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漁港の近くにある北九州市門司区の小学校に、夕闇が迫っていた。
昨年十二月。人権教育講座に参加した教職員や保護者約二十人は、聴覚障害を抱えながら取材活動を続けているフリーライター小椋知子さん(38)(小倉南区)の問い掛けに黙り込んだ。
「あなたは電話が掛けられない人を雇いますか。敬遠するでしょう?」
目が合った女性がうつむいた。淡々とした声が、底冷えのする教室に響いた。
「確かに大変なことだけど、出来るんです。相手が私を受け入れてくれれば」。少し間を置いて、小椋さんはほほえんだ。
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テレビの音がおかしい。電子レンジの「チン」が鳴らない。家電製品の不調ではなく、原因が自分の耳にあると気づくまで、時間がかかった。症状は急速に悪化し、半年で音を失った。三十一歳だった。
人と会うこと、書くことが好きで、タウン誌の記者になった。二十八歳を過ぎて独立した。取材だけでなく、校正の技術もあり、仕事は十分にあった。 |
突然の失聴は、自信とプライドを打ち砕いた。電話が掛けられない。相手とコミュニケーションが取れない。ライターとしての活動をあきらめた。
ハンデがあっても働きたいと職業安定所を訪ねた。だが、編集の経歴を知ろうともせず、「まだ若いのだから、何か技術を身につけたら」と、担当者の紋切り型の応対に傷ついたこともあった。
二〇〇〇年。東京の女性ライターから届いたメールが転機をもたらした。「あなたのハンデは知っているが、仕事はメールだけで可能。私は経験者を探している」。メールマガジン編集の応援を求める内容だった。小椋さんのことを知人を通じて知ったのだ。
「自分を求めている人がいる。聞こえなくても出来るんだ」。やる気がよみがえった。メールのやりとりによるインタビューから始めた。自信を少しずつ取り戻すことができた。
聴覚障害者の多くは、企業の「障害者枠」で雇用される。自己主張しながら、思うまま活動するなんて夢のような話だ。「これまで培った技術を捨てたくない」という思いが、小椋さんに独立の道を選ばせた。
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取材先に出向き筆談でインタビューする機会も増えた。依頼を受け、インターネットにコラムや記事を執筆。障害に立ち向かう人々を描いた連載は、全国の地方紙に掲載された。
当然、壁もある。北九州市は、聴覚障害者の社会参加を支援するため、手話や要約筆記の派遣制度を設けているが、「営利目的では派遣できない」と、仕事での利用は出来ない。取材相手に筆談を頼んで露骨に嫌な顔をされ、仕事を終えてから涙が止まらなかった時もある。
個人で手話通訳を雇えば二時間八千円。これでは原稿料が消えてしまう。どうしても必要な時は、ボランティア頼み。「これが私の社会参加なのに」。通訳の好意にすがるたび、いたたまれなくなる。
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小椋さんは、ホームページに、こう自己PRを載せている。
「これが出来ない」ではなく「こうすれば出来る」をモットーに、悩みながら、こけながら、模索しながら、ゆっくりゆっくり歩んでいます――。
あきらめない限り、道は開ける。そう信じている。
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