かんちと書と闘病生活について書いてみました。
写真はカットしました。
まだ、本の出版には至っていません。
ごゆっくりとご覧ください
<本の題名>
「文字がやさしく微笑んでいる!」
・・・・・感動・涙・そして感謝・・・・・
難病と闘いながら書いた「かんち人文字」はがき作品
<巻頭の言葉>(推薦文)
このたび、本冊子が発刊されることになり、本当におめでとうございます。
私も自分のことのように興奮し喜びでいっぱいであります。
さて、かんち君より巻頭の言葉を書いて欲しいとの依頼があり、おこがましくも私ごときものがと思いましたが、「かんち人文字」が確立するする際に立ち会っていた唯一の生き証人ゆえ、お許しをいただきたいと存じます。
ところで、本冊子がこのたび世に出ることになりましたのは、彼が難病で、ある病院に入院したのがきっかけで、それまでに温めていた構想が一気に花開くことになった結果であります。別の見方をすれば、神様が彼を難病にし、「かんち人文字」を確立せよとの神様の思し召しがあったものとも取れます。私が彼を知りましたのは私も難病を患い同病院に入院し、同室で約3ヶ月間寝食を共にいたしました。私が先に入院していまして彼が後から入院してきました。そのときの彼は心身ともボロボロの状態でした。したがって、何もする意欲もないように見えました。
彼は当初、自分は「締め付け」と「痺れ」が非常に強く大変なんだと強調していたような気がします。彼に最初に会った時から私の中に何か分かりませんが、不思議な力が働き、おこがましくも私の知っていることを全部教えてやりたい気持ちに駆られました。そして、私は「彼が良くなれば自分も良くなる」という自他一体の法則が働いているような気になり、彼に一緒になって難病を克服しようよという話をしました。また、お互いに心の病なので、心の持ち方を変える意味でも、毎日、「病気は絶対に治る」等言葉をしょっちゅう掛け合い笑い合い元気を出し合っておりました。
幸い病院も非常に環境のよいところに立地していましたので、彼の心身を癒していきました。やがて、彼は元気が出てきまして、趣味であった文字を近くの海辺で拾ってきた貝殻や石に書き始めました。それが、「かんち人文字」の書きはじめとも言えました。
そして、それを入院患者の皆さんにも見てもらい好評を博しました。入院患者の皆さんが欲しいといえば、彼は患者の皆さんの癒しになればと無償で差し上げていました。患者の皆さんにも評判がいいので彼は自信を深め、さらに、はがき用紙に文字を書くようになりました。それも、患者さん等の評判が良く希望者が殺到し飛ぶように貰われていきました。
その間、彼の「かんち人文字」も変化していき、忘れもしない彼の特別の日であったので、よく覚えていますが、結婚記念日でもあり、初孫さんの誕生日でもある平成十八年の十二月五日を目前にしたある日に、彼は私に喜んで「かんち人文字」が確立した旨の話をしてくれました。その話を聞いて私も大変うれしく思うとともに、彼と一緒に喜び合ったことを昨日のように、今でも私の脳裏に焼きついています。
彼は確立した「かんち人文字」を世のため人の為に世界に広め、世界の人々の癒しになれば本望であると、大きな夢をいつも熱心に話していました。
私は彼の崇高な思いに感銘を受け、このまま「かんち人文字」を埋もれさせてしまうのは、世の損失であるという思いでいっぱいでありました。
幸い本冊子が世に出ることになり、これを機会に彼の非凡な才能が花を咲かし、「かんち人文字」が彼の夢である日本ばかりでなく世界中に広まって世界の人々の心を癒す日々が来る第一歩なればと切望するものであります。
最後になりますが、この冊子は「文字は人を表す」と言われますように、やさしいかんち君の人柄同様、癒しの文字がいっぱい詰まっています。読者の皆様は肌身離さず「バイブル」のように座右の書として利用されるようになれば、彼にとってこれに勝る喜びはないものと確信するしだいであります。
平成19年10月1日
梅 谷 昭 彦
<はじめに>
心を癒せるような笑った文字があったら楽しいな・・・
以前から、そんな夢を持ちながら、どこにでもあるような作品を書いていた。
文字を美しく書いて心を美しくする。そして、心を美しくして文字を美しくする。
これが私の書に対する基本的な考え方であった。
和紙に古墨を使って書くとなんとも言えぬ色と線、墨の匂い。
作品を書いているときは、知り合ったばかりの女性とデートして買い物や食事をしているときと同じだ。そして、出来上がった作品は、みんな素敵な恋人になってしまう。だから、私は書が大好き。
この素晴らしい感覚を多くの人に味わってもらいたい。そんな思いでこの本を書いてみた。
たまたま、難病になり、四ヶ月の入院と闘病生活。全国の末期がん患者や難病の患者さん、そして、そのご家族の方たちと出会い、病と闘いながら生きていく姿を見て、感動し、涙し、そして、感謝した。
難病はストレスから来る心身症で生活習慣病である。心を癒すことによって病を治すとも言われ、この病院では、魂をつめなければ、作品を書くことは大変よいことであるとされていた。
私は自分の病を治すために、そして、患者さんたちがその作品を見て喜んでくれる笑顔が見たくて、病気と闘いながら作品を書き続けた。
ページ
巻頭のことば・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
はじめに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
書との出会い・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
美術の先生とデザイン・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ボールペン習字通信教育・・・・・・・・・・・・・・・・・・
文通とエピソード・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
師との出会いと書と葛藤・・・・・・・・・・・・・・・・・・
闘病生活・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
電車の中で・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
バスに揺られて
綺麗な海と貝殻と石ころ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
治療と免疫力アップ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
カウンセラーさんとの出会い・・・・・・・・・・・・・・・・
石の作品フーテンの寅さん完成・・・・・・・・・・・・・・・
フーテンの寅さんとの悲しい別れ・・・・・・・・・・・・・・
いつも夢見てるといつか叶う・・・・・・・・・・・・・・・・
隣のベッドの患者さん・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
感動と感謝で健全な心に・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出版原稿募集の広告と感動・・・・・・・・・・・・・・・・・
太陽へ祈り・みんなへの感謝・・・・・・・・・・・・・・・・
母への祈り・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
毎日のようにはがきをくれた友達・・・・・・・・・・・・・・
はがきボランティアとかんち作品・・・・・・・・・・・・・・
転院した患者さん・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
カウンセラーさんの助言と展示・・・・・・・・・・・・・・・
退院と約束・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
妻への感謝・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
思い出のクリスマス会・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
終わりに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
かんち人文字作品集・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<書との出会い>
私はもともと字が下手だった。小学校や中学校のノートを見ると、それはとても見られたものではなかった。
でも、器用だったのかな?
小学校2年生のとき校内の書写技能の展覧会があり、どうしたことかクラスで金賞をとってしまった。
金賞をとった子は、町の書写技能大会に出品されることになっていた。
冬休みになると賞をとった子供たちが集められて、木造のすきま風の通る講堂で習字の練習があった。
私は学校から歩いて一時間くらい。襟巻きして手袋して大きな書初め道具のカバンを持って夢中で通った。
先生のことは今でも忘れない。小学校一年生の時の担任の先生だった。
40歳位のふくよかで小柄な優しい先生だった。
北風の吹くあぜ道をテクテクと歩きやっとの思いで学校に着くと、赤々と燃えただるまストーブが小さな私を出迎えてくれた。
先生が「みなさん! 墨をどんどん磨ってください! そして、磨れたらこのバケツの中に入れてね!」
だるまストーブの上にはブリキのバケツが置いてあった。すでに、墨が入っていてグツグツと煮立っていた。先生は何やらうすっぺらなものをその中に入れて溶かしていた。
なんだろう?
「先生!何してんの?」
「これはね!墨を作ってるのよ! にかわって言ってこうして墨の中に入れると墨の色がよくなるのよ!」
確かに、磨った墨とまったく違い色が淡くやわらかかった。
1週間くらい通ったであろうか・・。
清書の日がきた。私には今日まで出品できるような満足する作品が出来上がってなかった。
先生が・・
「筆が割れちゃうね! 先生の筆を使って書いてみて!」
そう言って、だるま筆のかなり太い筆を貸してくれた。
何て書きやすい筆だろうと子ども心にそう思った。
よく分からないけど、確かに自分の筆で書いたお清書よりずっと上手く書けた。
「大分よくかけたねー!じゃあ・・これを出すことにしましょう・・。」
「やったー・・先生に褒められたー・・」
何度書いても上手く書けなかったのに
先生の筆で書いたら一枚で上手く書けたので、とても、嬉しかった。
そして、その作品が町内の展覧会でも賞をとり、県の展覧会に出品され特選をとってしまった。
その時の感激は今でも鮮明に心の中に残っている。
それから、普段の文字は下手なのに、何故か書が好きになった。
<美術の先生とデザイン>
中学校のとき担任の先生が美術の専門であった。
そのため、色んな時間に絵を描かされることが多かった。私は絵が苦手だったけど、中三年生になったとき、美術の先生が交代になった。
この頃はデザインの勉強が多く、美術の成績もどんどん上がった。
気がついたら、いつの間にか私はデザインが大好きになっていた。
中学校を卒業すると工業高校に入学した。デザインが好きになり、また、学校で図面を引いたりしていた関係から、商品のパッケージなどを描くイラストレーターになりたいと思った。
幸い普通高校と違い時間に余裕があった。
それで、レタリングの通信教育を半年位やって基本だけは理解した。
進学もデザイナーを養成する学校へ行きたかったが、当時就職の先生にデザイナーで生活していくのは難しいということで断念した。
<ボールペン習字通信教育>
私は工業高校だったので女性との出会いがほとんどなかった。当時、雑誌で文通希望のページがあって、そこに載っている人に手紙を出してみた。でも、不思議なことに返事すら来なかった。 その時、字が上手くなりたい、綺麗な文字が書きたいと思った。
それから、通信教育でボールペン習字を習い毎日のように練習した。手本を何度も何度も練習し、また、新聞紙の余白にも記事を見て美しい文字で書けるように練習した。
そうして、少しずつ綺麗な文字が書けるようになっていった。
<文通とエピソード>
隣の町に工業系の大学があり私はそこに入学した。その大学で広島から来て寮に入っている友達ができた。彼と仲良しになり学校が終わると寮に行って遊ぶことが多かった。
ある時、ペン字の話になった。私は民間の初段だったが、彼は文部省検三級を持っていることが分かった。 文検三級って相当上手いんだろうなって思った。でも、負けたくはなかった。
自慢げだった彼に
「文検三級ってすごいな! 俺は初段だよ。 じゃあさ! 雑誌に文通の希望者が載ってるよね! 同じ人に手紙出してみようか? あれって何百人も希望者があって選ばれるのは大変らしいよ・・」
彼は・・
「よーし・・やってみよう・・」と
にんまり微笑んだ。
「どうせやるんじゃ・・賭けをしない? 文通をやってくれるって返事が来たらカツ丼をご馳走になれるってのは、どう?」
ということで、お互いに納得し笑いながら別れた。
そして、同じ人に同じ日に手紙を出した。
十日位の後・・
私には九州の彼女からの文通をやってくれるとの手紙が届いた。
彼に結果はどうだったか聞いてみた。でも、まだ、連絡はなかった。
(しめしめ! 雪も降ってなかったけど手紙には、「窓の外には雪もチラチラ・・・」なんて書いたのがよかったかな?)
そう思いながらカツ丼が頭に浮かんだ。(笑)
とうとう、彼には返事すらこなかった。
その後、金がなかった彼には、実家でご飯をご馳走したりした。(笑)
それから全国のいろんな方と文通をするようになり、文字を書くことが楽しく、少しずつ上手になっていったと思う。
今、振り返ってみると文字を習うきっかけってこんなものだったんだって笑ってしまう。
<師との出会いと書の葛藤>
私は大学を卒業し地元の会社に就職した。
休みの日には書の通信教育をやったり、隣町まで塾に通った。しかし、本格的に書を習いようになったのは、仕事の関係である先生にお会いしてからのこと。
中央で活躍され、日本でも有数の団体に所属されていた審査員の先生と出会い。素晴らしい作品を拝見し、いつか、先生のように上手になりたい。そう思い先生の弟子として入門した。
先生は大きな会社に勤めていたが、書の道へ転職し素晴らしい文字を書いていた。
師に出会ってから、毎日相当な枚数を練習しかなり上達してきた。
入門して十年位したあるとき塾を始めました。職場に勤めながら書をやっていくことは大変だったが、子どもたちと接するのはとても楽しく、そして、教えることによって自分の勉強にもなった。
大きな作品も書くようになり、色々な展覧会にも出品し、素晴らしい賞も受賞させていただいた。
しかし、そんな書との関わりの中、だんだん、疑問が出てきてしまった。
それは、私は漢文が苦手だったからであった。
作品を書くときには参考書で釈文を読んで意味を理解して書く。
それが、大切なことは分かる。でも、たとえば遠い昔の中国の唐の時代のことを理解しようとしても、そして、それを作品に上手く表現することがどうしても苦手だった。
それに、その作品を展示したとしても、書を習っていない人には、理解できる人は少ないに違いない。
こんな展覧会でいいのであろうか・・・。
書展を見るたびに、作品展は習っている人だけのものに思えてしまった。
多くの人から見て楽しいと思えるよう書の作品が書きたい。
作品に色が欲しい。絵を添えたい。いつもそう考えてしまうようになった。
でも、絵を描くのは、やはり難しい。
そんな思いから、絵に変わるものを考えるため、しばらくは文字と遊んだりしていた。
<文字遊び>
辛いという文字が幸せという文字に似ている。だから、辛い時もいつか幸せが来ると信じて頑張りたいということから、「辛」の文字を書いて欲しいという依頼があった。
こんな感じで文字を作ったことがあった。
壷の中に美味しそうな酒があったので飲んだらこんなに酔って楽しくなって夢心地です
苦しくても悲しくてもそして淋しくても涙なんか見せないでこんな風に笑っちゃえ!
布に文字を入れてみた
Tシャツに パッチワーク小物入れ 布のコースター
インテリア関係に文字を入れてみた
ポット マグカップ 皿
ドアーの窓に プリンタ カレンダー 紙・革コースター
<闘病生活>
今から思えば、私は平成十六年の十二月ころから発病していたのかも知れない。職場に行きながら、ふと、足の指先の痺れを感じた。どうしたのかなーって思ったが、数日で治ったため気にもとめなかった。
翌年二月頃、今度は足の指先のほかに手の指先まで軽い痺れがでた。近くの整形外科へ行っても原因は分からなかった。でも、痺れ止めの薬を飲んだら治ってしまった。
そんな感じで数ヵ月後、また、手足の指先が痺れてきて、あちこちの整形外科へ行ったが、原因も分からず首から下が痺れるようになった。
しゃっくりも数日間も止まらず、血圧も下がり、歩くのがやっとの状態であった。
紹介された大学病院で診察する前に血圧を測ると上が八十に下が五十。看護師さんに処理室に連れて行かれ、何人もの先生に問診され色んな検査を行った。その結果、多発性硬化症という難病であることが分かった。
多発性硬化症とは神経を電線に例えると、中心の周りのビニールで覆われている部分を間違って攻撃して傷つけてしまう病気であるらしい。傷つく場所により、車椅子や寝たきりの生活になったり、あるいは、言語障害とか尿障害になったりするとても恐い病気であると聞いている。
平成十七年七月に初めての診察の日に入院することになった。入院の準備などしてなかったので、TシャツとGパンのままでベッドに寝かされた。ステロイドの点滴を3日連続で投与した。 だが一回の治療では効果がなく再度三日間行うことになった。
その結果、起立性低血圧としゃっくりは治り、強い痺れは一時的には良くなった。しかし、時々強い痺れが何回となく襲ってきていた。
痺れのほかに、体の足腰に力がなくなり、腕や指も思うように動かない・・。
心の中で・・
(うそー・・! 手が思うように動かない。綺麗な文字が書けない・・ 何で? )
目の前が真っ暗になった。痺れも改善されていなかった。
退院まで約一か月半、体のリハビリと共に何冊もノートに文字を書きまくった。
退院の日が来て妻が迎えに来ていた。
さすがに今日の妻の顔は嬉しそうだった。
担当の女医の先生は私と妻に向かってこう言った。
「この病気は再発の可能性の高い病気です。ストレスは駄目です。仕事のことも、職場と相談してください。それと風邪をひかないようにしてください。食べ物は野菜をいっぱい食べてください。」
退院することが不安だった私は・・・
「先生!これで退院になるんですか? この痺れは治らないのですか?」
「残念ながら・・・後遺症です。」
「後遺症って・・・? 今まで十の痺れが二になったんだったら、後遺症って分かるけど、十の痺れがほとんど残っているんです・・・。これが後遺症ですか?」
すると、先生ははっきりと
「この痺れと上手く付き合っていってください。」
と言った。
好きだった書も痺れが強くなるたびに筆がもてなくなる。
自分の将来を考えたら、心の中は真っ暗だった。
暑い夏が過ぎ・・秋も終わり季節が過ぎてゆく
仕事をしばらく休んで自宅で療養しているうちに、だんだん、慣れてきて強い痺れが来ない時は文字も書けるようになった。
そして、翌年の春、桜の花も蕾を見せ始めた頃、数ヵ月ぶりに職場に復帰したのであった。
しばらくは順調に見えていたが、また、強い痺れが多くなった。
そして、四国の海辺の街のある病院に入院した。
平成十八年十月二日のことであった。
<電車の中で>
この病院は癌や難病の患者さんが全国から治療にやってくる。
東京駅から新幹線
この足で、スムーズに乗り換えられるか心配であった。一度も来たことのない場所。ずーっと心配していたけど、その駅に着二十分位前に、朝が早かった為かうっかり寝てしまった。
「お客さん!! 終点です。」
車掌さんに起こされた。
「えっ!」
起きると同時に時計を見た。
(しまった・・・。あと一分しかない)
この電車に乗れないと次は一時間以上待たければならない。
指定された時間までに行けなくなってしまう・・。
「中村駅行きはどの電車ですか?」
「となりのホームです。」
見ると、電車は今にも出発しそうだった。駆け足で階段を上り隣のホームへ向かいやっと電車に乗り込んだ。
その瞬間電車のドアーが優しく締まった。
(運転手さん!ありがとう!)
心の中で、そう、つぶやいた。
そして、駆け足が出来たんだと。 自分の足にも(ありがとう・・。)
電車も山の中を走る。トンネルが多くたまに見えるのは木や草がばかりだった。
ふと、車内を見渡すと乗客は二人だった。
なんか、寂しくなってしまった。
やがてJR
<バスに揺られて>
駅前はローラーリーになっていた。特に大きなビルもなく落ちついた駅前であった。
ホームを出ると病院方面のバス乗り場はロータリーの中程にあった。
初めての場所、本当に目的地につくのか心配だった。
そこには、一人の若い女性がバスを待っていた。彼女は顔やや腕が少し赤らんでいた。
もしかしたら、アトピー患者かも知れないと思った。
「あの・・土佐清水バスセンター行きはここですか?」
「はい・・そうです。私もそこまで行きます。」
「そうですか。一人で心細かったのですが安心しました。
ところで、失礼ですが、もしかしたら、土佐の病院へ行かれるんですか?」
「はい、そうです。」
「ああ・・バスが来ましたね・・。じゃあ、乗りましょう。」
隣同士に座って話していった。
「そうそう、私はかんちって言います。
難病になってしまって入院することになりました。」
「私は佐藤です。よろしくお願いします。」
お互いにホッとした顔して微笑んだ。
「もしかしたらアトピーですか?」
「ええ!」
「アトピーはかゆくて大変ですね!」
「私は今回で3回目になります。十年前に一度来てよくなって、また、5年後に入院して、今回で三回目です。
丁度お腹に赤ちゃんが出来たので、生まれる前に治して起きたくて・・」
「赤ちゃんが生まれるんじゃ、その前に治しておいたほうがいいですね!
私の娘もあなたと同じ位の年齢ですが、丁度十年位前にこの病院で診てもらったんです。入院っていっても、近くの民宿らしいけど・・・。」
「そうですか?じゃあ・・今の病院じゃなくて古い病院ですね!私も同じ頃ですね、民宿に泊まって病院へ通いました。」
「なんか奇遇ですね!うちの娘は当時高校生で、夏休みに東京駅から高知まで夜行バスで来たんですよ・・。こんな遠くまで、一人で・・たぶん、心細かったでしょうね!」
そんな話をしているとバスは四万十川の脇をとおり、やがて、太平洋が見えるようになった。
薄暗くなってきていたが、なんだか、大分遠くまで来てしまった。
かれこれ三十分から四十分くらい走ったであろうか・・
「まだですかね?大分奥のほうまで来てしまったみたい・・。」
「もぅすぐですよ。私は三回目だから・・。(笑)」
いよいよバスは街中に入ってきました。
ついに清水バスセンター着いた。
娘から、何もないところだよって聞いていたけど・・
こんな街中だったんだ・・。
自宅から十時間以上もかかっていて、本当に遠かった。
もぅ、午後5時、休む暇なく受付にかかった。
「じゃあ・・またね!何階?私は三階だけど・・・」
「私は二階です。」
そういって彼女と別れた。
<綺麗な海と貝殻と石ころ>
病院から東側には歩いて十分で漁港があった。そして、北側は低い山があり、空気は綺麗でとても環境の良いところだった。
人口は今では少ないが以前は港町としてかなり栄えたところだと聞いている。
そして、今でもその面影が残っていた。
病院の近くにある海はエメラルドグリーンのような色でとても綺麗だった。地元の人に聞いたら、昨日は雨だったとか、雨が降った翌日はこんな海の色になるらしい・・・。
魚を獲ってきた後だったのだろうか。船がいっぱい浮かんでいた。
港を左にして二十分ほど歩くと防波堤があった。
そこを階段で乗り越えると真っ青な広大な海が広がっていた。
吸い込まれるような海の碧さに、心が洗い流されるような気がした。
その時、ふと、家に残してきた妻のことを思い浮かべた・・・。
・・・・・
少し岩場があり、そこには小さくて丸く平たい石や綺麗な貝殻が何種類も落ちていた。
その中にとても綺麗な貝殻があったので、拾って病院に持ち帰った。
<治療と免疫力アップ>
この病院の私が受けた治療は、院長先生の開発した特殊な薬(食品)を飲むことと、朝の点滴、特殊な石のお風呂に入ること、それと自分の尿を分離し病気を治すのに良いとされている成分を抽出し、必要量を飲むことであった。
また、カウンセラーさんの常時巡回とビデオ研修が主なものであった。
希望者はハンドテラフィーと言う手のマッサージを月に2回位受けることも出来た。
あとは、出来るだけのんびりして、体力をつけて自然治癒力をアップすることを勧められ、各自思い思いに行なっていた。
私は書の作品作りと散歩と、そして夜には患者さん達がヨガをやっていたので私も参加していた。
<カウンセラーさんとの出会い>
私は治療が終わると、病院のベッドのテーブルで黙々と貝殻に筆ペンで文字を書いていた。
「夢」「愛」そんな文字だった。失敗しては書き、失敗してはまた書き・・。だんだん上手く書けるようになった。
私の部屋はナースステーッションのまん前、お医者さんも看護師さんも患者さんもよく部屋の前を歩いていた。
「あらあら・・貝殻に文字を書いているのですね!」
「はい、なかなか難しくて・・」
そう言いながら顔を起こすと、髪の長い素敵な女性だった。とても優しい柔らかい言葉使い。見たところ私よりは少し若い感じだった。
看護師さんと同じような服を着ていて胸にはカウンセラーの名札が付いていた。
心の中で・・・
(何?ここの病院はカウンセラーさんがいるんだ!)と思った。
「かんちさんは書道をやっているのですか?」
「はい、趣味でやっています。入院したら退屈だと思い筆ペンとボールペンの手本を持ってきました。」
「あら!そうなの!・・ その貝殻はどうしたの?」
窓の方を指差し、
「あっちの海の一番奥まで行ったら、綺麗な貝殻があって、これに文字を書いたら面白いかなって思って拾ってきたんです。」
「そうなの・・・綺麗な貝ね! でも、そんなところに書くのは難しそうね!」と覗き込みながら、
「顔みたいね・・かわいい!」
「漢字に目と口を書いています。でも、はじめたばかりで、なかなか上手くいかないけど、こうすると文字が楽しくなるんです。
「先生!私の病気は心の病ですか?」
「どうして?」
「もしかして、カルテに、もう病気そのものは治っていて、まだ痺れるのは神経が原因って書いてあたりして・・。それで先生が私のところに来たんじゃないですか?」
「違いますよ!この廊下を通るたびに、いつも一生懸命に貝殻に文字を書いていたので、楽しそうなので見に来ました。」
ちょっと、安心して・・
「そうだったんだ・・!楽しくて、夢中になってやっています。たまに、患者さんにあげると喜んでくれるので、とっても、嬉しいです。」
「前のベッド空いているから、そのテーブルに飾っているんです。点滴棒にも(笑)」
それから、先生はたまに遊びに来てくれるようになって、色んなことを話すようになった。
先生はこんなことを言ってくれた。
「人は思ったとおりの人間になるのよ。だから、かんちさんは、いつも書で成功しているところを夢見ていなさい。そのとき、かんちさんは病気でいますか?」
ちょっと想像してみた。
・・・・・
「いいえ、元気で作品を書いています。」
「そうでしょ・・。いつも書の夢を考えていれば病気も治って書も有名になるわよ」
「ほんとですか?じゃあ・・いつも夢を見ています。」
書道教室を開いたり、元気で作品を書いて個展を開いたり。本を出して有名になって、
食品売場の商品にも「かんち人文字」がいっぱい。
外国まで広がっていく・・。
考えただけでも心がワクワクして、なんだか嬉しくなってしまった。
私の喜ぶ顔を見て先生も嬉しそうに帰っていった。
長い髪が上下に揺れ・・
後ろ姿が優しげだった。
<石の作品フーテンの寅さん完成>
先日、海岸で拾ってきた丸い石三つ。そのうち、二つは平でまんまるな形をしていて一つは卵型をしていた。
いつものように治療が終わり、ベッドのテーブルで最初に一番小さい丸い石に何か文字を書こうと、じっと見ていた。
ふと、昔、笑顔をしているスマイルバッチがあったのを思い出した。
(そうだ・・・かんち人文字で、「笑」を書いてみよう・・・)
時々、ものすごく強い痺れが体を襲ってはきたが、しばらくすると、その強い痺れも去っていき、次の強い痺れが襲ってくる間に書けるところまで書いた。
まず、石全体を金色の筆ペンで塗る。
乾いたら、丸い石にまず竹かんむりを書いた。竹の二画目と四画目は丁度顔の輪郭になるような感じにして、目は優しく垂れて、鼻は点にして・・そして口は赤くし明るく微笑んでいるように書いてみた。
途中、何度か強い痺れをこらえながら、とうとう出来上がった。
おまけにまつ毛をちょっと追加した。
病院の中では、患者さんや看護師さんにも好評だった。
ある日の夜、ベッドの上で渥美清のフーテンの寅さんのテレビがあり見ていた。
笑顔は体にすごく良いそうで、元気ホルモンがいっぱい出て免疫力が3倍アップとか聞いている。
寅さんの笑顔って素敵だなーって笑いながら見ていた。
「けっこうけだらけ、ねこはえだらけ・・・ちょっと、そこのねえちゃん・・・」
と終わったとき・・かんちの「笑」の文字が、ふと、頭をよぎりフーテンの寅さんの笑い顔と重なった。
次の日、治療が終わるとすぐにベッドのテーブルの上で、2番目に大きい丸い石を使って同じように書き始めた。
フーテンの寅さんは帽子をかぶっていた。銀色の筆ペンで帽子を画き、大きく口を開けて書いてみた。
何か物足らない感じもあったが、まあまあの作品かなと思った。
私には所属しているネットの会があった。入院中でパソコンが使えなかったので、携帯電話からアクセスして写真をアップし、ネット友達に見てもらった。
とっても大うけだった。
でも、フーテンの寅さんには腹巻と下駄もトレードマークだという意見があった。
(なるほど・・確かに・・・)
今度は最後に残っていた卵のような石に文字を書き、帽子を乗せ、腹巻をつけ、足に下駄をはかせ、おまけに目のところに大きなホクロを付けて完成した。
はじめに作った二つの作品にも後から帽子やホクロを付け加えた。
(やったー・・そっくりだよ・・)と心の中で呟いた。
これが、かんち人文字の最初の完成品となった文字だった。
これを三点セットにしてインターネットに掲載した。
それからしばらく、3階の受付カウンターに飾っておいた。
受付のお姉さんが一番小さいのが、昔の金紙に包んだチョコレートみたいで、大好きだって言ってとっても可愛がってくれていた。
<フーテンの寅さんとの悲しい別れ>
ネット友達からメールがあった。
「フーテンの寅さんの石の作品を拝見しました。とっても可愛くて欲しいのですが、譲っていただけませんか? 勿論、お金はお支払いします。」
息子のように思っていた可愛い寅を手放すのは嫌だった。
このまま、受付のところにおいて、受付の事務の方に毎日見てもらって、患者さんに喜んでもらおうと思っていた。
「寅は、売り物として作ったんじゃないんです。」
「でもどうしても欲しいのです。」
友達がそう言うので・・・
「だったら、お金はいらないです。その代わりに十二月五日まで待ってくれますか?
寅を大切にしてくれますか?」
「はい、分かりました。楽しみにしています。ありがとうございます!」
こんなメールの会話だった。
その人は、青森の方で、毎日 チクチク、チクチクと手作りドールを作っていた方だった。
いよいよ、寅の婿入りの日がやってきた。十二月なのにここは、よい天気で暖かく気持ちよかった。
受付のお姉さんも愛おしそうにしながら写真を撮った。そして、寅を手にとって・・
「さようなら・・
向こうへ行っても幸せになるんだよ!」とナデナデしてくれた。
それから、寅はお化粧して綺麗になった箱の家に入って、青森に旅立って行った。
(寅!!よかったな! いい人に貰われて・・・青森で幸せに暮らせよ!!
・・元気でな・・)
それからしばらくして、お礼の手紙と手作りの心のこもった人形をいただいた。
こんな手紙だった。
カンチさん こんにちは!
笑・笑・笑の寅さん
寒――――い 青森に無事到着!
大切なものおゆずり頂き「感謝」です。
ストレスから起こる病気
綺麗・繊細な心の持ち主のカンチsan
なのでしょう・・・ネ
ガラスのような心
早く元気になってください! ネ
寅san 大切に! します。
ご心配いりません。
一足早いクリスマスプレゼントです。
心を込めてチクチクしました。
可愛がって頂けたら嬉しいです。
ネットで知り会えたご縁
大切にしていきたいです。
・・・・
カンチさま
Rumiより
2006.12.7
人形が寅の妹のように思え、名前を「さくら」と付けた。
「さくら」を見るたびに、寅を思い出してしまう・・
(今頃、元気かな?)
・・・・・
<いつも夢見てるといつか叶う>
私は、長い間、書の勉強をしてきた。
漢文など習ってこなかった私には、書の作品づくりはいつも悩みの種だった。それは、書く文字が漢文だったから。本の釈文を読んで内容を理解しようとしても、たとえば中国の遠い昔の唐の時代のことを、気持ちを込めて作品にすることは、とても、難しいことだった。
それで、今の日本の言葉をそのまま書こうとしたが、それだけで作品を書くには何か物足らない。作品の中に絵を描きたかった。でも、私には絵を描く才能などもっていない。なんとか、面白い文字が書けないものかと思っていた。
絵やデザインがインテリアやファッションの中には多いのに、何で筆文字がデザイン化されないんだろうといつも考えていた。
いつか、デザイン化した筆文字をインテリアやファッションにも取り入れたい。私の文字をいたるところで目にすることが出来て、そして、人々の心が癒されたらどんなに素晴らしいだろう。といつもこんな夢を見ていた。
この病院へ入院するまでは、かんち人文字は「愛」の漢字の口に当たる部分と目に当たる部分の一部しか出来ていなかった。でも、これだけでは、どうにもならない。
いつか、かんち人文字を完成させようと思っていた。
「いつも夢見てるといつか叶う・・」
私の好きな言葉である。
<隣のベッドの患者さん>
私の病室は四人部屋であった。
隣の患者さんは、もう六十歳を超えているくらいの男性だった。私より1ヶ月早く入院していたようである。日ごろから、本を読んでは病気を治すために自分たちで出来る色々なことを教えてくれた。
朝、起きるとお互いに体温を測り、
「かんち君! 何度あった? 」
「三十五度七分です。 」
「まだ、ちょっと、低いな! 生姜紅茶飲むぞ! 」
「はーい !桜谷さんは? 何度だったんですか?
「僕三十六度二分だったよ」
「え?もぅそんなに高いんですか?」
「カイロをお腹と腰につけて寝たんだよ!」
そんな感じでいつも朝が始まる。
私は、体温を上げるために紅茶に生姜をおろして入れる。
そして、更に体温を上げるために病室にある洗面台でお湯を出して手浴をしていた。
あっと言う間に平均体温が三十六度五分。とりあえず今の目標は達成だ!
食事の前には桜谷さんは必ず歯を磨く。口の中の細菌が体内に入らないようにするためだ。
歯磨きが終わると、そのうちカーテンの中でバタバタと足踏みの音がしてくる。軽い運動をしていた。私は階段を一階まで下りて、そして四階まで上ってから三階に戻る。この病気は体力がなくなるのも特徴でとても疲れた。
そして、朝食になる。ひと段落すると、ベッドで自由にテレビを見たり本を読んだりしている。
やがて、看護師さんが回ってくる。
「おはよう!おかわりありませんか? 今日もツイてるかな? 今日のお熱は?」
「じゃあ・・点滴しましょうね!」
そんな感じだった。そのあと、体に良いとされている石風呂に入ります。
特殊な紫外線を発するらしく、これが、私の難病にはとても良いとのことであった。
そのほか、いくつかの治療があった。
それが、終わると、桜谷さんは医学に関する色んな本を読み出す。そして、私にもアドバイスをしてくれた。桜谷さんは忠実にそれを実行していたので感心してしまった。それを見ていた私も出来るだけやろうと努力した。
私は、いつものように作品書きに取りかかる。隣にいて作品が気になるらしく、
「本にこんな言葉があったよ。いい言葉だから書いてみるかい?」
「はーい、ほんといいですね。書いてみますね!」
そして、出来上がった作品を桜谷さんは、自分のことのように喜んでくれた。
食事の時間になる。病院食は少なめで肉は全くないし、乳製品もない。味は薄味であった。
「かんち君! 食べ物で黒いものは体にいいんだよ! それに、これは体にすごくいいよ!」と言いながら、冷蔵庫から取り出し私にも分けてくれた。そうして、食事の大切さも教えてくれた。
そんな感じで寝食を共にし、二人は、ますます、仲良しになっていった。
<感動と感謝で健全な心に>
私も色々な本を読んでいるうちに、全部ではないかも知れないが、癌や難病の原因はストレスから来る心身症で生活習慣病であることが分かってきた。そのうち心の割合がかなりのウエイトを占めるそうだ。
そして、その心を健全なものにするには感動と感謝することが大切であることを本で知った。
幸い、この病院でも色々な感動に出会い涙し、そして、感謝した。
人の心の弱さも強さも優しさもそして、たくましさにも触れた。
<出版原稿募集の広告と感動>
私が病気と闘いながらの一生懸命に作品を作っている姿、そして、作品を見て喜んでいる患者さんを隣の桜谷さんがいつも見ていた。
十一月頃だったかな? 病院の新聞を持ってきて
「かんち君・・! 新聞に本の出版の原稿募集があるよ。応募してみたら?」
それは、大手出版社の新聞広告だった。
「ほんとだ・・!!どんな部門でもOKだ・・。」
新聞を見て心がワクワクして夜も眠れなかった。
私は昔からいつか本を出版したいという夢を持っていた。
私は、筆ペンで作品を書き溜めていた。内容も縁起のよいものばかり。それに健康に関する作品もあった。
それから、ネット友達に本について意見を求め企画書を作成し、
応募してみた。もちろん、桜谷さんの意見も聞いて新作もつくった。応募して数日で出版社か出版化OKの回答が来た。
しかし、入院費用がかさむ中、自己負担があり、費用の面で難しく断念せざるを得なかった。
でも、心の中では出版社が認めてくれたんだ・・かんちの人文字の作品を認めてくれたんだ。と胸が熱くなる思いだった。
<太陽へ祈り・みんなへの感謝>
病院にはテーブルや椅子があり、テレビやビデオを見られる部屋があった。20人くらい入れる大きな部屋だった。
治療が終わると、そこで手芸をやっている人。本を読んでいる人。お昼には、みんなで昼食をとっている人もいた。
そこは病院の東側に位置し、北側には一〇〇メートル位な山が広がっていた。
そこからは海は見えないが・・低い山の後ろから、日の出が見える絶好の場所である。天気のよい日は、東の空が赤々と色づき、そのうちギラギラと燃えるような大きな太陽が顔を出す。また、屋上からも、この日の出は良く見えるし、右前方には海が少しだけ見える。
毎朝、この時間になると、パジャマ姿のやせ細った患者さんが談話室では何やら小さな声を出してメモを読んでいる。般若心経だったかも知れない。そして、太陽が昇り始めると談話室からテラスに出て、太陽に手を合わすのであった。
屋上にいた患者さんたちも洗濯物を干したり体操したりしているが・・
太陽が出てくると。手をいっぱいに広げ太陽の朝日を浴びながら深呼吸をしたり、何やら祈っている人もいた。
私も屋上へ行き太陽に向かってヨガで覚えた何種類かの呼吸をし、そして、大自然の神に感謝した。
<母への祈り>
私と同じ年齢くらいの車椅子のお母さんが二十歳位の娘さんに連れられて、かんちの病室に飾ってある作品を見にきた。
「書道の作品ですね!」
「ちょっと見せてください。」
品のよい女性だったが
とても弱々しい声だった。
「はいどうぞ!」
そんな程度の会話で
作品を見て、また、娘さんに連れられて自分の病室の方に帰っていった。
私は、入院してから、あるネット友達から文庫本を借りていた。
確かトリツカレ男という本だった。ジュゼッペはみんなからトリツカレ男と言われていてペチカと言う女性に恋をするというお話で、何にでも取り付かれて夢中になってまた次のものに興味が湧くとすぐに取り付かれてしまう。
だからいろんなことに優れていた。ジュゼッペはペチカの笑顔には暗い影を感じていた。ペチカには好きな彼がいたが、彼は亡くなっていた。ジュゼッペはペチカを明るい笑顔に戻そうと、今まで身につけたあらゆることを生かして、とうとう二人は一緒になったと言う話だった。ちなみにペチカもトリツカレ女だった。
いつも献身的に車椅子のお母さんの面倒を見ていた彼女は疲れないかな・・・
と思い、その娘にその本を貸してあげた。しばらくして「ありがとう」といって本を返しに来てくれた。でもその後も通路ですれ違ってもあいさつもしてくれない。
どうしたんだろう・・。
この病院は宗教の病院ではないけれど4階には礼拝堂があり、そこに十字架がある。
礼拝堂には、ちょっとした本が置いてあった。
ある日、本を借りに行った。そこは暗く12月なのに暖房も入っていなかった。いくつかの長いすが並んでいる。
本を探していると物音がした。振り返ってみると、その彼女が長いすの脇の冷たい床にひざまずき十字架に手を合わせていたのだった。
(そっかー・・・彼女のお母さんの具合が良くなかったのか・・・)
私は、翌日、小さなガラスの額を買ってきて、かんち人文字で「愛」の文字を書き、後ろに見えないように完治って書いた。
それを持って礼拝堂に行って・・・
「神様・・お願いがあります。どうか。あの娘さんのお母さんを助けてあげてください。
また、この「愛」の文字を見た患者さんの病気を治してください。お願いします。」と祈り作品に魔法をかけた。
彼女と廊下ですれ違ったとき・・
「これ作品を書いたんだけど・・よかったらお母さんにあげて!
気に入らなかったら礼拝堂に飾るつもりだから。返してね!」
そう言って手渡した。
数日後、彼女はすれ違っても、・・・下を向いたままだった。
しばらくすると彼女がだんだん明るくなって、私と廊下ですれ違うときに、微笑ながらあいさつをしてくれるようになった。
なんか、照れくさくて彼女の顔を見ると笑われているよう気がしてきた。
(そっかー・・・かんちは黙々と作品を書いていてトリツカレ男に見えるのかな?
でも、彼女ももしかしたらトリツカレ女かも・・)
私も心の中で笑ってしまった。
談話室で彼女と会ったとき・・
「最近、お母さん体調いいの? 」
「はい・・お蔭様で・・ありがとうございます。」
とても明るい素敵な笑顔だった。
半月後の深夜、部屋からは彼女の激しい泣き声が聞こえていた。
<毎日のようにはがきをくれた友達>
私が入院したのを知ったネット友達が毎日のように「元気が出るはがき」をくれた。
彼女は、以前から絵を書いたり文字を書いたり手先の器用な女性だった。
色んな種類のはがきを買ってきては、そこに絵を書いたり、切り絵を貼ったり色んな工夫をしたはがきを送ってくれた。
本当に感謝の気持ちでいっぱいで、一生忘れることは出来ない。
彼女はある日、かんち人文字ではがき作品を作って応募してみないかと大手出版社の作品募集の案内を送ってくれた。
それがきっかけでポストカードブックの作品を作り始めた。当時2種類の本の原稿作品を作っていくことになった。結局、応募には間に合わなかったが、今回の作品はそのときに既に下書きとして仕上がっていたものがほとんどであった。
彼女から、あのパンフレットをいただいてなかったら、この本は出版されてはいなかったと思う。
<はがきボランティアとかんち作品>
色んな方からの励ましにより、4ヶ月の入院生活もいよいよ退院が決まった。
彼女から退院されるんだったら、入院患者さんで私の代わりにはがきを受け取ってくれる方を5人位探して貰えないかとの話を受けた。
私は、驚いてしまった。毎日はがきをいただいてみて、出す人のことを考えたらなんて大変なことだろうと思ったからだ。素敵なはがきを探すのは簡単ではない。ましてやそれに色々な飾りや絵を描いて綺麗なはがきに仕上げるのだ。切手だっていろんな種類を探したに違いない。
その言葉を聞いたとき、私は考えた。
(そうだ、ネットの会で、全国の友達から、はがきや切手をいただけないか聞いてみよう・・)
そして、はがきや切手をいただいた方には、お礼に私の直筆作品をあげることにした。
私の自宅には全国のたくさんの方からはがきや切手が届いていた。
(みなさん!ありがとう!感謝しています。)
<転院した患者さん>
病院でいつも歩行器を使いながら歩いている女性の若い患者さんがいた。
いつも、歩行器につかまって廊下を歩いていた。すれ違ってもうつむき加減であいさつも出来なかった。心の中でこの娘さんも大変なのかな?といつも思っていた。
他の患者さんはいろんな方とすぐに仲よくなっているのに、相変わらず他の病室の方とはあまり話もしなかった。ある日、トイレの近くの廊下ですれ違った。だんだん大変そうになっていたので思い切って声をかけてみた。
「どこが悪いんですか? 」
彼女は突然声をかけられビックリしたようだったが、すぐに微笑んで、
「足の骨まで転移したみたいで。痛くて歩行器がないと歩けないんです。それに、ここのところ熱が出ちゃって・・」
「そうなんだ・・頑張ってね!」
私は、彼女にかんち人文字を見せて、少しは絵顔を取り戻してもらいたかった。
それから数日後・・
廊下ですれ違ったとき、はがきに書いたかんち人文字の作品を手渡した。
彼女は
「ありがとうございます。」
とにっこり微笑んで言った。
でもその声は弱々しかった。
そしてまた、歩行器で自分の部屋に帰っていった。
歩く後姿はとても辛そうだった。
彼女の熱はなかなか下がらなかったのだろうか。
しばらくの間・・歩行器は廊下に寂しそうに一人立っていた。
ある日曜日、私が談話室で作品を書いていると、私と同じくらいのお母さんが入ってきた。患者さんのご家族の方のようだった。
私の人文字作品を見て・・・・
「変わった作品ですね!・・・お見舞いに来てるいんですか?」
「いえ違います。患者で入院しています。 ここでは治療が終わると、のんびりするようにとのことで、患者さんは手芸をやったり、散歩したりしています。それが体に一番良い療養みたいです。私は書が好きだから、はがき作品を書いています・・・。
ところでどなたかのお見舞いですか?」
「そこの321号室の患者の母です。なかなか良くならないで・・」
「そうだったんですか・・・。熱が出ちゃったみたいで大変ですね!」
「ええ・・今度、近くの病院へ移ろうかと思います。」
「そうですか。ここは遠いから看病に来るにしても大変ですからね!」
・・・・
それから十日ほどが過ぎただろうか。彼女が近くの病院へ移ることになった。
退院の日、お母さんが来ていたので聞いてみた。
「私の女性のネット友達で患者さんや病気と闘っている人に、元気が出るはがきを出したいという人がいます。今、その人の書いたはがきをもらってくれる人を探しています。返事は書かなくていいんです。どうでしょうか?いただいてもらえますか?」
「え!“そんな方がいるんですか?
娘も喜ぶと思いますので、是非お願いします。」
・・・・・
お母さんはにっこり微笑んだあと、涙ぐんでしまった。
私は何も知らされてなかったので、彼女がどこの方かもどこの病院へ行くのかも分らなかった。それで私の携帯アドレスのメモと、書き溜めてあった4つ葉のクローバーのはがき作品を彼女に手渡した。
「向こうの病院へ行っても頑張るんだよ!」
かすかにうなずき
「かんちさん・・ありがとう・・」
・・・・・・・・・
ベッドのまま廊下を運ばれていった彼女の目には涙がいっぱいだった。
<カウンセラーさんの助言と展示>
カウンセラーの先生は、病気を治すため色んなことを教えてくれた。
病気になった原因を何気なく聞いてきて、それを解消するために本を貸してくれたり、相談に乗ってくれたりした。時々、様子を見に来ては、体の病気の問題や心の問題そして「かんち人文字作品」のことまでに及んでくれた。
この病院では月に何回かビデオを見せてくれる。癌になった患者さんが癌を克服して健康を取り戻し、生活習慣を改めて人生を送っていくビデオで、心の持ち方や考え方、イメージ療法、食事のあり方、生活の仕方そんなことを教えてもらった。
そのビデオのイメージトレーニングがあるとき、先生と会えるので、私は新しい作品を書いて持って行った。トレーニングが終わり、先生に見せると嬉しそうに微笑みながら
「だいぶいいのが出来たね!」と作品を褒めてくれた。
褒められると嬉しくなり、次回もまた良い作品を持っていこうと思い、作品づくりも益々楽しくなった。
ある日先生が、
「かんちの人文字作品をお土産店で売らしてもらったら?」
と言った。
私はそんなことまでは、考えもつかなかった。
この文字売れるのかな? もし、売れなくても展示だけでもしてもらえたら嬉しい。
そう思い私は額に入れたはがき作品をいくつか持って、お客さんがいっぱい来ているお土産店にお願いに行った。
「あの・・私はかんちといいます。そこの病院で入院しています。まもなく退院になりますが、こんな作品を書いています。作品をここで展示販売していただけませんか?もちろん売れたら、場所代はお支払いできます。」
まるで押し売りでも来たかのように思われたのだろうか?
「うちは結構です。それに地元も物しか販売していません!」
時々、体に良い生姜海苔を買っていたのに・・
作品を見ようともしてくれなかった。
病院への帰り道、喫茶店にも寄って・・
「あのう・・・ 変わった書の作品を書いていますが・・・ここで展示販売していただけませんか?」
「・・・駄目駄目・・・全然駄目・・・
「 作品だけでも見てください・・」
「そんなの見ても分からん・・」
またしても、駄目か?
その後八百屋さん、大きなスーパーにきいても受け入れてもらえなかった。
帰りがけの海は何か寂しげだった。
翌日、病院の近くに、とっても綺麗なパン屋さんがあったことを思い出した。
お客さんもいっぱい来ていた。
あそこは、パンの陳列棚があって、一度買いに行ったことがあった。
若い女性が二人でレジしていて・・とても感じのよいお店だった。
早く治療が終わらないかワクワクしていた。治療は嫌だけど、今日は何故か元気。
治療が終わって足早に作品を持って行った。しかし、この間の店員さんはいなかった。
「あのう・・・すみません。
そこの病院で入院しる者ですが、入院して療養しながら作品を書いたりしています。
それで、退院するまで、自分の励みとして作品をここに展示販売して欲しいのですが・・ご主人さんいますか?」
店員さんは、作業所に案内してくれた。
主人は、顔立ちのきりっとした、ハンサムな50代くらいの人だった。
「作品も見ないで、ああ・・そしたら、今日はいないけど若い女性がいるから、明日来るからその女性に聞きな!
「え?・・」とけげんそうな顔をしたら、
「彼女が飾って良いと思えば私のところに聞きにくるから・・・」
「ああ・・。そうですか!分かりました。 ありがとうございます。」
翌日、パン屋さんに行ったら彼女はいた。
小柄で髪はショートカットの女性だった。
とても忙しそうだったが、お客さんがいなくなったのを見計らって・・
「あの・・昨日来てご主人には話したんですが、作品を展示して欲しいんですが・・・
作品を見る前に、
「はい・・分かりました。店主には私から話しておきますから、場所はこの辺にします。」
と笑顔で話してくれた。
「えー!!・・・そんな良い場所に? いいんですか? ありがとうございます。」
病院へ戻り作品を額に入れて
パン屋さんの棚に綺麗に飾らせてもらった。
なんか、すごく、嬉しかった。
たまにしか売れなかったけど、パン屋さんもインテリアとして綺麗になりとても喜んでくれた。
あのお店のくるみパンとっても美味しかった。
また、食べたいな・・・。
<退院と約束>
隣のベッドの桜谷さんとは、一緒に3ヶ月も同じ釜の飯を食って病気と闘ってきた。
病気を治すのに夢を持つことが非常に効果的だとカウンセラーの先生から聞いていた。
「桜谷さん!後二十年後に桜谷さんとここで再会しませんか」?
「20年後か?かんち君は若いけど・・僕はもう85歳だよ・・
もし、元気でいられてもここまでは来られないよ・・」
まだ、体調がイマイチだったのか弱気な返事でした。
桜谷さんの平均体温も大分上がってきたある日の朝、私は午前四時三十分頃起こされた。
「かんち君!僕は以前から毎日癌君と話し合っていたんだ・・。今日もいつものように「がん君がん君・・もうそろそろ出て行ってくれないかな?ここは、君にとってそんなに住みやすい場所ではないよ!」って・・。そしたら、癌君が「もう・・暑いよ・・こんな暑いところにはいられない」って言って、今どこかへ飛んで行っちゃったんだよ・・・」
私はビックリして
「嘘でしょ・・それって、ビデオに出てくるあのイメージ療法で癌をやっつけた外国の少年と一緒じゃないですか?」
「でも本当なんだよ・・!その後も癌君に話しかけているけど見つからないんだよ!
いないんだよ!」
「本当なんですか? すごい・・・。じゃあ、もう治ったんですね・・・」
目の前であのビデオと同じことが起こるなんてまるで奇跡としか言い様がなかった。
「よかったですね。じゃあ・・二十年後の話。会いましょうよ!」
「20年後じゃやっぱり無理だよ・・・
もう少し早くにしてもらえないか?・・」
「そうですね!じゃあ二〇二〇年でどうですか?場所も遠いから・・・?近くの温泉でどうかな・・?」
「そうですね。そうしましょう!」
「じゃあ!男同士じゃつまらないので、カウンセラーの先生も呼びましょうか?(笑)
そして、熱燗にしましょうね。体温が下がらないように・・(笑)」
「そのころ、かんち君は有名になっているね!」
「あははは!たぶん。1本数十万円の巻物でも持ってきて桜谷さんとカウンセラーさんにあげますよ」
「わははは!! 楽しみにしているよ」
・・
あれから桜谷さんは血液検査して。CTも撮った。
癌マーカーもさがり、癌そのものも小さくなって退院していった。
その桜谷さんが私の為にお正月の替え歌を十番まで作ってくれた。
お正月の替え歌の「完治(かんち)の歌」です。
一 もういくつ寝ると 完治の日
完治日には
※ 早起きし 神に感謝し
祝いましょ
早くこいこい 完治の日
二 ニコニコし 今日もツイてる
三 良く噛んで SOD飲んで
四 尿飲んで 点滴うって
五 ビームして 石風呂入って
六 検温し 血圧はかって
七 散歩して 日光浴びて
八 のんびりし 悩み忘れて
九 前向きで 心を変えて
十 早寝して 免疫アップし
替え歌特別バージョン
<妻への感謝>
遠くに妻を残して4ヶ月も四国の病院まで来てしまった。
この病気になって最初の入院のときから、いっぱい迷惑をかけて苦労させてばかりだったのに。再度の入院、妻の気持ちを考えると相当な辛い日々だったと思う。
病院に入院して1ヶ月過ぎた頃、看病に来てくれた。
電車の中で考えたそうだ。
(私はこんな遠くまで、何で一人で来ることになってしまったの?・・)と。
冬の夜なのに・・・この街は暖かかった。
近くの民宿に泊まって昼間は病院へ来て洗濯したり、冬物の買い物してくれたり、そして、しっかり歩けなかった私の手を引いて海の辺りを散歩してくれた。
海の風は温かく、優しく迎えてくれた。
家からりんごと柿と柚子をスライスして、それに甘酢を加えてビンにいっぱいの酢漬けを作って持ってきてくれた。妻は弁当を買ってきて病院の談話室で一緒に食べた。
その酢漬けがとても美味しかった。
心の中で
「おかあさん・・ありがとう・・・! こんな病気になっちゃってごめんね!」
妻が帰った後に残った酢漬けを夕食の時に一人で食べた。
テレビもつけず、ベッドの上は静かだった。
「夕食で 妻の酢漬けが酸っぱくて ひとり目に滲む 土佐の病院」
・・・・・・・・・・・
クリスマスには家に帰ろうって思っていたけど、まだまだ体調が良くならず病院でクリスマスを過ごした。
ここの街はクリスマスの時期には病院の前の通りが数百メートルにも渡り、道路沿いのすべての建物にイルミネーションで飾ってあった。
お店によって色んな工夫があり、夜になるとたくさんの見物客がきて賑わった。
あまりにも美しかったので携帯でテレビ電話にして妻と一緒に見た。
「クリスマス 愛妻恋し 土佐清水」
書き忘れてしまいましたが、十二月五日は数十年前に私が婿養子になった結婚記念日だったのである。別々に記念日を心の中で祝った。
感謝の意味を込めて
「お宝女房」
<思い出のクリスマス会>
クリスマス会で私もカラオケを唄うことになった。
患者お家族の方が幹事になっていて、何を歌うか決めておいて欲しいというので、デュエットでも歌おうと予約しておいた。相手は幹事さんが見つけてくれると言うことであった。
それで、診察のない時にカラオケの練習が始まった。
私の相手の人は当日まで教えていただいてなかったので幹事の方と練習をしていた。
私の病室の隣には、酸素ボンベを使って呼吸している寝たきりの女性がいた。年齢は私と同じくらいだろうか?その方が幹事のお姉さんで相手の人だった。
初めて歌ったのに息もピッタリで上手く歌えた。
彼女もホッとしたようだった。そして私は席に戻った。
彼女はマイクで泣きながら何か話していたが私には聞き取れなかった。会場が涙に包まれそして、大きな拍手が起こった。
アルコールがあって、美味しい食事があるわけでもないけど、果物やちょっとした料理で楽しくできた。ほとんど全員の参加で歌あり、踊りあり、お笑いあり、詩の朗読あり。さらには、院長先生の替え歌まであった。
みんな大笑いして腹を抱えて笑ってしまった。途中で、感激し涙した場面もいっぱいあったけど、とても、楽しい3時間だった。
こうしてまた、明日から新たな気持ちで病気と闘っていったのであった。
<終わりに>
私は予定より一ヶ月長く入院することになりましたが、一月末に退院することが出来ました。
入院する時は一人で来たけれど、退院する時は妻と一緒に帰ることが出来ました。そして今、自宅療養しながら、かんち人文字の作品を書き続けています。
一枚ずつ、体調と相談しながら色々な作品を作りました。
この本を読みながら、その作品を皆様にもご覧いただき、少しでも心を癒していただければ、この上ない喜びであります。
最後まで読んでくれて、ありがとうございました。
長楽萬年。
※第2部 文字が浮かんでる。
再発と浮遊文字
現在、執筆中です。

作品集
一 いつも夢みてると
二 一期一会
三 今日もツイてる
四 春夏秋冬
五 Smile
六 一生
七 笑は百薬の長
八 願い
九 空高く
十 大金運
十一 楽しく
十二 感情
十三 心配しないでね!
十四 妻の酢漬け
十五 四つ葉のクローバー
十六 長楽萬年
十七 干支
十八 ペット(犬)
十九 ペット(猫)
二十 味覚の秋(葡萄&栗)
二十一 漫画キャラクター(瞳)
二十二 漫画キャラクター(泉)
二十三 漫画キャラクター(哀)
二十四 名前(紫舟)