飛竜の涙9
喋犬
飛竜の涙8
荒野に風が吹き渡った。ゴサクは額の汗をぬぐい、狸の顔をのぞいた。ゴサクより年上の狸は、彼より明らかに憔悴していた。彼らが行軍している道は、草がまばらに生えた隊商路であり、もの悲しげな荒野オオカミの鳴き声が、風に乗って伝わってきた。
「大丈夫か。」とゴサクが少し前で、足取り重く行軍につきしたがう狸を気づかった。
「気にするな。」さしもの饒舌な狸も、愛想のない返事だった。
もうこの行軍を開始して3日になる。解船城を取り巻く湖を舟で渡ってからは歩きづめだった。渡しには、近隣の村落の漁船も駆り出されていた。
疲労は足腰からじわじわと全身に広がっていて、自然と、足の進みも遅くなる。ゴサクが属するウグイ隊の士気は、行軍が進むにつれて徐々に下がっていた。
一方、エンゼン将軍率いるカワセミ隊の方は士気が保たれていた。解船城生え抜きや古参兵が主を占めるカワセミ隊の兵士には、守るべき家族や解船城や城主があった。彼らにとって、それらは、愛や信念や伝統や誇りの源であった。それに対し、新参者や腰掛け程度に考えている者が多いウグイ隊の方は、出発時こそ士気が高かったものの、行軍の疲れとともに彼らの顔は、士気の高さとは無縁のものに変貌していった。彼らに、愛や信念や伝統や誇りが欠けているわけではない。ただ、それらが今、自らが置かれている状況と結びつかないだけだ。
そうした士気の差は、どうしても両軍の行軍の速度の差となって現れた。ウグイを率いるキクスイ将軍の叱咤にもかかわらず、両軍間の差は、徐々に広がっていき、その差が歩いて半日分ほど広がったところで、エンゼン将軍は、一端、休憩を取ることを決めた。彼は、自軍に休憩の号令を出すと共に、キクスイ将軍に、カワセミ隊との距離を縮めて後、休憩との伝令を出した。
行軍の初日から、ずっと晴天続きだった。季節柄、それほど、雨の多い時期でもないのだが、エンゼンは、天を仰ぎ、行軍の将として、太陽神に感謝の言葉を述べた。戦に勝つには、まず、天候とそれを司る神を味方にすべきであった。彼自身は、平生は、信心深い質とは言いがたかったが、命を賭ける戦場へ赴くとなれば、心の平衡が信心へ赴いても、何の不思議もない。
雨の日の行軍ほど始末の悪いものはない。その事実は、これまで幾度となく、痛い目にあって、身に染みていた。道はぬかるんで行軍の速度が落ち、兵は体温を奪われ、体調を崩す者も少なくはない。
オノベに放った間諜から、敵も軍を出したとの情報は得ていた。
「戦場は風が原か。」エンゼンは、隣に控えるクニミに自分の推測の同意を求めた。
「はい。我が軍が得意な騎馬戦を生かすには、風が原以外にはないでしょう。それに、今までの戦から、オノベは弓兵がよく訓練されていることは分かっています。強い風の吹く風が原では、矢を狙い通りに飛ばすのは難しいでしょう。」
「地の利は我等にありというところか。しかし、これだけの大いくさ、久しぶりだな。」
「はい。城主様は決して、戦を好む方ではありません。そのおかげで、オノベなどが勢力を伸ばすことができたとも言えるでしょう。もっと、早くに叩いておけば。」
「言うな。クニミ。」エンゼンはクニミの言葉を途中で遮った。「今回、叩けばすむことだ。」
「はい。」
エンゼンは、ちらりとクニミの顔をみやった。自分より30以上も若いその若者の顔は、色艶もよく、勝ち気な性格を表に出していた。クニミはエンゼンの家に直接仕える者の子弟であり、その聡明な頭脳と歯に衣着せぬ物言いをエンゼンが気に入り、参謀に取り立てたのだった。
「ふう。やっと休憩らしいぜ。」と狸。
これまでも、昼夜分かたず行軍を続けていたわけではなく、夜には野営していたのだが、それでは、蓄積する疲労は十分には取れなかったのだ。とにかく今日は、午前中を行軍に費やしただけで、後は、ゆっくりと体を休めることができそうだった。
やがて、野営のあちこちで、食事のための火が炊かれ、ゴサクと狸は暖かい食い物にありついた。
「オノベというのは、どんな一族なんだ。」ゴサクは、隣で石の上に横たわって、体を休めている狸に尋ねた。
「オノベか。」狸は、少しうれしそうに微笑んだ。話すということが、彼に常に何らかの喜びをもたらすのは間違いない。
「これは人から聞いた話だが。奴等は東の方から流れて来たんだ。何でも噂では、東の方の国の王族だったらしいんだが、権力闘争に敗れ、一族郎党を率いて、この近くまで落ち延びてきたようだ。そして、ここいらには、解船城以外、それほど大きな勢力はないから、じわじわと勢力を増大してきたというわけだ。それで、その勢いで、解船城の方も自分の支配下に置こうとしているという話だ。先の城主様に対する刺客のようにな。」
「そうか。」とゴサク。とりあえず、俺としては、できるだけ怪我しないようにやるだけだ。キチベエの方も気にかかっていた。彼らは、これをいい機会だと、この間に解船城に潜り込む手筈になっていた。まあ、あすこに残って城主と渡り合うのと、ここでオノベと戦うのと、どちらが安全かは分からなかったが。ゴサクとしては、持久戦に陥り、小競合いで終わるという展開が理想だったが、狸の話では、どうもそういうわけにも行きそうになかった。
エンゼンは、自軍が風が原に展開するのを眺めていた。既にオノベの軍は展開を終えていた。解船城の兵たちは、オノベの軍と対峙してからは、緊張感を取り戻し、動作もきびきびしたものとなった。エンゼンは、敵の奇襲を警戒して、斥候を敵陣へ向けて放っていた。今の所、見えている部分でも、オノベの軍に大きな動きはないし、また、緊急の事態を告げる斥候からの報告も入っていなかった。
軍の布陣は、クニミが決めた。通称カワセミ隊が敵本隊の正面に陣取り、右翼に通称ウグイ隊が陣取った。後方には、荒野が広がり、左には、少し離れて川が流れており、退路は自ずと後方になる。
「我が軍は敵より数が多いために、正面作戦を敢行します。エンゼン将軍率いるカワセミ隊が敵本隊を叩きます。キクスイ将軍率いるウグイ隊は右翼の守備に当たります。この部隊は、薄く展開しますので、敵が攻勢をこの方面にかけてきた場合、恐らく持ちこたえられないでしょう。その場合には、速やかに撤退し、カワセミ隊に合流して下さい。」
「分かった。」キクスイ将軍が答えた。彼も、また、解船城家臣団の重鎮を占める家系の生まれだった。彼は、エンゼンより十近く若かったが、エンゼンに対抗心を持っているのは、日頃の言動から、家臣達の目に明らかだった。
キクスイは内心では、自分こそがカワセミ隊を率いるべきであり、今回の戦で功を立てれば、それに一歩近づくと考えていた。どちらも、解船城の中心となる2部隊とはいえ、格の上では、カワセミ隊が上であり、解船城第一の武将がカワセミ隊の指揮をとることは、長らく解船城の伝統であった。
「恐らく、明日、早朝、我が軍とオノベの軍の間で戦端が開かれるでしょう。まずは、弓合戦が行われ、その次に、歩兵部隊同士の戦いになると思われます。エンゼン様の騎馬隊は、機を見て、敵本隊に突撃をかけます。」
「うむ。」エンゼンはうなずいた。
「ロエ様率いる魔道士部隊は、状況に応じ、戦闘に参加してもらいます。その際、私の指示に従うことになりますが、異論はありますか。」
「いいえ。クニミ様に従うようにと城主様からの仰せです。魔道士部隊は城主様直属であり、平時は、エンゼン様の軍とは別の指揮系統に入っていますが、この戦での我が部隊の指揮官はエンゼン様であると心得ております。」ロエはクニミと目を合わさずに答えた。
「頼みますよ。あなた方の働き次第で、戦局が変わることもありえますから。これまでの敵との争いからみて、敵に魔道士部隊はいない可能性が高いと考えています。そうであれば、あなた方の魔道は、敵に大きな打撃を与える可能性が高い。」とクニミは告げた。
黒衣は魔道士部隊の正装であり、彼らは、戦場のどこにいてもよく目立った。外見だけでなく、その人となりが持っている雰囲気というものは、兵達と明らかに異なっていた。城主が魔道士ということもあって、子飼いの部隊とでもいおうか、解船城での彼らの発言力は、その職制上の地位よりも大きかった。しかし、解船城から遠く離れたここでは、城主の庇護もなく、兵隊の彼らに対する態度も城でのそれとは異なっていて、反感と畏怖という魔道師に人が抱きがちな感情が露骨になってきていた。それは、魔道士達も敏感に感じていたゆえに、彼らは、いばりちらしたりなどせずに、エンゼン将軍の行軍に従ってきた。
「敵はいねえな。」狸は上機嫌だった。
「そうだな。」
たしかに、ゴサク達のいるところからは、敵の姿は見えなかった。飛び交う噂と小隊長からの報告を総合すると、敵とまともに当たるのはカワセミ隊で、ウグイ隊は側面の守備ということらしい。敵がこちらに兵を向ければ話は変わるが、とにかく、まずは幸運な展開だとゴサクは思った。激戦地はあっちだなと良い気分になって南の方を望むが、小高い丘が邪魔をしてよく見えなかった。
その夜、夜襲の可能性があったため、ゴサクは剣を抱いて寝た。夜襲に備え、部隊の周囲には赤々とかがり火が燃え、また、部隊の四分の一が必ず起きているような睡眠の取り方になった。浅い眠りだった。そうした夜も明ける時がきた。
ゴサクは、朝露に濡れた草を踏みしめていた。戦さか。彼は戦さは好きではなかった。戦さと盗賊稼業は明らかに異なっていた。自分には、盗賊稼業の方が合っている。勿論、傭兵になったのは、これが始めてではない。ここで死んで何になる。よく知らないお偉いさんのために死ねるような精神が自分にないことは、自分が一番よく知っていた。
最初に動いたのはオノベの軍だった。斥候の報告によると、弓兵部隊が展開して、こちらに進軍してきているとのことだった。
本陣にいるエンゼンにも、黒い粒が動いているのが見えていた。行軍用の軽服装から鎧装束に改めた彼は、一つ、大きく深呼吸をした。そして、「風が出る前に敵は動いたか。我が軍も動くか。」とクニミに尋ねた。
「はい。我が軍も弓兵部隊を前方に展開させます。」クニミは伝令に弓兵部隊長への指示を伝えた。エンゼンはクニミの顔に緊張の兆しを見て取ったが気付かぬ風を装った。
最前線に部隊と共に陣取っていた弓兵部隊長は、伝令からその言を受けると、いよいよかとひとり言を言い、それから、「弓兵部隊、前へ。」と叫んだ。一呼吸おいて、それを小隊長たちが復唱した。
弓兵部隊は、ほぼ横一線になって、前方へ陣を進めた。彼らは、体全部を隠せるほどの大きな楯を携えていた。小さな無数の動く敵の姿は見えていたが、まだ、矢が届く距離ではない。
兵の中には、ブツブツとお祈りを唱える者や、弦が結んである辺りをひっきりなしにまさぐっている者や、高揚した感情に身を任せ、一線から飛び出して行く者もいた。そういう者を、小隊長が叱咤し、列に戻した。
この位だろう。部隊長はそう判断し、「全員、楯を前に立てて、弓を構え。」と叫んだ。
小隊長たちの声がそれに続いて、風が丘にこだました。弓兵たちは、楯の裏面に付いていた足を立てて、楯を地面に立てかけた。
敵の姿が徐々に大きくなる。部隊長自身も、楯を置き、肩にかけていた弓を手に取った。手の平には、汗が滲み、心臓の鼓動は高鳴った。周囲を見回すと、部隊内にも平静とはいえない雰囲気が漂っていた。まもなく、殺し合いをするのだから、無理もあるまい。
彼は、草をちぎって放ち、風の様子を見た。早朝ということもあり、風が丘という名に似合わず、無風に近かった。追い風が最適だが、贅沢はいってられない。それに、敵もこちらが追い風の時に、弓合戦を仕掛けてはこないだろう。
そして、矢筒から、一本、矢を取り出した。彼は、伝説の弓の名人に加護を請い、矢を弦につがえ、引き絞った。踏ん張った足が土にめり込んでいった。狙いを定めると、斜め上空に向け、矢を放った。後には、風切り音が残った。放った矢は敵の進軍してくるあたりに落ちたが、敵には当たらなかった。
これを契機に両軍の間を矢が行き交った。彼の楯にも、鈍い音と共に矢が刺さった。
「無駄打ちするな。」彼は、そう叫び、また、弓に矢をつがえた。そして、伝説の弓の名人に加護を請い放った。彼は、その行方を見守った。その彼に気になるものが一瞬、見えた。
馬影だった。
はっきりと見えたわけではなかった。しかし、敵が姿を隠している楯の裏からそれらしきものが見えた。敵は何枚もの楯を連ねていて、騎馬がその裏に隠れることは十分に可能だと思えた。
「伝令。クニミ殿に伝言だ。敵は、弓兵隊の楯の裏に騎馬隊を隠している模様。至急、騎馬隊の応援を頼む。」背後に控えていた伝令は、後方に向けて駆けだした。彼は、伝令の姿を見送った。部隊長には、本陣との連絡のために複数の伝令が付き従っている。
もし、敵の騎馬隊に攻め込まれたら、弓兵部隊だけでは持ちこたえられないことは明らかだった。もちろん、弓自慢の者たちが集った彼の部隊は、騎馬隊が近づく前にそれ相応の敵を倒すだろう。しかし、接近戦になれば、相手の有利は明らかだった。それ迄に、エンゼン将軍の騎馬隊に駆けつけてもらわなければならない。かわいい部下をむざむざ、敵の軍馬の蹂躪にさらす気はなかった。
彼は、部下とよく飲み交わした。彼と妻の間には、子がなかった。しかし、彼は、妻に、私達には、こんなにたくさんの子供がいるではないかと言い、よく部下を自宅に招待した。妻は、苦笑まじりに、彼の部下達を歓迎した。彼女にとっても、彼らのために料理を作ることが、生きる張りとなっていたのは事実だった。夫からみても、そうした日の彼女は、声のトーンが一つ高くなっていた。
「敵の騎馬隊に注意しろ。」部隊長は叫んだ。その直後、敵陣に連なる楯の背後から、騎馬の姿が見えた。
部隊長は呪詛を唱え、そして、「騎馬を狙え。騎馬だ。」と叫び、こちらに向けて駆けてくる騎馬の一つに狙いを絞る。
敵兵と眼があった。そこには、憎悪と哀しみがあった。しかし、それを見続けることも、その感情を受け止めることも、今の状況では、不可能だった。伝説の弓の名人に加護を請い、矢を放った。矢は敵兵の胸に当たり、敵兵は馬からもんどり落ちた。敵兵の死を確認する前に、二の矢をつがえた。そして、加護を唱えながら、放った。敵の馬群は、さらに近づいていた。彼が狙いを付けた敵は上体を低くして、先陣争いをしていた。彼は、加護を唱えながら、馬に向けて放った。馬は矢を受け、転倒し、兵は鞍からもんどり落ちた。馬のいななきが聞こえた。
馬群は、その足元から沸き上がる土煙と共に、さらに接近していた。
「接近戦用意。」加護を唱え、三の矢を放ってから、そう叫ぶ。敵は、さらに迫っていた。
そして、自分も腰の剣を抜いた。エンゼン将軍の騎馬隊の位置を確かめるために、後ろを振り返った。土煙を立てて走ってくる馬群の姿が見えた。僅かの差であるが、間にあわんか。しかし、この僅かの差が、時に、戦の先行きを、また、自らの、そして、部下の生死を決めることがあることを、これまでの戦の経験から彼は知っていた。今から退却しても、敵の騎馬の足から逃がれられるものではない。彼は、一人でも多くの部下が生き残ることを、伝説の弓の名人に再度、祈った。
後方に向けて、逃げだす部下の姿が見えた。
「退くな。留まれ。陣形を崩すな。」彼は、声の限りに叫んだ。「ここが正念場だ。小隊長。陣形を崩させるな。」
小隊長達の叱咤や怒声、哀願の声が続いた。
「エンゼン将軍が助けに来る。それまでだ。それまで。解船城の誇りを、弓兵部隊の誇りを奴らに見せてやれ。」
隊の者たちの自らの心を奮い立たせるための声に次ぐ声が、風に乗って響いた。
「来るぞ。押し返すぞ。皆のもの。」
それに呼応する声がこだました。
総崩れだけは避けたかった。仮にそうなれば、ここは虐殺の場となるだろう。騎馬隊の到着まで持ちこたえれば、助かる者も増える。
敵の騎馬が、土煙を背景に、眼前に迫っていた。馬上の敵と目があった。逆光のために、そこに表情は読み取れなかった。敵は斜め上から、こちらの胸めがけて槍を繰り出してきた。部隊長は剣でそれを受け流した。その騎馬兵は、舌打ちをして、そのまま通りすぎた。
周囲を騎馬の群れが圧した。
部隊長は、敵兵の槍を掴んで、馬上から引きずり落とし、その喉に刃を押し当てた。彼の喉首を求めて伸ばされてきた手が、その目的物を見つけ出し、一瞬、凄まじい力で、締めてきた。血が吹きだし、顔にかかった。生暖かかった。手指の力は徐々に弛緩した。
彼は声を出した。小隊長達の復唱は聞こえなかった。彼は周囲をうかがった。彼の護衛の一人が、地面にうつ伏せに倒れていた。草が濃い赤で染め上げられていた。血の臭いが充満し、吹きすぎる風も、それを運び去ることはできないようだった。
彼は、足を滑らせた。肩に痛みを感じた。背後を振り返った。槍が刺さっていた。次の瞬間、彼は、胸を貫いた槍のために倒れた。
「弓兵部隊は退け。弓兵部隊は撤退。騎馬隊の後ろに退け。ここは、騎馬隊にまかせろ。」伝令の声が死に行く彼の耳に届いた。
「遅いぞ。」彼は、口中に溢れる血のために、判然としない声で今生の最後の一語を口にした。脳裏には解船城に残してきた妻の姿が張りついていた。
エンゼンは笞をふるい、馬を駆った。「急げ。弓兵部隊を救うのだ。」彼は叫んだ。彼が率いる騎馬隊も、先を争って疾駆した。
エンゼンは、こちらに駆けてきた敵の騎馬兵と、すれ違いざま、刃を交えた。腕には、鈍い衝撃が残った。辺りには、馬のいななきと血煙と叫び声が満ちた。彼の頬を槍の穂先が抉った。その兵は次の瞬間に、彼の騎馬隊の一人に切り倒された。
「将軍。大丈夫ですか。」すかさず周囲を近衛隊が囲んだ。騎馬隊から選ばれた精鋭ぞろいだ。先の大会で優勝し抜擢された男の顔も、その中にあった。
「押し返すぞ。続け。」エンゼンは頬にひりつく痛みを感じながら叫んで、馬を走らせた。彼を中心に、近衛隊は敵の馬群の中に突撃をかけた。地面に倒れている自軍の弓兵の姿が、嫌が応でも彼の視界に入っていた。
「押し返すぞ。」彼は、心に沸き起こる憤懣を声に代えた。周囲では、槍と剣が交錯した。彼は敵と切り結び、味方を叱咤した。
ゴサクの属するウグイ隊は、カワセミ隊の右翼を守る形で、横に細長く隊形を組んでいた。
ゴサク達は遠くに戦の声を聞いていた。それは、低く、まるで、生きている者の発するものではないかのようだった。先程から、小隊長の叱咤の声もそれに混じるようになっていた。敵が徐々に迫ってきていた。味方の方も騒々しくなり、緊張した気配が周囲に漂っていた。敵は騎馬と歩兵の混成部隊であり、進軍速度は、歩兵に合わせているらしく、それほど速くない。
ゴサクと狸と傭兵クヌギは目を見交わした。どうやら、敵は、自分たちを放っておく気はないようだ。とにかく自分の命だけは自分で守らなければな。こんな所で死ぬ気はゴサクにはなかった。
ゴサクは、姿勢を低くして待った。地響きが伝わってきた。心臓の音が高鳴る。静かに息をした。視界の中で、騎馬兵の姿が徐々に大きくなった。まるで、何かの呪いのように、ゴサクは、それから、注意をそらすことはできなかった。彼は呪詛を唱えた。
騎馬兵が横を通り抜けざま、ゴサクの頭上に剣を振り下ろしてきた。彼は、それを剣で受け流した。その直後に、狸が馬の足を切った。馬は、どうっと倒れ、兵が転び落ちた。クヌギが兵に止めをさした。
「よし。その調子だ。敵は手ごわいぞ。うまくやらねえと生きて帰れそうもねえ。」と狸が叫んだ。
三人の連携は、戦のあることが決まってから、随分と稽古したことだった。こうした戦は自分一人で戦っていては、命が幾つあっても足りない。混戦の中で、どこから剣が振り下ろされ、槍が突き出されるか分かったものではない。将軍でもあれば、近衛の者たちが、守ってもくれようが、一介の兵に過ぎない自分たちには、そのような配慮が、黙っていてもなされるなどということはない。信頼できる仲間とうまく協力して、自分の背中も守らなくてはならない。遠征が決まってから、小隊の中で、幾つかの連携集団ができていたが、新入りのゴサクと年老いた狸は、それらから、自然にあぶれた。二人では、心細かったので、他の小隊であぶれていたクヌギを仲間に加えた。クヌギは、妙に無口な奴で、一緒に稽古をするようになってからも、狸の法螺話をおとなしく聞いていた。しかし、腕は立った。それをゴサクと狸は喜んだ。これで、少しでも生き残る可能性が上がったわけだ。
ゴサクは周囲を見回した。敵兵の姿の方が多いくらいだった。
歩兵の突き出した剣を剣先でいなすと、腰を落として、相手の胴をないだ。血しぶきが舞った。続けて、狸の背後から切りかかろうとしている男の背中に切りつけた。それを目の端で捕らえた狸は、前方の騎馬兵に飛びかかった。騎馬兵は槍をかえそうとしたが、その前に、狸が男の喉を掻き切った。
「おい。下がるぞ。このままでは、敵軍の中に飲み込まれてしまう。」狸が声をかけた。そうなれば、幾ら剣の腕が立とうが、連携を良くしようが、命を失うのは時間の問題だ。
「その方がよさそうだ。」ゴサクが応じた。
クヌギは、ここでも無口で、目で答えた。三人は、互いの姿を確認しながら後退を始めた。周囲でも、味方の多くは、後退を始めていた。
「右翼は破られるな。」
その様子を小高い丘から見ていたクニミは、隣に控えるロエに話しかけた。隣に控えるといっても、二人の間には、明らかに緊張関係があった。エンゼンに見だされたクニミにとっても、また、城主に魔道を一から教わったロエにしても、自分が仕える者こそが最高の主人との思いが強かった。彼らにしてみれば、エンゼンと城主の間に友情のようなもののある事が、最も納得のゆかぬことであった。いっそのこと争ってくれれば、自らの主人のために命さえ投げ出すものを。
貧民街で育ち、奴隷のように商人に買われ、城主に救われたロエ。彼の生まれた地では、生きていくことそのものが困難なことであった。人生の始まり、あるいは、序章、あるいは半ばで、多くの非業の死を見てきた。まともな扱いは受けてこなかったし、相手の目に、自分がまるで家畜か何かのようにしか映っていないこともしばしばだった。
自分は幸運なのだとロエは、常々思っていた。そして、全ては城主様のお陰であると。魔道を習得する際に通過することになる危うい精神過程は、魔道の師弟の間を強い絆で結ぶことになる。弟子は、師の適切な指導により、魔の力に屈することなく魔を支配する力を手に入れることができる。
「はい。」ロエは少し間を置いてから答えた。
「あすこに魔物を出せるか。時間が稼げればいい。その間に、ウグイ隊をカワセミ隊に吸収しつつ、側面を固める。」
クニミは今の状況がもたらした精神的な圧迫感を意識しつつ、何とか、自軍に有利な展開に持ち込もうとしていた。それが、借金で首がまわらなくなっていた父の元から自分を引き取り、自分に目をかけ、そして、この大戦で参謀という大役を任せてくれたエンゼンに対する恩返しと思っていた。こうした時のために、解船城に代々伝わるリエンの著した兵法書に目を通したりしたのだ。
「はい。仰せの通りに。」ロエは、そう言うと、これまた隣に控える黒衣の男に何事かを告げた。黒衣の男はうなずき、そのまま立ち去った。
ゴサクは辺りの空気の質が変わったのに気づいた。何かが地面から噴出し、雰囲気から圧迫されるような感覚を受けた。魔道を使うのか。キチベエと共に行動することが多い彼は、敏感に、その変化を悟った。