空の青
10
「今でもそうなのか?」
それが、そうでもないから不思議なんだ。
「俺、今期の出席状況だと、多分相当単位が取れると思う」
「つまり、発作は起こってないんだな?」
俺は、小さく頷いた。
「トランキライザーも肌身離さず持ってるよ。あの苦しさは、半端じゃないからな。飲めば、とりあえず治まるし」
「えっと、どんな……」
「うーん、言うなれば、生きながら真綿で首を閉められる?」
身体は酸素を欲しているのに、肺が全く働かない。もしくはドキドキと心臓が駆け出して生ツバが湧くのに、口の中はカラカラ。
「それって、過換気症候群じゃないのか?」
「時々はそうみたいだけど。そうなって、慌て袋に首突っ込んでさ、自分の呼気吸うと治ったりするから」
―――でも、それだけじゃないんだな。
「自分でトラウマ忘れたのかも。あんまり苦しい事だと、自己防衛本能が働いて、辛さの原因を忘れることもあるらしいし」
そう……だから厄介で、今、発作を起していないのはありがたかった。
「発作が起きないのはいいことだろうけど……何でだろうな?」
―――おまえが居るから……
俺は、橋田の横顔を見ながら心で呟く。
それを知ってか知らずか、橋田は真っ直ぐ前を見て車を左の車線に寄せる。
「渋滞に巻き込まれそうだ。一度SAに寄って置こう」
ぎっしりと埋まった駐車場に何とか空きを見つけ、橋田がぴたりと停める。こんな時まで左右の空間を旨く取る感覚は、きっと天性の物なんだろう。
「あ、何……もう着いたの?」
眼を瞬かせて起きた小早川さんに、
「違う。すごい渋滞だから、ちょイ休憩」
答えた橋田が外に出る。それを見て、みんながそれに習った。
「いや〜、これは……」
教授が伸びをしながら、眼を細めた。
「最近じゃあ、ちょっと無かった渋滞ですね」
小早川さんが、携帯を手に返事をする。
―――ああ、みんなはこれに捕まってないみたいです。
「それは良かった。橋田くんは、明日は大丈夫かね?」
「オレ、明日のバイトは午後出ですから」
そう言いながら、橋田がトイレに向かって歩き始めた。
「すみません、俺が起きなかったから」
その時、茜色になった空からどーんという音が響く。
「花火?」
「そうみたいですね。だから混んじゃったのかしら」
―――まあ、少しずつ動いてはいるし、いつかは着くだろう。車中で花火が見えたら、ラッキーだ。
こんな時、吉田教授は動じず『まあ、何とかなるさ』というムードを作ってくれる。才気に走った如何にも研究者って感じの教授が多い大学で、学生に慕われるのはこのせいなんだろうな―――俺は、橋田の後を歩きながらホッとして「ええ」と相槌を打った。
暫らくして本道に乗ってはみたものの、相変わらずののろのろ運転で図らずも教授の言う通り車窓から花火を眺めることになった。インターを下りたのは9時近くで、俺たちは朝に棄てて行ったバイクに乗り換える。
「アオ、無理しないでね」
とっぷり暮れた夜空を見上げ、小早川さんが心配そうに言った。途中交代するって言ったのに、橋田はそのまま6時間運転し続けたんだ。
「大丈夫。後はそんなにかからないし」
でも、今日も泊めろよな―――そんな声に俺が快諾しすると、橋田はエンジンをふかしあっという間にスタートする。俺は慌てて後ろを振り返り、遠ざかる教授と小早川さんに二人分の手を振った。
なんだろう。
そんな予感はあった。
橋田の背中に身体を預けながら、微かにと伝わって来る気持ち。
面倒だからと途中のファミレスで夕飯を済ます間も、橋田はひどく無口になっていた。
それは気まずい雰囲気を生むこともなく、俺たちはごく自然に振舞う。
家に着いて俺が水着を洗っている間、橋田は風呂場に消え、俺が籠を抱えて外に出ようとすると、
「オレが乾すから、おまえも風呂に入って来い」
と、洗った衣類を取り上げた。
外から、『随分真っ黒になってー』という、婆さんの声がした。最近頻繁に現れる橋田は大家の老夫婦にも気に入られ、『半額にしとくから、橋田さんもここに入ればいいのに』と誘われていたが、その度に真っ白い歯を見せてのらりくらりとかわしていた。
俺は笑いを堪えながら、日に焼けて痛い肌をそっと洗い風呂場を出る。
「よう、先にやってるぞ」
灯かりを消した和室で網戸のない窓を開け、畳に座り込んだ橋田が缶ビールを軽く持ち上げた。
「ああ」
俺も冷蔵庫からビールを取り出し、プシュッっとプルトップを引き上げ橋田の隣に座る。
「おまえも、だいぶ焼けたな」
眼を細めた橋田が、じっと俺を見つめた。
「うん。最近全然遊びに行ってなかったからな。でも、楽し……」
その先の言葉は出てこなかった。というか、話すことが出来なかったのだ―――アオのくちびるに塞がれて……。
大きな手がゆっくりと俺のシャツを脱がす。
背中を支える掌は、ビールで冷やされて気持がいい。
「肌が熱い……」
呟く声がすぐ横で聞こえた。
橋田のために敷いた布団に押し倒され、でも俺はされるがままになっている。
何時の間にか器用にTシャツを脱いだ橋田の胸が、俺の上に覆い被さった。さらさらと乾いた肌が気持いい。
「……各務?」
確かめるように囁く声。
俺は、それに応えて腕を首に回す。
もう一度、くちびるが下りてきた。
今度は俺も口を開け、橋田の舌を誘い込んだ。