するするする…きょろ、きょろ…
保健室の引き戸が滑らかに開くなり、中からは不安げな面持ちの少女が顔を出し
て、なんでもない学校の廊下を注意深く左右に見渡しました。それで人気が少ないことを
確認してから、ようやく廊下に足を踏み出します。とはいえその足取りは文字通りの
忍び足であり、まるで国家機密を狙う女スパイのようです。
「んしょ…んしょ…が、画鋲刺さんない…ったく、ちょおむかつく〜!」
少女は片手にしていた模造紙を広げると、まさに一生懸命といった様子で掲示板に
張り付け始めました。はかない腕力に抵抗する掲示板を毒づく少女は、誰あろう詠美
です。今日は日曜日なのですが、詠美の学校では秋の学園祭が開催されています。
綿あめ、たこ焼き、お好み焼きといった縁日をはじめ、各運動部、文化部主催の
ミニイベント。各クラスで企画したクラス展などなど…日頃は色褪せて見える校舎
も、今日ばかりは不思議なほどに輝きを放っています。詠美の側を通り過ぎて行く生徒達
の笑顔にも、それと同じ輝きが宿っていました。どこもかしこもお祭りというハレの場
の雰囲気に活気付いているように見えます。
しかし、このハレの場にあって…なぜか詠美だけは浮かぬ顔をしていました。
『保健展』と銘打たれた模造紙を先程から必死になって張り付けているのですが…
時折リスのようにきょろきょろ辺りを窺ったりすることからも、その焦燥にも似た
表情の理由は画鋲を受け入れてくれない掲示板以外にもあるように見えます。
「ふう、四枚も描くんじゃなかった…でもあともう一枚…もう一枚だけ…」
その華奢な身体を包み込めるほどの模造紙を三枚張り終えたところで、詠美は自身
に言い聞かせるような口調で独語しました。自ら覚え込ませた安堵で微かに表情を
緩ませると、詠美は再び模造紙を押さえ、心持ち背伸びしながら画鋲を押し込んで
行きます。それでも、そんなささやかな安堵を台無しにするつもりか、緑色の掲示板
は画鋲を受け入れてくれません。りきんで真っ赤になっている詠美の顔が、少しずつ
焦りに歪んでいきます。
「刺され…刺され…刺さってよう…」
心中での叫びは胸の中だけに押し留まらなくなり、詠美の口から独語となって
漏れ出ました。詠美の瞳に、不快な潤みが拡がってきます。
ぎゅっ…
「あ…か、かずき…」
「よう。学園祭があるんなら呼んでくれりゃあよかったのに。」
突然背後から大人の手が伸びてきて、詠美の代わりに画鋲を押し込んでくれました。
驚きで振り返った詠美は目の前に親しいしたぼくの姿を認め、思わず彼の名を呼んだ
のですが…当の和樹はどこかふてくされるように素っ気なくつぶやくのみです。
「な、な、なんであんた、ここにいるのよっ!?学園祭のことなんて…そもそも
学校の場所も教えてなかったのに!!」
「原稿の打ち合わせするつもりで電話したら、お前のお母さんが出たんだよ。」
「きっ、聞き出したわけっ!?うっわ〜、ちょおストーカー。気持ちわるぅ!」
「人聞きの悪いこと言うなっ!お母さんの方から教えてくれたんだよ。よかったら
ぜひ行ってあげてくださいってな!」
和樹が現れたという、ただそれだけのことで…詠美の態度は一変しました。こみパ
のじょていたるに相応しい居丈高さで和樹を罵り、あまつさえ行儀悪く指さしたりまで
します。それでも表情は晴れ渡り、美少女然とした化粧っ気のない素顔はハレの
場に似つかわしいほど活き活きとしてきました。他の生徒が放っている、活気に満ち
た輝きにも引けを取らないほどに、詠美の態度は溌剌としてきました。
「で…お前のクラスを探そうと思ってたんだけど、探す手間が省けたな。なになに…
ふむ…詠美お前、保健展やってたのな。」
「う、うん…まぁ、ね…」
「…ところでこれ、全部お前が張り出したのか?他のヤツはどうしたんだよ。男子と
か、背の高いヤツに手伝ってもらえばいいじゃん。」
「…あ、あたしひとりでやってんのよっ。くいーんはここうであるべきじゃない。
しもじもの手を借りるなんて、まっぴらごめんだわっ。」
張り出された模造紙を眺めるうちに、何やら怪訝な面持ちとなった和樹がそう問い
かけると…なぜか詠美は言葉を濁したり、かと思うと伏し目がちになりながら早口で
まくしたてたりしました。そこで和樹も感じ取った違和の理由に気付きます。
保健展のひとつとして張り出された模造紙四枚には、それぞれ身体や心に関する
情報や考察がマジックで色とりどりに描き出されています。しかしそれは素人では
絶対に描き上げられないであろう見事なマンガでまとめられているのです。
やれ「エイズに関する知識」でも、やれ「無理なダイエットは逆効果!?」でも…
どれも詠美の描く男の子や女の子が親しみやすく紹介していて、非常にわかりやすい
内容になっています。そのうえマジックで描かれたキャラクター達は、マンガを描く
ことに慣れてきた和樹でさえも息を飲むほどに美麗細緻であるのです。和樹はかつて
詠美にスケブを描いてもらったことがあるのですが、この保健展の内容はその時の衝
撃を塗り替えるほどの出来映えででした。
これほどまでに見事な展示であるにもかかわらず…和樹にはどうも腑に落ちない
ことがあったのです。そしてその答えは先程見出すことができました。
ここまで素晴らしい仕事ができるというのに、なぜクラス展に引っ張られなかった
のか…。そして、なぜひとりきりで保健展に参加していたのか…。
「…い、いや…でもすげえな。どれもこれもおもしろく描けてるじゃんか。さすがは
詠美ってところだろうな。こんなこともできるなんて…」
気付いたいくつかの違和感から、意識が勝手に推察を始めようとしたので…和樹は
意識をそらすべく、模造紙に見入ったまま感想を口にしました。
「とーぜんじゃない!あたしはこみパのくいーん、詠美ちゃんさまよっ!?」
…そんな憎めない傲慢が返ってくると予想していた和樹でしたが、次の瞬間には
背筋も凍り付くほどの言葉を耳にしてしまいました。
「…うわ、見て…オタク大庭…。なに?まだこんなマンガ描いてるワケ?」
「ぎゃは!キモ!そんなだからシカトされるのよねー。あー、キモキモ!」
この展示を描き上げた本人がいるというのに…否、いたからこそでしょうか。
詠美と和樹の背後を通り過ぎていった茶髪の女生徒二人は、聞こえよがしにそう
つぶやいていったのです。和樹は弾かれたような動作で彼女達を見つめ、続けて
横に立っている詠美を見ました。
「ひくっ…ふ、ふみゅう…」
深くうつむき、肩を微震させている詠美は泣くのを堪えているのでしょう。
胸の真ん中を両手で押さえ、まるで心がばらばらになってしまうのを必死で防いで
いるようでした。
「…ちょっと待てコラぁ!!」
導き出したくなかった推察を押しつけられたこと…そして大切な少女を愚弄された
ことに和樹は憤慨を極め、歩み去って行く女生徒に我を忘れて追いすがりました。
薄汚い、まるで失敗したかのような茶髪が振り返るタイミングを見計らい、殺意すら
込めた右の拳を繰り出そうと大きく振りかぶります。
「ダメッ!!」
「わわっ…!」
「きゃあっ!?な、なに、この人…?」
凶器と化した右手が二人の少女を餌食とする寸前…詠美が背後から体当たりを
食らわせてきたので、和樹は思わずつんのめって女生徒達にぶつかってしまいました。
突然身体をぶつけてきた見慣れぬ男性に、女生徒達は怪訝な視線を送ってきます。
それでもまだ和樹の怒りは納まりませんでした。
「お前ら、さっき…」
「いいのっ!別に、いいの…」
「いいって詠美、こいつらは…」
和樹は激怒の形相でなおも詰め寄ろうとしましたが、詠美は背後から彼に抱きつ
き、ブルブルとかぶりを振って押し止めようとします。和樹としては納得がいかなく、
ついつい詠美にまで怒声を浴びせてしまう始末です。
「…ねえ大庭さん、その人だれ?」
「あ、あたしの…その…し、親戚っ。ごめんね、迷惑かけちゃって…」
「…ふん。オタクは親戚にもキモいヤツがいるのね。わー、やだやだ。」
訝しげに問いかけてくる女生徒に対して、詠美はいつになくへりくだって取り
なそうとします。しかし詠美の気持ちも、また和樹の怒りもなんら感じ取っていない
のか…もうひとりの女生徒はきびすを返すなりそんな言葉を吐き捨てました。
これにはもうさすがの和樹も我慢の限界に達してしまいます。
「てめえっ…」
「謝りなさいっ!!」
「えっ…ちょ、え、詠美…」
賑わう廊下にありながらも、凛と響き渡る少女の怒声。
思いも寄らない事態にたじろぐ和樹の前に一歩進み出て…詠美は敢然と女生徒
二人を睨み付けました。きつく唇を噛み締め、今にも泣き出しそうなくらいに瞳を
潤ませながらも…その怒りは少女の体内で紅蓮の炎のごとく燃え盛っているらしく、
両手はきつく拳を固めます。夢や憧れを描くことに情熱を注いできて、ケンカの術な
ど微塵も知らない詠美の両手でしたが…それでも今確かに臨戦態勢を整え、傍若無人な
女生徒達を威嚇しています。
「な、なによぅ…」
「和樹に謝りなさいっ!謝れっ!謝れえっ!!」
「い、行こ?なにコイツ、逆ギレして…」
「ほ、ホント…頭おかしいんじゃない…?」
「あっ、謝りなさいよっ!待て!待てえっ…う、うぐっ…うああああん…!!」
捨て台詞を残して立ち去った二人を前に、詠美はまるで緊張の糸が切れたかの
ような勢いで泣き出しました。和樹を馬鹿にされたことが悔しくて、ただひたすら
悔しくて…もどかしい胸の奥からとめどもなく涙が溢れてきます。
「詠美、もういいんだ。もういいんだよ、詠美っ…」
「よくないっ!よくないようっ…!うううっ…うああああ…!!」
詠美の気持ちは痛いほどにわかりますが、とりあえず人目に付くことは避けたほう
が賢明に違いありません。和樹は詠美を抱き寄せながら校舎の外へ連れだそうとしまし
た。しかし今度は詠美の怒りが納まらないのか、激しく身をよじってむずがったりします。
どうにか詠美の癇癪が納まったのは校門の辺りまで来たときでした。ずっと詠美を
抱き寄せたままだったことに気付くと、和樹は慌てて彼女を解放し、そっとかいぐり
して泣きベソを吹き飛ばします。
しかし詠美はすっかり打ちひしがれてしまったのか、視線をそらしながら、どこか
自嘲するような薄笑みを浮かべるのみでした。
「…格好悪いとこ、見せちゃったわね…。笑ってもいいのよ、あたしのこと…」
「オレの前では無理すんな。いつものお前でいてくれよ…。お前はくいーんだろ?」
「あっ、あたし…ぜんぜんくいーんなんかじゃないっ…」
「…くいーんなら、したぼくであるオレが守ってやんなきゃな。」
「ほぇ…?」
じわ、と詠美が再び涙腺を緩ませたところで…和樹は何気ない手つきで彼女の肩を
抱きました。ぽんと左の肩に手を置き、おどけるような口調でそう言ったものの…
和樹の頬はすっかり赤くなっています。きょとんとなった詠美が見上げてきた時に
は、もうすでにあさっての方向を見つめて気取られまいとしています。
「…せっかく来たんだし、学園祭…一緒に見て回ろうぜ?」
「あ、あんたと一緒に…?」
「な、なんだ…親戚っつーか、保護者ってことなら問題なかろう…。保健展だけ
見て帰るってのも寂しいし…どうせなら詠美と一緒に…な?」
和樹は精一杯気を使って、詠美を狭い保健室から解放しようと試みているのです。
頬が赤いままなのは、若干の下心が付随しているからですが…和樹自身はまだ照れく
さいと感じるだけで、特別な想いの存在はまだ意識していません。
そんな和樹の誘いかけに、詠美は泣き腫らした顔をとびきりの笑顔にして応え
ました。ぎゅっと和樹の左腕にすがりつき、まだ涙で濡れている頬を擦り寄せて
甘えたりもします。
「…うんっ!!行こ!一緒に行こっ!!ポチきっ、ちゃんとくいーんを守りなさいよ?」
「お、おいおい…なんだよ、くいーんは孤高じゃなかったのかよ?」
「ふっふっふ!特別に守らせてあげるわ!ポチきにだけ、特別っ!!」
いつになく焦る和樹が面白いのか、詠美は腕にすがりついたまま離れようとしません。
和樹が話をそらして主導権を握ろうとしても、気取ることなくそう放言して開き直り
ます。
仕方なく和樹が前に、その斜め後ろから詠美が腕にすがりつく格好で歩を進めるこ
とにしました。誰かに聞き咎められたら、仲の良い親戚どうしだと言い繕うつもりです。
そう思いながらも、寄り添う二人の間からは照れくさいほどの温もりが生まれて
きて…冷たい秋の風をはね除けていきます。
今まで考えもしなかった不思議な温もりに魅惑されるよう、そのうち二人はどちら
ともなくぴったりとくっついて…まるで恋人どうしのように、学園祭というハレの場
に溶け込んで行ったのでした。