ス・ピ・ー・ド・マ・ス・タ・ー・  ピエロの章  

喋犬

 彼は、死を待ち続けていた。彼は、人間には二種類ある と思っている。死を待ち続ける人間と死を恐れ続ける人間と。彼は自分を前者だと確信していた。しかし、一体、どちらが幸福なのだろうか。自分が死ぬと分かっていること が、人間にとって、絶望の宣告なのか、それとも福音なのか。
 彼は、己が死を待ちつづけていることを確信し、そして、 次の瞬間、死が即物性にまみれていることを思い出し、そして、大げさに、あらゆる崇高なものは即物性にまみれて いると嘆いてみせる。

 彼は、アンチハッカーにピエロとあだ名されていた。
 俺は、もう若くない。こんな世界にいつまでもいるもの ではないと思う。
 しかし、今回の請負仕事の期限は迫っていた。
 彼は、ここ、二三日、そろそろ仕事にかからなければ、 と思い続けていた。
 俺が、この仕事をしなければ、現実世界で、俺は雇い主 によって痛い目に会わされるだろう。
 下らない奴らだ。雇い主への嫌悪が募る。それに続いて、 奴らの金で生きつづけている自分への自己嫌悪が続く。俺は、彼岸では有能だが、こちらの世界では無能ときている。 もっとも、その有能さは、この社会を支える現実的なもの、 即ち、生きるための金を彼に与え続けていた。彼は、その現実を忌み嫌っていたが、それを無視できるほどには愚かに、あるいは、純粋にはなりえなかった。
 もっとも、そうした純粋な者が現実社会に存在している と彼は、夢想したこともなかったが。
 雇い主は、彼に、莫大な金をもたらすが、反面、仕事を 履行しなければ、そのつけは大きくなる。飴も大きい代わ りに、笞も大きいというわけだ。
 彼は、つのる憤懣を抱えたまま、ポッドに入った。普通の人間は、心を平静にしてから、ポッドに入る必要がある。   そうしないと、ポッドの中でリラックスできず、彼方の世 界にいけないからだ。
 しかし、彼は違った。彼は、生まれながらのハッカーだった。たいした苦労もなく、彼方へトリップする。どんな 内面の状態であれだ。というより、彼は、仕事の間、平静 だったことはない。彼は、常に、内面の怒り、苦悩に付き まとわれ、それは、彼方の世界にいっても変わりようがない。しかし、彼の生まれ持った天分は、その彼の怒りや苦 悩を、障害物とはしなかった。
 彼は、雇い主をののしりつつ、そして、自分をも罵りつつ、仕事を始めた。
 彼は、どんな仕事でも、一人でこなす。もちろん入ったころには、この世界のイロハを教えてくれた師匠にあたる 人間はいた。
 しかし、何時のころからか、一人でやるようになった。 彼の仕事ぶりは、パートナーに気を使うといったものでは なかった。彼は、己の憤懣や苦悩を叩きつけるようなやり 方で思考を展開し、アンチハッカー供をけむに巻いた。その彼の仕事ぶりについてこれるパートナーはいなかった。 最も、世に名高いスピードマスターならば可能であったろう。しかし、スピードマスターに、そうした我慢を強いる雇い主は存在しない。
 そのころから、彼は、仕事中、雇い主を罵り続けていた。 無論、雇い主は、その罵詈雑言を無視した。彼の罵詈雑言は、雇い主にしてみれば、自然現象みたいなものだったの だ。それを、我慢すれば、やり手のハッカーを雇える。こ れは、この世界では、悪い取引ではない。
 彼は、憤懣を思考に上乗せして、アンチハッカー供に叩 きつけた。もっとも、彼は、死神ほど残酷ではないから− といっても、この世界で最も残酷であるのが死神であった のだが−アンチハッカーは、再起不能のダメージを受ける 訳ではない。
 ピエロとあだ名されるごとく、彼は、アンチハッカー達 を幻惑し、易々とシステムの中枢に進入し、機密を奪い去 る。奪い去られた機密がどのように使われるかというのは、 彼ら、ハッカー達には関わりのない話である。情報化社会 の名とは裏腹に、金のなる情報は、相変わらず、一部の人 間たちに独占され続けていた。

 血。
 血の雫。
 雫は落ち、雫は広がる。
 波紋となり、広がる。
 血は歴史を換気する。
 ゆっくりと、ゆっくりと考えること。
 それが、この難局を乗り切る唯一の手だ。
 スピードマスターはイメージに飲み込まれそうになるのをこらえて、そう、口に出して言った。
 時代は変わりつつある。彼は、ずいぶん前から、噂には 幾度となく聞いたていたアンチハッカー用の思考機械が完 成したとの報をある有力筋から聞いていた。その有力筋に よると、彼らは、まずピエロをぶつけるという。
 ピエロといえば、この世界では十指に入る。それだけ、 有力筋は思考機械の完成を重要視しているのだろう。
 彼は、その噂を聞いて以来、ピエロがネットに出てくる のを待っていた。彼岸は狭いものだ。ピエロほどの大物が 動きだせば、それは、この世界で知らぬ者のいない事態と なる。そのピエロが数分前に動きだしたとの情報が、仲間から、彼の元に入った。
 スピードマスターはピエロを追って彼岸に入った。

 ろくでもない世界。
 ろくでもない世界。
 このろくでもない世界。
 ピエロの思念が彼岸の隅々までに染み渡った。

 ピエロ。

 ピエロ様のおでましだ。

 彼岸の全てのアンチハッカーは、警戒体制に入った。彼 岸はトラップ群で満ちた。
ピエロはその目的地へ直進し、トラップ群をくぐり抜け る。
 その次の瞬間、彼岸は驚愕に包まれた。

 スピードマスター。

 その敬称者の出現は、この世界の住人に歓喜と興奮をも たらした。

 しかも、スピードマスターがピエロの後を追っている。

 これは、この世界に何かが起きつつあることを告げていた。ピエロとスピードマスター。この二人が手を組むこと はありえない。ピエロはこの世界に対する呪詛により、こ の世界と結びついているために、彼のパートナーは、その 呪詛に耐えなければならない。そして、アンチハッカー供 をその巣穴へと退散させる彼の呪詛に耐ええるパートナー は存在しない。そして、スピードマスターの思考速度につ いていける者も、また、存在しない。
 呪詛と最速。この二人の単独者の奇妙なランデブー。
 数年来ないこと。いや、これだけのビックニュースは十 数年振りかもしれない。

 なぜ。なぜ。なぜ。

 彼岸は、あらゆる者が発する巨大な懐疑にむしばまれだ した。各人の懐疑の念が同調し、彼岸の世界は変調を始め た。

 ピエロは世界の変調に気づいた。その前にスピードマスターが自分の後を追っていることにも。

 ふっ。スピードマスター。この世界の象徴が、なぜ、俺 の後を。何にしろ、あんたのご高名を利用させてもらうことにする。ピエロは、スピードマスターのイメージを変形 し、歪曲した幻影を放出した。
 これで、アンチどもは、複数のスピードマスターに悩ま されることになる。どれが、本物か、偽物か。あいつらが スピードマスターにかかづらわっている間に、俺は獲物を 頂戴して寝床にかえるとしよう。
 このろくでもない世界に別れを告げてね。

 世界は、スピードマスターで満ちた。
 そして、世界の変調も続いた。

 ピエロは目標地点に到達した。ソフト開発会社のデータ ベースだ。周囲には、ピエロのアンチトラップに惑乱されたアンチハッカーたちの思念が漂っていた。
 ピエロは立ち止まった。その前に扉に形象化されたプロ テクトプログラムが存在した。思念をコントロールし、キーを形象化する。それを、扉のカギ穴に差し込み、思念によりカギの形状を変更していく。パスワード探しである。 人間の思考にはパターンが存在する。そのパターンを類推 しキーへと形象化する。これは、ピエロの得意技の一つで あったし、彼は、この瞬間に至福を感じた。

 キーが合った。

 扉がゆっくりと開く。
 ピエロは、その背後に、何かの存在を感じた。彼の長い経験が、彼に危険の兆候を告げた。ピエロは入らなかった。
 彼は待った。
 それが動きだすまで。
 どうする。手ぶらで帰るか。
 彼は、危機が最高に達した時、最も、冷静に考えること ができた。普段、呪詛に満ちた精神の過剰な活動は、危機 が最高に達した時、思考はその全ての力を発揮できる対象物を見だすことができた。その時、始めて、彼の精神は、 安らぎを感じることができた。
 これは何だろう。
 彼は、記憶を逆上った。今まで、会ったことのあるどのタイプのハッカーとも異なった。
 危険。
 彼はそれを悟った。彼の呪詛から解き放たれた思考が導 き出した結論は、獲物を諦め、逃げることだった。 そして、彼は逃げるための最適な手法を導き出した。彼 は、スピードマスターの幻影を呼び出した。アンチハッカ ーに対する最高の餌をばら蒔き、それに紛れて逃げる気だった。
 彼は反転した。
 彼の周囲に極彩色の球が浮かんだ。トラップ。
 幻影が通じない敵。スピードマスターに興味がない敵。 彼岸の世界の住人ではないのか。
 彼は球に対して立方体のアンチトラップを対応させた。
  立方体をよりいびつな形へと変形させる。相手も球形の トラップを変形させる。ジャンケンのようなもので、ある 形はある形に勝つが、他の形には負ける。そのルールは固定ではなく、変化していくのだが、勝ち負けのルールは常に存在する。ピエロは変形のパターンを増大させ、変形の周期をコントロールし、相手の精神のコントロールを図る。 しかし、相手は、こちらのコントロールに入る気配はない。
  こんな奴は始めてだ。相手の精神が何によって構成され ているか、全く読めなかった。その精神形成にて重要な役割を果たした形象を相手が繰り出してくる形象から推測することは不可能だった。何のバックグラウカンドもなく、 何の過去もなく、そんな人間が存在するものか。人間ではない。思考機械。しかも人間型ではない思考機械。聞いたことはある。アンチハッカー用の思考機械が研究されていると。くそったれ。とんだ噛ませ犬だ。雇い主の奴。知っていて俺をここに送り込んだのだな。呪われるがいい。
 形勢はピエロに不利に展開していった。変形ゲームに敗れた彼のトラップ群は相手のトラップ群に同化されていった。
 死ぬのか。死ぬのか。この俺が。この呪われた土地で。 ピエロという名で葬るがよい。
 ピエロの手から爪が延びていった。その伸びた爪先から 血が五本指にそって滴り落ちた。血は束の間の命を授かり 不思議な曲線を描き落下した。ここは忌まわしき電脳空間。 ここでは、あらゆる形が何かの隠喩であり、時にそれは、 死の予言とさえなる。
 思い出せ。自らの形を。
 己の歴史を、己の生い立ちを、己の意味を形へと。
 この忌まわしき空間で。
 あらゆる忌まわしさを死へと。
 俺が死を祈るとしても、死を請い願っているとしても、それは、運命という大いなるものに対してであり、実用的な思考機械に対してではない。
 爪も、また、不思議な曲線を描いて伸びてゆき、扉の中に分け入った。その爪の曲線にそって、風が舞い、薄いガスの流れが見えた。ガスがピエロを包んだ。
 ピエロはぶるっと震えた。それが、恐れによるものなの か、不安な予感によるものなのか、何かの兆候に対しての識域下の反射的な身体反応なのか、ピエロ自身にも分から なかった。それは、彼にとって馴染みのない感触だったの だ。
 暗闇。ピエロの視界は闇に閉ざされた。
 痛み。苦痛。圧倒的な情報の密度。思考のスピードを己でコントロールできなくなる。
 幻覚。快楽。誘い。意識は沈黙する。
 生きろ。生きろ。意識の底で何かが叫ぶ。快楽にあがらえ。逆らうこと。留まること。形へ。ピエロはこの意識の 底の叫びを形へ、ダイレクトに形へと変換した。
 時間の歩みが遅い。相手の思考のパターンが読めた。先手を打つ。
 相手は沈黙した。
 ピエロは、その場にうずくまった。もはや、移動する力 も、彼岸から戻る力も残っていなかった。
 側に人の気配を感じた。
 スピードマスター。ピエロは声に出した。

 ピエロ、思考機械を破る。スピードマスター、ピエロを連れ去る。このニュースは、翌朝と言わず、翌秒には、この彼岸の世界に広まった。そして、この事が意味することをこの世界に生きている誰しもが考えていた。例え、それ が、この世界から足を洗う、洗わないといったもの、機械 と人間の対立という19世紀以来のタームで、俺は思考 機械に勝てるのか、思考機械に職を取られることはないのかまで、そうした思考は、パンを口に含んだ瞬間に一瞬、 喚起されるものであったり、散歩の途路に心を支配するも のであったり、大切な人の言葉への意識を遮断し心を不安な深部へと向かわせるものであったり、様々であった。
 スピードマスターとピエロが共闘か。これは、彼岸の勢力図を変えうるにたる事態であった。闇に蠢く政治という 名の怪物が暗躍し、投資の対象が変化し、この事態の意味 するものをより正しく判断するためには、何が必要なのか。 そう自問する者は、多かった。

タイプCの破壊について
 相手ハッカー:ピエロ
 Aランク
 上記ハッカーにより破壊されるも、相手を追い詰めたことは事実であり、研究開発は続行する。今回の戦闘データにより、より強力な思考機械に改善することは可能である。
 ただし、Aランクの敵は、相手の能力値の高さもさることながら、その応用力が必要になってくる。
 人間で言えば経験に相当するものが必要になってくる。 従来、思考機械に常時アクセス可能なメモリーを搭載する ことは、自意識の発生を生む懸念から敬遠されてきたが、 タイプCの10台に、試験的に搭載する予定。

 スピードマスターについて。
 今回のピエロ事件にスピードマスターがからんだことが 確認されている。両者の間に協力体制ができあがっている のかは不明だが、我々の目的の邪魔をする可能性は高い。
  スピードマスターの活動については、要注意で監視を継続する。

   極秘−
タイプCの情報流出について
 今回のピエロ事件については、偶発的なものではなく、 タイプCの存在場所が何らかのルートで流出、それに対して何者かがピエロを送り込んだものと思われる。至急、そ のルートを明らかにするとともに、リークした者は、その まま、泳がし、ピエロを送り込んだ者を明らかにすること。
 
 ピエロはポッドの中で意識を取り戻した。体の節々が痛み、頭は薄暗闇の中にいるように、はっきりしなかった。  ポットの窓を通して、天井を見た。それから、追憶を辿 った。
 スピードマスター−彼に導かれ、彼岸から戻った。忌まわしき電脳空間の英雄。借りを作ってしまった。
 思考機械−妙な物が現れやがった。この彼岸はどうなっていくんだ。
 雇い主−俺をはめやがって。彼は、怒りにつつまれた。 しかし、彼は、怒りに支配されることはなかった。彼は、 怒りや呪詛につつまれることはあっても、それに支配されることはない。それは、彼の天性であったし、ハッカーと しての重要な資質であった。忘我は死を招く。生存のため の最適な判断。
 彼は、端末画面にアクセスした。自分の隠し口座を調べ た。金は振り込まれていた。今回の依頼の目的であったデータベースを引き出したわけではない。それでも、金が振り込まれた。やはり、そういうことか。
 ピエロは、笑みを漏らした。やはり、どうしようもない世の中だ。
 ただ、ピエロは考えていた。即ち、彼は、彼自身に起こったことの意味を考えていた。なぜ、私が思考機械と戦い、 スピードマスターに助けられたのか。即ち、思考機械と戦 い、スピードマスターに助けられたのが、なぜ、私だった のか。なぜ、私にこのことが起こったのか。
 なぜ、スピードマスターは私を助けたのか。彼の呪詛と憤怒で構成された精神では、その謎を解くことはできなか った。彼の精神に、スピードマスターへの思いは、ある新 たな道を開いた。それは、呪詛と憤怒に比べての話であるが愛と呼べるものだった。そして、新しいが、過去へとつ ながる道だった。その愛に彼は戸惑っていた。しかし、そ れは、彼の古き日の愛の相手である親しき者たちの面差しに移り行き、彼は、久しく感じたことのない追憶のもたらす幸福感と感傷に浸っていた。

 不安−この世界そのものに起因する不安−それは、己が あることそのものに起因する不安でもある。この生が続く 限り、この不安は続くのだろう。
 くすぶり続ける神経−俺が生きていることを訴え続ける 神経−この神経を引きちぎりたいという渇望。

 俺の意識が世界を支えているという不幸な幻想、それは、 まるで目に見えぬ重荷のごとく俺を静かに圧迫する。

 ピエロの不幸。存在する不幸。

          −完−
 
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