はろ〜たいむす本紙
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はろ〜たいむす本紙3月号「ピックアップ」記事

裁判員制度の見直すべき点


選出方法を公募制(登録制)に審理中や判決時も裁判員は非公開に 今年の5月21日に裁判員制度がスタートする。
昨年11月28日には全国の約29万5千人に裁判員
候補者名簿に載ったことを知らせる通知書が発送
された。すでに通知書が届いている方もいるはず
である。 
 はろ〜たいむすでは、3年前よりアンケート調
査を行うなど、「裁判員制度を問う」と題して、
同制度の見直しを主張してきた。
 多くの識者が同制度についての是非を論じてい
るが、以下、現行の制度の見直し点を具体的に挙
げておきたい。
裁判員制度

精神的にも身体的にも苛酷

        ■選出方法■


 現行の「有権者の中から無作為抽出する」という選び方を改め、自ら希望する公募制にする。
 無作為抽出を行う場合は、裁判員候補者名簿の通知書が届いた時点で、本人に参加する意志がある場合は「登録」の手続きを行い、登録者の中からくじで、その事件の裁判員候補者を絞り込む。
 もちろん参加を希望しない者は「登録」しない。
現行の裁判員制度は、3〜4日間、連続してほぼまる1日拘束される。
 その期日中は法定での審理に参加し、裁判対象が殺人や傷害致死などの重大事件のため、審理中に遺体の解剖写真や残酷な犯行場面の再現などを見たり、残忍な犯行状況が詳細に証言される場面に立ち合うことになる。
 さらに、評議・評決を行い、有罪の場合は死刑などの重い量刑を決定する。そして、自ら下した判決の言い渡しにも立ち合う。これが簡単なはずはない。最高裁は裁判員を対象に24時間体制の心理カウンセラーによる無料電話相談や「心のケア・プログラム」を設ける決定をしている。
 この簡単ではない苛酷な現実を引き受けるかどうかはその本人が決定すべきもので、罰則を定めるのは民主的でない。もし、公募・登録する者がいないとすれば、日本は同制度導入にはまだ未成熟ということだ。ましてや裁判に参加する義務の規定を憲法につくるなど、断じて許してはならない。
              
           ■非公開■


 審理中も判決時も裁判員の顔は非公開にする。
現行では被告や傍聴席から裁判員の顔がわかって
しまう。しかも、被告席と裁判員席はわずか数メ
ートル。審理中や裁判後に、本人及び家族に危害
が及ばない保証はない。
 この危険性についての安全対策は皆無と言って
よい。顔が見えないようにすること(非公開)が
裁判員を守る。


             ■評決■

 裁判員は有罪か無罪かの評決だけを行う。量刑
は裁判官が決定する。評決だけにすると裁判員の
拘束時間が大幅に短縮し裁判員の危険度も下がる。
道の駅建設 大阪府で6番目
全国868駅、近畿97駅、大阪府5駅が登録
完成予想図

 和泉市仏並町の国道170号沿で、大阪府では第6番目となる道の駅と和泉市南部リージョンセンターの建設が、7月20日のオープンに向けて進められている。
 道の駅は24時間利用可能なトイレ、駐車場、電話、休憩施設などの「休憩機能」と、道路案内、観光案内、特産品の展示販売などの「情報発信機能」と、駅相互の連携などを行う「地域の連携機能」の3つの機能を持つ休憩施設で、全国で868駅、近畿で97駅、大阪府で5駅が登録されている(平成19年8月現在)。
 和泉市では指定管理者制度を導入し、道の駅と南部リージョンセンターを一体として民間業者による運営を行う。
 建設中の道の駅と南部リージョンセンターの全体敷地面積は約1・4ヘクタールで、リージョンセンターの建物は鉄筋コンクリート造(一部鉄骨造)の2階建て。併設施設として消防分署と総合保育園の設置も予定している。
 同センターでは住民票や印鑑証明などの各種証明書を発行する行政窓口サービスのほか、約300人が収容可能な多目的ホール、カラオケや音楽教室にも利用できる防音室の音楽室、蔵書数約1万3千冊の図書室、地域食材を利用した加工食品の開発やPRを行う加工室、備蓄倉庫、災害用臨時ヘリポートとして利用できる多目的広場も設置する。
 道の駅の特産品販売コーナーでは、地域の農産物や、タケノコの水煮、佃煮、ジャムなど地元食材の加工品を販売する予定である。同コーナーへの出店募集に対して約130店の応募があり、現在選定を進めている。
 また、道の駅のトイレは地元の木材を使用した約88平方メートルのゆったりとした建物で、道路利用者にとっては快適な休憩所になりそうである。駐車場は約140台収容。休日には朝市も開催する。
 同市担当課は「構想から10年、市民と何度も話し合って築き上げてきました」と、市民との協働を強調する。

食料自給率 減少の一途
大阪府2%、和泉市は4%


 中国製ギョーザ中毒事件や輸入小麦の価格を30%値上げするなど、輸入食料の問題が次々と表面化している。
 農水省は2006年度の日本の食料自給率をカロリーベースで39%としている。世界的に見ると2003年度で自給率が100%を越える国は、主要先進国ではオーストラリアが237%、カナダが145%、アメリカが128%、フランスが122%の4ヶ国のみ。日本は40%と主要先進国の中では最低となっている。
 2003年度から40年前の1963年度を見てみると、日本は72%でこの40年間に32%減少したことになる。日本以外の主要先進国は、40年間ほぼ同じ自給率を保っている。英国にいたっては約30%増加している。日本は見事なまでに毎年確実に0〜1%ずつ減少しており、現在もこの減少傾向が続いている。
 では国内の各都道府県はどうだろうか。2005年度で食料自給率100%を越えているのは北海道と青森、岩手、秋田、山形の4県だけで大阪府にいたっては、わずか2%しかない。
 10年前からの推移では北海道が10%、秋田など14県が1〜4%増加しているものの、他は減少の一途で、大阪府と神奈川県が10%減、東京は実に40%減となっている。
 食料自給の重要性を叫びながら、自給率100%の国にしようと決めて行動しているところが実際日本にはあるのだろうか。
 大阪府の農政室は府の自給率100%について「自給率を2%から1%増やそうとすると、現在の農地面積を2倍にしないとできないという試算があり、実質的には机上の空論」とまで言う。
 和泉市の自給率は4%。市農林課は市民の食料自給を考える必要があるかとの問いに、地産地消の推進や地場農産物の活用を図るなど、食料自給を高める方策が必要との立場を示しているが、和泉市の農業就業人口と農地面積は年々減少している。
 自給率は「100%にする」と決めなければ減少の一途を辿る。(食料自給率はカロリーベースで農林水産省試算を引用)
和泉に生きる〈5〉

山月工房  松田 有利子さん
 それからの現地発 
パプアニューギニア編 
 連載〈上〉


森 弘幸さん
まつだ・ゆりこ 
大阪府伝統工芸士(平成17年授与)。山月工房代表。
幼少より父の小溝時春氏のそばで和泉蜻蛉玉(いずみとんぼだま)の製造技術を学び、29歳の時に後継者になることを決める。夫と長女の3人暮らし。和泉市観音寺町在住。

もり・ひろゆき 株式会社「ワンベルウッズ」代表取締役。
34歳。和泉市春木川町出身。大阪市東住吉区在住。


山月の輝きを未来に


 色模様のついたガラス玉で紐を通す穴を持つものを蜻蛉玉と呼び、紀元前18世紀頃のメソポタミアで作られていたという記録がある。
 その後、シルクロードを通じて東アジアに伝わり、奈良時代に神功天皇が三韓征伐からの帰りに高麗からガラス玉の技術者を連れ帰ったことから日本に伝わったと言われている。
 そして、浪速朝廷の地に近い和泉国(現在の堺市)でその技術を日本人に伝授したのがはじまりとされ、江戸時代には「泉州玉・さかとんぼ」と呼ばれた。
 和泉市には明治初期の頃にガラス玉の製造技術が確立されたとの記述があり、その技術が神山喜代松氏によって村民に公開され、ガラス玉の製造地として発展したという(資料=「大阪の伝統工芸品」)。
 しかし、昭和の後期から不況のあおりと中国製品の進出などで注文が激減し、ガラス業が盛んだった和泉市でも多くのガラス職人が職を失った。
 和泉市で11歳の頃からガラス玉の製造に従事し、その技術を伝承していた松田有利子さんの父、故小溝時春さんにも不況の嵐が容赦なく押し寄せた。 
 ガラス玉には大きさや技法など多くの種類があり、職人によっておおまかに製造分野が別れていたという。「父はどのような製品でも作る技術を持っていたので乗り越えられたと思います」と娘の有利子さんは語る。
 時春さんは、平成16年の5月、69歳で亡くなる2ヶ月前まで、自らが設立した山月工房で和泉蜻蛉玉を作り続けた。
  和泉蜻蛉玉は、平成14年1月に名称「和泉蜻蛉玉」、製造産地「山月工房」として、大阪府知事指定工芸品の指定を受ける。そして、翌年2月、時春さんに大阪府伝統工芸士が授与される。
 現在、和泉地方独自の技法、材料、形態を伝承して作られる「和泉蜻蛉玉」を製造しているのは山月工房1軒だけである。
 言いかえれば、和泉蜻蛉玉の技術を継承する人は、故小溝時春さんに師事した娘の有利子さん一人だけとなった。
 有利子さんは物心がついた頃から父、時春さんの工場に入り浸って父の仕事を見て育った。毎日工場に行き、時春さんの左後方に立ってじ〜っと見ていると「有利子、お父ちゃんはな、同じ玉をいっぱい巻かなあかんけどな、絶対に手を抜かへんねん。一つひとつ丁寧にな、そしたらええ玉できるんやで」と話してくれた。
 それが有利子さんにとって、父の手から出来上がる蜻蛉玉がニコニコ嬉しそうに輝いて見える始まりだった。
 父の左後方…、そこは大好きな父の背中と素敵な作業を一緒に見ることができる大切な場所だった。大人になり、看護師として働きながら父の仕事を手伝い、蜻蛉玉作りの修行に励んだ。
 そして、29歳の時、父の後継者になることを決心。以来、父に師事し、日々技術を磨いた。
 工場では2台の作業台で制作をしていたが、有利子さんの作業が心配なのか、よく有利子さんの後方に立って見てくれていたという。有利子さんが幼い頃に父の左後方でじ〜っと見ていたように。
 蜻蛉玉作りは一つの作品を全て手作業で仕上げる。1日に作れる数は多くて50個。父の時春さんは300個は作ったという。
 また、針金に直径2ミリ程の玉をそろえて何個も作る玉巻は難しく、「お父ちゃんの域には達していない」との時春さんの言葉に、「70歳までにはなるわ」と言い返していたことも。時春さんとの思い出は尽きない。
 二人で夜道を散歩している時、見事な満月が。「お父ちゃんはな、山と月、好きやねん。さんげつって言葉好きや、ええ響きやろ」。それが山月工房の名の由来である。
 父より受け継いだ伝統の技。父の名を汚さず伝統を忠実に後生に残すこと。今、有利子さんは中学2年生の娘とその夢を叶えられたらいいなぁと、和泉の山月を見ながら未来に思いを馳せている。

現地の人として受け入れられた


 1996年12月から1999年6月まで青年海外協力隊・村落開発普及員としてパプアニューギニアのアマナップで任務に着いた森弘幸さん。帰国して約9年、森さんの「それからの現地発」である。
 パプアニューギニアでは2年半、現地のアマナップの人々と共に主食のサクサクを食べ、現地語のピジン語を話し、裸足でジャングルに入って仕事をしてきた。
 旅行が大好きということもあり帰国後は一時旅行会社に就職したが退職。
その後、友人の人材派遣会社に勤務したことがきっかけで2005年9月に独立、現在の人材派遣会社「株式会社ワンベルウッズ」(大阪市西区)を設立した。今はスーツにネクタイ姿の企業家である。
  1996年12月、初冬の日本を発った森さんは、パプアニューギニアの首都ポートモレスビーに降り立った。そして、数日間、現地語であるピジン語と生活習慣やタブーについて訓練を受けた後、赴任地のアマナップに向かった。
 そこは飛行機しか交通手段のない、ジャングルに覆われた山岳地帯である。今でこそ大人は服を着るようになったが、中には裸でペニスケースだけという人も少なからず残っている土地で、森さんは彼らと衣食住を共にした。アマナップの人たちはやさしかった。
 森さんは、慢性的なビタミン不足を改善するためモロヘイヤの栽培に挑戦した。また、現地の職業訓練校に実習を兼ねてマーケットと銀行をオープンさせた。貨幣の使用はすでに行われていたがお金を貯蓄するいう概念がなく、手にしたお金は全て使ってしまうという有り様だった。
 森さんは粘り強く取り組んだ。結果、現地の人々は預金ということを知り、貯金するようになったという。
 1998年7月にはパプアニューギニア北西部を襲った津波大災害に遭遇。死者数千人、アロップ村など2つの村が完全に消えてしまうという大災害だった。森さんは現地の隊員たちと共に救援活動に奔走した。
 アマナップでの2年半。お別れパーティーの日に用意された豚の数は7頭。「ヒロに別れを」と集まった村人は600人を越えた。歩いて丸2日かかる村からも多くの村人がやって来た。
 村人は別れ際に言った。「アマナップに帰ってきてほしい。日本人HIROはHEROだった」と。現地の人として受け入れられたことが本当にうれしかったと森さんは当時を振り返る。                  

                           つづく