○銀鈴集より
・ジャコメッティの針金細くゆらゆらに踵かぼそく歩く乙女子 小松久美江
ダイエットや摂食障害と心身を蝕む昨今、異様に手足の長く、まさにジャコメッティの像を思わせる体躯をしている娘を見かける。「ゆらゆらと」でなく「ゆらゆらに」で不安定な動きがバランスをとれないまま持続する。
・蝋梅のしぶとき古葉二三枚吹かるる彼方立つ初富士は 植松 法子
ただの風景画ではない。しぶときという主観の語が嫌みなく働いて「私」が在る。
・耳鳴りを馬橇の鈴にたとへつつたのしさうなりひととき母は 横田千加子
耳鳴りは様々に喩えられてよく詠われるものだが、この歌の微笑ましい場面は印象的である。馬橇の鈴の音はどんなものだろう。しゃんしゃん鳴るのだろうか。遠い日の思い出とともに語られたのだろう。母の生きた茫漠たる白銀の景が広がる。馬橇が世界を広げた。
・跨ぐといふ夢をまた見ぬサンパンより引揚船に乗り移りし日 美馬 治子
「跨ぐといふ夢」力強い出だしで、リアルに想像させられる。跨がんとして揺れる小舟から見えた海の色はどんな色だったろうかと。
粛然と聞き入りたいような重みを感じる。
○一炬集より
日常から詩へ。軽やかな飛翔を果たした一行には何があるのか。鮮烈な一行として成るための際だつ一語。これがキーワードだ、とおそらく誰もが感じる一語を持つ歌を見つけた。
・紅生姜の天ぷらかりんと舌に鳴りほのか酸っぱき栞となれり 行方 祐美
紅生姜の天ぷらは、練り物ならば九州や名古屋にもあるが、衣をつけて揚げた天ぷらは全国でも珍しく大阪のものである。おそらく初めて目にし口にした作者の新鮮なおどろきから生まれた歌であろう。紅生姜を鮮やかに視覚、聴覚、味覚で手渡し、最後に「栞」という一語に大事な感覚が託される。紅生姜のスライスひときれは一つの旅の思い出としてある一頁に挟まれたのだ。この歌を知った私にとっては紅い栞紐にすら紅生姜を思うくらい「紅生姜」と「栞」という語は深く新しい関係を結ぶこととなった。私もそんなハマッテル喩をシテヤッテみたいものなのだが…。
・新聞のパソコン指南の切り抜きの溜まりゆくなり落葉のやうに 向山 明子
これもまた「落葉」だけで猥雑な日常が一挙に詩に生った見事な例だと思う。
・薄ら氷の底に煌めくは魚の群はたや如来のかざせる念珠 長尾 朝子
杳として見えざるものに寄せる期待と不安のような思い。覗き込む池の中だけでなく背後からすべてを包む大いなる存在を思わしめる如来の念珠。煌めいた一瞬の作者の心躍りが光って見えるようだ。
・あしひきの二上山に文散らす白き古梅のあな候文 木下 憲子
少し変わったところを選んでみる。古雅なたたずまいにして、スマートなウィット、実景と共に言葉と遊ぶ楽しさが伝わってくる。
○間歩集より
・一条の光の温み貫きぬ背負いてきたる荷を下ろすとき 石川 厚子
ある瞬間に知覚したところを客観的に視覚的に的確に表現されている。背負子かリュックか背を覆っていたものを下ろしたところ。荷は象徴的な暗喩とも読むことができる。
・みどりごがはつかに匂ふ如月の日に透きとほる指を開きて 小松カヅ子
・陽のさせば音なく消ゆる雪のごとわが命終のかくぞありたし 伊藤 正子
終生親しく差しくる日の光。私も私の日の光を一行にうるわしくとどめてみたいと思う。
・派兵といふ迷彩服の集団を水素原子のごとくおそるる 井上 秀子
自衛隊は軍隊ではないので、派兵ではなく派遣である。意図的に派兵と使われる場合もあるだろうが、この場合は派遣とした方がかえって諷刺的に響くのではないだろうか。
○三径集より
・万人万有携帯電話を握りしめ四方を閉ざす二人の世界 平田由喜子
・百八つの煩悩超えて百十も二百も千も私のわがまま 松井 禎
どちらも数字を軽快に使いこなして見事。一方は世相に目を向ける諷刺、一方は内省を笑いに換えて剽軽な「私」。それぞれが端的に示された。
・悲しみはふいにふくらむ水髪に当てたる櫛をそろそろ下ろす 長山 園子
鬢付け油も何も付けないで結った髪は崩れやすい。そんな水髪に恐る恐る櫛をさす。雫がふいに膨らんで落ちるように、悲しみはふいに膨らんでしまうから。自らの悲しみにふれまいと騙し騙しのこわれそうな私が見える。水髪という言葉が悲しみと響きあって美しい。
○俊英集より
・とほくとほく母を憶えば如月の白足袋を履くしぐさ泛びぬ 石毛田鶴子
仄白い記憶の中に、突如鋭い白さが浮かびあがる。うっとりするような雰囲気のある歌なのだが、如月という言葉は案外に難しい。西行の歌の所為か、やわやわした陰暦のイメージもついてきて茫としている。そんな言葉でつないだからよかったのか、それとも雰囲気で通さずにもうひとつなにか具体を入れた方がよかったのかどうか考えあぐねている。
・見ず知らずの人の車の振動を吸収しつつ渡る陸橋 小林真由美
下を走る車から陸橋、そして「私」へと伝わってきた振動。だれも無自覚にやり過ごす日常の一齣を感知した。自分の体が揺れたり踏ん張ったり知らず知らずにどこかの筋肉が緊張したり、それはそもそも誰とも知らない人のこの車の所為なのだ。自覚するほどでもない微かな不満。陸橋を渡るという車優先の馬鹿馬鹿しさや、街を歩く虚しさ。なんだかかなしい繋がりで街は動いているものだ。
○作品集より
・まだ歌にならざる「福」を温めて十日恵比須は炬燵で過ごす 住友 幸也
福の歌が並んでいる。「福」というお題の宿題なのだろうか。奮闘のご様子が思われて、気分は福福。戎さんの福々しい温顔を思う。
・針箱の密かに入り組む隠れ家に聖徳太子へそくられおわす 杉本 幸子
思わず笑ってしまった愉快な歌の一つだ。
へそくられおはすとまで言わなくても臍繰りだとわかるので別な言い様がありそうだとも思える。
・藻刈りせし神代の碑文写しいるわれの頭上に鳥の影たつ 堂西 知子
神代のはるかな時代に思いを馳せていると、鳥の影が過ぎる。鳥はおそらくその時代も飛んでいたであろう。永い永い時と一瞬の時との対比。われは小さな小さな点となる。
後数行を、惹かれた歌を引いて埋める。
・ちりちりと固き糸こぶ解けて行くばばの話の狐の嫁入り 山田きみ江
・「尻振りのおまつ」と呼ばれ畦道を人に譲らず歩く鶺鴒 前田 穂積