか。キチベエは思った。
弾け飛んだ象鼻の腕の先には、魔亀の頭がついていた。それが開いた口には歯がなかった。魔亀は、つぶっていた目を開け、ゆっくりと周囲をうかがった。
キチベエは、それの皺深い目許がゆるむのを見た。
「合図したら、この辺の結界を弱めてくれ。左腕だけ外に出す。」
象鼻はそう言いながら、部屋の壁に向けて歩いた。もう痛みは全くなかった。ただ、強力な魔の波動が自分の腕のあちこちを侵食しているのが分かった。象鼻は、それらの波動を拒絶するのではなく、腕全体に分散させ続けた。そして、腕のところどころにある魔の結節点に自己の魔力を注力しつづけた。普通の人間は人体の中にあるこの魔結節を感じ取ることはできないが、特殊な訓練を積むことにより、可能になる。言い換えれば、魔結節を感じ取ることができなければ、廃体法は不可能だ。
「いいぞ。」とキチベエ。
「分かった。」象鼻は弱められた結界に左腕を押し当てた。
キチベエの結界は、左腕に反発して押し返そうとしたが、その反発力に絶えきれず破れた。象鼻の予想通りであった。結界の反発力は、相手の魔力に比例する。魔亀によるそれは尋常よりはるかに大きなものであるので、弱められた結界では耐えられないことは、魔道士であれば予測がつくことだ。
象鼻は、左手をゆっくりと壁に押し当てようとしていた。
壁は、既に、左腕に反応して、その表面のヒダは、魔亀から逃れようと、激しく動いていた。
魔亀は口を開くと、壁にかじりつき、そのヒダを食い千切っては、ムシャムシャと食べ始め、食い千切られた後からは、赤いものが飛び散った。さらに、魔亀がヒダに食らいつこうとしたとき、壁自体が動き、腕をその内部に取り込んだ。そして、きつく絞りあげてきた。
しかし、それも束の間だった。変形した壁に取り囲まれ、遮断された魔の波動は、その抜け道を求めて、壁を引き裂き、噴出した。ポッカリと壁に穴が開き、ぐしゃぐしゃにつぶれた壁の破片があちこちに飛び散った。
二人は、急いで、その穴から外に出た。外に出てみると、そこには、通常の外壁があるだけだった。
「先ほどの城主の話が本当だとすると、あの部屋の内部と城主の腹は、何らかの魔道で連結されていたのだろう。そして、あの壁に穴が開いたということは、城主が手傷を負った可能性が高い。」とキチベエ。
象鼻はボウッと左腕を見ていた。
「どうした。大丈夫か。」
「何とかな。わしは、この腕に精神を集中していなければならない。これからどうするかは、キチベエに任せるよ。」
象鼻の視界は、左手の魔物の波動の影響で、既に歪んでいた。
ロエは、その変化に気付いた。今まで、この風が原には、城主の魔の波動が存在していた。それは、遠征に参加した魔道士部隊によりあらかじめ配置された、この戦場を囲む魔石群と、解船城と風が原間の中継用魔石により遠く解船城から送られて来たものだった。解船城から隔たっているために、城主の魔の波動はかなり弱まっているとはいえ、それでも、この風が原に数匹の魔物を召喚し、エンゼン将軍の作戦を支援していた。
エンゼンは、ロエの報告を聞いていた。城主様の結界が消えたという。
「何事かあったのか。ロエ殿。」
「わかりません。まずは、早馬を解船城に送る必要があるかと。」とロエ。彼の方も気が気ではなかった。できれば、彼自身で解船城に戻りたいくらいだった。しかし、城主様からエンゼンを補佐するように言われている以上、ここを離れるわけにはいかない。
「うむ。そうしよう。それで、魔物の援護は、もう受けられぬということか。」
「はい。」
「わかった。」とエンゼン。
ロエは、エンゼンの天幕から出た。そして、解船城のある方をうかがい、遠く城主を思った。
「クニミ。そういうことだ。」
「はい。戦況への影響はあるでしょうが既に大勢は決しています。このことにより、我が軍が劣勢に陥ることはないかと思います。」
「うむ。しかし、なかなか苦戦したな。」
「はい。」クニミは、ほっとしたように大きく息をついた。「彼らも流浪の王族。また、流浪の途へと赴きたくはないでしょう。手頃な条件であれば、早めに投降すると思います。ましてや、彼らの本拠は解船城とは比べるべくもない砦だとの間諜からの情報です。籠城も難しいでしょう。」
「この戦、我らの勝ちか。」
「エンゼン様がいる限り、我が解船城は、武で他の勢力に遅れをとるものではありません。」
「珍しくお世辞を言う。」
「本心でございます。」
「まあよい。後の気掛かりは城主様の身の按配だ。しかし、何事があったというのだ。」