扇肥前守とその時代

根岸肥前守は実在の人物です。
肥前守個人については身近に詳しい資料がなく、あまりよくわかりませんでしたが、
本文にある年号からその時代を調べてみました。

 丸佐渡奉行のとき  丸勘定奉行のとき  丸町奉行のとき

丸将軍・家斉  

らいんくみひも

丸佐渡奉行のとき 天明4年〜天明7年(1784〜1787)
[国内]
  ちょうど田沼意次の人気が下降し、失脚していくときです。
  前年天明3年に浅間山大噴火(天明の浅間焼け)があり、天明の大飢饉が始まりまった。これは近世噴火史上もっとも激しいものだったようです。同じ年の冬は全国的に異常な暑さで、豪雪地帯でもほとんど雪が降らない状態で、逆に5月の田植えの時期から逆に冷気がつづき、大霜などが加わったために麦も稲もその他の作物もほとんど駄目で、完全な凶作になった。とくに関東周辺、そして北へゆくほど被害は深刻な状況だった。
  死者は餓死者に栄養失調にともなう伝染病の死者をあわせると、全国で数十万にのぼったと推定されている。当然労働人口は激減するので、領主の損害も大きなものになった。また天明の大飢饉はこの後数年、慢性的に続いたために被害はさらに加重されている。
  飢饉もこの規模になってしまうと、通り一遍の対策では焼け石に水。町では米価や物価が上昇し、幕府は救斉対策をするけれども不徹底だったために解決にはならなかった。
  こういった状況のなかで、天明4年3月に意次の嫡子で若年寄の意知が、旗本佐野善左衛門政言に暗殺される事件がおきた。意知が佐野を役につけるといって賄賂をとったのにその約束を果たさなかったというような私怨からの事件だったが、飢饉の状況から、すでに民衆にとって田沼は悪政の元凶となっていたうえ、米価が一時的に下落したので逆に佐野は「世直し大明神」とあがめられたりしていた。
  こうした険悪な情勢のなかで、田沼政権の延命工作は懸命に続けられ、2年半近く維持することができた。しかし将軍家治の病気が悪化し、それに先だって天明6年8月27日に田沼意次は老中を罷免され、10月に加増の2万石を削られ、江戸の役宅と大阪の蔵屋敷も没収された。さらに翌7年10月に本領も没収、閉門の身になり、嫡孫意明に地味不良の土地である1万石を与えられた。意次は天明8年に失意のまま70歳で死亡するが、たたりを恐れた将軍家斉よって二男意正が幕閣に復帰している。

  さて、田沼が失脚したものの、次期政権の担当者がなかなか決定しなかった。これは田沼派の残党が多くいる幕閣が、御三家が推挙する松平定信の老中就任を拒みつづけたためである。
  ただでも社会は凶作・飢饉や物価の上昇で混乱しているのに、政治の空白が続くために、社会の混乱はさらに激化し、民衆の苦境は深刻になるばかり。極貧層の人々のなかには飢えに苦しみ、心中するケースもあった。
  天明7年5月に集中して、困窮する民衆は江戸だけでなく、全国各地で打ちこわしをおこした。特に江戸での大規模な打ちこわしは、幕府にはびこる田沼派に引導をわたし、政局が一変し、半年にわたって妨害された定信の老中就任が実現し、老中首座となった。 

手 天皇:光格  将軍:家治(〜天明6年9月)→ 家斉

[年表]

1784 天明4 3月 佐野政言、田沼意知を刺殺
1785 天明5 蝦夷地お調査。最上徳内随行
8月 田沼意次、老中を罷免
9月 将軍・家治死去
1787 天明7 5月 米価沸騰。天明の打ちこわし
6月 松平定信、老中筆頭となる

[世界の年表]

1775〜1783 アメリカ独立戦争(1776年アメリカ独立宣言)
1783 天明3 ヴェルサイユおよびパリ休戦仮条約
大黒屋幸太夫、アリョーシャンに漂着
1787 天明7 蒸気船発明

丸勘定奉行のとき 天明7年6月〜寛政10年(1787〜1798)
[国内]
  松平定信のもと寛政の改革がはじまり、定信が手がけた人事に根岸肥前守鎮衛の名が登場する。
  定信の理想は吉宗時代で、将軍の幕政遊離を正し、親政体制を復活させようと、家斉を節度・人情をわきまえた名君にしようと苦心した。が、その教育姿勢はきびしく禁欲的で、若い家斉はけむたくてたまらなかったようである。
  寛政の改革そのものについては、別表を見たほうがかえってわかりやすいように思う。重点がおかれたのはやはり経済政策であるが、その他に政治の倫理化といった傾向も強かった。
  勘定所関連では財政整理の一環として天明8年に御用達町人全員に対して幕府からの拝借金(無利子の貸付金)の返済を申し渡して旧債券の処理にあたり、一方で江戸の富商を勘定所御用達として起用し、物価調整や経済政策に協力させようとした。また寛政4年から公金の貸付を勘定奉行でも窓口として行うようになった。おそらくは改革一連の経済政策のほとんどに関わっているいるでしょう。これ以上はきりがないので、別記年表を見てください。
  商業重視から農業重視への政策の転換と、幕府権威の回復と財政再建が大きな柱となって、さまざまな政策をしていく。最初は物価対策のすべりだしがよく、民衆に世直しの清潔な印象を与えて歓迎されるのだが、のちに衣服・調度の贅沢を禁止し、洒落本・黄表紙(絵入りのこっけいな読み物)などの出版物の統制をしたりと、庶民の不満が増大する。田沼時代の自由な空気をなつかしみさえしていた。
  そんな情勢のなか、寛政5年7月23日に定信は将軍補佐と老中を辞職したが、実情は免職だった。定信に対する大奥の激しい反感と将軍への働きかけ、定信の名声の高まりよる御三家と一橋家反感から、そうした事態になったようだ。
  しかしこの政変は定信のみ対象とされたので、定信にかわって老中首座になった松平信明にしろ、そのほかの老中ら、いわゆる「寛政の遺老」たちはそのまま幕閣に残った。みな定信に挙用され、政策に協力した人物であったから、定信引退後も25年間にわたり寛政改革の基本線は大きな修正を受けずに維持された。

手 天皇:光格  将軍:家斉

[年表]

1787 天明7 5月 米価騰貴、天明の打ちこわし。
6月 松平定信老中首座となり、寛政の改革開始。倹約令。
1788 天明8 10月 御用町人に対して拝借金の返納を命じる。勘定所御用達を任命
1789 寛政1 9月 棄損令(札差の貸金を破棄し旗本・御家人の救済)
衣服・調度の奢侈禁止。囲米の制(米価調節・備荒貯蓄が目的)
1790 寛政2 2月 人足寄場(浮浪人・無宿者の職業指導など)設置をし、長谷川平蔵に管理をまかせる。
5月 異学の禁。朱子学を正学とする
11月 旧里帰農令。
1791 寛政3 9月 異国船渡来のさい、穏便な処置をするよう指令。
12月 七分積金の制(町費を節減し江戸町会所に積み立て底利融資、貧民救済を目的)。
江戸銭湯にて男女混浴禁止
1792 寛政4 4月 林子平の「三国通覧図説」「海国兵団」出版禁止。
林子平、蟄居を命じられる(翌年自殺)。
9月 ロシア使節ラクスマンが大黒屋光太夫を伴い根室に来航し通商を要求
10月 江戸湾防衛体制の強化
1793 寛政5 7月 定信、老中を辞任
1794 寛政6 10月 倹約令を10年延長
1797 寛政9 昌平坂学問所(聖堂)が官学となる
1798 寛政10 6月 本居宣長「古事記伝」完成させる
蝦夷地全体の調査を行う。

[世界の年表]

1787 天明7 蒸気船発明
1789 寛政1 フランス革命勃発。人権宣言。
アメリカ初代大統領ワシントン就任
1793 寛政5 フランス・恐怖政治(〜1794)
1796 寛政7 清国・白蓮教徒の乱
1798 寛政10 フランス・ナポレオン、エジプト遠征

丸町奉行のとき 寛政10年11月11日〜(1798〜)
[国内]
  小説では新八郎が活躍している時期。
  故事類苑でも見ないことには肥前守が何年まで就任していたのかわからないので、どこまで書いてよいものやら。ただ、作品中、そんなに先まで出てこないと思うので、時代についてはあたまの方だけちょっと書いておきます。
  内政としては老中首座・信明の指揮のもとに寛政の改革の基本線はそのまま維持される。米価は下落しつづけ、やがて作柄が回復してさらに米価が下落したため、あげる政策がとられた。また物価が下がらないといった問題もおきた。
  それ以外として、蝦夷地全体の調査をしたり、アイヌ民族の迫害をしたり、幕府の直轄領としたりしている。
  また外交問題として北方にはロシアが、他にイギリス船やアメリカ船などが次々と渡来して幕府をあわてさせ、対策として江戸湾沿岸に砲台を作るであるとか、難破の異国船には薪水など与えて穏やかに退去させるように命じたりしている(文化の撫恤令)。
  庶民では、寛政改革のきびしい取締りによって江戸町人の美意識かかわり、「いき」が江戸っ児の生活を支配するようになった。たとえば着物で表は質素な木綿でも、裏には凝った絹をつけるといった具合。
  肥前守がお奉行の職にあった時代にはまだ「寛政の遺老」たちが実権を握り、綱紀のゆるみもさほどではなかったという。が、将軍家斉の奢侈や北方警備の費用に圧迫されて幕府の財政は再び破綻することになる。
  この後、文化14年(1817)9月に信明が病死した結果、翌文政元年(1818)2月に水野忠成(水野忠邦ではない)が将軍の側用人から老中となり、家斉の側近政治がはじまることになる。

手 天皇:光格(〜文化14)→仁孝(文政1〜)  将軍:家斉

[年表]

1800 寛政12 伊能忠敬、蝦夷地を測量開始
1801 享和1 伊能忠敬、全国の測量開始
富山元十郎・深山宇平太がウルップ島にわたり「天長地久大日本属島」の標柱をたてる
1802 享和2 十返舎十九「東海道中膝栗毛」初版発行
1806 文化3 文化の撫恤令
1807 文化4 前年より幾度かロシア船が樺太やエトロフ島などを砲撃、掠奪する。
1808 文化5 イギリス船が長崎に来航し、長崎奉行松平康英が引責自殺(フェ−トン号事件)
間宮林蔵、樺太を探検し間宮海峡発見
1814 文化11 滝沢馬琴「南総里見八犬伝」初版発行
1815 文化12 阿波藍、蔵物として公認され、藩の専売品となる
1817 文化14 松平信明、病死。
1818 文政1 水野忠成、老中首座となる

[世界の年表]

1798 寛政10 ナポレオン、エジプト遠征
1804 文化1 フランス・ナポレオン皇帝即位(〜1814)
1806 文化3 神聖ローマ帝国滅亡
1812 文化9 米英戦争(〜1814)
ナポレオン、ロシア遠征
1814 文化11 ウィーン会議
蒸気機関車試運転
1815 文化12 神聖同盟、四国同盟
1823 文政6 アメリカ・モンロー宣言

丸第十一代将軍・家斉
  14歳で将軍となる。歴代の将軍のなかでも随一の漁色家で有名で、55人の子女を持つ。
  体質は強健で、厳寒の朝でも小袖2枚に胴着のほかは重ね着することはなかったという。馬術は得意で放鷹にも熱心な体力にあふれた将軍で、69歳まで生きた。
  性格はおっとりとしていて鷹揚な反面、わがままなところもあったのだが、将軍になった当初は松平定信が厳しく教育し、奢侈を戒められ、かなり束縛された生活をよぎなくされた。ゆえに、定信が辞任すると解放された気分になったようだ。
  寛政の改革の引き締まった雰囲気も次第に薄らいでゆくが、そのあとを改革の基本方針を受け継ぐ剛直な信明が老中首座としていたので綱紀のゆるみもそれほどではなかった。
  しかし信明が死去し「寛政の遺老」がすべて去ったあと、反動的に遠慮ない自由な享楽、奢侈生活をたのしむようになる。
  天保年に家慶に将軍職を譲るが、西丸に隠居して大御所と称し、隠然とした発言力をもって大御所政治をしていた。
  また、家斉とともに次代将軍候補だった家基(一応病死)と、自分を将軍にして権力を誇示しようとしていた田沼意次のたたりを恐れ、生涯頭痛もちとなり、妖僧に惑わされるといったこともあった。


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