空の青
13
強烈な印象を残した夏が終わると、静かな秋が始まった。
時は余りに自然に流れ、もうずっと昔からの営みのように俺と橋田は日々を重ねた。つまり、休み前と同じように橋田はバイトに明け暮れ、俺は微生物学教室に入り浸るといった毎日を繰り返したのだ。
時々やってくる橋田はいつもバイトで疲れ果て、俺を抱く時もあるしそのまま眠ってしまう時もある。俺は、橋田のしたい様にさせ―――慣れていく身体を留めることは出来なかった。そして、あっという間に2年近くが過ぎた。
「カガミ、やっぱ今日から院生なのか?」
橋田が無事3年になった時、俺は大学院に進学した。
「何だ〜、各務君。私たちと同じ講座を取るんじゃなかったのぉ?」
口々に訊ねるクラスメイトも、俺が院に受かったことはとっくに承知だ。
でも、そんなことは関係ないから、と笑う。
「じゃあ、呑み会の窓口は橋田だから、返事はそっちにくれよ」
万年幹事の斎藤が念を押す。
「いつも悪いな。じゃあ、みんなが卒業する時、近況がわかるようにサークル新聞発行して送るから」
いったい何のサークル?
語尾が上がり、華やかな笑い声がキャンパスに響いた。
「そりゃ、呑めない各務が編集するんだから『下戸の会』に決まってるじゃないか!」
すかさず橋田が合いの手を入れる。
「どっちにしろ、第一号は2年後だろ?」
そうだ。みんなが卒業する時。
俺はそのとき博士課程に進む筈だ。
それまでは、アオと一緒に………
でも、季節は容赦なく流れ―――さらに4年が過ぎ……。
「良くん。私、変なところない?」
小早川さんが、大きな鏡の前でウエディングベールを持ち上げ、不安そうに訊ねた。
「すっごく綺麗ですよ」
俺は、安心させるように笑顔を見せ、太鼓判を押す。
院を卒業して博士号を手にした小早川さんは、そのままオーバードクターとして微生物学教室に残っていたが、1年後みんなが卒業するのと時を同じくして小さな科学技術短大に移り、講師に納まっている。ちょうど留学の話も持ち上がり、教授が引き止めるのを振り切って何故? とみんなで訝しんでいたら、この春、電撃で吉田教授との結婚を発表した。
年の差、33?
既に、犯罪かも知れない。
「でも、ぜんぜん気が付かなかった」
俺は、素直に白旗を上げ訊ねた。
「教授のどこが良かったんですか?」
小早川さんは、不意に表情を変え、艶然と微笑む。
「決まってるじゃない。全部よ」
発表があった後、ご両親との紆余曲折は風の噂に聞こえて来た。小早川さんは、事前に相談することなく、招待状を発送したのだという。
つまり、ご両親にも、だ。
「だって、先生ってばいつまでたっても煮え切らないし」
それは、そうだ。教授ほどの知名度があっても、娘を嫁がせる親にとっては、ただの年寄りに過ぎない。
「私は十年も待ったのに」
後で知ったのだが、小早川さんも俺と同じく『小学生の実験室』で教授と出会って大学の進学を決め、その時既に奥様は亡く、息子さんは独立していたという。
「大体、殆ど放りっぱなしで親らしいこともしなかった癖にねぇ?」
小早川さんは、黒紋付を着た隣の女性を軽く睨む。母親だとすれば、本当に教授の娘と言っても通りそうだ。
「私、アオにも招待状を出したのよ?」
それは、―――随分と大胆な。
「良くんも来るからっ、て」
俺は、少し眼を見開く。
橋田とは、大学やみんなの近況を知らせる『下戸通信』を送るだけの関係になっていた。最初のうちこそ手紙やメールで返事もあったが、今は既に音信不通に近い。ただ、あて先不明で戻ってこないので、住所は変わっていないのだろうと推察している。
結婚式は小さな教会で行われ、ヴァージンロードの途中で小早川さんの手が父親から教授の腕に移る。一瞬火花が散ったみたいだったけど、それを大きな微笑で収め、教授は嬉しそうに小早川さんと先を進んだ。
この結婚を合図にしたかのように同級生の結婚の知らせが舞い込むようになって、『下戸通信』はその先の数年間、まるで『結婚通信』のような有様になった。
そうこうしているうちに教授の退官の日がやって来て、助教授だった鈴木さんがそのまま教授に就任した。吉田先生は名誉教授になって、鈴木先生が引き継いだ『小学生の実験室』の手助けに入る事になっている。
先生は、今は奥さんになった小早川さんの勤務する科学技術短大から請われて教授に就任したので、会えなくなるのかと少し寂しく思っていたから、また、一緒に子供を教える事が出来るのは嬉しい。
そんな時に、その知らせは届いたのだ。
「よう、各務。久しぶり」
微生物学教室に顔を出したのは、こまめに飲み会の幹事をしていた斎藤だった。
「大学に用があって顔出したら、居るって聞いたからさ」
そう、論文が通って博士号を得た俺は、そのまま大学に助手で残っていた。すっかり社会人らしくなった斎藤に座るように勧めながら、彼が手土産に持ってきたコーヒーを煎れる。
「いつも『下戸通信』ありがとな」
さりげなく礼を言う斎藤は、コーヒーカップに口を付けて目尻を下げた。馥郁たる香りが部屋一杯に広がり、俺は思わず頬を緩める。学生時代から年より老けて見える斎藤は、いつも縁の下の力持ちで細かいところに気が付くヤツだった。
「今じゃ、『結婚通信』みたいだけどな」
俺も、向かいに座ってコーヒーの香りを楽しむ。
「で、次号には橋田の記事が載るわけだ」
「え?」
俺の怪訝な顔をみて、斎藤が言い重ねた。
「だって、来月、橋田の結婚式だろう?」
斎藤は、当然俺も出席するんだろうと言わんばかりで、大学時代の俺たちを見ていたら誰だってそう思うはずだ。
でも、招待状は届いていない……。
それから斎藤とどんな話をしたのか、実のところ殆ど覚えていなかった。ぱたんとセミナー室のドアが閉まり、辺りに誰も居なくなったのを確かめたかのように、俺は3年振りの大きな発作で意識を失ったのだ。