ざらめ雪
喋犬
山越しの窓に見える風景は、雪に埋め尽くされていた。
木々も、遠くに見える山も、私が、夏に見た色を見せはしない。屋内と外との気温差のために窓はすぐ曇る。私は窓を拭っては、外を眺めていた。屋内には火鉢が置いてあり、ほの暗い赤色の炭が、炎とは異なる熱気で屋内を満たしている。
屋内には、私の他にもう一人、火鉢に凍えた手をかざしている、近在の村の人間がいた。彼は、私が道案内を頼んだ男である。どうみても私より頑健で、登山の際、息上がる私とは対称的に、慣れた足取りで先導した。無口な男で、祖父は猟師だったそうだ。男は、それを誇らしげに語った。
山に住む者の直系だという自負が感じられて、私は少し嫉妬を感じた。山好きでは、私も、負けない自信はあったが。
私は、最初、この山に一人で登るつもりだった。しかし、家族や職場の者に反対されて、近在の者に道案内を頼むことにした。私は、宿泊予定の宿にその旨を頼んでおいた。
そして選ばれたのが、この男だというわけである。
私の単独登山の目標地点は、山頂ではなく、山の中腹にある山小屋だったから、それ程、無謀なことをしようとしていたわけではないと今でも思っている。最も、そう言えるのは雪山という条件を除けばということは、私にも良く分かっていた。ただ、私は、心の内にどうしても一人で登りたいという欲求を感じたのだった。特に、今回の登山においては。
私は、度々、この山小屋を訪れていた。始めて、この山に登ったのは、十五年ほど前になるだろうか。それ以来、私は、妙に引き付けられるものを感じ、ここに来る。ここは、特別に景色が綺麗なわけでもない。私自身にも、何故、引き付けられるのかと聞かれて、答えることは出来ない。
随分と色々な山に登ったが、ここが私の終着地点なのかもしれないと、いつしか思えるようになった。
男は、既に、軽い寝息を立てている。その夜、私は、体は疲れているにもかかわらず、神経が高ぶって、なかなか寝つけなかった。私は、側に置いていたリュックから、ウイスキーの小瓶を取り出し、そのまま口に運んだ。熱い液体が喉を通りすぎる。ほの暗い屋内で、枕元の腕時計の針は、12時近くを指していた。
ちょうど酔いが回ってきて、意識が朦朧としてくる頃、木を叩く奇妙なリズムと獣の鳴き声が、聞こえてきた。それは犬の遠吠えを思わせた。私は、足元がふらつくのを感じつつ立ち上がり、窓から外を覗いてみた。外は、闇の中に沈んでいる。今宵は、月さえ出ていない。
私は、山小屋の外に出てみることにした。帽子をかぶり、寒服を身に付けた。酔っているとはいえ、その位の分別は残っていた。登山靴を履き、火鉢が微かに照らす扉に手を掛けた。私は男の方を振り向いた。男は寝ていた。私は扉を静かに開ける。外へ出ると、寒さが身にしみて、酔いが醒めた。闇に目が慣れても、視界は殆ど効かない。都会に住んでいると、全くの闇というものを想像するのが困難になる。それは、安心と恐怖を伴うものだ。私は、懐中電灯を付けた。その眩いライトで雪景色が眼前に浮かぶ。私は、一呼吸置いてから歩き出した。一歩一歩、足を取られながらも、音のする方へ進む。それは、小高い丘の向こうから聞こえてくるようだった。私はその丘を登り始めた。
私は何をしているのだろうという思いとその音の正体を知りたいという思いが、交互に私を捉えた。私は、重たい足を雪中から引き上げては、一歩ずつ進んだ。今さら引き返すことは、とても馬鹿らしく思えた。
家族や友人や職場のことが、切れ切れに頭に浮かぶ。彼らに対して、愛情が全く無いと言えば嘘になるが、どこか、馴染めぬものを感じ続けていた。では、この先に、私の馴染めるものがあるというのか。
私の目には、懐中電灯が、照らす範囲だけが見えていた。
その外側を、雪の乱反射が朧に照らしていた。こんな所で立ち往生したら、間違いなく凍死である。しかし、私は、私が死ぬとは思えなかった。私は、この雪山の表面的な寒さとは裏腹の、暖かさを感じていた。そして、この雪山の何処かから、楽しげな音楽が聞こえてくる。そして、今、私は、そこに向かっていた。私は、この雪に包まれた世界に在るということに、ある歓喜を感じ始めていた。
私は、ついに丘の頂にたどり着いた。そこから向こうを見下ろすと、遠くに炎が見える。その周囲を何かが動いている。あの奇妙なリズムと獣の鳴き声は、まさしく、そこから聞こえていた。私は、滑り落ちるようにして、丘を下った。何度か転び、顔に付いた雪を払い落としながら足を進める。
炎に近づいてゆくにつれ、炎の回りを囲んでいるのは、私の知らない者達であることが分かった。彼らは、獣の顔をし、体も毛でおおわれていた。しかし、その仕種は人間のものに近く、何人かは二本足で立っていた。彼らは、伝説の中にのみ生きていると考えられていた者達であった。
私達は、彼らを語り伝えられてきた昔話の中でしか、見出すことは出来ない。
私は、しばらく立ち止まって見ていた。その獣の顔は、既に絶滅した日本狼を連想させた。彼らは、話をし−勿論、私に聞こえてくるのは獣の声だったが−肉を食っていた。
そのむきだされる歯は、彼らの仕種から来る親近感を打ち消すのに十分な役割を果たした。
唐突に、私の心中に、彼らの元に行けば、食われてしまうかもしれないという思いが湧いた。それは恐怖をもたらしたが、同時にある至福も含んでいた。彼らに食われてしまうことが、何故、至福となるのか。それを、説明するのは困難なことであるが、私の中では、明確なことであった。
私は、再び歩みだした。今度は、以前より、ゆっくりとした歩調で、彼らに近づいて行った。彼らの声が大きくなった。炎の揺らめきは、彼らの幻想的な佇まいを際立たせていた灰色の毛で覆われた体。時にそばだてられる耳。炎によって赤く反射する双眸。そして、時にむきだされる歯。
彼らの何人かは、私の到来を気付いているようで、こちらを見ている。私が、十メートル程の距離まで来たとき、その内の一人が立ち上がり、近づいてきた。
彼は、私の側まで来て、私のにおいをかいだ。その長く繊細な髭が私の顔に触れる。その時、私は、ある懐かしさを感じた。
私は、食われるのだろうか。私は、まだ、その至福の考えに取りつかれていた。彼は、私に、彼らの輪の中に入るようにうながした。私は、少し緊張していたように思う。
彼らの所まで行き、炎の熱さを感じられる所に腰をおろした。彼らの一人が、私に木の器に入った飲み物を進めた。
私は、それに口を付けた。今迄、飲んだことのない味がした。私は、心が再び高揚していくのが感じられ、歓喜に包まれていった。彼らの声を聞き、彼らの灰色の毛に触れ、彼らの体温を感じる度に、私は喜びを感じていた。それは、私が、先程、丘を登ってくる時に感じたものより、さらに強烈なものだった。
時が経つにつれ、鳴き声や吠え声、うなり声に聞こえていた声が、何を言っているのか理解できるようになった。
ばう。がう。きゅーん。おーん。わふ。それは、彼らによる彼らの存在や世界を語る言葉だった。それは、ある酩酊を含んで、私の心に響いてきた。私は、自分の体から、灰色の毛が生え、延びていくのを眺めていた。それは、私が彼らの言葉を理解していくのと、ほぼ同時に起こった。確かに、ここは私の終着点だ。ここは、私にとっての歓喜の世界だ。私の存在と存在する世界が祝福されるそうした世界だ。やがて、私の心中には、終着点とか、歓喜とか、至福とかの言葉の残滓があったが、それが、何を意味していたのか私には理解できなくなっていった。
翌朝、男の失踪を発見したガイドによって、それは、麓の警察の駐在所に知らされた。大規模な捜索が行われたが、男は、ついに発見されなかった。唯一、発見されたのは、男の衣服と靴だけだった。この寒い山中で、衣服も靴も着けずに、生き永らえるとは考えられず、警察は、自殺の線が強いとの公式見解を発表するに留まった。男の親族は、彼の兄のみ、現地にやって来ていた。兄は、集まったマスコミを通して、お騒がせしてすいませんと、謝罪していた。
カメラは、何度となく吹き出す汗を拭くハンカチとそれを持つ色黒な手をアップで写し出した。男の失踪のニュースは、二、三日世間を騒がせたが、やがて、他のニュースと同様に忘れ去られていった。
春が来て、雪解け水が下流を潤す頃、二人の男が、くだんの山小屋にやって来た。彼らは、外見上、特別、変わった登山者というわけではない。
一人は、失踪した男の息子で、河合恭一という名だった。
恭一は、大学の休みを利用して、ここを訪れたのだった。
もう一人の男は、恭一の父が失踪した時のガイドだった。
恭一は、まず、ガイドの家を訪問した。失踪の際の事情を聞くためだ。叔父から話は聞いていたが、直接聞きたいというのが人情というものだろう。ガイドの方には、電話で訪問のことは伝えてあり、お待ちしていますとのことだった。ガイドは、失踪の前日の様子をたどたどしく語った。
恭一は、出された熱いお茶を、この地にまだ残る寒さからか妙においしく思った。
「このお茶は、おいしいですね。」
とガイドの雪焼けした顔のほうを見て言うと、ガイドは照れて、いやいや、普通のお茶ですよと言った。ガイドの朴訥な性格は、その話ぶりからも明らかだった。彼が父親の失踪について何か隠しているとは思えなかった。
とにかく、ガイドは、好意から恭一の道案内をする事を申し出た。恭一としても、断るべき理由を見出せず、了承した。父親と最期の時を過ごした男と、より長く時を過ごすことは、それだけで何か意味のあることのように、恭一には思えた。
恭一は、その日は、近在のより開けた町二戻って、そこの民宿に一泊し、次の日の早朝、タクシーでガイドの家を訪ねた。
それから、ガイドの奥さんが、登山口まで二人を車で送ってくれた。道路が舗装されていないせいで、車内は随分揺れた。恭一は、手を車体に突いて平衡を保っていた。
この奥さんは、良く喋る人で、田舎は不便でしょう、とか、でも空気はおいしいとか、そうした事を言った。恭一は、その奥さんは、登山者にいつもそのように言うのだろうと思った。その奥さんが言うことは本当で、確かに空気はおいしいし、窓越しに見える木々の若芽は彼を爽快な気分へと誘った。恭一は、話に対する相槌は打っておいた。
お父さんによく似ている。彼女のその言葉は、その饒舌の中で、唯一、恭一の心に引っ掛かったものだった。父の生前、父親と出歩く時、何度かそう言われたことがあった。
かつては、そのことは、当たり前だというふうに、さして気にも止めなかった。父の存在が、この女の記憶の一部を占めているのかと思うと、なにか茫洋とした人と人とのつながりが感じられた。この感覚は、二十歳を越えたぐらいから、時々、ふいに恭一を捕らえることがあった。
登山口で、恭一は奥さんに礼を言った。奥さんは、旦那にリュックを渡しながら、気おつけてと言った。旦那は、山に入る前、小声で何か呟いた。恭一は、まじないの一種かと思った。少し気になったが、ガイドが歩きだしたので、急いで自分も後を追った。
恭一とガイドは、山小屋の近くまで来ると、石の上に腰を下ろした。空は快晴で、心地よい風が吹き出す汗を乾かしていく。その心地よさは、恭一から、今日の登山の目標を忘れさせるのに十分であった。そこからは、眼下に渓谷を見下ろせる。二人は、そこで、奥さんの手弁当で昼食を取った。それから、荷物を山小屋をに置いた後、恭一は一人で周囲を散策した。
恭一が、立っているのは、父親の衣服が発見された辺りだった。丘を越えて原っぱになっている所の北側。恭一は、その場所をガイドから教えてもらっていた。
恭一は、父が失踪した時の母の言葉を思い出していた。
「まったく、あの人は。」
母は、それ以上、語ろうとはしなかった。息子である彼から見ても、両親の仲が良かったとはとても思えなかった。
もっとも彼も今の年齢となっては、それを責める気も無かった。そうした母でも、父が失踪してしばらくは何事にも手が付かなかったようであった。その母が、最近は習い事などして人生を楽しもうとしているのは、恭一には、とても良いことだと思えた。
恭一も、父と仲が良いというわけでも無かったが、それでも、姉に比べれば接点はあった。結局、家族の中で、父の失踪した場所を尋ねてきたのは、彼一人だった。
父の失踪に対して、マスコミの興味本位の取材以外、社会はほとんど注意を払わなかった。父の死について、女性レポーターは、何かもっともらしい事を言っていた。その口の動きは、恭一に、前に見たアダルトビデオのフェラチオを思い出させた。しかし、その連想も、マスコミも彼の興味をそれ以上引かなかった。恭一は、何か、つまらぬものでも見たというように、テレビを消した。
父の勤めている会社からは、退職金が出て、同僚の人も尋ねてきた。さして、有能であると思われていなかった父の失踪は、彼らのそれ程の関心をそそるわけでもなく、彼らは、義務を終えると逃げるように帰っていった。恭一等、家族の方としても、彼らに長居されても困るというのが正直なところだったから、父の才の無さは−勿論、それは、会社が下した判断であったが−少しは、家族を楽にしてくれた。
父の衣服の発見されたところ、そこには、今は、草が芽を出していた。わずかな残雪が日の当たらない岩場に残っていた。恭一は、足元を黒い虫が這っているのを見つけた。
恭一は、足で踏み潰そうとしたが思い止まった。恭一には、それが、自分の父の転生した姿に、一瞬思えたのだった。
恭一は、しばらく、その虫が、石を乗り越え枯れ葉を横切り草むらにまぎれ込んで行くのを、見ていた。
二人は、その夜は、父の最後に泊まった山小屋で一晩過ごした。それは、予定されていたことだった。
ガイドは、夕食後、早々に寝袋に収まった。山の夜は早い。恭一は寝つけず、する事もなく、椅子に腰掛け、窓の外を眺めていた。屋内のランプから漏れるほの明かりに照らされて、山小屋の周りだけが見分けることが出来た。それと山の端と空を見分けることも出来た。しばらくすると、窓の外に光を反射する二つの黄色い眼が現れた。何かの獣だろう。恭一は、そう思った。その眼は、しばらく恭一の方に向けられていた。やがて、その獣は森の中に去って行った。恭一は、それからまもなくして、椅子に腰掛けたまま、机に突っ伏して眠り込んでいた。
恭一は、しばらくして、奇妙なリズムによって、眼を覚ました。一体、今が何時ごろなのかということは、見当も付かず、ただ、周囲の闇によって、まだ夜なのだということは理解できた。恭一は、起き上がろうとしたが、どうしても体を動かすことが出来なかった。意識は、目覚めたばかりだというのに、限りなく鮮明で、その音楽には強く引かれるものがあるのだが、顔を上げることさえも出来ない。
恭一が、悪戦苦闘しているうちに、音楽は聞こえなくなり、再び眠りに落ちた。
翌朝、彼らは、朝食を取って、山を下りはじめた。恭一は、昨夜、何かあったような気がしたが、どうしても思い出すことは出来なかった。昨日の登山の疲れが、まだ足に残っていた。昨日と同様、ガイドと恭一は、ほとんど口を利かなかった。それは、二人の登山者の間柄を表していた。
彼らは、友人でもなく、親子でもなく、失踪した初老の男によって結び付けられた二人だった。なすべきことと、彼らに思えたことは、やはり山に登るということだった。山。男を飲み込んだ山。それを歩くという、単純で原始的で危険な行為。恭一は、来る前に予想したごとく何も発見できず、ガイドは、若干の危惧を裏切られ、失踪した男の息子までをも失うことはなかった。
彼らが、小休止の後で、険しい山道を下っていると、キューンという獣の鳴き声がした。その声の方を見てみると頭上の突き出ている岩棚から、獣が顔を出していた。それは、犬のようだがどこか違う。
「おおかみ。」
ガイドがぼそっと言った。狼。そういえば、父の残した衣服には、たくさんの獣の毛がついていた。それは、鑑定の結果、狼のものという結果が出たのだが、日本狼は絶滅したはずであった。それは、父の失踪がもたらした謎の一つに加わった。恭一は、その事を思い出していた。
その時、狼は遠吠えをした。それは、おそらく、何千、いや、何万年にも渡って、この地を満たしたものと同じものだった。雪山は、まるで彼の仲間がそれに答え返すかのごとく、こだまを返した。
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