トップページ バックナンバー目次

華奴の「短歌あの日この日」 バックナンバー

2003年4月

             4月30日(水)   

      ああ君のその一言はまっ白なブラウスに付いたちっぽけなしみ
                 雨宮 潤子 (水甕 2003.5) 


    こういうことって きっとだれしも あるあるぅ、だろう。そのしみをなんとか取ろうとしても 痕跡は消すことができない。とりかえしがつかないんだよお。ひとしきり 悶々とするとしても、さいごには しみはつくものと諦めなければならない、よね?! ひとは それぞれどんな反応をするのだろう。さて、そのとき、あなたは?


             4月29日(火)   

      テフテフと母が学んだ片仮名の絵本を見つけた蔵の中
                 田中 晶子 (水甕 2002.8) 


    今日の写真は 鈴蘭とベルフラワー。鈴の音、ベルの音 聞こえますか? 鈴蘭の葉は 蓮の葉とか里芋の葉のように水滴をころころに弾いて ひときわ輝く。ほんの数日前には ちいさなちいさな つぶつぶのつぼみだったのが、もう満開の鈴蘭。うかっとしていたら、ビオラのプランターから うつってきたアブラムシが白い花を汚していた。使い古しの筆で 虫をはらって お清めして、写真撮影。
紅いシクラメンの鉢を外に出しておいた。驚いたことに、そのシクラメンの花に、どこからか大きな揚羽蝶がやってきたのだ。いったい、どこで生まれて どっから来たのだろう。ここは 街中の四階のベランダ。どうしてここにシクラメンの花が咲いているのがわかるのだろうね。飄々とやってきて、飄々とどこへやら消えたテフテフ。どこか ご近所の庭木に生まれたのかな。あ、今野さんちの橙の木かしら。



             4月28日(月)   

      ふくろう のゴロスケはもう年老いて眠りの淵を飛ばずなりけり
                 武下 奈々子 歌集『不惑の鴎』
 

    ふくろうの歌を見つけた。絵本で読んでもらった、そして読んであげたゴロスケは もう鳴かなくなったのかな。


             4月27日(日)   

      幸福の木の辺に生えし酢漿草のしあはせ探しに背伸びする茎
                 小島 督子 (水甕 2003.5)
 

    今日の写真はかたばみ。今 うちのベランダのプランターに かたばみが咲いているの。ベルフラワーとかたばみとすずめのかたびらが同棲しているの。みんなお日さんの方に背伸びしてるよ。そのプランターは いろんなみどりのちっちゃな葉っぱであふれかえってて、土なんか見えないくらいで、見てるとこっちもなんかわくわく感があふれかえってくるよ。


             4月26日(土)   

      過ぎゆきは澄みゆくものよ卒塔婆の燃えつくるまで郭公よ啼け
                 佐藤多恵子 歌集『郭公よ啼け』 


逢ふ魔が時とふ黄昏に子は行きぬ終とも知らず手を振りしわれ

子の指紋のこれる黒きベースギター触るれば弱き音に震へぬ

幼き日子の残せるを食みしごとく佛飯を食む逆縁われは

納棺に忘れゐたりし臍の緒の箱の軽さよ朧の夜に

沈丁も梨も林檎も咲き満つる子を葬るに明るき故郷

逝きし子の好みし梨を独り剥くずしりと重く我には余るを

逝きし子も有馬皇子も十九なりしみ墓の椿くれなゐ深く

子に逝かれしことがすべてを支配せし今年のカレンダーつひに一枚

    昨日の<鳥が鳴く>つながりで思い出した、はずせない歌。絶唱。
佐藤さんは もともとは俳句をなさっていた方ですが、息子さんを亡くされたことがきっかけで 歌を詠まれるようになったそうです。歌はひとを救う。歌の素材も 息子さんのことから そして やがて ひろいひろい世界へと踏み込んで行かれたご様子がこの歌集でわかります。また別の機会に いろんな素材の歌を紹介したい。 



             4月25日(金)   

      ミシン踏みて( ふかす妻も聞けりといふ( ふくろふ は電車の絶えし時(
                 土屋 文明 歌集『放水路』
 

    文明のつつましい生活が伺えるような歌。この歌では梟の声は なみだぐましいような人の営みとともになんとももの淋しいせつないような声に聞こえる。人間という俗世界のものおと絶えた後に 梟はすべてをつつむ聖なる存在を思い出させるようにも響く。
梟の声を聞いたことがある。信貴山の山の中。といっても、住宅地とほど近いところで。このときは 感動で胸高鳴るようなわくわく気分で聞きましたがね。溜池なのか、沼のようなものがあったな、確か。自分のいるところが途端に聖なる領域のように感じたものだ。
しかし、梟が啼くと言えば、飯島晴子の俳句

これ着ると梟が啼くめくら縞

強烈なインパクトがあった。この句を知って現代俳句にも興味が湧いた。 この句の<梟が啼く>は 底知れない孤独な精神の闇のようなものを感じておそろしいくらいだ。



             4月24日(木)   

      ( がもてる貧しきものの( いや しさを( の人に見て( へがたかりき
                 土屋 文明 歌集『放水路』
 


    今日は 久しぶりに大和郡山の歌会へ出かけた。 そこで 文明の資料を頂いた中にあった歌。
イラクの人々の略奪のシーンは 泣き笑いしたいようななんとも言えないここちだった。どう言ってよいのか。
そのこととは関係ない話だけど、経済的なことだけじゃなくても、自分にもあるいやなところをまざまざと他人のなかに見ることって、つらいことだ。でも 何かが見せてくれているとしか思えない。何者かが気づきを促す。  



             4月23日(水)   

      大ばさみの( の刃と( の刃すれちがひしろたへの紙いまし断たれつ
                 栗木 京子 歌集『 中庭 ( パティオ
 

    紙がない!
おめでとう御座います。あなたが1000人目のお客様です。ってなことは 経験がない。けれど、ちょうど不運なことにあたることはあるのよねえ。カードで買い物をしようとしたら、店員さんが 「あ、紙がない!」って 騒ぎ出した。時間で交替している前の女の子がちゃんと 引き継ぎしてくれなかったと、ぼやくぼやく。印字するカーボンになっているあの用紙のことだ。ありゃありゃ。買い物できず。
帰るとFAXが来ていた。印刷は受信と同時でなくて、一旦プールしてからにしている。印刷していると、途中まで出して、動かなくなった。インクリボン切れと来たもんだ。慌てて、インクリボンを買いに走った。
まだ トドメがあった。用を足した。ペーパーは芯だけだった。 こんな日は 大当たりと言っていいのでしょうか。 



             4月22日(火)   

      刃のような風が吹くたび街ぢゅうの鍵屋の鍵がしづかに光る
                 永守 恭子 歌集『象の鼻』
 

    キイつけや!
今日は なんと自分ちの鍵に締め出されてしまいました。うちは、ピッキング対策の為に鍵を変え、そしてそれでもまだ危なくなってきたので、サムターン廻し窃盗団対策に もひとつ鍵を付けています。これって ずっと鼬ごっこになるんかいな、と思いつつ。電池で電動でロックします。機嫌よおロックして出かけて帰ってきて、オープンって押しても、これが開かないの、いきなり。電池切れか、ちょっと接触悪くなってるか。いつもは 予備のリチウム釦電池と小さいねじ回しを持ってでるのだけれど、今日にカギッてそのポーチを鞄に入れてなかったのです。ひー。
「家に入られへんかってん」って言い訳にして、ダンナが帰るまで図書館で遊んで来よかなあ、なんて不埒な考えが浮かんだけど…。そうだ 時計屋さんだ、と近所のスーパーに行ったらその時計屋さんは無くなっていた。ありゃりゃ。お家に帰れない状況ってって なんともいえん心もち。ちょっと スリリングな 気分。帰れないシチュエーションのままを楽しみながら、服なんか呑気に見たりなんかする。でも、帰らなくっちゃ。ほな、100均や。100円ショップで 電池と精密ネジ回しセットを買う。 よっしゃあ、これで帰れる。図書館のベンチのとこで 電池替えしようと、図書館に行くと、今日は休館でした。
それから ちょうどスーパーの前で自転車グッズを売っていたので、自転車の鍵 堅牢そうなワイヤーのを買いました。じつは 今までの自転車の鍵、キイがなくても開錠してしまうことに最近気が付いてしまったのです。 鍵、かぎの日です。
また 同じこと繰り返さないためには、どないキイつけたらええか。 財布にネジ回しと電池を入れておくことにしました。うーん、しかし、このちっこいネジ回し、仕事人の凶器になりそうやなあ。なんか あやしいキケンな奴やなあ…。それに 財布を忘れる奴はどうしたもんかねえ…。  



             4月21日(月)   

      鳶に吊られ野鼠が初めて見たるもの己が棲む野の全景なりし
                 齋藤 史
 

    これは またすごい歌だなあ。鳥肌たつくらいシビレル。死に際して初めて見える、か。
なんかとんでもなく深い哲学を感じるなあ。どうや、魔女姐ぇ、まいったか。



             4月20日(日)   

      十年ぶり会ひたる友と抱き会ひ名前うかばずきかれもせずに
                 栗原 ヒサ(百八歳 宮崎県)
                 老いて歌おう2002作品集 心豊かに歌う ふれあい短歌集


    今日は 伊藤一彦氏の講演を聴きに出かけた。その講演でお話にあった、「心豊かに歌う全国ふれあい短歌大会」は介護や支援を必要とする高齢者とその方々を支える家族、施設職員、ボランティアを募集対象として行われた短歌大会で、要介護・要支援高齢者の部と介護者の部とがある。3455人の応募者全員の作品が載っている作品集、思わず買ってしまった。これは すごいなあ。ぜんぶ、年齢入り。伊藤先生が選者で、現代高齢者万葉集と太鼓判。ほとんどは 初めて歌を詠んだという方たちばかりの作品。短歌他力文学説の証明、でもあります、と。
これは ヘルパーの仕事してる友達にぜひ見せたい。なにを言うより、短歌の持つ力、魅力がよくわかる。かなり実用的な効用も発揮されている。ふだんの会話ではなかなか口に出来ない気持ちがよく表現されて、介護者もあらためて被介護者の気持ちを知ることになるという。この方はこんなことを思ってらっしゃったのかとか。歌にして言ってもらわなければわからなかったこともたくさんあるという。いろいろな思いを表現することは こころと頭のリハビリにもなるよね。短歌は他力の文学であるという伊藤氏の説は、こうだ。他力の力とは、まず、57577という形式という力。そしてそれを1300年ひきついできた祖先の日本人を信じている読者(読み手)の力。それから、短歌大明神だか短歌大菩薩だかわからないけれど、なにかふしぎなちから。その他力によって、才能や素質に関わりなく 誰にでも歌は作れるし、成り立っている文学であると。ふっと生まれる歌は ほんとうにどこからなんの力によってか、どうも自分の力でないような気がする、それを短歌大明神だか短歌大菩薩とうまいことおっしゃている。

かまぼこの板でまな板事たれり一人ぐらしの貧しき夕餉
           福田好子 79歳
襁褓から襁褓にわたる身の上の吾と知りつつ坂を上らむ
           石田舜太郎 92歳
長生を希ふ日もありねがはざる今宵もありて吾れは老いたり
           野口ハルエ 80歳
連れられてボケの診断受けに行くこのみじめさを誰に告ぐべき
            栗本加栄子 79歳
視力なき我の草とる傍に鈴つけし猫の方角教える
            岩元ハナエ 80歳
いささかの恥ぢらひ残る麻痺五体介助婦の掌は股間を洗ふ
            佐藤正 70歳



             4月19日(土)   

      吹雪く花ひとひら掬うかの春の訣れにふれし指の感触
                 藤井 清子 歌集『薔薇冠』


    今日は 吉野山へ行ってきました。奥に行くつもりだっただけれど、まだ人が多くて諦めました。読みが甘かったね。まあ、今日はおしゃべりが主たる目的なので、ま、いっかって、かんじ。花を終えた山は いろいろな緑でふわふわの淡い色合いがきれいでした。
歩いているとき、友達の携帯が鳴った。小学4年生のお嬢ちゃんからだ。
「今、ふらここの人といっしょにいてるねん。」母
「え゛ー?!」お嬢
「え゛ー ってなんやそれ。」母
母は言った。ホームページのひとって有名人かなんかと思てんのんちゃうか。
あはは、おーい、お嬢、ちっちゃいとき、ふらここのおばちゃんとこ来たことあんねんで。こんど、また 平野のだんじり祭のとき おいでよね。



             4月18日(金)   

      カラザひき離すたまゆら両の目のふとも翳りて桜散り果つ
                 藤井 清子 歌集『薔薇冠』


    今日 お義父さんと入ったうちの近所のうどん屋さん。ここは、商店街で長くシャッターを閉ざしたままになっていたところが 去年きれいな洒落たお店になった。夜は 居酒屋にもなる。坪庭が明るく気持ちよく、狭い敷地を上手に使っている。その庭に 細い蚊とんぼ少年のような若木の桜がひょろりとあって、花もほんの少しだけ咲かせたらしい花びらが根元にわずかに散り敷いていた。店内の雰囲気は 変わり和風というか、なにやらアーティスティックな金属のオブジェや、ポップな絵があったり、しっとり女性ヴォーカルのジャズなんぞが流れていても違和感はない。お手洗いが是非お薦め。これがなかなか凝ってるのだ。腰板部分が硝子張りで 庭が見えている。少し羞恥を感じながらも 坐って庭を見られるの。椿が落ちていたときもきれいだったな。洗面のボウルは大きな焼き物だし、小石をあしらったり、足元は一部土で龍の髭かだったかなにか生えてたり。まるで、お外みたいなのだ。お義父さん トイレ行きたくないっつうのに、きれいから、見てみて、と無理矢理、行かせたのだった。うーん きれいな、広いな、と覗いてみてくれた。


             4月17日(木)   

      勾配のゆるき堤に丈長き土筆胞子を崩しゆきたり
                 高田 和子 歌集『砂いろの丘』


    今日の写真は 京都、広沢池と大沢池の間の畦道に見つけた土筆。サイズを小さくしたら あんまりよくわからへんね。隠し絵みたい。オオイヌノフグリも隠れてます。ちょっと 時期はずれじゃないかい、ってお思いでしょうが、案外今頃になってもまだ摘まれずに伸びた土筆が土筆のままでいたりする。スギナと並んで。晩生の土筆?
3月に和歌山に行ったとき、今年始めての土筆とご対面した。そのとき、ちょっといたずらしてしまいました。白浜駅で電車まで時間があって、付近をぷらぷらしていて、道端で一本めっけ。連れに見せたくって、摘んでしまった。そんなとこで摘んだって、どうしようもないのにね。ごめん、つくしんぼさん。ベンチで荷物番してた連れに、ええもん、めっけ、なんやと思う?と手柄のようにいうと、「土筆か?」とたわいもなく言い当てられたしまった。ああ、わたしの言うことって底の知れたもんなんやなあ、とほほ。で、その土筆をどないしたか。バス停の前のプランターに挿しました。これ、めっけた人、きっと感動するんちゃう、こんなとこに、って。きゃーい、きゃーい、だれか騙されるかなあ、ひゃひゃ、、、、なんてね。白浜駅のプランターに土筆挿したのわたしです。ごめんなさい。スギナになってないかな。そんなもんなるかいな!



             4月16日(水)   

      見わたせば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける
                 花ざかりに京をみやりてよめる
                 素性法師 古今和歌集巻第一 春歌


    今日の写真は 京都、広沢池。大沢池と並んで時代劇にもよく使われる場所だそうだ。柳は今がいちばん、ほんとにきれい。後ろの山に山桜が一本見える。ぼけてるのは春霞っぽくてよしとしよう。 その昔、都は柳と桜がいーっぱいで ほんとに錦のようだったろうな。あ、こんな淡い彩りの紬なんかいいな。
こないだ京都の友達に都錦味醂漬けをもらった。うん、おいしい。甘いのかと思ってびびったら、甘くなくてきりっとおいしい。寛政元年創業、都錦味醂醸造元 田中長奈良漬店。この味醂漬けのしおりに 柳桜こきまぜての歌が載っている。味醂漬けは奈良漬けより芳醇な香り、美味、鼈甲色と三拍子揃った品、江戸時代の「四季漬物塩嘉言」の著者も感嘆したと云々。



             4月15日(火)   

      毛越寺の池のかなたやけぶらひて今年の桜昏れゆけるかな
                 高嶋 健一 歌集『旦暮』
 

    今日の写真は 京都大覚寺、大沢池。周囲の桜がみごとだった。
でも今日のネタは、ちょっと違う春の話。うちの義父ちゃん、阪神勝った翌日には、スポーツ新聞ポストに入れてくれるんだけど、いつも抜けてる紙面があるな、と思ってたら、きっと競馬のとこ要るんだな、とか思ってたら、義母ちゃんが言うにゃあ、エッチ面をしっかり大事にソファの下に隠してるんだって。きゃは! そっか、実家の父ちゃんスポーツ新聞好きなのもこれだったんだ。きゃは! 



             4月14日(月)   

      目覚めたる暁がたをしらしらと白白と降りてゐたる花びら
                 高嶋 健一 歌集『旦暮』
 

花冷えの旬日つづき散りどきを見うしなひたる今年のさくら

花どきのながくなりつつしづもれる夕べの桜見るにしのびず

花過ぎて蘂のみあらはになれる下妻ともとほる昼なづみつつ

病めばわがはかなき春やただ一度見たるさくらも雨しぶく


    (今年の桜はしっかりご覧になれたかしら。)

歓びはことばとならず息のみて妻と娘と仰ぐさくら満開

    (きっと3人でこうだったかな。だといいな…。)



             4月13日(日)   

      滂沱たるなみだのごとく花降らすさくらの下を歩みてゆきぬ
                 藤川 弘子 歌集『草の穂』
 

    
今日の写真は 大川沿いの桜のトンネル。大川縁の桜並木は何キロつづいているのだろう。脇にブルーシートのお家もずっと続いているが。ここは馴染みの散歩道。天満の地下のアスカでたこ焼きとビールを買って、大川縁で食べる。中之島の方へ行くもよし、大阪城公園へ行くもよし。



             4月12日(土)   

      舗装路に貼りつける花びら多くして身籠もれる猫通りゆくなり
                 西藤 優 (水甕1996.8)
 

    時折小雨のぱらつく雨催いの一日だった。でも、大阪の人出は多かったらしい。出かけた夫が言う。環状線も込み合ってるのんなんでかと思たら 造幣局の通り抜けやな。
(今日の写真は 大阪城と大川縁の桜)
腰痛の夫は 担当の理学療法の先生の転勤に伴って 同じ療法の療法士のいる病院をいくつか探して試している。「腰痛になったのはいつ頃からですか。」と問われると、こう答えるそうだ。
「阪神が優勝した次の年です。」そう言うと、
「ああ、そしたら1986年ですね。」と、通じるそうだ。夫曰く、大阪の人間には 終戦の次の年とかいうのと同じくらい、年表にちゃんと阪神優勝の年って入ってんねん。
なるほど。そして、かたい表情だった先生もにわかに笑顔になるそうだ。同穴の阪神ファンであるか、それとも「あしらいやすし阪神ファン」と侮られるのか、いずれにしろ、ほぐれることは間違いなし。
きのうの巨人戦 7−1の、あと1球から、とんでもない延長引き分けの悪夢。ラーメン屋をやっている友達が、巨人戦のときは 客足さっぱりだって言っていたが、きのうは 長かった。ほんとにさっぱりだったろうな。今日は、早めに勝ちました。 



             4月11日(金)   

      魂を買ひし男が革袋を提げてミモザの下に入りゆく
                 小畑 庸子 (水甕1996.8)
 

    今日の写真は 嵯峨野の住宅街のミモザ(アカシア)。見事な黄の色鮮やかに咲きあふれていた。妖気漂うような不思議な一角となっていた。
まさにアカシアの雨なんだけど。こないだ、カラオケで歌った、西田佐知子のアカシアの雨は、わたしはこのアカシアよりも どうもニセアカシアを散りこぼす雨のイメージだと思う。
今アメリカでは 兵士の帰りを待って町は黄色いリボンであふれているという。帰りを待つ、祈る思いは この満開のミモザでも足りないくらいだろうけれど。でもでも、戦地にいるのはアメリカの兵士だけではない。うちのプランターに種漬花が並んで咲いている。その花の姿は わーいわーいってあられちゃんみたいに喜んでるみたいで楽しいな、と思っていたのに、この頃は 投降兵のように見えてせつない。しかし

この時代の混迷の中に小さくなってすすり泣いてばかりゐてはいけない
(土岐善麿の「短歌に寄せる」口語調波調の作品)
作品の意図とは関係なしに今の気分に警句として読んでしまう。



             4月10日(木)   

      シャネルのリップ36から45へ桜花びらちりぬる今を
                 小池 尹子 (水甕1996.8)
 
この歌の原作における数字表記は ○のなかに数字があります。作者さん、ごめんなさい。○を表記できなくて…。

    お昼休み、友達の携帯にメールが入る。娘さんから。
「あのリップ どうお?」
娘さんが買った口紅を もらったそうだ。
「うん、いいよ、いける。使てるよ。」
すると娘さんは、すかさず、
「500円ちょうだい!」
「もお、あの子は。あげる、あげる、言うといてこれや。服を買うときだって、これやったらお母さんも着られるよ、ってうまいこと言うて買わせといて、いざとなったら、こんなん若い子おのんやで、って。」
ふふふ、、、やられっぱなしのお母さん。でも、満更でもなさそうなお母さん。親ちゅうもんは そういうもんなんだね。 親の愛になんの疑いもないからこそ、子は惜しみなく奪う。わたし、奪いっぱなしで、奪われる歓びは わからないけれど、これってやっぱりすごいことね。
    余生を海を見て過ごしたいと老夫婦がマンションを買った。そのマンションの前に眺望を塞ぐマンションが建ったという。販売員は 絶対に前方に建物は建たないと 適当なもっともらしい巧い嘘をついていたのだ。契約書には なにか建っても知らないよ、とちゃんと書いてあったんだって。そーんな 殺生な!



             4月9日(水)   

      ファインダーを外れ消えゆく花片の一会の色をひとには言はず
                 根本 芳平 (水甕1996.8) 



    雨に散るさくら花色うしなひてくぐもる声のごと頬に触る

    吹かれ来て風の溜りに寄るさくら古きより萌ゆる色深めつつ

    西方は砂曇るまま昏れゆくを逢へねばひとは幻のごと

               根本 芳平

今日は しみじみこの歌を味わっていたい。
逢へねばひとは幻のごと
幻でもいい。ひとは誰も 消えない幻を抱いて生きている。



             4月8日(火)   

      一管の笛がひき裂く春寒の空へふるふるほどく花びら
           久保田幸子 (水甕1996.8) 


    花冷えや花の舞台やとうたらり天女天衣に風が来て舞う

    恋い恋いてたずねしことも夢なれや花の間に間の面の輪冥し

    花とおくあなたも杳くかすむゆえわれはうつつの坂を越えゆく  

               久保田幸子


    私が水甕に入ったのは1999年なのだけれど、ふと見本に頂いた号を見てみると、桜の歌の花盛り。8月号はちょうど花の季節を終えた頃が詠草締め切りだから。素敵な桜をたくさん見つけました。

    話は昨日のつづきになるのだが、、、、、。
今日の笑えるけれど笑えない話。送られてきた固定資産税の納付書を見たおばあさんから、役所に怒りの電話をかかってきたという。
「庭の木にも税金かかるっちゅうんですか?」
「居宅」の下にその建物の構造として、「木」と印字されているからなのだ。なんでまた、「木造」とせずに、たったの一字をしぶって「木」などとしたのだろう。うちの場合はマンション、鉄筋コンクリートは「鉄」でなくて「鉄筋コ」3文字になっているのに。居宅に一行、木に一行、数字が書かれていれば、おばあさんでなくっても そう思ってしまう。無理からぬことだ。なんでもかんでも税金税金って、なんてこったあ、とうとう、庭の木にまでかい。うちの金柑も切らなくっちゃならないのかい。
昨日の話のようにりっぱな庭木のあるお家は、人々を楽しませることができるし、都市計画税を取るより、都市計画に貢献しているから気持ち的には減税してもいいくらい。(でも、税金は金のあるところから取れって思うのも本音だね。)うちのマンションのお隣にも 大きな樫の木があって まるで自分ちの庭のような恩恵にあずかっている。ありがたや、有り難や。
嵯峨野の閑静な住宅街。たくさんの花木の豊かな庭のある、広い邸宅が並んでいたが、更地になっている空き地もあった。りっぱな庭であったろうと思わせる庭石がごろごろそのままに。あるいは、広い敷地が切り売りされて、数件の建て売りになっていたり。一緒に歩いていた友人が言う。おそらく、相続税とか、固定資産税とか払えなくなって、という結末ではないか。もったいないことだ。りっぱなお屋敷だったろうにな。志賀直哉邸とかみたいで明治の文豪でもひょいと出てきそうなお屋敷もあったし。ああ、もったいない。
友人曰く。相続税の高いのは やっぱりほんとうによくないことになってしまう。こんなふうに、払えなくて、どんどん 手放す、壊す、破目になる。 なるほど、全くそうだ。これはいけない。町の景観の問題だけではない。日本の文化、日本人の民度に関わってくるのではないか。邸宅には縁のない私は相続税の心配はないけれど、ニッポンは心配がいっぱい。古いお家が壊されて、コンビニやアコムばっかりふえる町でいいのでしょうか。



             4月7日(月)   

      くちびるをかるく結びて見上げれば空いっぱいの桜花 ( はな こぼれくる
           勝部祐子 歌集『解体』


    仁和寺の御室桜はまだ蕾で、やっと一輪だけ咲いているのをみつけた。なのに、しっかり観桜券300円。三つ葉躑躅が少し咲き始めていて、きれいだった。
仁和寺から広沢池へ行こうと西へ向かう。車の通りを避けて、住宅街へと入った。広いお屋敷ばかりの閑静な住宅街。お庭もいろいろな庭木が見える。見事なミモザや木蓮や桜もたくさん楽しめる。大きな山桜もあったりする。 中でもたまげたのは、尾崎邸の桜。四つ辻から その存在にあっりゃあーーー、と驚いて、角を曲がって近くまで行き、拝ませてさせていただいた。まあ、驚いたね、ほんとに、一般のお家のお庭にこんなりっぱな桜大樹があるなんてねえ。きっと何代かにわたって大事にされてきたのだろうね。横への広がりもかなりあるので、支柱が何本も立てられていた。きっと佐野桜守のお世話になっているのね。邸の入口の門の所には 「病人がおりますので、中に入らないでください。」と手作りで掛けられていた。ずうずうしい見物人にお困りになったことだろう。思わず 声をひそめて、そしてしばし沈黙の鑑賞。驚いた、驚いた。お寺にでもあれば、いい儲けになる桜だよ。そして、そんなりっぱな桜は そのお宅の一本だけではなく、遠目にも、あそこのもすごい、とわかる桜が他にもあった。すごいな、すごいな。嵯峨野って。



             4月6日(日)   

      かざし来し傘をたたみて今われはここより花の領界に入る
           稲葉京子 歌集 『桜花の領』


    広沢池の近くに、京都の桜を守る桜守佐野藤右衛門さんのご自宅と庭があって、そこの桜がまあ見事だった。円山公園の紅枝垂桜と姉妹桜だという。傘をさそうか閉じようかと迷うようなかすかな雨。 見上げる桜から頬に雫を受ける。
樹の真下に居る白い服の人と比べていかに大きいかあらためてわかる。
佐野さんのお家の入口には、呼び鈴ではなくて、釣り鐘と木の槌があって、これを叩くようにと書かれてあった。 (近日中に写真いっぱい お見せします!)



             4月5日(土)   

      清水 ( きよみづ 祇園 ( ぎをん をよぎる桜月夜 ( さくらづきよ こよひ逢ふ人みなうつくしき
           与謝野晶子 歌集 『みだれ髪』


    堺に 晶子を歌う会が(名は不確かですが)あって、晶子の歌に曲をつけたコーラスを聞いたことがある。予期に反して、とてもすばらしかった。偶々水甕の方でこの会で歌っておられた方がいて、楽譜を貸してくださったので、コーラスの指導をしている友達にお願いして、歌ってもらってテープに入れてもらった。由紀さおりの姉妹のようにお姉さんと歌ってくれて、ミニコンサートの演目にもしてくれたそうだ。この桜の歌も入っていて、この歌を読むときは こころのなかで曲付で歌ってしまう。
今日は 雨のそぼ降るとびきりの花冷えの一日でしたが、京都、仁和寺から ぷらぷらプラプラ歩いて、広沢池、大覚寺と、たっぷり桜三昧の一日でした。  



             4月4日(金)   

      ふと触れし土鈴の余韻はわが胸に痛みのごとくしみ透りたり
           谷淵 勝子 歌集 『風花』


    先日頂いた歌集『風花』。封筒を開けると、表紙の鮮やかな朱のいろが目にとびこんできた。
殻閉じてすごせる或る日見つけたり万両の赤きつぶら実二つ/谷淵 勝子
この歌の万両のようにときめかせてくれた。
ああ、途中ですが、本日は 消灯命令のため 断念、これまで。 



             4月3日(木)   

      いつの日か私は私になるだらう からすのゑんどう返事をなさい
           遠山 利子 歌集 『からすのゑんどう返事をなさい』


    ベランダの鉢に花柘榴を植えています。今 小さな小さな紅い葉が愛らしいです。その鉢に 突如 双葉があらわれて、にょきにょき伸びてきました。え? これ、なんやなんや。あ、そうでしたー。こないだ、豆ご飯したとき、エンドウ豆を埋め込んだのでしたー。忘れてました。ちゃあんと しっかり芽を出したのでした。みるみる伸びてきます。ちょっと花柘榴さんに巻き付かせてもらってください。
でも、この鉢には なにかいるのです。いつか土をほじほじしていたら、白くてけっこう大きなぷりぷりのエビのようななにかの幼虫がいたのです。 ぎゃっと、おどろいて、気づかなかったふりして、また、土の中へしまいましたが、いったいアイツの正体はなんなんだろう。いったい なんになるのだろう。 どきどきしながら、図書館の図鑑で調べてみたけれど、結局わからないままです。おとなになっても、こっそり、旅立って行くなら、謎のままです。 蝉でもなさそうです。まさか、クワガタ?! なんてわくわくしたり。なんか くっさーい へこきむしのでっかいのだったりして。でも、またほじほじしてみたら、まだいるのかな。ほじほじしてみようかどうしようか、迷っています。



             4月2日(水)   

      窓近く辛夷の白き花々は揺れて深まる春を告げゐる
                 三木 英 (水甕2002.8)


    今日の写真は 南港通りの並木の辛夷。辛夷の花びらは 動きがあって とてもおもしろい。真っ白に輝いて、晴れた空に映える。日曜日に撮影したのが、数日で 早くも葉っぱが出始めている。町なかで撮ると電線が入ってしまうし、いったいどこを撮っているのかと、実にアヤシイ奴になってしまうので、早々に諦めた。だって 向かいの建物にカメラを向けているように見えるんだもん、アヤシイ。気の弱いわたし。電線が入らないように 天を向いて、下からのアングルで撮ってみたけれど、やっぱりいまいち。辛夷も また今後の宿題にしておこう。


             4月1(月)   

      さくらさくらいつまで待っても来ぬひとと
          死んだひととはおなじさ桜! 
                 林 あまり 歌集『MARS☆ANGEL』



    ちょうど10年前の3月24日、誕生日だった。私は約束の喫茶店で 男を待っていた。待ち人であるその男に借りた本、司馬遼太郎の『竜馬が行く』を読みながら、待っていた。次々と客は入れ替わってゆく。来ない。来ない。…。もともと待つ覚悟はあった。ひょっとすると会議の進行具合で遅くなると聞いていたのだ。しかし、、、、来ない。それまでのわたしの人生、待つことにも待たせることにもすっかり馴れていたのだが、出会ってまもないこの男を待つことには馴れていなかった。もちろんきっと来るはずだ。男がここへ来る意志があることには疑いはなかった。しかし、……来ない。

いつまで待っても来ぬひと…。 まさかなにかよからぬことが起きてしまったのではないか。ドラマだったら、ここで男の身になにかあってもおかしくないよなぁ。このところ浮かれすぎてるわたし。ドラマだったら、交通事故とかなんとかで死んだりなんかするんだよな。などと、どんでん返しのストーリーが思い浮かんだりする。あまりにも、、、来ない。しかし、待つしかない。待った。待って、待った。

だれもいなくなった。どんどん椅子が逆立ちしてゆく。とうとう、喫茶店は 閉店になった。喫茶店を出て、さらに待った。喫茶店は 駅の改札に近いところにあり、外といっても戸外ではないので待ちやすかった。もうここまで待ったら、とことん待つしかない。終電まででも待ってやる。し、しつこい?……。
    そうして、、、、、来た、来た、やってきた! 男は まさか まだいるとは思わなかったらしく、かなり驚いていた。しかし、ともかく、待ち人は来たりぬ! ああ、待ち抜いた達成感! (相当へんなやつ、かも)
ああ、よかった、死んでなかったのね、悲劇のヒロインにはなりそこねたけど、よかったあ、まだ私とこの男との物語はつづきがあるんだ!

いったい何時間待ったのだろうか。5時半からだからきっと4時間以上待ったのではないか。たしか、もうどこもラストオーダーは終わっていて、で 結局は 屋台のたこ焼きなんかを はふはふ食べながら、一駅歩いたのだった。実に 思い出深い誕生日である。

きっと他人様には信じがたい話かもしれない。ふたりともどこへも電話もかけずに待って、待たせるという謎は理解し難いことかもしれない。誰もが携帯を持っている今日に及んでも、ふたりとも携帯を持つ気にはなれない者どうし、その点は似たもの夫婦である。
友達との待ち合わせには こういうときって、携帯ってやっぱり便利ね、って思うけれど、男と女の待ち合わせには 「携帯がなくって、ただ待つ」、ってのも いいもんだと思うけどね。実に 濃密な時間を過ごすことができるものだ。

かつて、ある男を待たせた。男は待ち続けてくれていた。それを知りつつも、とうとう約束の場所へ行かなかったことがあったが、その後も わたしはその男を待ち、待って待って待ち、また、待たせたものだった。その男にとってわたしは もう死んだひとと同じなのかもしれない。しかし、わたしは、わたしが生きた証であるその男を胸のなかに生かし続けている。
ねえ、女って コワイ?

坂本冬美の「夜桜お七」は 林あまりの作詞
歌人による演歌の作詞。
都はるみの「邪宗門」は道浦母都子の作詞。