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郷土の人物
| ・出雲阿国 | ・井戸平左衛門 | ・西周 | ・小泉八雲 | ・森鴎外 |
| ・出雲阿国は、安土桃山時代に歌舞伎踊りという踊りの興行を行って人気をはくした女性で、今日に伝わる歌舞伎の創始者とされています。 阿国の経歴については多くの説があり、確かなことは何もわかっていません。阿国は出雲大社に使える巫女であったとされていますが、出雲国の鍛冶職人の娘という説もあります。 阿国の名が最初に現れる記録としては、1600年に京都で出雲国のややこ踊りを演じたというものがあります。1603年には、阿国が男の格好をして歌舞伎踊りを演じ、京の人々の人気をあつめたという記録が残されています。 この後、阿国は歌舞伎踊りの一座を率いて各地で興行を行い、歌舞伎踊りを広めていたといわれます。 また、当時の舞台の様子は『阿国歌舞伎草紙』に伝えられています。 |
| 井戸平左衛門は江戸時代中期の1731年に、石見銀山領の大森代官所の代官になりました。 平左衛門が代官となった当時、領内では天候の不順などによる凶作が続き、人々は飢えに苦しんでいました。 平左衛門は、人々を飢えから救うためにさつまいもの栽培を思いつき、種芋を取り寄せて作らせました。 このさつまいもを米の代わりに食べることで、凶作のときも飢えで苦しむことはなくなりました。 平左衛門は、名代官とたたえられ、「芋代官」の名で人々にしたわれています。 |
| 西周は、明治時代前半期、西欧の近代思想を人々に教え広めた啓蒙思想家です。 西周は、津和野藩に仕える医者の子として、石見国津和野に生まれました。儒学を学んで育った西周は、江戸に出て、西洋の学問を学び、1862年には、幕府派遣の留学生としてオランダにわたりました。 明治維新の後は兵部省(軍事をつかさどる役所)に勤め、軍事制度を整備しました。 一方、1873年につくられた明六社という知識人による団体に入り,哲学関係の翻訳書を著しました。 「哲学」という言葉を始め、日本の哲学用語の大部分は、西周がつくったものです。 |
| 小泉八雲は、本名をラフカディオ・ハーンといい、ギリシアでイギリス人の父とギリシア人の母の間に生まれました。 日本の文化と人々を愛した八雲は、1890年に日本に来て住み着き、1896年に日本の国籍を得て、小泉八雲と名のりました。 少年期をイギリスとフランスですごした八雲は、19歳でアメリカにわたり、新聞記者として認められました。 やがて来日した八雲は、その年の八月末に、島根県尋常中学校の英語教師となりました。松江での生活はわずか1年3ヶ月でしたが、八雲は昔ながらの日本の風情をとどめている松江の町に心ひかれ、、市内や周辺の神社、寺を訪ねあるき、日本の文化の研究に励みました。 また、英語教師としての八雲は、まごころあふれる教育で、多くの生徒たちに慕われたといいます。 日本での十数年間に、八雲は『知られぬ日本の面影』『怪談』など、日本を舞台にした多くの著作を英文で発表しています。 |
| 森鴎外は本名を林太郎といい、1862年、石見国津和野に、津和野藩につかえる医者の子として生まれました。 1872年に上京した鴎外は、最年少(20歳)で東京医学校予科(東京大学医学部)を卒業しました。 その後、衛生学研究のためドイツに留学し、西欧の思想と文学にふれて、刺激を受けました。 日本に帰国した鴎外は、陸軍の軍医として働く一方、文芸雑誌を創刊し、活発な文学活動を開始しました。1890年に発表された『舞姫』は、ドイツ留学のときの体験をもとに書かれた小説です。 この後、鴎外は、『青年』『雁』『安部一族』『山椒太夫』『高瀬舟』など数々の名作を生んでいます。 作家としても医者としても、華々しく活躍した鴎外は、11歳で故郷の津和野を後にしてのち、再び津和野の戻ることはありませんでした。 しかし、鴎外は遺書の中に「余ハ石見人森林太郎トシテ死セントス」という言葉を残しました。 この言葉には、多くの肩書きを持ちながらも一人の人間として自由に生きたいと願った、鴎外の最後の主張がこめられています。 |