花の名を冠した王女

      序章  風使いとの出会い                

喋犬

 その出会いは、女の記憶の襞の奥深くまで逆上らなければ見いだすことはできない。この話は、その記憶の襞を巡る物語である。女の名はアリアスという。アリアスの名は、夏の盛りに旺盛に咲き乱れては、すぐに散る花の名から取られた。女の子に花の名を付けるといったことは、当時、庶民の間で流行っていたことだが、一国の王女に相応しいものではないと王の側近たちは反対したものだった。しかし、アリアスの母は、その命名に固執し、王も、まあ、よいではないか、時を見て改名すればよいのだと側近たちを説得した。

その後の時代、人々の口から口へと伝わることになる花の名を冠した王女とはアリアスのことに他ならなかった。

 

 風使いのヤジロウは、円形をなす劇場の外壁から突き出たバルコニーから王城を眺めた。劇場と王城の間の通りには、かがり火が見え、その明かりの外延に警備の兵士の姿が見えた。

 風の様子をうかがう。晴れた夜だった。風は、頬をなでる程度の強さだ。そして、静かに呪句を唱えた。風が一層強くなった。彼はバルコニーから飛び下りた。円形の凧のようなものを背負った彼の体は、彼の周囲でだけ強く吹く風に押され、王城へ向かってゆっくりと飛んでいった。

 やがて、彼は、城壁にたどり着いた。凧を畳んだ。凧は、ボタンを押すと畳める仕掛けになっていた。周囲をうかがった。辺りに衛兵はいない。宵闇の中で、彼は城内への入口を探した。

 彼がこの城に来たのは、ある魔物を追ってのことだった。その魔物はある力を持っているとの話だった。彼は、その魔物を虜にできる指輪を持っていた。その指輪の石は、魔物に近づくと、青白い光を出した。そして、今、彼が手袋を外すと、その指輪は、夜目にも鮮やかに青色に輝いていた。彼は、その光の度合いを確認すると、再度、手袋でその光を隠した。

 好都合なことに、城内への扉は、鍵がかかっていなかった。ここから、外へ出入りできないからだろう。彼は、足音を忍ばせて、薄暗い階段を下りていった。彼は、階段を下りて、廊下に出た。ここにも衛兵がいない。どうしたことだ。これでも、王城なのだろうか。警備が手薄すぎる。

 魔物はどこだろうか。彼は辺りをうかがった。彼は手袋を外した。その光の強弱に注意しながら、彼は魔物を追い求め、城を徘徊した。その間、誰とも会わなかった。

 彼の頭の中に、ある疑惑が浮かび上がった。どうも、この城は普通の造りではないようだ。盗賊を生業とする彼は、建物の内部構造については、恐ろしく勘が働く。この城は、見たままの造りではない。どうも、隠し部屋や隠し通路、その他、様々な仕掛けがあるようだ。おそらく、そうした知識を有した者がこの城の建築に携わったに違いない。

 光はさらに強くなった。彼は、ある部屋の前に立ち止まった。どうも、この部屋の中が怪しい。彼は、扉に耳を近づけ、中の様子をうかがおうとした。しかし、扉が厚いのか、中から物音は聞こえなかった。

 彼は、再度、廊下をうかがった。人が来る気配はない。小太刀を鞘から抜いて右腕に持ち、左手で扉の把手を回した。把手は、かすかな抵抗を左手にもたらしたが、静かに回った。鍵はかかっていない。彼は、その姿勢のまま、少し待った。そして、扉をゆっくりと押した。扉が開いた。その再、ギイーという音が冷たい廊下に反響した。彼は、しまったと思いつつ、その場に留まった。

「だーれ。そこにいるのは。」部屋の中から声が聞こえた。それも、その声音から察すると幼い子のものらしい。男の子か女の子かは分からなかったが。

「中にいるのは誰だい。」ヤジロウは、半開きの扉の影に体を隠しながら、尋ねた。

「アリアスよ。それに、ここは、アリアスの部屋よ。」中から返事がきた。

「アリアスは一人で、そこにいるのかい。」ヤジロウは真紅の鮮やかな花の姿を脳裏に浮かべつつ、尋ねた。

「そうよ。」

「中に入っていいかな。」

「あなたの名前は。名前を言わないと、この部屋には入ってはいけないのよ。」

「他の人に言わないと約束するかい。」

 しばらく、沈黙があった。それから、「いいわ。約束するわ。」との返事があった。

「ヤジロウというんだ。」彼は、何故、本名を口にしたんだろうと内心、疑問に思った。

 

「ヤジロウさんね。入っていいわよ。」

 ヤジロウは、小太刀を持ったまま、扉を静かに開けた。そして、静かに室内に視線をめぐらした。彼が認めたのは、声の主であるらしい幼い女の子だけだった。魔物もいない。

 ヤジロウは、その子の顔を見た。その子と目があった。じっとこちらを見ていた。先に視線を逸らしたのは、ヤジロウの方だった。小太刀を腰に吊るしてある鞘に収めた。

「こんな広いところに一人でいて、寂しくないのか。」

「寂しくなんかないわ。」その子は、そう答えたが、顔には悲しみをこらえるような感情が浮かんだ。そして、顔をくしゃくしゃにした。どうやら、涙をこらえているらしい。

 ヤジロウは、その子に近づくと、子供の肩にそっと手を置いた。肩は静かに震えていた。その子は、顔を上げて、ヤジロウの顔を見た。

「アリアス。君に友達を紹介しよう。でも、彼は人間ではなく魔物なんだが、最近、この城に引っ越して来たんだ。いいかい、アリアス。この指輪を君にあげる。君が、この指輪を持っていれは、彼は、君を守ってくれ、君の友達にもなってくれる。」

 ヤジロウは、そういうと、左手の中指から青く光る指輪を抜き取ると、その子の小さな手に渡した。その子は、それをヤジロウの指もろとも強く握った。ヤジロウは、指輪を残して、静かに自分の指をその子の手から抜いた。

「おじさんは、いらないの」アリアスは、もう泣き止んでいた。

「おじさんは、大人だからね。」ヤジロウは、父親と二人暮らしの、寂しいという感情とは無縁とはいいがたい自分の幼い頃を思いだした。彼は、窓際に歩いた。外が見えた。向こうにルクソール亭の明かりが見えた。ここから、飛べるか。

「アリアス。元気でな。」

 そう言うと、彼は、窓を開け、静かに呪句を唱えた。室内に風が湧き起こり、カーテンがはためいた。彼は、背負った凧を広げた。

「行っちゃうの。」アリアスの声がした。

 彼は、頭上で手を振って、それに答えた。

 アリアスは、ヤジロウの姿が、宵闇に紛れて見えなくなるまで、窓に身を乗り出して、目で追った。

 その翌日、風使いは商隊に紛れて、ルクソールを後にした。


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