タイポグラヒィー
喋犬
小説の書き方にタイポグラヒィーという書き方がある。例えば、筒井康隆の本「虚航船団」でホッチキスは、コ
コ
コ
コと針を吐き出す。小説中では、この針の数と時間の経過が共にあるわけだが、例えば、コ
コ
ココココ
コ コ
ココココ
コ
コとなった場合、この宙返りが何を意味するのか。針の動きを空間とした場合、ただの宙返りだが、時間とした場合、私達は、相対性理論を越えて、時間を逆に戻ったことになるのであろうか。
書かれたものにおいては、虚構と現実の区別は、本質的に不可能であり、そもそも、人間は、その感覚器官〔脳も含む。目だけでは、認識できない。〕を媒介することによってしか、現実を把握しえないとしたら、その把握したものでさえ、感覚器官を媒介している以上、現実とは呼べないのではないか。つまり、我々が認識するのは、変質した現実ではないかということである。
そして、この現実に対する不可知論を越えるには、媒介という過程を短絡した神秘主義に至るしかなく、だから、すべての文字による思想は神秘主義に至る可能性を持つ。
であるから、ホッチキスが吐き出すコ
コ
コ
コという快楽に身を任せることによって、新たなる認識に到達できるのではないかという考え自体が虚構なわけ、つまり、神秘主義なわけだけど、ただ、手元にあるホッチキスから、カチン、カチンと音を出せば、やはり、そこには、何らかの快楽があるわけで、例えば、それを、そのカチン、カチンという人間にとっての快楽を伴う表象をコ
コ
コ
コと変換したときに、この両者、表象と書かれたものの間にあるのは、ホッチキスというよりは、人間と言語なのであり、あるいはカチン、カチンという表象に伴う快楽とコ
コ
コという書かれたものに伴う快楽の差なのであり、この差は、快楽主義者にとっては、つまり、多くの人間にとっては、重要であるわけだけど、ホッチキスについては、なにも物語ってはいない。
だから、ホッチキスのコ
コ
コ等、いくら、考察してみても、その現実を把握することは不可能であるという事実を元に、やっぱり快楽に身を任せようという知性は、すこぶる人間的である。
ただ、ホッチキスを作ったり売ったりしている人間は、こうしたことは、あまり考えないだろうという考察の元、ホッチキスのコ
コ
コを虚構と認識することは、虚構まみれの実生活に対する皮肉にはなるのだろう。しかし、人間というのは、わからんから、ホッチキスとお話している人もいるんだろうなー。
認識したものが変質した現実であり、書かれたものがすべて虚構であるとするならば、果して、ホッチキスのコ
コ
コとは本当に虚構なのか。
勿論、ここで、現実と規定したものが、あらゆる意味で人間に認識できないものとした抽象的なものであることは述べておかなくてはならない。つまり、そのような絶対的な基準となる現実は実際には存在しておらず、そのような現実を設定できるのが、言葉の上、即ち、虚構の中であることも、ここで、述べておかねばならない。