田中家は、岩村田藩(※1後述)内藤家(※2後述)の城代家老を務めた家系である。
岩村田藩内藤家とは、武田家(武田信玄が有名な戦国大名家)の重臣である内藤氏(内藤昌豊が有名)の分家。本家は高遠藩内藤家、その分家の岩村田藩内藤家のこと。内藤家は、現在の新宿に江戸屋敷があり(内藤新宿)、現在では新宿御苑として都民区民の憩いの場になっている。
ちなみに「城代家老」とは、藩主が参勤交代で不在の折に、留守預かり職にあった家老職の家臣をいう。
丸に揚羽蝶。

揚羽蝶は平家に多いが、丸が付けられた揚羽蝶の家紋は希少。平清盛が「丸に揚羽蝶」である。
(内藤家城代家老) 田中禎助直道=志津 | 田中直衡=うめ | 田中直次=志ず | ----- | | 田中直綱=■| | | 田中直■ | | 春子=田中正夫 | -------- | | | 和■=田中正文 ■二 ■夫 | 田中正之
田中家の菩提寺は、岩村田藩内藤家(内藤正国ら)と同様に、西念寺(長野県佐久市岩村田、※3後述)。本堂の西側すぐに墓石がある。

※註釈
【※1】
岩村田藩・・・元禄16(1703)年に内藤正友が封じられて成立。正友は大坂定番を命じられたために大坂を拠点としていたが、子の正敬の時に陣屋を岩村田に戻した。岩村田藩内藤家は、宮崎県延岡藩の内藤宗家から戦国時代に分かれ、高遠藩内藤家を本家とする分家である。内藤家に入って6代藩主に就いた正縄は、老中水野忠邦の実弟であったことから順調に出世し、伏見奉行を経て城を持つことが許される城代格にまでなった。元治元(1864)年に城の工事が始まったものの、工事途中で明治・廃藩置県となり城は完成しなかった。
【※2】
譜代大名
一万五千石
1、内藤正友(まさとも。従五位下、式部少輔)
2、内藤正敬(まさゆき。従五位下、下総守)
3、内藤正弼(まさすけ。従五位下、美濃守)
4、内藤正興(まさおき。従五位下、志摩守)
5、内藤正国(まさくに。従五位下、美濃守)
6、内藤正縄(まさつな。従五位下、豊後守)、第6代藩主・内藤正縄は老中・水野忠邦の実弟であった関係で、伏見奉行となって、その功績により城主格に昇進された。
7、内藤正誠(まさのぶ。従五位下、志摩守)、第7代藩主・内藤正誠は日光祭礼奉行・奏者番・寺社奉行などを歴任する。戊辰戦争では新政府軍に与して宇都宮城の戦いや北越戦争に出兵する。この頃に岩村田では築城計画がなされていたが、明治2年(1869年)に版籍奉還が行なわれ、さらに廃藩置県が行なわれて藩が廃されたため、城は未完成のまま廃城となった。
【※3】
西念寺・・・岩村田本町の中央に位置し、1560(永禄3)年に武田信玄が再興、歴代城主の菩堤所である。正式には「一行山西念寺」。ご本尊の阿弥陀如来像は、藤原時代の末期、定朝作といわれ県宝。境内には小諸城主仙石家、岩村田城主内藤家の墓所・供養塔がある。浄土宗。境内は自由に見学でき、城下町の歴史が薫るたたずまい。
田中正之・・・現在、フリーランスのインストラクター・パーソナルトレーナー。
(1)フリーランスのインストラクター・パーソナルトレーナーです。得意分野はコアコンディショニング:骨盤体操(ピラティスストレングス~ポールリリース~モビリゼーションストレッチ)や、ボクシング(JFBAボクシング協会所属)のレッスンをしてます。
(2)大学院(教育学修士)の後、長野県にて教員をしていましたが、父の脳疾患を機に一念発起してフィットネス業界に転職、現在は独立してフリーランスです。
(3)父方は、内藤家(武田信玄重臣、新宿御苑が江戸屋敷)城代家老でした。家紋は丸に揚羽蝶で、平清盛系(伊勢平氏系統。揚羽蝶は平氏家紋だが丸が付くのは稀有)。
(4)母方は曹洞宗寺院(禅宗僧侶、長野県上田市)で、羽田先生とご縁。家紋は蔦。
(5)本名・田中正之は、真田昌幸(真田幸村の父)から名付けられました。「田中昌幸」だと画数が悪いからと、「保科正之」から「田中正之」になったようですが、お陰様で?画数を足すと9(霊数らしい)になる組み合わせが多い名前になりました。