チビ雲わた坊

北川幸司作


   山と山に囲まれた小さな村に夏がやって来ました。子どもたちは小川で魚をとったり、池で泳いだり、木に登ったりとそれはまあ、元気に村中を駆け回っていました。
   空はどこまでも澄み切っていてまるで水色の水彩絵の具を大きな刷毛で塗ったみたいでした。その空にポッカリと真っ白な綿のような小さな雲が一つ浮いていました。その雲はどこか人間の子どもみたいな形をしていて、まるで空の上で昼寝をしているように見えました。
   そのチビ雲の名前はわた坊と言います。わた坊は空の上でゴロゴロしながら、楽しそうに遊んでいる村の子どもたちを見下ろしていました。
「いいなあ、ぼくもあんなに沢山の友達がほしいなあ」
   とわた坊が呟いた時、そのすぐ後ろに大きな声がしました。
「できるとも、お前がもっと勉強すれば」
   びっくりして振り向いたわた坊の後ろにはいつの間にか、大きな入道雲が二つ浮いていました。
「何だ父ちゃんと母ちゃんか」
「何だとは何だ。全くお前は勉強もしないで毎日ゴロゴロして」
「そうよわた坊、そんなことじゃいつまでたってもいい雲にはなれないわよ」
「さあ、今日もムクムク変身のけいこだ」
「またぁ?」
「またぁとはなんだ」
「わた坊、だめでしょ。雲には風を呼んだり雨になったりする他に、大切な役目があるでしょう」
   また母ちゃんのお説教が始まったとわた坊は思いました。そして、ますますけいこがいやになりました。
「わかってるよ、そんなこと」
「わかってたら言ってごらんなさい」
   わた坊が知らん顔で下を見ているのでお父さんがまた大きな声を出しました。
「はようせんかい!」
「はい!・・・えーっと、雲は地上の人達の望む物に姿を変えて、その心をなごませる」
「よろしい」
「でも、うまくできないんだもん」
「しかたないわね。じゃ、今日はお母さんが見本を見せるからね、よく見てるのよ」
「はーい」
   お母さんが村を見おろし、一軒の農家を指さしました。
「ほらわた坊、あのお家の縁側を見てごらん。おばあさんがにわとりに餌をやっているでしょう」
   その農家の庭先で一人のお婆さんが、こーこっこっこと言いながら5羽ほどのにわとりにえさをやっているのがわた坊にも見えました。「うん」
   やがてお母さんの身体がムクムクと動いて若い男の人の顔になりました。お婆さんがふと餌をやる手を止めて、腰をとんとんとたたきながら空を見上げ、変身したお母さん雲に気がつきました。その顔はお婆さんを優しく見つめて「母ちゃん」と呼びかけているみたいでした。お婆さんはその顔に少しだけほほえみかけ、空に向かってひらひらと手をふりました。その時、しわに囲まれた細い目から涙が一筋こぼれ、頬を伝いました。
「あ、母ちゃん、あれは涙?」
「人はね、悲しい時と嬉しい時に涙を流すものなの」
「ふーん」
「さ、感心ばかりしてないで、次はお前の番だぞ」
「ええー、僕う?」
「ほらあの川のほとりに小さな家があって、その前の木の陰に女の子が立っているだろう」
「どこ?」
「しっかり見んかい!」
「はい!」
   それでもわた坊が村の中を探していると、お母さんが指をさして教えてくれました。
「わた坊、大きなけやきの木がすぐそばにあって、その木陰に小さな女の子が見えるでしょ」
「ええっと、あ、見えた」
   お母さんが言った通り、小川のそばに5つ位の女の子が木にもたれてぼんやりと空を見上げていました。おかっぱ頭に赤いシャツを来た女の子をかわいいな、とわた坊は思いました。でも空を見上げているその顔はどこか寂しそうでした。
「あの子の名前はチーちゃんと言うのよ」
「ふーん、チーちゃんか」
「チーちゃんのお父さんはね、町へ働きに行って2年も帰らないの。だからチーちゃんの心の中はお父さんでいっぱいなの」
「だからお前はチーちゃんの心をのぞいて、お父さんの顔になってあげるんだ」
「そしたら、わた坊はチーちゃんとお友達になれるのよ」
「はーい」と返事はしたけれど、わた坊には全く自信がありませんでした。
「私たちは隣の村を見回って来るから、戻るまでにできるようになっておくんだぞ」
   お父さんとお母さんはそう言い残すと隣の村へ出かけて行きました。
「ふーんだ、そんなに簡単にできるもんか。父ちゃんのばーか・・・でもやっとかないと叱られるしな・・・やってみようか」
   わた坊はチーちゃんに意識を集中しました。でもどうしてもチーちゃんのお父さんの顔はイメージできませんでした。
「だめだ、できないや、やーめたっと」
   わた坊はあきらめて、またゴロリと寝転がってしまいました。
   その時、山向こうの町の方から何やら黒い物がモヤモヤと漂って来ました。それは工場の煙突から出て来た真っ黒な煙でした。煙はわた坊にやさしい声で話しかけました。
「やあ坊や、こんな所で何をしているのですか?」
「おじさん、誰?」
「私ですか、私は・・・」
「おじさんも雲なの?」
「そ、そうです、私も雲です。色は少し違いますがね。ははは」
「じゃ友達だね」
   煙はにこにこと親しげな笑顔でわた坊のそばまでやって来ました。
「そうですとも、私たちは友達ですとも。そうそう、お友達の印にいい物をごちそうしてあげましょう」
「え、本当?ね、何、何?」
「それはね、これです」
   煙は嬉しそうに右腕を振り上げました。するとその先がトンカチに形を変えて行きました。そして煙はそのトンカチを青い空にたたきつけました。パリンと音がしてそこに窓ガラスを割ったみたいに黒い穴があきました。煙はそのかけらをわた坊に差し出しました。
「ほら、これがごちそうです。青いお空のかけらほどおいしい物はありません。さ、食べてごらんなさい」
「ええっ、お空を食べるの?」
「あれ、坊やは食べた事がないのですか?」
「ないよ、そんなの」
「それはおかわいそうに、こんなおいしい物を食べた事がないなんて。それでは失礼して私がお先に」
   煙はかけらを口に放り込むと、パリパリと音をたてて食べてしまいました。
「うーんおいしい!感動ですう」
「そ、そんなにおいしいの?」
「はい、それはもう。ささ、いかがですか?」
「うーん、じゃちょっとだけ」
「どうぞどうぞ、それじゃ、割ってあげましょう」
   煙がまたハンマーを振り上げた時でした。空が少し暗くなったかと思うと、たくさんの水の粒がザーッと落ちて来ました。水の粒は大きなカーテンのようになって
「お、お助けー、あーれー!」
   と悲鳴を上げる煙を巻き込んで村にむかって落ちて行きました。
「わあー、夕立だー!」村では大人も子どもも大慌てで木の陰や家の軒下に駆け込みました。夕立は木々や草や家々の屋根を洗い、道を流れ、川にそそぐと、ほんの数分で終わりました。
「あー、驚いた、何だよ今の?」
   何がなんだかわからずに、きょろきょろ辺りを見回しているわた坊のすぐ後ろにいつの間にかお母さんが浮いていました。
「だめよわた坊、お空なんか食べちゃ」
「あ、母ちゃん」
   ふり向いたわた坊はお父さんがいない事に気がつきました。
「あれ、父ちゃんは?」
お母さんはにっこり笑いました。けれど、どこか寂しそうでした。
「今の夕立がお父さんよ」
「ええっ?」
「悪い煙をやっつけるために、夕立になって地上に降って行ったの」
   と言いながらお母さんは煙が割ってしまった空の穴を何度も何度もなでていました。やがて穴はふさがり、もとのきれいな空に戻りました。
「お母さん」
「なーに?」
「父ちゃん、帰って来るよね」
「ええ、きっと帰って来るわよ」
「いつ?いつ帰って来るの?」
「さあ、それはお日様次第ね」
「ふーん・・・」
   いつも勉強しろとか変身のけいこをしろとか、うるさいお父さんでした。でも今、わた坊の心は寂しさでいっぱいでした。あんなうるさい父ちゃんがいなくなったのにどうしてこんなに寂しいんだろう。しんみりしてしまったわた坊にお母さんが言いました。
「ほらわた坊、見てごらん、虹よ、お父さんが作った虹が出てるわ」
 お母さんが指さす方、山の上に大きな虹がかかっていました。
「わあ、きれいだなあ!」
   とわた坊が声を上げた時、下の方からも同じ言葉が聞こえて来ました。
「わあ、きれいだなあ!」
   それはあのチーちゃんの声でした。
「お母さん、お母さん、きれいな虹が出てるよ!」
   すぐそばの家の窓がガラリと開いて、チーちゃんのお母さんが顔を出しました。
「ああ、ほんと、きれいねえ!」
   嬉しそうなチーちゃんを見ながら、わた坊はお母さんに言いました。
「母ちゃん、ぼくとチーちゃんは同じだね」
「そうね、二人ともお父さんに会えないんだものね」
   わた坊が父ちゃんに会いたいな、早く帰って来ないかなと強く強く思った時でした。わた坊の心に見た事もないおじさんの顔がまるで写真を見るようにはっきりと浮かび上がって来ました。
「母ちゃん、知らないおじさんの顔が見える、心の中に見えるよ!」
「わた坊、それはきっとチーちゃんのお父さんだわ」
「ほんと?」
「まちがいないわ、わた坊がチーちゃんと同じ気持ちになったから見えたのよ。さ、早くその顔に変身するのよ!」
「うん!」
 わた坊はおじさんの顔をしっかり心に抱いたまま、うんっとおなかに力を入れました。
わた坊の身体はむくむくと形を変えて行き、やがてやさしいおじさんの顔になりました。
   虹を見ていたチーちゃんが変身したわた坊に気がつきました。
「あっ、父ちゃん!」
   おかっぱ頭のチーちゃんが真っ直ぐわた坊を指さしました。
「お母さん、お母さん、ほらあの雲!」
   チーちゃんのお母さんも空の上にぽっかりと浮かんだ大きな顔を見上げました。
「まあ!」
「ね、ね、父ちゃんにそっくりだよ!」
「そうね、お父さんの顔ね。ひょっとしてあれはもうすぐ帰るよって知らせかも知れないわね」
「ほんと?わーい!」
 チーちゃんは嬉しそうににこにこ笑いながらわた坊に手をふりました。
「おーい、父ちゃーん!」
   わた坊もチーちゃんに応えて手をふりたかったけれど、そんな事をするとせっかくの顔が崩れてしまうからがまんしました。その代わり、思いっ切り、思いっ切り笑いかけてあげました。




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