白林寺は名古屋市の中心・栄に位置し、ナディアパークの南、パルコ西のオフィス街の中に、かなりの樹齢のクスノキ・みどりの木々に囲まれた静寂な禅寺である。 ■■■■由来■■■■ 尾張藩祖徳川義直公が名古屋城天守閣より南方を見渡すと真っ白に覆われた林があったという。 よくよく見るとそれはシラサギが群れをなして休んでいる美しい光景であったと。 そこが成瀬正成の菩提を弔う所・白林寺となったそうである。 先代よりの口伝である。 ■■■■所在地■■■■ 〒460-0008 名古屋市中区栄三丁目25番18号 宗教法人 白林寺 電話 052−241−5200 FAX 052−241−5207 代表役員 武山廣道 ■■■■宗派■■■■ 臨済宗妙心寺派の寺院であり、東海山と号せられている。 寛永二年(1625年)の正月に、時の尾張藩祖徳川義直が、国老成瀬正成のために創建したといわれる由緒をもち、一宮妙興報恩禅寺より蘭叟紹秀和尚を勧請し開山とした。 本尊は、木造釈迦如来座像として知られている。 明暦三年(1657年)火災にて消失し、その後,正成の嗣子正虎が再建して、以来成瀬家代々の菩提所として現在に至るまで護持されてきた。成瀬家は、三万五千石の尾張藩犬山城主でもある。 昭和二十年三月十二日の戦災により、寺は山門と御霊屋を残して焼失したが、再び現在の処に建てられた。 尚、ここは剣術で有名な尾張柳生家の菩提所でもあり、島原の役にて戦死した柳生清巌(如雲斎の子)を初め、柳生家代々の墓碑が平和公園墓地にある。 また、あの茶の湯で名高き武野紹鴎の子孫や、徳川時代の蘭学者・洋医であり、「鉄砲原論」の著者であった吉雄耕牛の菩提も、ここに弔われている。 墓碑はいずれも平和公園白林寺墓地にある。 ■■■■成瀬正成■■■■ 正成は、永禄十年(1567)正一の嫡子として三河足助郷で生まれ、幼名を小吉といった。幼少にして父と共に徳川家康に仕え寵遇をうけたという。 天正十二年(1584)の小牧・長久手の役に出陣して首級を挙げ、家康から備前兼光の一刀を拝領した。時に十七才であった。 元和二年(1616)七月義直が駿府より名古屋へ移るのに従って尾張へ入り、翌三年犬山城主となった。 正成は、大名になるのが当然視されていたものの、家康に「愛子義直のために」と懇望されて尾張へ赴いたいきさつがある。そのかわり、家老の身でありながら一城を拝領し、一藩に準ずる別格の扱いをうけることとなった。 寛永二年正月十七日に江戸で歿した。その遺骨は、日光東照宮の家康公の近くに埋葬されている。 法名 白林院殿前布護直指宗心大居士 ■■■■檀溪(だんけい)勝蹟碑■■■■ 名古屋市昭和区に檀溪橋・檀溪通という所があります。ここは、いまから二百五拾餘年前寛文年間に当寺の第五世檀溪徹和尚が隠棲した地と言われています。 北方から流れる山崎川が檀溪橋あたりから湾曲して、丘陵の山裾に沿って南流するところがある。昔、東郊第一の勝地として、文人墨客が足を運んだ幽邃の仙境であったところです。 「尾張名所図絵」に、「深淵なり・・・・土橋を架し、樋を伏せて幽すい・・・・・小仙境といふべし」とたたえられています。故に、世人は和尚の名をとって「檀溪」と地名したようである。檀溪橋の欄干に由来が、そのたもとに檀溪勝蹟碑が立っています。 又近くには藤成通り、杁中の隼人池の地名が残っています。(藤原朝臣成瀬隼人正正成)
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