森たかみちの話

                     幸ちゃん




  34. 森たかみちのお話 幸ちゃん  2003/01/04 (土) 11:00

初めて投稿させていただきます。私は森たかみちの甥で、物書きの 弟子です。このHPで叔父の事を語ってくれているのを姐貴分の魔女から教えてもらいました。嬉しくなって自分の中の叔父の思い出を ランダムに投稿させていただく事にしました。今日は その1 叔父はいつの頃からかは知りませんが、心臓が弱かったんです。それを彼自身しっかり自覚していて、泳ぐ時でもシャツを着てました。よく「僕は時々心臓が止まるんだよ」と笑いながら言ってました。酒もたばこもやらず、適度な運動を欠かさず、できる限り裸でいる事を心がけてました。そのお陰か、叔父は92歳まで生き、その死の原因も心臓ではありませんでした。まさに一病息災の典型みたいな人でありました。

41. 森たかみちの話 幸ちゃん  2003/01/05 (日) 13:12

その2 酒
叔父は酒類がまったくだめでした。「酒を口に含んだ時、うまいと思う。だが僕の身体は酒を受け付けない」とエッセイにも書いています。所が皮肉な事に家族はみんな酒好き。私は叔母(としえ)が台所で料理をしながら酒を燗して手酌でぐびぐびやっていたのを覚えています。北原白秋の所を飛び出したのも酒が原因と聞いています。ある日、白秋先生に 「酒も飲めん奴に詩が書けるか!」と言われて、「俺は素面で童謡を書くわい!」と飛び出したとか。しかし白秋先生の言った事は一部当たっていたようです。後年、叔父は小説を書くにあたり、 「僕は酒が飲めないから、酒の場面が書けないんだよ」と話していました。叔父は酒だけではなく、思想にも自分にも、とにかく酔うと言う事ができない人でした。

61. 森たかみちの話 幸ちゃん  2003/01/08 (水) 19:29

その3 好き嫌い
あのう、ラーメン定食とか、うどん、そば定食ってありますよね。あれ食べる時にどうして一緒に持って来るんだろうって思うんです。だって、麺類の命ってすごく短いんですよ。だから一緒に持って来られると、ご飯やおかずを食べてる間に、または並行して食べていても、最後の方では麺類は必ず、冷めるかのびるかしているわけで、だから私としては、ご飯とおかずを先に持って来てもらって、それが終わる頃に出来立ての麺類を持って来てほしいんです。なぜ、突然こんな話をするかと言うと、叔父の食事の仕方はこれよりも、もっと極端な単品型だったんです。ご飯とおかずを並行しては食べるんですが、おかずは並行して食べる事ができないんです。一品を食べてしまわないと、次のおかずにかかれないのです。これは好みとか習慣とか言う以前にこの方法でしか食事が出来ないのです。味が混ざるのがいやだったんですね。複数の味が混在するのがたまらなく不愉快だったのだと思います。だから、すごいグルメかと思ったら全くそうではなくて、何を食べてもまずいとは言いません。そのかわり、うまいとも言いません。叔父にとっての食物と言うのは、身体を養うエネルギー源、それ以外に何の意味もなかったんです。「手はかからんけど、はりあいもないわ」叔母はそう言って、笑ってました。

73. 森たかみちの話 幸ちゃん  2003/01/11 (土) 19:46

発表するって本当に楽しい事ですね。改めて華奴さんに感謝です。みやちん様、三角を深く読んでいただいてありがとうございました。今日は仕事だったのですが、「じいぃぃ〜ん」を思い出しながら一日中ニコニコして過ごしました。と言う事で
その4 はっちんさんのおっしゃる通り、叔父はいつまでも子どもの感性を持ち続けた人でした。
「人間はほっとけばかってに大人になる。だからいつまで子どもでいられるかと言う事の方が大切なんだよ。僕はとうとう大人にはなれなかったな」
本人は納得しているからいいけれど、一緒に出かける時なんかは冷や汗ものでした。叔父の声は少し高めで、大きいのです。だから話に熱が入って来るとそこが道であれ、電車の中であれ、おかまいなしに、大きな声で話し出します。それも、弟子の私が相手で自分の美学の主張だから、非常に気持ちがいいんです。ニコニコ笑いながら、まるでそこにいる人達をわが聴衆達と決めてかかっているようなその話に相づちをうちながら、冷や汗を書いていたその時の私はきっと叔父よりも少しだけ大人?だったのでしょうね。

87. 森たかみちの話 幸ちゃん  2003/01/13 (月) 11:43

その5 音楽
叔父は物書き全般の他、音楽にも才能があって、音符が読めて書けましたし、楽器もオルガンからハーモニカ、大正琴までこなしました。自分の詩にほんとに素朴な曲をつけた童謡をオルガンの弾き語りで聞かせてくれました。私の結婚式には長男と一緒に「波浮の港」をハーモニカで合奏してくれました。まだカラオケもキャンドルサービスもない時代、とてもにぎやかで楽しい結婚式になった事を懐かしく思い出します。でもその歌唱方は正確すぎて、少し色気が足りなかったように思います。例えば、演歌のこぶしであるとか、一つの音から隣の音へ移行する時にド・レと行かずにド〜レ〜と行く事ってありますよね。でも叔父は「そんな事、楽譜に書いてない」と言って、ド・レと表現してました。でも、ド〜レ〜と私が歌うと「それ、ええなあ」と感心してました。

95. 森たかみちの話 幸ちゃん  2003/01/16 (木) 23:08

その5 小説
華奴さんに叔父は小説も書いてらっしゃったのですか?ときかれてて答を書くのを忘れてました。叔父は小説も何作か書いてます。色んな所へ応募してましたが、結局賞を獲る事はできませんでした。いつも次点でした。私はなぜかあまり叔父の小説は読んでいません。多分、話を聞いている方が楽しかったからだろうと思います。その中で真剣に読んだのは「春を待つ病棟」と言う一遍。主人公は叔父自身をモデルにした精神病院の看護人。彼の目を通して、医療現場の問題点や矛盾を告発していました。この作品はなんとか賞に応募したのですが、もう一つ同じテーマの作品があって、賞はその作品に決まりました。叔父は次点でした。その作品は精神科の医者が書いた作品でした。
「うーん、向こうは医者で僕は看護人、審査員はそこらへんで判断したんだな」
そう言って無邪気に笑う叔父の顔を見ながら「やっぱり内容なんじゃねえか、叔父貴」と妙に冷静な甥っ子は心の中で呟いておりました。

122. 森たかみちの話 幸ちゃん  2003/01/21 (火) 19:57

居候の三角がいつもお世話になっております。今日、久しぶりに会いました。模様替えをしていただいたきれいなお部屋で元気にやっているようで嬉しく思いました。ありがとうございました。
さて、その6 常識
叔父は常識と言う言葉が大嫌いでした。議論の最中に相手がこの一言を口にすると、決まって口調が荒くなりました。「常識って何や。卑怯な言葉を出すな!」叔父の個性に太刀打ちできない人が、その個性を封じ込めるために使う武器である事を叔父は知っていたのです。私が見る限り、叔父は常識に逆らっていたのではなく、いつも森たかみちでいようとしただけの事でした。つまり、常識の方が叔父に逆らっていたのです。叔父のキャラクターやその行動を個性ととるか、非常識ととるかは結局、見る側の感性に依ると思います。そんな師匠の弟子として私も、いつまでも幸ちゃんであり続けようと思っています。

193. 森たかみちの話 幸ちゃん  2003/01/31 (金) 23:13

ごぶさたでした。風邪ひいてたわけじゃなくて、実は迷っておりました。今回のテーマは「ふんどし」
女性のページに「ふんどし」ってのもなんだかなあなんて、うじうじしておりました。でも、これも叔父の一つの側面なれば、思い切って書きます。 叔父は生涯、六尺ふんどしで通しました。私にしてみれば、ふんどしも単なる下着に過ぎないのですが、叔父にとっては日本文化の根本であり、自分のダンディズムの象徴でありました。だからとんでもない事をおっぱじめたのです。 「六尺ふんどしを守る会-六雅会」なるものを発足、「日本は汗と裸を祭する国」と言うテーマの元にあちこちに投稿し、またあちこちに声をかけて会員を募って行きました。当時(30年位前)叔父は阪急吹田駅近くの六雅荘と言う名のアパートに住んでおりました。そこは叔父の友人の坂本さんと言う人が管理人をしているアパートであり、その人が主宰するマリオネットの一座で私は演劇活動をしていました。そのアパートの一室で月に何回かの集会が持たれていました。私は参加しなかったからどんな話をしていたのかは知らないのですが、一度、集会中のその部屋に何かの用事で入った事があったのですが、それはやはり、異様な光景ではありました。4.5人のしわ腹抱えたおっさん達がふんどし一つの姿で車座になって談笑していました。思わず腰が引けたのを覚えています。 そんな会でも続けて行くとマスコミがどこかから嗅ぎつけて来るもので、「ごめんやす、馬場ふみおです」から取材に来、ラジオに出ました。それと、テレビの「ノックは無用」に出演しました。この時、隣に座っていた岸田今日子さんに「そんな会をなさっていたら、ゲイに間違われません?」と小さな声で尋ねられたとか。それは「あなたはゲイですか?」と遠回しに尋ねられているのに、どこまでも無邪気な叔父は「僕はそう言う風潮と戦っているのです。三島(由紀夫)にも抗議の手紙を出しました」と言ってのけたとか。 その番組では、持論をにこやかに披露していた叔父でしたが、番組を作っている人達には、ただの変わったおっさんでしかなかった様です。叔父がテレビに出てしゃべっている。それは甥として弟子として、嬉しい事ではありましたが、しかし、その番組の猟奇的な扱いに、「叔父貴、出るべきではなかったよね」と私は心で呟いていました。

201. 森たかみちの話 幸ちゃん  2003/02/02 (日) 20:11

その7、8?いくつだっけ、まあいいか。
あのう、ふんどしの話が一番、盛り上がってません?連呼してる人もいたりして。いやいや、嬉しい事です。あの世の叔父貴も苦笑いしている事でしょう。と言う事で続きの話を一つ。 叔父はシャツとふんどしと言う姿で住居近辺を歩き廻っておりましたが、ある日突然、それをやめ、ズボンをはくようになりました。「尻の肉が落ちて垂れて来たんや。美しくなくなったから、ズボンはくようにしたんや」と笑ってました。この時、すでに75歳は過ぎていたと思います。どこまでもダンディズムを忘れない叔父でありました。私も弟子として頑固に守っている事があります。それはどんなに寒い日でもジャケットの前を閉めないと言う事。先日、ものすごく寒い日でも前を閉めなかった私にかみさんが言いました。 「こんな日に前を開けて歩いてたら他人に変やと思われるよ!」 「他人が何と言おうとかまわん、これが俺のダンディズム」 その昔、敬愛するアラン・ドロン先生が極寒のロシアに降り立った時に決してコートの前を閉めなかったと言う話を聞いて以来、ずっと頑張っております。

224. 森たかみちの話 幸ちゃん  2003/02/06 (木) 21:02

(アングラ劇)二十数年前、私は上方小劇場と言う名のアングラ劇団に入れあげていまして、公演の度に必ず観に行ってました。当然、劇団のメンバーとは仲良くなりリハーサルにも足を運ぶようになりました。ある時、公開リハをやるからおいでよと言われたので叔父を連れて出かけて行きました。叔父は終始上機嫌で、橋の下の小さな工場の一室を借りた狭い稽古場にも「ああ、いいなあ」を連発しては喜んでおりました。リハーサルが終わった後はささやかな食べ物と酒が出て、車座の懇親会になりました。座長は以前から 「こんな叔父貴がいるんだよ」と私が話していたから、叔父にとても気をつかってくれて、色んな話を引き出したものだから、その懇親会は叔父の独演会のようになってしまいました。自分の経歴から独自の芸術論などを例の大きな声でしゃべりまくるのを劇団のメンバーは酒を飲みながら、興味深げに聞いてくれました。あの懇親会の中で一番酔っぱらっていたのは酒が飲めない叔父だったようです。でも、とっても楽しそうだったなあと今も懐かしく思い出します。

247. キョンナムさん 幸ちゃん  2003/02/11 (火) 12:07

キョンナムさんの事、調べて下さったんですね。ひょっとして、彼女のHPにも行かれたんですか?キョンナムさんは「月の出・・・」の一回目の公演の時、駆けつけてくれて舞台挨拶をしていただきました。色んな思いや考えが頭の中にあるだろうに、その話の仕方や物腰はとても明るくて元気なおばさん?と言う感じでした。あの関東大震災の時、彼女のお祖父さんも自警団に追いかけられ、下水道に逃げ込んで危うい命を助かったと「ポッカリ・・・」にも書かれていました。これは舞台に取り入れさせていただきました。ちなみに千田是也と言う役者さんはこの時、千駄ヶ谷でコーリヤに間違えられて殺されかけたからと言う事でこの芸名にしたとか。 「民族と民族よりも、人は一人一人と交流して行き、それを大きくして行く事が大切なのだ」と言うのがキョンナムさんの持論。だから、「月の出・・・」は賛美でもなければ告発でもないと言う事を意識して書いたつもりです。

267. Re: 「詩とメルヘン」のイラスト 幸ちゃん  2003/02/23 (日) 13:09

> きのう 本屋で「詩とメルヘン」を立ち読みした。
> かつて たか・みち氏の歌が 掲載されていたページを見ると、
> イラストも投稿者本人と書かれてあった。poem31とかいうの。
> ということは、幸ちゃん、あのほんわかじいさんのイラストも たか・みち氏ご本人によるものなのですか?
   叔父貴不孝の甥と言うか、師匠不孝の弟子と言うか、「詩とメルヘン」のそのページは見てないんですが、投稿者本人と書いてあるなら、本人の物だと思います。叔父は詩や短歌の他に絵を描くのも好きでしたし、うまかったですね。どこで覚えたのかデッサンがしっかりしてるんです。髪の一本一本を筆で描いて、まるで写真のような墨絵を描いては見せてくれました。もちろん、ふんどしの締め方も丁寧に丁寧に描いて、「六雅会」の機関誌に載せてました。
そんな叔父の影響か、私も絵を描くのが好きで、一度デッサンの教室に通った事があります。石膏像を前にして木炭を持つ時、頭の中から一切の雑念が消え、ただその石膏像を画用紙に移し変えると言う作業に没頭できる事がとても気持ちがよかったのを覚えています。

  232. 演劇 幸ちゃん  2003/02/08 (土) 13:14

劇団と言っても、いまや4人。動く芝居は無理なので朗読劇にして発表しようと言う事で毎週木曜日に練習しています。元々、ある演劇講座のメンバーがそのまま残った演劇グループでした。講座終了時に自然にでき、2回の公演の後、自然に人数が減って行き、現在に至っています。メンバーが20人位の頃、私のシナリオでやった舞台が、このグループの一番いい時でした。そのシナリオは「月の出の丘の上にて」と言います。関東大震災の朝鮮人虐殺(ご存知かも知れませんが)がテーマ。あの震災が起きたのはお昼時、火を使っていた家が多く、あっと言うまに火事が拡がって行きました。その午後、恐ろしい虐殺の元になった一枚の貼り紙。「朝鮮人が徒党を組んで暴行、略奪を起こすから注意するように」そこから噂が噂を呼んで、その噂にあおられた日本人が自警団を組織して在日朝鮮人を片っ端から殺して行ったと言う事件があったのです。犠牲者は6000人とも10000人とも言われています。その中にあって、大川さんと言う警察署長が300人の朝鮮人を身体を張ってかくまった。 パク・キョンナムと言うエッセイストの書かれた本がベースになっています。と書けばなんか緊張感一杯の堅い舞台のようですが、そこは幸ちゃん、どじな死に神(私が演りました)を狂言回しにして、阪神淡路大震災にからめています。阪神の時にも似たような噂が飛びかけたと聞きました。この舞台は2回公演しましたが私はまだその仕上がりに満足していません。いつか人数を集めて、もう一 度公演したいと思っています。

288. 森たかみちの話 幸ちゃん  2003/03/04 (火) 20:38

かなりさぼってしまいました。
昔、遠慮を美徳とした時代、私の家にその典型みたいな婆様が同居しておりました。私の父の母、つまり祖母。この婆様、根性きつく、誰に対しても批判的。祖母のくせに私を含めた4人の孫を全て不良と決めつけてしまう、何とも愛せない人でありました。この婆様の生活姿勢は遠慮が基本。「長生きしてすんません」これが口癖。だから母がどんな食べ物をすすめても、「いえいえ、一昨日のあれがありますから」と必ずお断りをするのが習慣になっておりました。あれは私が中学生の頃だったと思います。我が家にたかみち叔父が遊びに来ていて、(あ、この婆様、叔父が嫌いでした)その夕食の時の事、婆様と母とのいつもの会話が展開したのです。母が何かの料理をすすめた時、婆様が「いえいえ、一昨日の鯖の焼いたのがありますから。もったいないですから」と答えました。子ども心に婆様の遠慮ポーズに日頃からむかむかしていた私は「お婆ちゃん、そんな古いもん食べて病気になる方がよけいもったいないやん」と言いました。婆様は少しむっとしたみたいでした。その時です、あの叔父貴が口を開きました。「幸司、その魚は食べてほしいと思ってるんやで」こういう表現に私は弱い。「そうか、食べてあげんとかわいそうやな」と納得した私に叔父はにっこりとほほえみかけました。しかし、こんな表現は婆様の最も嫌悪するものでした。「ふふん」とせせら笑って、二度焼きした一昨日の鯖を持って、台所を出て行きました。この頃から妙にフィーリングの合う叔父甥であったようです。

つづく

 

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