なぜ「地域に根差したスポーツクラブ」なのか。(後編)


再び、原点は『もっとスポーツを楽しみたい!』
ここまで色々と書いてきましたが、結局のところ、全ては『もっとスポーツを楽しみたい!』という、 純粋で単純なこのたった一つの理由が原点であり、全てです。「芝生のグラウンド」にしても、「総合 型地域スポーツクラブ」にしても全てはこの欲求を満たすためのものです。結局は極めて個人的な欲求 に帰結するのですが、いままで書いてきた「芝生のグラウンド」、「総合型地域スポーツクラブ」の様々 な存在価値については、もちろん一点の曇りもなく信じていますし、それがあるからこそ、この個人的な 欲求が他者のためにもなるという信念に繋がっています。今まで書いてきたことはもちろん本心そのものです が、私の目標を肯定するため(もしくは肯定してもらうため)の理論武装という言い方もできるかもしれ ません。そう言われれば「そうです」としか言いようがないですが、しかしそれはとても重要なことだと 思っています。欠かすことはできません。しかし、その論理的なところを超えて、ほんとに心の素直な感 情だけで表現すれば「もっと、もっと、もっとスポーツを楽しみたい!」「ずっとスポーツをしていたい !」、ただそれだけです。もっと言えば「毎日、緑いっぱいの芝生の上でみんなとボールを蹴って暮らし ていけたらどんなに楽しくて、幸せだろうか!」ということなんです。本当に単純で、子供のような感情 に戻ります。そして、その感情から、今大人である自分が、彼(子供)よりちょっとだけ多い知恵と経験 と責任で考えて、出てきたものが今までに書いてきたことです。それは今、子供の心と体も、大人の心と 体も「何か豊かなもの」で満たしてくれ、みんなの「幸せ」に繋がるものだと信じています。


なぜスポーツなのか?
では、なぜ『スポーツ』なのか?幸せに繋がるものは他にも沢山あるじゃないか?と思われる方もいると 思います。なぜ「スポーツ」なのか?「音楽」でもなくて、「演劇」でもなくて、「芸術」でもなくて。 「音楽」や「演劇」や「芸術」などの文化にも同じ力があるのに。そう問われれば、それは今まで書いて きたような個人的体験が私に「スポーツ」への関心と夢を与えたとしか言えません。それは偶然でもあり 、絶妙なタイミングであったりしたのだと思います。でもその根源に子供のころのスポーツをした記憶、 心と体に刻まれている「ほんとに楽しかった」記憶があること、それが一番の理由なのかもしれません。 みなさんにもありませんか?そんな「スポーツは楽しい」という記憶が。心と体に。その記憶はとても楽 しくて、また幸せな気持ちになる記憶ではないでしょうか?私にとって今までで一番楽しかった事と、幸 せな瞬間はスポーツをしていた時だったのかもしれません。だから、そんな楽しくて幸せな時をもっとも っと過ごせるようにしたら、どんなに豊かで、楽しくて、幸せな人生が送れるだろうかと思うのです。「 スポーツ」にはそんな力があると信じていますし、だからこそ私は「スポーツ」が無くてはならないもの だと考え、「スポーツ」に夢と希望を持つのです。


スポーツを楽しめるかどうかは「生きるか死ぬか」の問題
私が今まで書いてきたことを実現するには、それ相応のお金(もちろん個人で負担できるような金額でな く)がもちろん必要になってきます。しかし、それを聞けば「この不況下でスポーツなんかにお金を使う より、経済や医療の方が優先だ。スポーツは無くても生きていける。」という声も出てくるに違いありま せん。しかし、私はそういう声には真っ向からこう言いたい。「スポーツが無ければ生きていけない。」 と。最近、私が読んだ、劇作家・演出家の平田オリザさんの近著「芸術立国論」の中で、平田オリザさん がこう書かれていました。『今こそ私たちは芸術文化を享受する権利を守ることは、「生き死にの問題だ」 と力強く主張しなければならない』と。また、『もはや芸術文化は、限られた余暇に楽しむべきもので はなく、人間の生活になくてはならないものなのだ。いま人々は、余暇を労働のためのリフレッシュの 時間とはとらえていない。人間は、芸術やスポーツを楽しむために生きているのであり、そのために働 いているのだ。そしてその労働さえもが、文化化されていかなくてはならない。このような社会におい ては、休暇も、芸術文化やスポーツの楽しみを享受するための最低限の時間の確保という視点でとらえ るようになるべきだろう』と。私はまさにこの言葉に強く同感します。人生において、「スポーツ」や 「音楽」や「演劇」や「芸術」などと言った文化がもし無かったら?そんな人生考えられるでしょうか ?確かにそれらが無くても「生きては」いけるでしょう。しかしそれは楽しみとはかけ離れた人生では ないでしょうか?『生きている』ということはどういうことなのか?もちろん、生きている中でつらい こと、苦しいことはあります。しかし基本として『生きている』こととは幸せで豊かなことであるはず なのではないでしょうか。だから私はまさにこう宣言したい。『スポーツを楽しむために生きている。 』と。このような意識を多くの人が持つことが、今、重要なのではないかと私は思っています。それは もちろん、各人によって『演劇を楽しむために生きている』、『音楽を楽しむために生きている』とな るものです。このような意識を多くの人が持つようになったとき、もっともっと『文化』を楽しめる社 会になるはずです。そして、そのような社会は人がより幸せに、豊かに生きることの出来る社会である と思います。私はその実現に『スポーツ』で関わっていきたいと思います。


『スポーツで、もっと、もっと、幸せな国へ。』
最後になりましたが、ここで今までの文章についてお詫びを。なるべく自分自身の言葉で書こうと意識 して書きましたが、やはり今まで読んだ本や資料などの受け売りとなってしまった部分も多くなってし まいました。ひとえに私がまだ殆ど何も知らないに等しいからで、反省する次第です。それはお詫びし ます。それをお詫びした上で、自分の意識とぴたりと合う部分はためらわず文章に反映させてもらいま した。それが自分自身の考えでもあるからです。どうかそこはお許しください。

最後に、このHPの副題にもしている『スポーツで、芝生で、もっと、もっと、幸せな国へ。』という言葉につ いて。この言葉のもとになっているのは、Jリーグが1996年に「地域に根差したスポーツクラブを 全国につくる」というコンセプトを『百年構想』という言葉で表したときに、その『百年構想』の副題 になっていた『スポーツで、もっと、幸せな国へ。』という言葉です。それに『芝生』と、『もっと』 をもう一つ付け加えてつくらせてもらって、このHPの副題にさせてもらいました。私はこの『スポー ツで、もっと、幸せな国へ。』という『百年構想』の副題が大好きだったもので、使わせてもらいまし た。シンプルで、素直で、抽象的でありながら、その意味するところはよく伝わってくる言葉だと思い ます。私は特に「国」というものを意識しているわけではありませんが、この「国」という言葉は、「 誰もが」、「みんなが」という意味を表していると思っていただければと思います。

長々と書いてきてしまいました。ここまで長文を読んでくださった方、本当にありがとうございます。 少しでも、「そういう考えがあるのか」とか「じゃあ、もっとこうすればいいんじゃないかな」とか、 意識を持ってもらえることができたなら嬉しいですし、また、「分からない」、「必要ない」という意 見を持たれても、その意見をまた聞かせてもらえるなら嬉しいです。何故なら、私が書いてきたような 「地域に根差したスポーツクラブ」や「芝生のグラウンド」は、多くの人からのニーズが無ければ実現 し得ないからです。多くの人のニーズを満たすには、各人が持つニーズ、意見、価値観をいかに聞いて 、そして、それをいかにすり合せていくかという作業が絶対に必要になるからです。ここまで読んでく ださっただけでも、本当に嬉しいです。そして、もし良ければ、メールなり、掲示板なりで意見を教え てくださると本当にありがたいです。では、最後はやはりこの言葉で締めて終わりたいと思います。 『スポーツ』という『文化』で、楽しくて豊かで幸せな人生を多くの人が送れるようになるために。

『スポーツで、もっと、もっと、幸せな国へ。』






BACK