春日真木子『火中蓮』をよんで

                     酔歌さん


  四半世紀前に出版されました春日先生の歌集「火中蓮」が、この程、文庫本として再び出版され、読ませて頂くことができました。
 目をあげむはるかなる野にたちのぼり渦なし誘ふひかりのあるを
最終章のこの歌を読み終えた時、何か大きな人生の節目を通過した後の喜びや反省、又、達成感等が一瞬沸き立ち、スッと消え静かな充実感に包まれている様な、何ら気負いも無く一種の「悟り」のようなものを感じさせて頂きました。暫くして、この後どの様に展開してゆくのだろうと興味が湧いてきます。自身を客観的に見るとそこに〈はるかなる野にたちのぼり渦なし誘ふひかり〉この意味をどのように解釈するかによって読者として想像させて頂くならば、現世での未知への願望、はたまた澄み切った美しい他界への思慕。自然界の生と死そしてその間で脈打つ生き様、全ての歌から春日先生の心的宇宙の大きさと哲学感が伝わってきた思いが致しました。  「木、赤児、やきもの」と対象物は一見違っているようでも全てにおいて生命の神秘を体の中の魂の叫びのような感性で、眼前にあるものを睨みつけるかのように見つめることでその対象物が持っている内面を増幅させ反射し、戻ってきた波動を歌いあげられた感じを抱かさせて頂きました。そして荒行の後の穏やかな静けさが長く心に残ります。  
 さくら木を仰ぐ咽喉もと膨らみていま昇りくる言葉をまてり
 みどりごの舌は眩しもにんげんの原初の言葉あまやかにのせ
〈膨らみていま昇りくる言葉〉〈原初の言葉あまやかに〉言葉でなく音に近い発声の素晴らしさの真実があります。
 夕ざくら咲きしづもるをひそやかに明かる壺あれ わが死を閉ぢむ
華やかな筈の「さくら」を表面的に見るのではなく、そのもの自身が持つ内面と己の内なるものを重ね合わせて歌われることで重くはあるが悲壮感はあまり無く「日本人の独特の美学」少し武士道の匂いをも感じられます。 「焔」の無機質の熱の塊。「沼」という神秘的な世界は何よりも人間に近い空間なのかも知れません。常にキラリと光る眼差しに照射された現実からのメッセージが心に残り感動致しました。
 

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