
仏教
- 仏陀の根本課題は、人生の一切の苦悩をいかに超脱すべきかであった。
人生の真相を如実にながめた仏陀は次のように「四法印」を説かれました。
諸行無常
- 一切の現象は、刹那ごとに生滅し変化する。
すなわち、一切のものは、単なる時間的存在として存するにすぎない。
諸法無我
- 諸法とは、一切の存在であり、無我とは、それらに固定不変の実体のないこと。
すべてのものは、ただ因縁によって仮に和合しているにすぎない。
一切皆苦
- 凡夫は、無常に常を求め、無我に我を捉えようとする欲望が満たされないことが苦しみとなり、ゆえに一切の現象は、苦の存在として現れてくるのである。
涅槃寂静
- 無常・無我・苦なる一切を如実に知見して、それらに対する執着を離れ、欲望が滅せられた境地。
これが、仏教の究極の境地である。
禅仏教の教え
- 禅宗は、釈尊が菩提樹の下で悟られた、その悟りをみずから直接体験することを唯一の目的としています。
- 禅というのは、経典の言句によるのではなく、自身の体験によって経典の心をストレートに悟るものである。
- こうした禅の思想を端的にあらわしている四つの句があります。
不立文字
- 釈尊の悟りの内容をすべて文字で表現し尽くすことは不可能です。
実際に体験してみることが、どんな言葉や文字にまさるのです。
「あらゆるものに仏性がある。」と言うことを説き明かしたものが教典です。
しかし、この真理を単に知識として知っているだけでは、本当にわかっているとはいえません。自分自身が仏であるという自覚と働きがなければ知っていることにはならないからです。
その自覚のためにも、一日わずかな時間でもいいですから坐禅をすべきなのです。
ただし、文字や言葉に限界があるからといって、まったく否定するのではありません。限界があるからこそ、文字や言葉を大事に有効に用いなければならないというのが不立文字の意味でもあります。
教外別伝
- 釈尊の教えの真髄は、文字や言葉では伝えることができません。
心から心へと、直接体験によってのみ伝えられるとするのが、教外別伝の意味するところです。
したがって、教外別伝とは教のほかに別に伝があるのではなく、師から弟子へ、心から心へ直接の体験として伝えることである。
また師から弟子へと伝承するというのは、弟子の目覚め(悟り)にほかならない
とするのが教外別伝の内容と理解していいでしょう。
弟子は、師匠の日常の立ち居振る舞いを見ながら、自己を磨いていくのです。何事も自分の努力で体得して、初めて自分のものとすることができます。また、目に見えないものを見抜いて、初めて心から納得することができるのです。言葉や文字では、究極のところは伝わりません。
直指人心
- 直指人心とは、「直ちに人の心を指す」ということですが、人の心つまり人心と仏心とは、本来別の心ではありません。私たちの心の中には、もともと仏心が具わっているのです。
この事実を忘れているために、私たちはあれこれと迷ってしまうのです。そこで、直指になるわけです。教育・思索とかいった、もってまわった方法を取らずに、一直線に「自分の心が仏心にほかならない」と指し示すのが直指なのです。無性である真実の自己、自分の心の中にある仏性を直ちに観てとれといわれるのです。文字や頭で理解するのではなく、弟子を殴りつけるような直截的かつ独自の方法で導くのです。このように、人間の本性つまり仏性を直指させる、直接体験させる方法を禅宗ではとりますが、これを直指人心といいます。
見性成仏
- 直ちに指し示される人心とは、私たちの心の奥にある仏心にほかなりません。この仏心、つまり真の人間性に出会い、まみえて、自分が、ほんとうの自分になることを「見性成仏」といいます。
仏というのは真実の人間のことですから、成仏とは人間完成であり、人間成就のことなのです。見性の「性」とは「心」と同じ意味で、人間の本性のなかに、仏となるべき仏性がひそんでいるということです。借りに、迷いに満ちている醜い心であっても、その心に成仏の因である仏性があり、煩悩(一切の妄念)の心に仏となる功徳が宿っているとみすえるのが見性成仏ということになります。
心というのは、求めても求めてもつかめるものではないし、決まった形がないという事実を、みずから観念ではなく体験として知ることが「安心」を得ることであり、成仏することなのです。
臨済の教え
- 臨済宗の教義は、いうまでもなく宗祖・臨済禅師の挙揚した禅の宗旨を根本としており、その教えは、「臨済録」に伝えられています。
「臨済録」にみられる特徴は、如来とか仏といった既成の仏教用語ではなく、宗教的人格をあらわす「人」という言葉を使っていることです。如来とか仏というと、どうしても人間よりも超越した存在のようにとらえてしまうことから、極力そうした用語を避けています。
宗教的人格者とは、「人間とは何か」「人間はどうあるべきか」「どう生きるべきか」を自分自身に引き寄せて、その真理をうなずきとる自覚の経験をした人であり、臨済禅師はこの宗教的人格者を「真人」、又はただの「人」と呼んでいます。
一無位の真人
- 「赤肉団上に一無位の真人有り、常に汝等諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は、看よ、看よ」(お互いのこの生身の肉体上に、何の位もない一人の本当の人間、すなわち「真人」がいる。いつでもどこでも、お前たちの眼や耳や鼻などの全感覚器官を出たり入ったりしている。まだこの真人がわからないものは、はっきり見届けよ)
釈尊の教えは、現実に生きている人間のためにとかれたものであることは言うまでもありません。臨済禅師の教えも、その生きた人間とは何であるかをはっきり自覚し、そこから世の中を正しく見ていこうという点から出発しています。
人間は自分を見つめるとき、初めは実体的な自己の存在に何の疑いも持ちません。しかし、さまざまな問題に悩み、壁にぶつかって、さらに自己を掘り下げて見つめていくと、悩みや苦しみの原因はすべて自分の中にあると気がつきます。そこで、本当の自分とは何か、人間とは何か、という問題につきあたるのです。
臨済禅師は、この真実の自己を「一無位の真人」と表現されました。
「無位」とは、一切の立場や名誉・位をすっかり取り払い.何ものにもとらわれないということです。
「真人」とは、疑いもない真実の自己、すなわち真実の人間性のことで、誰でもが持っているものである。この真人は、単に肉体に宿るだけでなく、人間の五官を通して自由自在に出入りしています。
未だこの「一無位の真人」を自覚していない者は、ハッキリと見つけなさい。
随処に主と作れば、立処皆真なり
- (その場その場に全生命を打ち込んで行動していくならば、そこがかけがえのない真実の世界となる。)
- これは、何処でも自分が主役・大将になることではありません。自分がどんな環境に置かれようとも主体性を失わずに生きていくということです。
その時、その場で無心に働けば、それに応じて自らを生かし、さらに他者をも生かすことができるのです。それは、坐禅の時だけではありません。食事、仕事、学業など日常生活すべてにわたって、その時点でなすべきことに自己を完全燃焼するのが、主体性を保つことなのです。
他のことに心を奪われず、一事に自己を投げ出せば、その人の発言も沈黙も、立つも坐るも、すべてが真実となるのです。
このように主体性をもって生きるならば、充実した生き方をしていれば、自分のまわりのものをすべて生かしきっていくことができるということなのです。
無事是れ貴人
- 「無事是れ貴人。但だ造作することなかれ。祇だ是れ平常なり」(無事の人こそ貴人である。あれこれと、はからいをしてはならない.ただ平常であることだ。)
この無事という言葉の意味は、危険や不安がないとか健康であるといったことではありません。何かを求めたり執着する心のないこと、つまり、無心そのままを無事といいます。又、悟りを開こうとか仏になろうなどと求めたり、とらわれることを「造作する」といい、こうした造作をしないことが「無事」であると臨済禅師は教えています。
「貴人」も、社会的地位が高いとか金持ちであるとかいった上級社会の人という意味ではなく、「無事の人」と同じ意味なのです。欲しがりもせず、とらわれもしない人を「貴人」というのです。
平常とは、執着心を離れ、ありのままに日常を立ち居振る舞う心と言うことです。つまり、平常心で行住坐臥すれば、そのままが仏法であり、仏道であるから、それ以外に何を求める必要があるのかと臨済禅師は言い切っています。
白隠の教え
- 衆生本来仏なり ・ 直に自性を証すれば ・ 此の身即ち仏なり
- すべての衆生は生まれながらにして仏性をそなえている。
- みずから深い禅定により直に「本来の自己が仏心である」と体験自覚すれば、そこは無我の世界、「空」の境地である。それは生死を超越した世界であり、ここが浄土であり、この身がそのまま仏である。
- 無我の境地は、遠くにあるのではなく、自分自身のうちにあるのだからほかへ探しに行くことはない。まず自分の内奥を徹見せよと教えている。
臨済宗妙心寺派の「生活信条」と「信心のことば」
生活信条
- 一日一度は静かに坐って身と呼吸と心を調えましょう。
- 人間の尊さにめざめ、自分の生活も他人の生活も大切にしましょう。
- 生かされている自分を感謝し、報恩の行を積みましょう。
信心のことば
- わが身をこのまま空なりと観じて静かに坐りましょう。
- 衆生は本来仏なりと信じて拝んで行きましょう。
- 社会を心の花園と念じて和やかに生きましょう。
仏教・禅の基本理念が解っていただけましたでしょうか。
我々の日常生活と全く遊離したものではないのです。
幸にもこの世に生をうけ、今・たった今ここに存在することに感謝して生きる。
与えられた環境・境遇をありのままに受け入れ、自分のできる範囲で最大限の努力をする。
いま・ここで・わたしがすべきことは何か?を常に自覚し行動していくことが禅の生き方なのです。