空の青


14

額の冷たい感触に、瞼を開けた。
―――直ちゃん……。
「気が付いた?」
小早川さんが目の前で微笑んでいる。俺は、セミナー室のソファに寝かされていた。
「随分大きな発作だったわね。久しぶりに」
―――驚かせないでよ。
ピチャン……小早川さんは、手にしていた濡れタオルを氷水に浸してぎゅっと絞り、また俺の額を拭った。今日は、先生の講義がある日だから迎えに来ていたんだ。そういえば、大学に入り浸るようになってから起こした発作は、いつも先生と小早川さんに面倒をかけていた。入学した頃からは、さすがに意識が飛ぶまで我慢することも無く、『マズイ』と思った瞬間環境から逃げるか薬を飲むかして対処していたけれど。
「……アオのこと、聞いたの?」
小早川さんがそういって尋ねたのは、確かめる為だったんだろうか。
「あいつ、結婚が決まったんですね」
―――先生の所にも、招待状は届きましたか?
その返事がカムアウトになったかどうか、俺には判断が出来ない。小早川さんは昔から妙に勘が鋭い人で、今でも学生から距離を置かれてしまうことがあるらしい。見透かした事実をそっと胸に仕舞うなど、思いもつかない性質だから。
「アオもバカよね。私に来ないのは分かるけど、センセにまで招待状を出さない気よ」
もちろん、橋田の配属教室の教授には届いている。さっき、斎藤がそう言っていた。
「自分の本心に眼を瞑って結婚したって、巧く行くはず無いのに」
俺は額のタオルに手をやり、身体を起こした。視線を彷徨わせていると、倒れる時に摺り落ちたメガネを小早川さんが手渡してくれる。
「……本心?」
メガネをかけて、俺は小早川さんと瞳を合わせる。
「そう。アオが本当に欲しているのは誰か、ってこと」
俯いた小早川さんの肩から、さらさらと黒髪が滑り落ちた。
「前に、良くんに言った事があったわね。アオは『爽やかで好青年の顔をした老人』って。でも、前言撤回するわ。人生を達観したような顔をしてもダメよ。無理をすれば、いずれ破綻する」
破綻? 何が……。
「心、―――かも知れないわね」
小早川さんは、視線を窓の向こうに移した。日没が迫る山並は、燃えるような朱を背負って黒々と横たわっている。しばらくそうしていた小早川さんが、俺を振り返って微笑んだ。仏像にも似た、口角を上げたアルカイックスマイル。
「良くん、うちの短大に来ない? あそこだったら、学生を教えなくても研究出来るわよ」
―――やっぱり、教壇には立てないんでしょう?
多分、そうした方がいいのだろう。
決まったペースで発表する俺の論文は、Nature誌に掲載される事もあった。それは大学でも画期的でかなり注目されている。しかし、実験助手なら勤まっても教壇では学生に教えることが出来ない―――鈴木教授との関係は微妙になり、俺は確実に微生物学教室のお荷物になりつつあった。

でも……。

「もう少し、ここに居たいので……」
そう、約束の10年。
でも、本当に卒業してちょうど10年ではなく、きっとあれが頭にあったから、口から出た期日なんだ。
最近、そう思うことが多くなった―――大学の創立百周年。
「そう?」
小早川さんが、首を傾げた。
「ええ。あと、2年半。そうしたら……」
結論を出せるかも知れない。
「まあ、いいわ」
セミナー室の前がざわめいて、ドアがさっと開く。
「各務君、もう大丈夫なのか?」
齢を重ねた吉田先生は、前から見てもコロボックルじみて来た。
小早川さんが立ち上がって、さっと駆け寄る。
コロボックルと森の精のツーショット? はっきり言って、激しく違和感が伴う。
「暇があったら、時々向こうにも顔を出してくれないか。最近、趣味で特許の申請をしているんだが、色々面倒だろう?」
つまり、雑用係が必要なんですね、先生。
「という事だから、各務。よろしく頼む」
鈴木教授も後からニコニコとやって来る。俺は途中まで浮かべた笑顔を凍らせた。
(あ、……あ、そういうことか……)
早期教育システム一期生の俺を煙たく思い始めたとしても、誰も鈴木教授を責める事は出来ないだろう。




叢から虫の音が聞こえてきた。道路端のススキが風に揺れ、澄んだ空気の冷感に、訳も無く胸がざわめく。
科学技術短大は学部間の垣根が低い学校で、名目上は講座ごとに分かれていたものの、実態は学生が誰彼と無く様々な研究室に出没しているところだった。
そして驚いたことに、先生は特許出願を真面目に考えていた。
「ここは、思った以上に自由でね」
白い鬚を揺らして笑う。
確かに設備や備品は大学に劣るかも知れないが、学内起業に力も入れていて―――そうか。だから特許なんだ。俺は、ようやく合点がいった。
それならば、と先生の手伝いをしながら、短大の物理化学の教授と共同で俺自身も数件の特許申請をする。ボーダーレスの研究は楽しく、そうやって没頭している時は、微生物教室のあれこれや橋田のことを忘れていられた。ただ、こんな風に秋風が吹いてくると、時折どうしようもなく人恋しくなる。橋田の温もりが欲しくなる。
橋田、おまえ、今、何をしている……?
俺は、そっと息を吐くと眼を瞑って指先で身体をなぞった。
直接、自分の分身を握り締める。
でも、これは橋田の指。
これは橋田の掌。
段々熱くなっていく耳元で、橋田の掠れた声が響く。

―――カガミ…いっしょに……。

途端にざぁっと快感が駆け抜け、熱のこもった皮膚にアオの感触が蘇る。吐き出した想いを掌で受け止め、体の中に在るはずのアオを探す。でもひくひくと蠢くそこに、繋がっている筈のそこに、アオは居ない。  
掌の生暖かい粘液を見て、俺は遣り切れなさを覚えるのだった。





to be continued

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