細胞の謎に挑んだ人々 1

ロバート・フック

1635〜1703 細胞の発見者

17世紀の顕微鏡学者

 17世紀になるとヨーロッパの各地で、顕微鏡を作る人々が現れます。彼らはこれを使って、いろいろな生物学上の発見を行います。その中でも有名な人物に、オランダのレーベンフックとイギリスのフックがいます。レーベンフックは、専門の科学者ではありませんでした。彼は商人でしたが、自分でレンズをみがいて、多くの顕微鏡を作りました。これを使って手当たりしだいにいろいろなものを観察しました。その中でも特に重要で有名なものが、微生物の発見です。

 レーベンフックは、何気なく数日前に降った雨水の中にすごく小さな動物を見つけ、驚きました。その後、川の水や海の水、歯垢、ついには排泄物まで観察し、微生物を見つけています。

英国王立学会

 その頃イギリスでは、科学者たちの集まり「学会」が作られていました。お互いの研究や発見を報告し合い、互いの研究の参考にしようと考えたニュートンなどの科学者たちが、世界で初めて作ったのです。レーベンフックは自分の発見を、この学会に報告しました。この報告は大変な驚きを持って迎えられました。中にはこれを疑う者もいました。

コショウはなぜ辛い

 レーベンフックは、料理に使うコショウについて疑問を持っていました。

「コショウは、なぜあんなに辛いんだろう?」

 彼はこれについて、ある予想(仮説)を立てました。

「コショウの粉の表面には、目に見えないくらいの小さなトゲがあり、これが口や舌にささって、辛く感じるんじゃないだろうか?」

 レーベンフックは、これを確かめてみようとしました。

「コショウを顕微鏡で観察してみよう。いくら小さなトゲでも、顕微鏡なら見えるだろう」

 しかし、コショウは細かく砕いても、かたまりのままで、顕微鏡で見てもよくわかりません。

「水につけて柔らかくしてみるか……」

 1676年4月24日、レーベンフックは、3週間前に雨水につけておいたコショウを観察し、びっくりしました。信じられないくらいに大量の微生物が発生していたのです。レーベンフックは、気づかぬ間に微生物の培養を行っていたのです。

 

フックによる追試実験

 この報告を聞いた王立学会のロバート・フックは、自分で作った顕微鏡でレーベンフックの実験結果を確かめてみました。彼の報告の通りにコショウを雨水につけ数週間たって顕微鏡で観察してみたのです。結果はレーベンフックのいう通りになりました。実験の条件を同じに整えれば同じ結果が生じる、つまりレーベンフックの報告に再現性があることが証明されたのです。

 この結果は王立学会で報告され、レーベンフックの正しいことが認められると、彼を学会の名誉会員に推薦することになりました。たくさんの人々がオランダのレーベンフックの家を訪れ、彼の発見を見たがりました。彼はヨーロッパの超有名人になってしまったのです。彼は死ぬまで王立学会に多くの発見の報告し続けました。

小部屋(細胞)の発見

 ビンの栓などに使われるコルクについて、フックは疑問を持ちました。

「コルクは、なぜあんなに弾力があるんだろう?」

 彼はこれについて、一つの仮説を立ててみました。

「目に見えないくらいの小さな穴が開いているんじゃないだろうか? そこに空気が入っているから、軽くて弾力があるんだ」

 そこで彼は、コルクを薄くスライスして顕微鏡で観察してみました。すると、そこには小さな四角の小部屋がたくさんありました。フックの予想通りだったのです。彼はこれを「小部屋(英語でcell)」と名付けました。日本語ではこれを「細胞」と訳しています。

 コルクは死んだ細胞です。フックは、生きている植物の葉や幹を観察して、やはり細胞でできていることを観察しています。しかし、その重要性は理解できませんでした。

科学の方法

 レーベンフックにしてもフックにしても、最初に疑問を持つところからはじめて、大きな成果に達しています。疑問に対して、次に仮説(予想)を立て、それを実験で確かめてみました。結果として、彼らはそれぞれ生物学上の重大な発見をしています。このように、疑問→仮説→実験→結果、という手順をふむことによって、新しい発見を行ってきたのです。

 科学上の発見は、多くの場合このような「科学的な方法」によって行われてきました。逆に言うと、いくら「顕微鏡」という新しい技術を手に入れても、ただ単に観察するだけでは、新しい発見は行われないのです。

 みなさんも、まずいろいろなものに「疑問を持ち」、さらにそれに対する「仮説を持ち」、実際に確かめてみる「実験」、という「科学の方法」を、日常の生活の場で試してみてください。何か新しい「発見」にめぐり会えるかもしれません。

 

 

細胞の謎に挑んだ人々 2

シュライデン

 1804〜81 細胞説の提唱者

 

顕微鏡による細胞の観察

 ロバート・フックによる細胞の発見から、150年以上の時が流れました。19世紀になると、細胞は多くの学者によって観察されるようになりました。そして、核や細胞分裂も観察されました。しかし、それにどんな大事な意味があるかについては、誰も気がついていませんでした。

シュライデン

 弁護士だったドイツのシュライデンは、仕事がうまくいかず、ピストル自殺を図りましたが、失敗しました。これをきっかけに、もう一度大学に入学し、植物学を研究するようになりました。これには向いていたようで、やがてベルリン大学の植物学教授になります。

 当時、ドイツでは、生命に対する神秘的な解釈が流行していました。また、植物学では分類学が主流をしめ、学者たちは新種の発見に血眼になっていました。シュライデンは、このような風潮に反発し、生物学を物理学や化学なみの学間にしなければならないと考えていました。

「物理学や化学は、物質が原子からでぎているという原子説をキッカケに、今や輝かしい成果をあげつつある。生物学でも、まずは生物の体が何からできているかを明らかにしなければ!」

 

植物の細胞説

 シュライデンは、植物を顕微鏡で観察しました。その結果、植物のどの部分をとっても「細胞」があり、また、どの細胞にも核が見られます。さらに、核の中にはかならず核小体がありました。シュライデンは植物の体はすべて細胞でできていると考えました。そして、植物の成長は細胞の増加によるとしました。ただし彼は、核小体が核になり、そこから新しい細胞ができるのだと誤解してしまいます。

「この紬胞は、一つ一つが生きているだ! 植物の体は、細胞でできている。さらに、一つ一つの組胞が生きてはたらくことで、植物の成長や活動が起こるのだ」

シュワン

 同じ頃、ドイツのベルリン大学医学部の研究室で、テオドール・シュワンは、オタマジャクシの尾を顕微鏡で観察していました。

「動物の軟骨や脊索も、植物の細胞と同じようなものでできている。動物の体もやはり、細胞でできているのだろうか? よし、他の部分も観察してみよう。」

 ところが、筋肉や神経のように糸のようなもの、赤血球や卵のように球形のものなどいろいろです。シュワンは、混乱しました。

「こんないろいろな形のものから、動物の体はできている。これらはみんな細胞なのだろうか?」

 さらに、世界には多くの種類の生物がいます。また、生物には多くの器官や組織があります。それらをすべて確認して、細胞でできていることを確認することは、ほとんど不可能です。シュライデンもシュワンも、その点で確信が持てないでいました。

 

出会い

 1837年、この二人は同じベルリン大学で研究していたため、いっしょに昼食を食べる機会がありました。

「シュワンさん、植物学者はくだらないよ。分類ばかりやっている。やつらは枯れ草を並べて、ここが同じだ、とか、ここは違う、なんて言うだけが学問だと思っている」

「押し葉標本でしょう? 分類学には必要ですよ」

 シュワンは話題を変えました。

「そんなことより、シュライデンさん、私は今、動物の細胞の研究をしているんです」

「そういえば、最近、植物細胞には必ず核が一つあるという説があるんだが、実は私もね……」

 シュワンは、植物細胞の話を聞いてビックリしました。

「植物の細胞の核の中には、かならず核小体があって、それが成長するにつれて、新しい細胞ができる? ……そう言えば、動物の細胞にも核や核小体があった!」

 シュライデンもその話に驚きました。二人はいそいでシュワンの研究室に行き、シュライデンに動物の細胞の核を見せました。

「こりゃ、植物細胞の核と同じだよ。シュワンさん」

「動物も植物も、全ての生物は細胞でできている!」

 植物と動物を材料に、別々に細胞の研究をしていた二人は、この事実に力づけられました。シュワンも、いろいろな形の細胞はその形に応じた働きをして、動物の生命活動が起こるのだと確信しました。

 

細胞説の発表

 シライデンは1838年に、シュワンは1839年に、それぞれ自分たちの考えを発表しました。現在はこれを「細胞説」と呼んでいます。細胞説は、単に「生物は細胞からできている」というだけのことではありません。生命現象のすべては、細胞の活動からなる、というものでした。

「とすれば、細胞を研究すれば、生命の秘密が分かるかもしれない」

 このため、細胞の観察や実験が盛んになります。

 

細胞の謎に挑んだ人々 3

ウィルヘルム・ぺッファー

1845〜1920 浸透圧の研究者

 

  1845年、ペッファーは、ドイツの薬局の息子として生まれました。彼は大学で、薬剤師になるために化学の勉強をしていました。25歳の時、ザックスという有名な植物学者の助手をしたのがきっかけで、植物学に興味をもち、研究者への道に進んでゆきます。

 

 オジギソウはなせ動く

 ぺッファーはオジギソウが刺激されると葉を閉じる現象に興味をもちます。

「植物が動くなんて面白いなあ。どういうメカニズムなんだろう? しかし、これは実験しにくい。もっと良い研究材料はないものかなあ?」

 ペッファーはヤグルマギクの花糸を利用することにしました。この花糸は、おしべが筒状にくっついた下の部分で、刺激すると収縮するのです。

 

水による力

 当時、このような植物の運動は、動物の筋肉が収縮するのと同じ現象だと考えられていました。

「花糸が収縮すると、体積は減少しているぞ。おや、水が出てきた?」

 ペッファーは、水が出た分だけ体積が、収縮すると考えました。つまり植物は、細胞が吸水したり、脱水することで収縮したり、膨張するのです。

「植物は、筋肉で動くんじゃない。水の力で動くのだ。すると、この力は『浸透圧』ということになる」

 

浸透という現象

 1828年、すでにフランスのデトロシェという学者は、「浸透」という現象を研究していました。ボウコウ膜のような、水は通れるが、そこに溶けている物質は通さないような膜を、「半透膜」といいます。このような半透膜で、濃度の違う溶液を仕切ると、水が濃い溶液の方へ通って行きます。これを「浸透」といいます。

 デトロシュは、この力「浸透圧」を測定するため、図のような浸透圧計を作りました。

 

浸透圧の大ささ

 ペッファーは、ヤグルマギクの花糸にオモリをぶら下げ、その強さを測定しました。

「ずいぶん強い力だ。デトロシュの浸透圧計で測定したものとは、比較にならない力だぞ。なぜだろう?」

 ぺッファーは、デトロシュの半透膜が不完全なものではないかと考えます。

「完全な半透膜を使わなくては……」

トラウベの人工細胞

 ベルリンの化学者トラウベは、硫酸銅の水溶液にフェロシアン化カリウムの結晶を入れると、細胞のようなものが成長することを発見し、人工細胞と名付けました。実は、結晶の表面で、この2つの物質が化合して、フェロシアン化銅の膜ができるのです。この膜は、半透性です。膜の中は、フェロシアン化カリウムの溶液の濃度が高いため、水が浸透してくるのです。

 

ペッファーの浸透圧計

 ペッファーは、植木鉢などに使われる素焼きの内部で、フェロシアン化銅を化合させ「半透膜」作りました。これを使って浸透圧を測定したところ、これまで考えられた以上に大きいことがわかりました。

「浸透圧がこんなに強い圧力なら、植物も動くはずだ」

 

細胞膜と原形質分離

 植物には細胞壁があります。これが、細胞が吸水によって膨脹しようとすると、押し返して緊張します。この力を「膨圧」と呼び、この圧力の変化が植物の運動の原因だと考えられます。

「とすれば、原形質(細胞質)の外側には半透膜があることになる。」

 ペッファーは、細胞にはこのような「細胞膜」があると考えます。しかし、大変薄いため、顕微鏡でも観察できませんでした。そのため、「そんな見えもしないものがある、なんて言うのはおかしい」という学者もいました。

 1885年、ペッファーは、植物細胞を蒸留水につけると、原形質が脱水して収縮し、細胞壁からはがれてくる現象に注目します。

「原形質が縮むのは、細胞壁の内側に半透性の『細胞膜』があるからだ」

「原形質分離」と呼ばれるこの現象は、細胞膜の存在を証明するものになりました。

 

 

細胞の謎に挑んだ人々 4

 カール・ネーゲリ

1817〜91 細胞分裂の発見者

 

単細胞生物の観察

 顕微鏡の発達とともに、原生動物がたくさん発見されます。ジーボルトという学者は、これらの生物も細胞ででさていると考えました。

「ただし、原生動物はたった1つの細胞でできているのだ。」

 その結果、生物には 「単細胞生物」と「多細胞生物」があることがわかりました。

 中でもアメーバの動きは、人々の興味を引きます。

「アメーバの中身は、ドロドロ流れて移動したり、エモノをつかまえたりしている。動物の筋肉のようだ。」

 

原形質流動の観察

 細胞説が発表されると、多くの学者がいろいろな細胞を顕微鏡で観察するようになります。シャジクモという水草は細胞が巨大なため、よく観察されました。

「おや、細胞の中身がドロドロと流れているぞ!」

 その後、ムラサキッユクサのおしべの毛の細胞でも、中身が流れる様子が見つかります。しかも、この流れは、細胞が死ぬと止まるのです。

 

原形質の重要性

「細胞の中身は、本当に生きて動いているんだ! 細胞、細胞といっても、むしろその中身の部分のほうが『生きている』感じがするなあ」

 やがて、細胞の中身を「原形質」と呼ぶようになります。これは、すべての生物の源という意味で、細胞よりもむしろ原形質が生さている単位であると考えられるようになります。また、この原形質の流れを「原形質流動」と呼ぶようになります。

 

ネーゲリ

 スイスの医師の息子として生まれたネーゲリは、大学で医学を勉強していました。しかし、植物学に興味を引かれるようになります。やがて、シュライデンのもとで植物細胞を研究するようになり、植物学者となって行きます。

 植物細胞を観察していたネーゲリは、原形質の中にある奇妙なものに気づきます。

 「原形質の中に、光るツブツブがある。これは何だ?」

 これはデンプンの粒であることがわかります。また、植物細胞には、セルロースでできた細胞壁や細胞液のつまった液胞もあります。

 「これらは、若い細胞にはあまり見つからない。成長とともに増えていくようだ」

 そこでネーゲリは、これらが原形質の生命活動によって生じたと考えます。

「これらは、原形質と違って、『生きて』いない、ただの物質だ」

 これらを、「後形質」と呼び、原形質と区別して考えるようになります。

 

原形質の状態、コロイド

 「しかし、アメーバの原形質はなぜあんなふうに動けるのだろう?」

 一八五八年、ネーゲリは、原形質の状態についてミセル説という学説を発表しました。このミセルは現在、「コロイド」と呼ばれる考えに近いものです。原形質内には、タンパク質のような巨大な分子が溶けており、これと水との結び付き方は変化するのです。そして、それによって溶液は、流動性を持つゾルと半液体状態のゲルの2つの状態に、変化するのです。

 

細胞分裂

 シュライデンは、細胞が核小体や核から生じるとしています。しかし多くの学者が、1つ細胞が分裂して2つになる様子を、観察しました。

「シュライデンのいう細胞の増え方は間違っているようだが……」

 ネーゲリは、細胞がどのように増えるかを調べてみました。彼は、ユリの花粉ができる様子を観察しました。

「シュライデン先生は間違っていた! やはり、細胞は核から生じるのでなく、細胞分裂で増えるのだ。核も、その時に分裂するようだ」

 1842年、細胞は「細胞分裂」で増えるという考えが提唱されます。

 

小さな棒、染色体の発見

 ネーゲリは細胞分裂を観察している時、奇妙なことに気がつきます。

「細胞が分裂するとき必ず、核は一度消えて、小さい棒が現れる」

 その後、この「小さい棒」は、染料の色によく染まることから「染色体」と名づけられます。

 

核の観察

 1855年、ウンケルという学者は、核の中身も流れることを観察しました。

「核の中身も液体だ。とすると、この核液と外の原形質が混ざらないように仕切りとなる膜が必要だ」

 その後、「核膜」 が確認されます。また、核の中には、色に染まりやすい「染色質」もあることがわかります。

「とすると、細胞分裂のときは核膜が消え、この染色質が染色体になるのだ。どんな役目をしてるんだ?」

 

遺伝子は細胞のどこに?

「細胞が生きている単位であるなら、親から子に伝えられる遺伝子もこの中にあるに違いない。しかし、それはどこにあるのだろう?」





細胞の謎に挑んだ人々 5

 シュトラスブルガー

1844〜1912 細胞分裂の研究者

 

 その後の細胞の研究は、ほとんどドイツの学者によって進められます。中でも、ボン大学教授のシュトラスブルガー(18441912)とキール大学教授のフレミング(18431905)は、顕微鏡での観察方法をいろいろ改善し、細胞分裂において重要な発見をします。

.染色体の観察

 シュトラスブルガーは、植物細胞を研究していました。1878年、彼は細胞分裂の際、染色体が縦に裂け2方向に移動して行く様子を観察しました。

「縦に裂けた染色体は、両側から伸びてきた糸のようなもので、2つに分かれていくようだ。これはおもしろい! 他の植物でも調べてみよう」

 すると、植物の種類によって、染色体の数や形が違います。しかし、同じ種類の植物であれば、どの細胞でも染色体の数や形は同じでした。

「生物の種類によって、染色体の数や形が決まっている。これには、どんな意味があるのだろう?」

 

.染色体の数とその意味

 植物にくらべ動物の細胞は、大変観察しにくいものでした。フレミングは、顕微鏡で観察する方法をいろいろ改善し、シュトラスブルガーの発見を、動物細胞でも確かめました。

 彼はオタマジャクシの細胞分裂を観察し、動物でも染色体がシュトラスブルガーの言う通りに行動することを確かめました(1879)。

 そして、フレミングも染色体の数が、動物の種類によって違うことを確認しました。彼は、ヒトの染色体数が2224本であると報告しています

 1883年、フレミングは、これらの結果を次のように解釈しました。

「染色体は、生物の種類によって数が違う。生物の種類によって形や性質が違うのは、この染色体のせいかも知れない?つまり遺伝に関係した物質が、この染色体の中にあるのではないだろうか?」

「とすれは、細胞分裂のとき染色体が縦に裂けるのも説明できる。遺伝物質を2つの細胞に同じ量だけ分けるためだ。」

.減数分裂の発見とその意味

 1884年、いろいろな植物や組織で、細胞分裂を観察している中で、シュトラスブルガーは、奇妙な細胞分裂を見つけました。

「ここにある染色体は、数が少ないぞ?!他の細胞の半分しかない。」

 それは、花粉やめしべの細胞でした。もとの細胞には、正常な数の染色体があるのですが、分裂が2回続いて起こり、染色体の数が半分に減ってしまうのです。彼は、これを「減数分裂」と名づけました。

「花粉やめしべは、受精するための細胞だ。この2つの細胞が合体して、種子ができる。おそらく、染色体もいっしょになるのだろう。そうすれば、染色体の数は、正常にもどる。」

 彼は、この染色体と減数分裂の意味について、重大なことに気がつきます。

核の中の染色体に、遺伝物質があると考えたのです。

「親子がよく似ているのは、遺伝物質が親から子に与えられるからだ。しかし、親は2人いる。両親から、2人分の遺伝物質が子に与えられると、困ったことになる。そこで、花粉やめしべの細胞は、遺伝物質を半分に減らす必要があるはずだ。それが減数分裂の意味なのだ!」

 1887年、フレミングも動物細胞で減数分裂を発見しました。これらの解釈は、1900年にメンデルの遺伝法則が再発見され、正しかったことが確かめられます。