会員寄稿集

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平成20年8月27日(松倉重昭随筆集に「企業30年説と青春」を追加)
平成20年5月18日(片山朝雄随筆集に「政治家の新聞利用術」を追加)
平成19年11月23日(南 邦之:「富山県氷見市への旅」を追加)
平成19年7月14日(片山朝雄随筆集を別ページに追加、「ケチは地球を救う」も移す)
平成19年7月3日(片山朝雄:「ケチは地球を救う」を追加
平成19年6月4日(古閑卓道講話集を別ページに追加)
平成17年10月25日(松倉重昭エッセイ集に追加)
平成17年3月14日(松倉重昭エッセイ集に追加)
平成17年3月3日(松倉重昭エッセイ集に追加)
平成16年10月29日(鳴子嘉昭:「西柴の旗とともに」を追加)
平成16年7月31日(松倉重昭エッセイ集に追加)

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(松倉重昭エッセイ集は、随筆集と名称を変更しました。07.06.04.)

松倉重昭随筆集 古閑卓道講話集 片山朝雄随筆集

南 邦之:「富山県氷見市への旅」

鳴子嘉昭:「西柴の旗とともに」

古閑辰雄:「禅 伝道の旅に随行して」

鳴子嘉昭:「インドネシア 余話(U)」

鳴子嘉昭:「インドネシア  余話(T)」

鳴子嘉昭:「インドネシアの回想」

中島昌信:「丸の内に夢を馳せた日々」

古閑辰雄:「合気道と禅」

中島昌信:「半世紀前の思いで」および「社報の記事より」

片山朝雄:「それでも多少の悩みはあった」

 

南 邦之:「富山県氷見市への旅」 (07.11.17.受)

  平成19年11月17日
南 邦之

富山県氷見市 への旅

今秋の富山大会を機に、柿谷実君の墓参を思い立ちました。

妹さんより「10月28日が都合がよい」と御連絡を頂き、「氷見駅午後2時39分着の列車で伺います」「氷見駅でお待ちします」と日程が決りました。
 駅前で妹(利子)さん、弟さん御夫妻、長男()次男の皆さんに迎えられ、「墓は歩いて10分位ですが車で御案内します」と早速菩提寺に向いました。菩提寺の一隅の墓地には浄土真宗特有の墓石が整然と並んでおり、柿谷家の墓前に立ち、皆さんと御一緒に花を供え、合掌。

墓参をすませ、弟さんのお宅に伺い、仏前に香を手向け、席を移し、改めて御挨拶をして柿谷君にまつわる昔話しとなりました。
 妹さん、弟さんは「私達は小さかったので兄のことについて記憶があまりありません」、弟さんは「私は17年年下です」、御子息は「父の思い出は全くありません」、又、妹さんは「兄の子供は私達が育てました」とも云っておられました。
 柿谷君の私宛の葉書と手紙(昭和20〜24年受信)数通をお渡しし、目を通して頂きました。
 話は尽きませんでしたが、日が陰りはじめ、明るい内にと氷見海岸へ長男貢さんと弟さんに案内され、海辺からの暮れなずむ富山湾の眺めは、私の生れ育った 山口県下関市横野町 の海岸の風景と重なり、柿谷君を思い、古里に思いを馳せました。

当日は 高岡市内 に泊り、翌朝、家内の姉夫妻の墓参にと富山経由で 岐阜県高山市 に向けて旅を続けました。

  

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鳴子嘉昭:「西柴の旗とともに」 (04.10,15.受)

相馬様

 地元自治会の外郭団体である生涯学習「西柴」が今度20周年記念誌を出す予定なので(委員をやめる小生にも)寄稿するよう頼まれました。同封のような駄文を書きましたが、近況報告を兼ねてお送りします。

H16.10.14.  鳴子

 

 

 

西柴の旗とともに

鳴子嘉昭

 

 南国から戻り、身辺が落ち着いてきた頃、家内や近所の方から教えられ生涯学習の散策に参加した。暫らくして手伝ってみないかと声を掛けられ、何かやれることがあればと返事をし、先ずは散策当日、グリーンとピンクの旗を持つことから始めた。超アバウトな社会で又人任せの多い気侭な外地暮しに永らく浸ってきたので果して何時まで続けられるか些か自信も無かったが、その後散策担当の一員となり、いつの間にか10年が経っていた。

 散策は最初、地元金沢の歴史文化探訪から始められ、次いで隣接の古都鎌倉、さらに其の周辺へと広げられていった。鍾倉へのアクセスが極めて容易という地の利があるほか、歴史、国文学を専門とされる大貫先生に講師をお願いしてきている。仏像、建築物について、長年の調査研究に基づく中味の濃い説明に加えて植(食)物についても非常に詳しい話を聞かせて貰っている。四季おりおり行く先先で路傍の草花を微に入り細に入り教えられ参加者はその軽妙な語り口に散策の楽しさを味わっている。鎌倉の自然は四季を通じてまことに美しい。鎌倉特有の起伏に富んだ山野、やぐら、切通しや、歴史の重みを感じさせる多くの神社仏閣など、さらには古都の風情の残る町なかの多くの小径や辻々をたがいに世間話をしながら歩く時、たとえ何度目かの探訪であっても飽きることはない。鎌倉散策を続けているうちに、それに触発されて、中世期の北条、畠山、三浦一族の興亡の歴史への興味がひときわ昂まったように思う。生涯学習では又シティガイド協会や各地域に詳しい人たちにガイドを依頼したり、運営委員らで資料集めや下見の準備を行っている。散策予定日が近付くと、やはり天候が気になってくる。当日の早朝、降り止まない雨を眺めて已むなく中止を決めた後、程なく急転日が射しこんできて複雑な気持に襲われたこともある。参加者の脚のことも考えて歩行距離に無理がないか険しい山道が多くないかなどについて注意が必要になってくる。

 

  個人では中々行けないところも含めて多くのところを尋ねることができた。いずれも楽しく忘れ難いものばかりであるが、其の中でとりわけ印象に残るものとしては次のものが挙げられると思う。

  (根府川)石橋山古戦場−ミカン山に出没する猿の群れには一驚。

  (東京目黒)自然教育園−中世豪族の屋敷跡に豊かな自然が良く保存されている。

  鎌倉彫−後藤家での拝見と資料館での詳しい説明。

  鎌倉五山めぐり−1日のコースとしたのでかなりの強行軍となり反省。

  富岡、白山道周辺−これほどの近くに多くの史蹟が残されている。

  神奈川宿、浦賀奉行所跡−幕末開国期の史蹟。

  (足柄)最乗寺−天狗の寺と云われるだけあって、まことに幽玄な寺域。

  (鶴見)総持寺−広大な地下伽藍道場に目を見はる。

  (大船)田谷の洞窟−手燭で垣間見る神秘の世界。

  (帷子小学校)プラネタリウム見学−川井先生から楽しい星座の話を聞く。

  (藤沢)遊行寺−賑やかな時宗、念仏踊り。

 

  生涯学習西柴は昭和六十一年に立ち上げられ、以来多くの運営委員の人達の尽力で各講座の充実が図られてきた。好きな時に好きな所へをモットーに地域の人びとに気楽に参加して頂き相互の交流と親睦の場を提供してきている。

  今後さらに交流の輪が広がっていくことを願う。

 

(あとがき)
今回都合により、運営委員をやめることになりました。長い間大変ご支援頂きありがとうございました。

 

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古閑辰雄:「禅 伝道の旅に随行して」 (04.02.02.受)

「禅」 伝道の旅に随行して

古閑辰雄    

 小生が私淑しておる、西嶋老師の仏教講演に随行した旅の感想を少し述べます。

昨年の10月23日、成田を発ち、ロスに1泊の後、チリの首都サンチャゴに26日早朝着いて27日からが、老師の講演の始まりで、午前は10時頃から、午後は6時頃から1時間半、30分の質疑応答、テーマは「西洋哲学と仏教哲学の違い」「坐禅のやり方」と言ったことを老師は英語で、チリ在住の幹事役が、スペイン語で同時通訳する形式でありました。この日本から見れば地球の裏側になる遠い国に、すでに禅が根付き始めていることに、強い感銘と驚きをおぼえました。チリ国立銀行の女性役員の一人であるイングリットさんを中心に10人程の幹事役がすべての役割を分担して、われら日本からの5人の送迎から、会場の設営、受付、食事の案内をと全く手抜かりなく遂行してくれました。このイングリットさんとルイス氏は共に日本に来て、西嶋老師が堂頭をしておられる市川の坐禅道場で受戒、嗣法をうけた人達でもあります。老師は10月27日から11月2日まで、連日、国立銀行の文化会館、或は大学2校でというハードスケジュールを84才の高齢にもかゝわらず精力的にこなされました。

サンチャゴ郊外のアンデス山脈の麓に自力で斜面を開拓して、4年前高床式木造の坐禅道場を建て、果樹、野菜、鶏を育て、自給自足の態勢が整っているチリ人のロドリゴさん。サンチャゴから北へ飛行時間50分程のセレナには、 福井県小浜市 の「仏国寺」で10年間、修業し嗣法をうけた法名、慈空さんも瑞応山仏国寺を建て、坐禅弁道の曹洞禅の流れをひろめており、共にバラック建てのため、夜は寒さにふるえながら28人の接心会を老師と共にしました。この2箇所の坐禅道場はいづれも風光明媚、空あくまでも碧く、今まさに花咲きいでて、風清々しい所であり、まことに禅修行場としてふさわしいものであります。

 10月31日にはカトリック修道院で一泊の接心会を、約80人の参会者と共にした訳ですが食事も宿泊も修道院側からの提供(有料)であり、200人も収容できる寄宿舎をもつ立派な修道院でありながら、一泊の間、一人も礼拝に来ている姿がなかったことは、どうもキリスト教の衰えを感じざるを得ませんでした。

 チリという国についていえば、南緯35°、オーストリヤと略同じで10月末は、日本の3月末ということになり、一番良い季節だったといえます。夜8時30分頃まで明るく、夕食は大体9時頃よりとなります。
 俗説ながらチリは3Wの国といわれます。Wの1は、ワインです。フランスのワインよりも良いという評もあります。Wの2は、ウェザー、気候のことです。雨も月間約1
mmと少ないが、アンデス山脈の雪どけ水で耕地をうるほしています。Wの3は、ウーマン、女性です。すばらしい女性たちです。皮膚も白すぎず、黒すぎず、鼻目秀で、眉濃く、身体も大きすぎず、小さすぎず、礼儀正しい挙措は実に美しいものです。(少々ほめすぎ)
 合気道もグループが5つ程あり、市の体育館で夜9時30分から1時間、汗を流し、30分程居合道の演武に同行の宮本氏も、5段の腕前を見せ、チリ人達と連日のストレスを発散させ得たのは一晩だけだったのは少々残念でした。合気道も居合道も、それに禅も、ともに東洋の文化に何かがあるという見方を民衆が気付いて来ているという印象が強く感じられる旅でありました。

 11月3日サンチャゴを発ち、ロスに一泊の後、成田11月6日夕、無事帰りつきました。
 長旅の疲れで、高知大会は予定通り欠席しました。

以上

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鳴子嘉昭:「インドネシア 余話(U)」(02.03.18受)

インドネシア余話(U)

鳴子 嘉昭

Msロー

 岩井ジャカルタ事務所で働く女性を紹介してほしいと華僑の客に頼んでおいた処、非常にやせて、おとなしそうな若い娘がやってきた。来て貰ふことにして帰らせたが、その後一向に顔を見せず、気持ちが変ったかと半ば諦めかけたところ、一週間程経ってやって来たので事情を聞いたが、はっきりした答えをしない。どうやら当方二人共、まだ若く多分、ぎらぎらした異邦人と見られ、怖かったが、何とか思い直してやって来た風に思えた。処で当時は、世の中が非常に物騒で、携行した拳銃をドンと机の上に置いてから取引の話にかかる相手もあったが、此のおとなしいと思っていた彼女はと云うと、何ら臆するところなく我々以上に平然として応待しているのを見て、中国系の女性は実は芯が強いと感心した。爾来ずっと彼女はやめることも無く、今尚、日商岩井ジャカルタの総務担当として、厄介な移民局に出入りして、多数の歴代駐在員の為に、ビザ手続を一手に引受けて頑張っているのは頼もしい限りである。

Mrs ヤンティ・サントソ

 ジルコ・ジャカルタ事務所でSecretaryをやって貰った中部ジャワのセマラン出身の中国系インドネシア人女性。夫は製薬会社のマネージャー(彼も中国系)、長男を米国、次男を独に留学させている。陽気で大柄な彼女は、プルタミナや液化合弁会社の内部情報を、よく取ってくれるので助かった。英語は良く話せるが、書く方は、どう云ふものか稍苦手。日本に帰国後、息子に会いに渡米した帰りと夫が会議で香港に来た際、随いてきた時との二回、日本に立ち寄ったので、横浜と鎌倉とを案内した。彼女も勤続年数が20年を超える。

液化会社(本社)に働く人達

 ジャカルタ本社での事務の大半は女性社員に委ねられている。外資(合弁)系とあって給料・福祉面で恵まれていることもあって、有能なインテリ揃い、又殆どが家庭の主婦で定着率が高い。彼等は無類のパーティ好き。男性社員らの歓送迎の時は勿論、誕生日や家の引越しの時とかに、やたらとパーティを開く。こちらの誕生日の場合も半月前位から“近ヅイテ来タネ”と必ずリマインドしてくれる。するとSecretaryのヤンティがその都度インドネシア/日本/中華の料理の出前を手配することになる。又家族ぐるみの一泊バス旅行もあって、まことに社内は家族的な雰囲気に包まれている。

サルミニ一家

 最後の駐在の八年間。家で賄をやってくれたサルミニは東部ジャワの出身の若い女性だが、珍らしく日本風の料理が得意で助かった。聞けば、以前、住友商事の奥さんから教はったとのこと。いつか幼い男の子が居るので、何だと聞くと、ナンダと云ふ名の息子だが、病気にかかったので、ちょっと家に呼んだと云ふ。そして洗濯女のツミアティがやって来て、何とか家に置いてやって貰えないかと頼みに来たので、まあいいかと思って認めることにした。キューピーのような顔をして、非常に人なつこいので、三輪車を買ってやったら、喜んで近くを乗り廻していた。可なり経ってから、今度は、ウイナルトと云ふ亭主が来て、門番に使ってくれと云ふ。ところが妻子のことは殆ど触れず、自分のことばかり、繰返し頼だので、その身勝手さに段々頭に来て、その時は追い帰した。然し後年、家内がジャカルタに来てくれたので、家内の車の運転手兼庭番として傭うことにした。見ていると、日に5回は必ずお祈りをし、又息子にもコーランを教へる仲々熱心なイスラム教徒であった。

 処でインドネシアでも、家の中での使用人(女中ニバブーと云ふ言葉は禁句で、プンバンツ(お手傳いさん)と言う)との間のトラブルが多く、悩む邦人が多い。留守中に物が無くなったり、ヒドい場合は、泥棒の手引きまでやる場合があるが、サルミニの場合は心配は全く無く、安心して留守を頼めるし、給料の前借りなども求められたことは一切無かった。逆に時々、「トワン、飲ミ過ギルト、病気ニナルヨ」と、けんせいされ苦笑いせざるを得なった。まだ若いが、あねご肌で、仲間を募っては、自分でバスをチャーターし、皆でピクニックに出掛けたりした。結構仲間のネットワークを持っていて、使用人の世話を邦人の奥さんから頼まれては、よく取り次いでいた。

写真:(サルミニ一家)
naruko-sarumi.jpg (85427 バイト)

(上の写真をクリックして下さい。拡大写真になります。戻るのはWebプラウザの「戻る」を使って下さい。)

国際花嫁と残留日本兵

 最後の駐在の後半部の四年間、家内がジャカルタに来てくれた。彼女は、いつの間にかインドネシアの男性と結ばれた上で、当地に渡ってきた女性等(シャリフ幸子、ナスチオン恵子、ラフマン博子、タジュデン典子と云った人々)とか、独立戦争に参加した後、その儘インドネシアに残り、現地人と結婚、インドネシアの国籍も取った元日本兵(既に高令に達し、生存者が減ってきている)の一部の人達とを識るようになり親しくしていた。特に女性等はデビ夫人のやってくるずっと以前から来ているが、予想していた以上に多数、而も日本の北から南まで万遍なく、良家の子女が来ているのを知って意外だった。

 時の経過と共に、夫や自分が亡くなったり、又夫の不倫から離別してしまったり、境遇の変化は人さまざま。相手は、戦後日本への留学生が殆どだが、総じてインドネシアの男性は女性に優しく接するので、中には親の反対を押し切ってまでして自分の意志を貫いてやってきた人が多いとの事。元残留兵は既に高令となって、亡くなって行く人が多いが、その二世、三世等が成長し、相互扶助を目的に設立された福祉友の会(ヤヤサン・ワルガ・プルサハバタン)を通じて、土地にとけ込んで暮らしている。

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鳴子嘉昭:「インドネシア  余話(T)」(02.03.18受)

インドネシア 余話(T)

鳴子 嘉昭

西イリアン(ニューギニア)紀行

 西イリアンが1969年オランダの統治から脱して、インドネシアに帰属すると共に国連による復興支援が始まった。日商岩井でもイリアン海域でのエビ漁の開発輸入を始めた。其の直後、他の資源の調査のため、社内から木材・資源室・食糧の関係者を伴い6人編成で現地入りした。ジャカルタからウジュン、パンダン(マカッサル)、アンボン、ビアクを通り、石油と漁港の町ソロンに着き、管轄の地元役所へ行き、奥地に入る許可を求めたが、役人の話す言葉が良く判らず、ジャカルタから同行してくれたラジャ・バウ氏(エビ漁のパートナー)によるインドネシア語の通訳をして貰ったところ、外国人に危害があってはいけないと云ふ口実で、食糧のポーター以外に保安官も加える(人件費は当方持ち)とのことで、一行は総勢20人近くにふくれ上った。これで主として木材の分布状況を調べる為、奥地を目指したが、最初の晩、露営した時、どこからか村の古老が現われ、日本人だと見ると、思いがけなく「見ヨ東海ノ空明ケテ旭日高ク・・・・」と最後までシッカリと唱った。戦中、日本の兵隊さんが教えてくれたと言う。海岸近くに住む海パプア人と違い、外部との接触の殆ど無い山パプア人だし、而も戦後20年以上も経っているのに其の記憶力に驚かされた。暫らく森の奥に進むと、いきなりパーンと銃声がしたので、何事かと思ったら、随行の連中が猪を射ったとのこと、早速その場で一行の食料となったが、連中は食べ残りを悉く葉にくるんで家の土産ができたと云って喜んで持ち帰った。そして帰路の際、往路では何なく渡れた川が雨で大増水、大きな木を伐って橋とし、渡ろうとしても悉く流されてしまい立往生、水が引くのを待つほかなかったが、携行した食糧があやしくなってきた。そこで何人かを選抜して下山、買出しに行って貰った。流石は山パプア人の健脚、隼の如き迅やさで暗闇の中を突走って駆け戻ってきて急場が凌げた。これにこりず、さらにもう一箇所、今度は海路で向ったところ、急に雲行きがおかしくなったので、途中で引返へすことにしたが、大シケとなり船が木の葉のように揺れ、あわてたが、どうにかソロンに戻れた。(後にこの話をしたら、商社は冒険をするところではないと一喝された。)後、ビアク経由、州政府のあるジャヤプラ(パプア・ニューギニアとの国境に近い)へ行って、西イリアンに来た趣旨などを説明した。

 二度目、今度は単身で(バウ氏が又同行してくれた)調査結果を伝える為、ジャヤプラに出向いたが、途中のウジュンパンダン空港で、大雨の中を航空機が稍ムリ気味に着地しようとして、スリップ、オーバーランして車輪が大破、翌日ジャカルタからの代替機が来る迄、市中のホテルで待機させられた。(後で知ったが、このことがジャカルタへは、飛行機がジャトウ(インドネシア語で墜ちる)したと誤って伝えられたとのこと)更に次の日、高地にあるジャヤプラの空港から海沿いの町へ降りる時、乗合いバスが途中で、対向車を避け損って横転、大ケガは免れたものの、二度あることが、三度あっては困ると思い自分の頭を思い切り叩いた。帰途中継地のビアク空港で乗り継ぎの便が仲々取れないので、地元の人に頼んで、大戦中、大変な激戦地となった同島の山中に尚ほ其の儘になっていると謂う戦跡を訪ねてみると、何とも言い知れぬ冷たい霊気が漂って、厳粛な気持ちになった。海辺の遠浅には、上陸用舟艇の残がいも見受けられた。ところでラジャ(王の意味)バウ氏は、海パプアの有力者(昔なら大酋長?)で、ジャヤプラには立派な邸宅があり、そこへ泊めて貰ったが、此の頃彼自身は、合弁事業の関係でジャカルタ中央(水産庁)の役人と折衝するため、多くの取り巻きを引き連れてジャカルタのホテルに長逗留しており、底抜けに陽気で、又遊び好きの人物であった。

スハルト大統領

 退陣後は、インドネシア人には珍しく高令(80才)で、健康を害し入退院を繰返して居るが、故ティエン夫人が昔のソロ王家の係累に繋がるところから、晩年の大統領およびその家族は何となく王朝風の雰囲気をかもし出していた。御本人は、スマイリング・ジェネラルとか言はれ、微笑が似合うリーダーではあった。プレイ・ボーイと噂の高い人物が高官に登用されようとすると、牽制をしたと謂われた夫人は、極端に男性の婦人関係にうるさかったこととは関係が無いかも知れないが、確かにスハルト大統領は、前大統領の派手な生活ぶりとは正反対で、家族と共にの態度を変えなかった。反面、元来、事業には極めて関心が強く、例へば、よくボゴールの牧場には出掛け、何かとアドバイスした、−“農民の子”たる所以?。自ら事業家たり得ない、その為の身代りとして自分の子女等にいろいろ事業をやらせることで、自らの夢を託そうとしたのかも知れない。世間ではよくファミリー・ビジネスとか、縁故主義だのと批判された。側近には、何人かの力のある政商が居た。有名なところでは、故スジョノ・フマルダニ(陸軍少将。神秘的なジャワの祈祷師。対日政府交渉での顧問格)、中国系のリム・ショウ・リヨン(最大の財閥)、ボブ・ハッサン(木材業界のドンで、又大統領のゴルフ仲間)が居たが、何と言っても最大の盟友は、互いの家も近かったプルタミナのストウ総裁(陸軍中将)であり、終始持ちつ持たれつの関係にあったと言える。ストウ氏は、インドネシアで初めて、石油の生産分与方式を創案し、大変な国への貢献があり、積極果敢に事業を展開して行ったので大統領もその腕力に頼るところがあった。尤もストウ氏には、政治的野心などは見られなかったが、一時、影の大統領とも謂はれたこともある。そして後にストウ氏の進める多角経営が行詰り、プルタミナの債務過多からストウ氏が窮地に立たされた時も、大統領は最後迄、庇護し続けようとした。初期の或る時期迄、経済政策面で、一方では、テクノクラートのバークレ・マフィアで固められた国際派の経済企画庁(バペナス)、他方では腕力の強い民族派の旗頭とも言ふべきプルタミナのストウ氏の二頭立てで事が行はれてきた。

 最後迄、大統領の後継者問題は解決されなかったが、現実に何人かNO.2と目される人物が浮上しては、悉く消えて行ったのは、矢張り政治の力学に因るものなのか。退陣を余儀なくされて、結局後任としてハビビ氏が引継いだが、彼は決して真のNO.2ではなかった。他に選択肢無く、急場凌ぎとして登場したし、事実又、そのような結果となった。スカルノ、スハルトと傑出した為政者の出た後丈けに、かってアセアンの盟主とも云はれた此の大きな国の現在の難局を誰が救って行けるのか、今は視界不良と言ふほかない。

アチェ問題

 現在、特別自治区となっているアチェ州は、スマトラ島の北端にあり、古くはイスラム教一色のアチェ王国として栄え、オスマン・トルコとも外交関係のあるもともと独立志向の強い地域である。インドネシアの他の地域と異なり、強烈な宗教的信條を武器に最後迄、オランダによる植民地支配に抵抗、二度にわたる当時のバタビアからの大掛りなオランダ遠征軍(これにアンボン兵等が参加)を迎えうち、激しく戦い、屈しなかった歴史を有つ。この間、戦い抜いた中には、ジャンヌ・ダーク並の勇敢な女性戦士も何人か出た(映画にもなった)。インドネシア共和国が出来てからも、地元の一層の権益拡大を求めて中央政権と激しく対立、分離独立の動きを続けている。今もスカルノ譲りの国内統一最優先を唱えるメガワティ現大統領が、躍起になって説得を試みているものの、ゲリラ部隊は、スウーデンに本部を昔から置き、国軍との間で衝突、銃撃戦を繰返している。彼等は、インドネシアでは稀な強い宗教的情念と、又輝かしい過去の栄光を秘めて、独立運動の火種を絶やすことは考へられない丈けに、同アチェ州内のロスマウエ地区に生産・積出しの基地を抱えるLNGプロジェクトにとっても、全く目が放せられない。

 ただ、之れ迄のところ、この独立運動が国際間の理解、特に自国への波及を恐れる近隣のシンガポールとマレーシアとから支持が得られていないことが最大の弱味になっている。

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鳴子嘉昭:「インドネシアの回想」(02.03.16受)

 商社の岩井産業に入って、五年間輸出品の船積、輸出入為替の貿易業務、次いで八幡、富士の鉄鋼製品の国内取引を五年間担当していた或る日、突然インドネシアへ行かないかと言はれた。ソロソロ何か新しいことをと考えていた矢先なので受けることに決めた。其の後30年間インドネシアから離れられなくなるとは、その時は思いもよらなかった。五番目の候補であって、前の候補者たちが賢明(?)にも家庭の事情や健康面やらで、何れも、ことわっていたことを後になって知った。関係部課を廻っていると、志願したんだってネと言はれて、アレッ!と思った。ところで肝腎の入国ビザが仲仲降りず、其の間駐在経験者に「インドネシア語四週間」の本の中で、日常比較的よく使われる言葉に印をつけて貰って、これを憶えることにした。五ヶ月経って、やっと取得でき早速出発しようとしたが、今度は、飛行機の予約が取れず、やっとのことでパンナム/JAL/アリタリアと乗り継ぎ、香港、バンコクに二泊、三日がかりでジャカルタに着くことができた。インドネシアとマレ−シアとが、丁度、対決紛争中で、ジャカルタに向う乗客のパスポ−トが機中で取り上げられるといふハプニングもあった。ジャカルタ空港では、強烈なヤシ油の臭いとムッとする重苦しい空気に耐え乍ら、半ば公然と金品を強要することで悪名の高い入国審査官の控える個室を通過、やっと外に出た。ところで、こんなに苦労して入国できたのに、滞在期間は六ヶ月間しか認められないと謂う。(後に手を廻して実際にはさらに六ヶ月間延長して貰えたが)戦前トコ・ジュパン(日本人の店)と言はれた千(セン)田商会の流れを汲む岩井も、此の頃たった駐在員2人の小さな事務所で古くからの華僑を相手に、繊維・金物類などを取扱っていた。(他社も大体似たようなもの)安心できない飲料水、慢性的な停電、劣悪な郵便事情etc.etc.或る程度は覚悟の上だったが、それにしてもヒドイものだった。其の頃たまたま港町にエビ、カニを食べに行った時、売り子から煙草を買ったあと、本はどうだと言はれ、のぞくと『江分利満氏の華麗な生活』があり、何の気なしにパラパラめくると、何と鳴子様とあり、その下に送って呉れた会社の女子社員のサインがあるのを発見、之れは俺の本だ返せと押し問答となったが、勿論ラチが明かず、已むを得ず買戻しすることになった。毎年年末になると、日本からのカレンダーが我々のところへ届くはるか以前に街頭で売られる当地にあっては、別に驚く程のことではないが、むしろ、よく抜け荷が見つかったものと、むしろその奇遇に感謝したい気持ちだった。そしてやっと少しは馴れてきたのかと思う頃には帰国の時期がやってきた。会社からは一度行った者は、この次も又行って貰うよと言はれ、帰国した翌年には再び赴任することになったが、之れにより赴任・帰国を繰り返すパターンが出来上がってしまった。

 建国の父と謂はれたスカルノ大統領の治政も漸く末期に近づくと共に、軍部と共産党との対立反目が抜き差しならない状態となり国の経済も日に日に悪化、我々に直接関係ある経済規則などは全く朝令暮改、とても取引どころではなくなってきたので、本社に思い切って駐在員引揚げを具申したが認められず。それではと云うので、相棒と諮って、この機会に見聞を弘めようと、休日などにセッセとジャワ島内の各地を訪ねることにした。騒然としたジャカルタを離れる程、皮肉にも貧しいが純朴さが残るジャワの良さが実感できた。この頃のインフレは全く凄いもので麻雀に出掛ける時は、バッグに一杯のルピアを詰め込んだ。そして、暗く重苦しい空気の中、滞在許可も切れて二度目の帰国となった。

 帰国後に新日鉄が誕生、岩井と日商とが合併して、日商岩井となったところで、開発部に属することになり、三度目のジャカルタ赴任となった。新たに登場したスハルト政権は、外部に対して開放政策を採ることにし、外資導入法も出来、米国からは石油・鉱物資源の開発投資が増え始めた。日本からは賠償に代って円借款が供与され、民間の企業進出も見られるようになった。従来、賠償取引には縁が無く華僑との取引が主だった、我々も、現地の情勢の変化に副って大きく方向転換する必要が起きた。そして自らも開発部員として、いろいろな開発案件に関係し、西イリアン(ソロン地区)、北スラウエシ(メナド地区)、南スマトラ(ランポン地区)など各地を飛び廻った。社内的には、先行投資案件を積極的にバックアップして貰えて助かったが、現実には仲仲思うようにはならなかった。唯、念願であった国営石油会社のプルタミナへの喰い込に幸いにも成功し、エネルギー分野での突破口が出来た。この頃、本社には、強腕をもって鳴らした専務も健在だった。先づ、オフシヨアでの石油開発が進み、シンガポール海峡の要衝にあたるバタム島に、開発資機材のためのロジスティックス・ベースを設ける構想が浮上、プルタミナが具体化の窓口になった。我が社はプルタミナと米国のベクテル社と組み、三者で開発のマスタープランを作ることに合意、半年後に完成させた。これをプルタミナが大統領に、プレゼンテーションすると言ふので、プルタミナのストウ総裁に連れられて、大統領官邸に赴き、大統領を表敬訪問した。(註1、その時の写真)後年益々神格化されて行ったスハルト大統領であるが、其の当時は、就任(1968年3月)してまだ四年目と若く、ストウ総裁らの手引きもあって、易々と表敬できた。ところでバタム島開発自体は、その後財政危機に陥ったプルタミナが手を引き、政府直轄のバタム開発庁に移されてしまった。さらに他方では、当時大量に発見された天然ガスを液化し、対日輸出する商談をプルタミナと同時併行的に進めており、漸く20年間の長契を結ぶことが出来た。その直後に帰国したが、此の液化天然ガス(LNG)を共同で購入する電力、ガス、新日鉄各社が核となり、日本側の受け入れ窓口の新会社(APAN NDONESIA NG Co.略して JILCO  ジルコ)が設立され、プロジェクトのオーガナイザーだと謂うことで、日商岩井も資本参加し、これに伴って同社に出向することになった。ここは異業種でお互い企業文化の違ふ各社からの出向者達の集合体で商社出身者にとっても新鮮な経験になった。そしてこのジルコが現地インドネシア側で、プルタミナとガスの生産主体である米石油会社と合弁の液化会社(工場が東カリマンタンのバリックパパンの北方と北スマトラのアチエ地区との二箇所だったので、二つの会社となる)を作ることになり、ジルコ本社から、派遣されて、これで四度目のジャカルタ赴任となった。今度は公益性の強い日本のユーザー各社にとり、資源の安定供与先の確保が不可欠のために、ジャカルタから二箇所の液化工場へ出張して安全操業をチェックしたり、日本からの来訪者をアテンドする以外は、ジャカルタ本社の連中と交流し、懇親を深めることが仕事であった。この時期はスハルト政権の成熟期で、初めて赴任した時と比較すれば、格段に快適な生活が送れる良き時代ではあった。(註2はジャカルタ本社の社員が帰国時に寄せてくれたもの)

 結局、初めてジャカルタに着いてから丁度30年経過、1993年が最後の帰国の年となったが、此の内、インドネシアでの滞在が通算15年と云うことになった。1965年の9.30事件(スカルノ政権に対するクーデター)、1974年、田中元首相の訪イ時に起きた反政府暴動 、アジア通貨危機に伴う1997年、スハルト政権退陣騒動等の大きな事件が、何れも帰国後に起きて、トラブルに直接出くわさなかったのは、めぐり合はせとは云え、まことに幸運だったと思ふ。

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(註1)1972年・大統領官邸で               (註2)ジャカルタ本社社員が帰国時にくれた文

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中島昌信:「丸の内に夢を馳せた日々」(02.02.13受)

相馬 道男様

花園会ホームページのリニューアルご若労様でした。拝見してそのご努力に感謝いたしました。同時に開設一周年とは早いものだと驚きました。
今年は現在丸の内に建設しています丸ビルのグランドオープンが
96日に決まりました。多分この機会と思はれて早稲田大学校友会から、小生に連絡があり、寄稿を依頼され、昨年12月号に「丸の内に夢を馳せた日々」の題で早稲田学報に掲載されましたので、それをお送りいたします。
猶私は、何故皇居前の一大兵営地域が民間に払い下げになったのか、素朴な疑問として感じておりました。その実状の一部とも考えられる事件があつたことが判りましたので後日稿を改めて纏めてみたいと思つています。それはなんと明治
11823日夜におこった「竹橋事件」とよばれる近衛兵の反乱事件が理由の一つと考えられるのです。では又後日。

平成1428日                         中島 昌信

 

「丸の内に夢を馳せた日々」

潟<bク・デザイン・インターナショナル 相談役    中島 昌信

  私は昭和26年(1951年)理工学部建築学部卒ですが、新制大学の一期生としての卒業になります。
 
21年に第一高等学院に入学、24年春には建築学部に移行しましたが、急な学制改革により僅か2年の学部の生活で社会に出されてしまいました。そして三菱地所に入社したのでしたが、その時から今日まで50年の歳月を丸の内にかかわることになったのです。
 
20年の8月からGHQによって焼け残ったビルの接収が行われ、26年入社当時の丸の内は、丸ビルを除く大部分のビルが接収されていました。勿論三菱本社も解散となり、その不動産業務も地所、陽和、開東不動産に分社されており、三菱地所の所有の建物も、丸ビルのほかには丸の内八重洲ビル(接収中)が主なものでした。入社当時は給料も月2回に分けての支払いでした。
  その後、経済界も朝鮮戦争特需の関係で活気が出始め、ビルの供給の要望が多く、建設が本格化したのもこの時期でした。翌年
GHQ接収のビルもぼちぼち解除が始まり、地所、陽和、開東不動産の合併も実現し、本格的な丸の内の建設が始まったのです。
 「夕立を 四角に逃げる 丸の内」
 「外の津にない 大名小路なり」
江戸町民が、川柳に誇った大名屋敷は,すべて万石以上の大名が占めていたため、丸の内が独占していたことも江戸時代初期からのことでした。確かに、丸の内は今でも四角い。
200年に及ぶたゆみのない変化は、その時代の日本の社会、経済活動の中心としての地位を揺るぎなく維持し、その時代の日本に望みうる高度のインフラに支えられて、その機能を果たし続けて来たことが見てとれます。
  私の夢を語る前に、少し時代を追ってみたいと思います。
昭和
30年代に入り、日本経済はいわゆる「神武景気」を迎え、これに呼応して、丸の内に近代的大型ビルを次々に建設しました。また近隣他社も最新設備をもつビルを登場させ、これらの近代的な建物に比べ、築後5060年以上経過した丸の内の赤煉瓦の建物は老朽化が目立ち、時代遅れの感がするようになってきました。そこでパリに見るような美しく均衡のとれた、皇居の緑や堀の青さと一体化した静謐なたたずまいの街に改造する決意をすることになりました。しかし当時の建築基準法では、建物の高さは全面道路の幅員により規制されるので、その時の仲通りの幅員そのままでは、軒高の揃った大型ビルを建てるのは不可能でした。そこで先ず、南北に貫通している中央の13メートルの道賂を21メートルに拡幅して、東および西通りの各7メートルの私道を廃止しました。また、この地区は丸ビル程度の大きさを一単位とするなど、再開発計画が構想され、35年に実施となりました。
  その後丸の内は経済大国の象徴と見られ、例えば東京にある外銀の
90%が丸の内に集中したのです。丸の内の人口は、35年に16,000人といわれた在館人員が46年には63,000人に達し、会社も1,300社から2,000社に及びました。仲通りの整備も着々と進み、電柱も看板もなく、街路樹や花壇の緑のネットワークも整備されて、快適な空間が出現しました。
   43年(1968)のある日、私はこれからの社会変化を考えると、この完成されたと思はれている仲通りの将来像をどの様に捉えるかが気掛かりになってきました。丸の内の将来像は仲通りのあり方が決定づけると信じていたからです。国際都市として位置づけるなら、週5日半、しかも昼間だけの街でよいはずがありません。当時は経済界のリーダーである、銀行、証券などがグランドレベルを占める事は当然であり、拒否はできませんでした。しかし街の活性化には界隈性、人の空間が優先されるべきであり、特に丸の内をとりまく完備したインフラを考えた時、36524時間都市の可能性があるはずで、来るべき情報社会、レジャー時代を思うと「三次四次産業のショールーム」「ウィークエンドショッピング」「データーセンター」「ホテル」等々の施設の充実を考えるべきいではないかと思いました。勿論30年前の事であり、20年後に起こる金融などの激変は想像すらなく、仲通りのグランドレベルの変更は、先ず困難と思われました。
  そこで私は、車は地下
2階に下げ、1階の車道部分を掘り下げて、地下に広場やコンコースを設け、両側にショッピングモールを配置することで一挙に365日の街に変貌させる夢を描きました。それから30年、丸ビルの改築を機に仲通りの活性化が始まり、近隣を含めた「まちつくりガイドライン」も自主制定され、一私企業の枠を越えたプロジェクトとして認知されてきました。実は私の構想はいまだ緒についたばかりです。
  ニューヨーク、パリ、ロンドンのように住居を近隣に、あるいは内包することが課題としてあります。欲をいえば、江戸時代にあったような下町コミッティのある街が望みです。最後に、何としても芸術・文化の発進基地としての重要な役割を果たすことが必要条件です。
  丸の内にとって時代とともに脱皮しつつ成長していくのが真の姿であり、そして仲通りの変貌がその責任をこれからも担っていくことでしょう。
                                       以上

*******************

(以下は早稲田学報には掲載されていない資料ですが、一部社内組織の変動など省略の上紹介します。−−−相馬記)

  丸の内 (早稲田学報)原稿資料             中島 昌信

1868/10/13  天皇・東京に到着し江戸城を皇居として、東京城に改称。
1869/02/24  東京遷都。この年皇城周辺(現丸の内界隈)に大名屋敷の転用により、
                     官舎兵営の設置が相次ぐ。
1872/01/08  日比谷練兵場開場。
               1888(明治21年)
                       陸軍大臣大山巌から丸の内の地所及び建物の公売の要請書がださ
         れ、いろいろの経過を経て三菱が引き受けることになった。その陸軍用
                    地は総計
135633坪強の面積であつた。然し予定されていた東京市
                    の市区改正に要する道路と川敷き用地等を差し引きしたので総計
10
                   
7225坪強となり、価額が128万円(坪当たり1196銭)であつた。之は
                   東京市の年間予算額の
3倍にも相当する投資を行ったのであるから、
                   世間も驚いたが三菱社の関係筋は一層おどろいた。その無謀さを非難
                   したのであった。然し岩崎弥之助の胸の中には十分な成算と夢があった
                   と思はれる。勿論市区改正条例は明治
22年(18895月公示され丸の内
                   は将来市街地となることが約束されていたのだ。
              1890(明治239月)
                        所謂一丁倫敦の完成(明治
23年〜45年)のため丸の内建築所の
                   設立。三菱社の中に丸の内の建築計画を担当するセクションとして「丸
                   の内建築所」が設けられた。之は日本に於ける最初の組織設計事務所
                   となる。
                   宮城に近接し東京市の中央にあり、中枢になるべき土地であるので単に
                   都市の景観を害するだけでなく、衛生上、防火上も完備した石造、煉瓦
                   造等堅固な建築物以外は、建築しないつもりであつた。
         第一号館は
251月に着手して27630日に竣工。煉瓦造、地階付
                  
3階建、延床面積1442坪であつた。昭和43年(1968)にその任を終え
                   取り壊されるまで関東大震災にも耐え、丸の内のシンボルとして君臨し
                   続けた。
1878/07/02(明治11年)郵便汽船三菱会社、地所係を設置。
1884/12/17  東京市区改正審査会設置し、東京の都市改造の検討開始。(東京の
         人口
100万人突破)
1886/04/09  造家学会、発会式(現日本建築学会)
1886/03/29(明治19年)三菱社設立(社長岩崎弥之助)
1886/12/12  コンドルに深川別邸の設計を依頼。
1888/08/16(明治21)東京市区改正等条例公布。
1889/01/01  施行。最初の都市計画立法、丸の内を市街地に指定。コンドル設計
         事務所開設。
1890/03/06(明治23年)岩崎久弥総理代理人、岩崎弥之助丸の内並びに三崎町土地
         
107,026坪強の払い下げを受ける。(128万円を8回で分納)
1890/09/   三菱社、本社内に丸の内建築所を設置。
1891 (明治24年)丸の内建築所を(現八重洲ビル敷地南西)建設、三菱本社より移転。
1892 (明治25年)第一号館起工(明治27630日竣工)
   (明治
2612月)第二号館起工(明治28718日竣工)
1910 (明治43年)丸の内建築所、本社から地所課管轄となり、地所課営繕係と改称。
         地所課ともども移転(第
6号館から第11号館)
1911 (明治44年)社制改革(地所課、地所部となる。地所部はすべての三菱合資会社
         所有土地建物の賃貸営業を担当)
1913 (大正2326日)櫻井小太郎、地所建築顧問に就任。
1914 (大正327日)櫻井小太郎、三菱合資会社本社技師に就任。
1916 (大正571日)岩崎小弥太、三菱合資会社社長に就任。
1920 (大正976日)丸の内ビルヂング起工(大正12220日竣工)
1922 (大正11426日)工事中の丸ビル、地震の被害あり (竣工期遅延)
   (大正
111217日)地所部移転(仲126号から丸ビル)
1923 (大正12220日)丸の内ビルヂング竣工
   (大正
1291日)関東大震災。
   (大正
121125日)丸の内ビルヂング復旧補強改良工事起工(大正157
              
25日竣工)
1924 (大正13725日)地所部移転(丸ビル5階から三菱本社新館6階へ営業課、
             丸ビル係は移転せず)
1929 (昭和41024日)ニューヨーク株式市場大暴落、世界恐慌始まる。
             (暗黒の木曜日)
1934 (昭和943日)地所課、移転(三菱本館から丸ビル)
1935 (昭和1011月)丸ビル改築工事竣工(外装タイル張り、窓枠取り替え、玄関改造)
1937 (昭和1257日)三菱地所株式会社設立。資本金1500万円
   (昭和
12620日)丸ビルとその敷地は当社の所有となる。
   (昭和
1261日)当社営業開始、職制改正(庶務、営業、会計、営繕の4課設置)
   (昭和
12628日)東京館基礎工事着工(現新丸ビル、土地は三菱合資会社
             より借地)
   (昭和
12715日)東京館工事、実費精算方式により大林組特命工事とする。
1938 (昭和1312月)東京館基礎工事完了し、日中事変の臨時資金調整法と鉄鋼
            工作物築造許可規制施行により自発的に工事中止。
1941 (昭和16128日)太平洋戦争勃発。
1945 (昭和20310日)丸の内の当社所管建物に空襲被害。
   (昭和
2041日)八重洲ビル土地建物三菱本社現物出資により当社所有となる。
   (昭和
20524日)開東閣空襲により披害(525東京に空襲、東京駅、皇居炎上)
   (昭和
20815日)天皇戦争終結の詔勅を放送(太平洋戦争終結。8/14ポッダ
              ム宣言受諾)
   (昭和
20828日)GHQによるビル接収開始。
          (
9/10GHQ第一生命館をGHQ本部として接収。
          (
9/17GHQ三信ビル接収。
           (
9/ )GHQ農林中央金庫、明治生命館、郵船ビル、東京海上ビル
              旧館、東京海上ビル新館、銀行協会ビル、東京中央郵便局
              (一部)帝国生命館、帝国ホテル接収。
          (
10/ )GHQ有楽館接収。
          (
12/4GHQ東京會舘接収。
          (
12/31GHQ8号館、仲4号館、6,7号館、郵船ビル裏空地を接収。
1946 (昭和21115日)GHQ三菱本館接収。
          (
1/30GHQ開東閣接収。
          (
1/ )GHQ三菱商事ビル(本館別館)東7号館別館(丸の内会館)接収。
          (
2/21GHQ12号館5号館接収。
          (
2/ )GHQ丸の内11空地(現交通公社ビル敷地の一部)接収解除。
          (
3/22GHQ三菱21号館、仲7号館、仲11号館5,6号仲16号館接収。
          (
4/28GHQ八重洲ビル接収。
           
(4/ )GHQ6号館7号館、東9号館東寄別館接収。
          (
6/20GHQ丸の内12空地(旧造船会館跡)接収。
          (
8/ )GHQ6号館5号接収。
          (
12/19)常務取締役藤村朗社長に就任。
1947 (昭和22GHQ、都内ビルのうち約30%を接収)
1948 (昭和231月)GHQ丸の内12宅地(現永楽ビル敷地)接収解除。
          (
6/19)社長藤村朗辞任。
          (
8/12)樋口実、社長に就任。
          (
12/ )GHQ6号館、5号、7号仲7号館接収解除(仲7号館、仲6号館
                            
5号は外国商社へ賃貸する条件で貿易庁へ貸し付け管理、営繕
                             は当社引き受ける。
1949 (昭和24420日)樋口実社長を辞任。
          (
4/ )GHQ10号館8号館接収解除(GHQ指令でアメリカン倶楽部に
                             貸し付)
          (
5/12)常務添田滋、社長に就任。
          (
7/ )GHQ8号館接収解除(外国商社事務所として通産省へ
             貸付、管理営繕は当社引き受ける)
          (
12/16)資本金1,850万円全額払い込み
          (
12/ )東京中央郵便局一部接収解除。
1950 (昭和25110日)三菱社解散に伴い、第二会社として陽和不動産((株))
             および開東不動産((株))設立(両社とも資本金
3,600万円)
          (
6/25)朝鮮戦争勃発。
          (
6/28)東京ビルヂング着工(昭和26922日唆工)
          (
7/31)東京ビル敷地1,141坪を中央建物より買い戻す(昭和3
             
8月三菱合資会社が大倉組に譲漬したもの)
          (
8/7)永楽ビルヂング着工(昭和27117日竣工)
          (
10/12)制限会社指定解除。
          (
10/15)東京海上ビル別館竣工(大手町16
          (
10/ )GHQ三信ビル接収解除。
          (
12/7)東京都建築安全等条例公布。
1951(昭和261月) 丸の内ビルヂング暖房復旧工事竣工(25/9/28着工)
          (
2/20)中重ビルヂング竣工(24/12着工SRCBl地上5階延
             
1,06129/2/169号館別館に改称)
          (
3/20)定款変更、資本金1,850万円から1億円。授権資本増加
            (
37万株から200万株)
          (
3/ )新丸の内ビルヂング着工(27/11/18竣工)
          (
5/18)リーダースダイジェスト・アソシエーション東京支社竣工。
          (
5/ )大手ビル唆工(三菱金属鉱業本社)
          (
6/ )GHQ丸の内ホテル本館接収解除。
          (
7/10)朝鮮戦争休戦会談。
          (
9/8)対日講和条約、日米安全保障条約調印(27/4/28発効)
          (
9/22)東京ビルヂング竣工(延8,343坪)
          (
11/26)定款変更26/7/1商法改正に伴う変更。
          この年は下期より景気拡大(朝鮮戦争特需景気、
2610291
1952(昭和2711日)仲6号館5号、仲7号館の経営を通産省から当社に移管。
          (
1/17)永楽ビルヂング竣工(延7,535坪)
          (
1/ )GHQ7号館別館(竹葉亭)仲11号館66号接収解除。
          (
3/16GHQ帝国ホテル接収解除。
          (
3/22)日比谷国際会館竣工。
          (
4/ )GHQ三菱商事ビル(三菱本社別館)接収解除(33年新三菱
              重工ビルに改称)
          (
5/29)専務取締役渡辺武次郎社長に就任。添田社長は相談役に就任。
          (
6/14GHQ本部移転(第一生命館から市ヶ谷旧陸軍省)
          (
7/1GHQ東京會舘接収解除。
          (
9/ )GHQ12号館5号接収解除。
          (
11/5)当社、陽和不動産、開東不動産の三社合併契約締結。
          (
11/18)新丸の内ビルヂング竣工(延べ19,810坪)
          (
12/ )GHQ内外ビル接収解除。
私の昭和
26年入社以前及び入社前後の丸の内の歴史的経過と状況です。
                                                              以上

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古閑辰雄:「合気道と禅」  日曜坐禅会 ドーゲンサンガ の記事より (01.12.12受)

「古閑卓道雄偉」の法名を持つ古閑君の禅講和を聴かれた方も多いと思いますが、この度、次の案内とともに日曜坐禅会の小冊子が送られてきました。全部をここに紹介できませんので、古閑君が書いた「西嶋老師のイスラエル訪問」記事の案内文と冊子に掲載された「合気道と禅」の一文を掲載させてもらいます。なお、近況報告のページに古閑君の合気道と禅に係わった経緯を掲載しましたので、併せてご覧ください。(02.01.20.相馬記)

*****************

各位殿
拝啓 時下ますますご清祥の段、お喜び申し上げます。
 私たちは、東京大学仏教青年会(東大仏青)、朝日カルチャー、東方学院、NHK学院並びにドーゲンサンガにてご指導頂いており、又『禅の友』に「正法眼蔵随聞記にしたしむ」執筆しておられる西嶋和夫老師の在家の弟子であります。
 この度、西嶋老師がイスラエルに仏教並びに坐禅の指導にゆかれました。その記事がありますので同封致しました。
 イスラエルには現在 西嶋老師の弟子が
60数名おります。(市川のドーゲンサンガにて修行した人々)
 イスラエルでは
個所にて坐禅の指導をし、また質問に答えるという形で200数十人の人達にご指導されました。
 現在はイスラエルではユダヤ教信者は全体の10%しかいなくなってしまいまして、残りの90%は何を信じたらいいか見つけている状態だそうです。
 道元禅師の思想は現在は遠く離れたイスラエルの地において盛んになろうとしております。
 またイギリスにおいても去年 ドーゲンサンガ イギリス  が発足しております。
 ドイツにおいてもガブリエルさんがドイツ語による正法眼蔵の翻訳出版をしております。
 イスラエルにおけるビデオも現地の弟子が撮っております。必要であれば取り寄せることができます。
 日本においては全くイスラエルのことはわからず、危険度3が4にランクされた時期でありましたが、現地は平穏であり日本での判断と現地とではかなりの違いがありました。
 またイスラエルの現状についても全くの認識不足でありました。
 西嶋老師のイスラエル訪問は
歴史的な出来事 だと思いますので、ご案内申し上げるものです。
 何かのお役に立てばと思います。まずはご案内まで。
                                                                                                         敬具
 平成13年12月3日
                                                                        古 閑 辰 雄

***********************

合気道と禅

古閑 辰雄

  合気道は単に勝敗や強弱を争うものではなく、一つ一つの型、技を反復稽古することによって心身を鍛練し、豊かな人間形成を目指すものであり、我が国の長い伝統に根ざした優れた武道の一つであります。
  合気道は開祖 植芝盛平翁(1,8831969 明治16年生まれ、昭和4486歳没)が日本伝統の武術の奥義を究め、さらに厳しい精神的修行をへて から へと発展させた現代武道です。
 入身(いりみ)と転換(てんかん)の体捌きで流れるような円運動から生まれる技は、相手の暴力のみを制するもので相手を殺傷いたしません。
 人間尊重がうたわれる現代にふさわしい武道であり、
礼節 を重んずる武道です。
 合気道の稽古の積み重ねが健康に良いのは云うまでもなく、日常生活においても何事も積極的に取り組む自信が自然に培われてきます。年齢、職業、性別、国籍を問わず多くの人達が集まってきますので、人間理解の眼を深めるためにも最適です。
 現在海外にも80カ国、60万人、日本国内100万人の愛好家がいて、年々その数が増えつづけているし、ロシアのキリレンコ元首相もその愛好ぶりは、先年訪日の際には、多忙な日程の時間を割いて、新宿若松町の本部道場で一時間程汗を流したことで知られています。(彼は本部道場審査をうけて初段を取得しております。)

  心、気、体 の鍛錬を通じて宇宙根源の を自得する。そして己の実力を発見して、めざめた 、ひらかれた をもって天職に生きるべきことを望み、各自が 宇宙自己 との 一体化 を成就することを究極の極意とした。」

との二代目道主植芝吉祥丸先生の言葉は、禅の境地と通じるものがあります。平成11年、亡くなられて現在三代目道主は、その息子 植芝守央師です。
 私も縁あって昭和54年(
1979)合気道に入門して22年余、毎週2回は道場に通って稽古をつづけて、「継続は力なり」を実感しております。

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中島昌信:「半世紀前の思いで」および「社報の記事より」(01.09.06受)

相馬 道男様
今年も早くも九月になりました。今窓から見えるビルが雨のため濡れております。今朝の天気予報が当たつた様です。
貴兄のホームページにたいしての御努力には感謝いたします。会員寄稿集にでも採用して頂けるかどうか、最近脱稿した「半世紀前の思いで」と、以前社報に載せた写真とコメントの記事がありましたので送らせていただきます。
私も花園会のホームページを開くのお何時も楽しみにしております。益々のご健勝を祈ります。
         九月一日                中島 昌信

 

半 世 紀 前 の 思 い で

     中 島  昌 信

「ピツキングの練習」 

最近の物騒な話題ではありません。50年前のことです。私の友人が日系の進駐軍の青年と結婚することになり、新居を私が設計することになりました。相手の彼は、日頃の服装や生活から民間人と変わらないので何の任務なのか判りませんでした。自宅を尋ねると何時も豊富なお酒とご馳走で迎えてくれました。然し不思議におもつたのは会話の間も片手にシリンダー錠をもつて小さな金物でその鍵を開ける練習を繰り返しているのです。私も職業柄鍵に興味があったのでトライしてみましたが、とても難しく一度も開いた事がありませんでした。彼の仕事を尋ねましたら、将校クラブのマネージャーの様な事をやっているので、ショーの照明等を手伝だい乍ら食事をしに来いと言われ、何回か出向いた事がありました。記憶が定かでないですが、大手町と九段の間位の位置だったと思います。

その後朝鮮戦争がはじまり、彼と暫く逢う機会がなかったが、聞くところによると、軍隊が突入する前に敵の施設に進入して、重要書類等を持ち出す、特務機関に所属していたらしいと判りました。その為に鍵を開けるピツキングの練習をしていたのです。彼はその後パリーに赴任し残念なことに、客死したと聞きました。

「ストリップショーの手伝い」 

昭和24年頃舞台美術の勉強と称して、当時有楽座の東宝舞台で照明の下働きをしておりました。空襲を免れた宝塚劇場は進駐軍に接収されアニーパイルを名乗っており、有楽座が唯一劇場として機能しておりました。

小牧バレー団の白鳥の湖、エノケンさんと笠置シズ子さんのお染め久松等を上演しておりました。然し装置は、今の様にコンピウターによる自動制御でなく、舞台の転換や組曲等はすべて記憶に頼ることしかありませんでした。照明の色はゼラチン紙で、そして輝度を上げるためカーボンを用いていました。これは大変テクニックが必要でした。そんなある日、浅草の松屋デパートにあつた、隅田劇場からストリップショウをやるからとアルバイトの話しがあり、私も同行することになりました。勿論照明を手伝えるものと思っておりました。然し私の役目は楽屋でストリッパーの乳児のお守りをやることになりました。自分の技術が未熟だったのではないかと反省したものですが、考えてみたら、ストリッパーも本格派は未だ少なく、多分子持ちの方のアルバイトを急遽集めたのではないかと思いました。

「日劇ホールの設計」

有楽座の東宝舞台に出入りしていた頃、日劇ホールの改装の計画が起こり、君は建築科の学生なら何かアイデアを提案しないかと言われました。私もその頃卒業設計のための資料を集めていた頃でしたので、その中にフランク.ロイドライト(帝国ホテルの設計者)の計画に、ダラスの学校の実験劇場案があり、それは舞台と客席を仕切るプロセニアムがないもので、円形の舞台が客席の中に張り出しているものでした。これをヒントにして提案したのを、小林オーナが採用されて実現してしまいました。昭和27年の誕生です。然し第一回の公演は未だ「丸の内に裸は合わない」と言うことで、越路吹雪さんの出演となりました。ところが残念乍ら客の入りが悪く、急遽方針を変えてヌードショーとなり、トップクラスのダンサーのメリー松原.伊吹まり.ヒロセ元美らを踊らせたら大当たりしました。幕間のコントがトニー谷.柳沢真一.市村ブウちやん等々、演出家では丸尾長頼.石原慎太郎.野末陳平等、日劇ホールは芸能人の登龍門だつたのです。私はオープン前年の昭和26年に三菱地所に入社しましたが、木戸御免のホールに先輩を案内したものです。

その後、実はケネディ大統領が暗殺された前年1962年に現地に完成したライトの劇場を見学に参りました。日本からの見学者は私が二人目とのことでした。最初の方は劇作家の某氏でしたので興奮した事を覚えています。その後1970年に再びおとずれましたが、その荒れた姿を見た時はとても残念におもいました。

「社報の記事より」     −  私の1ページ −

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片山朝雄:「それでも多少の悩みはあった」   (01.07.20受)

 (「一高昭和二十五年卒文集」からの抜粋)

「それでも多少の悩みはあった」

片山 朝雄

 一九四七年(昭和二十二年)三月、入寮するとき、私は右手中指にぐるぐると包帯を巻いていた。戦時中陸軍予科士官学校六十一期生だったとき、ひどい霜焼けにかかり、終戦の八月十五日になってもこの指だけはタラコのような状態のままだった。復員して東京の三楽病院で結核性関節炎と診断され手術を受けた。今考えると何のための手術だったか分からないが、手術では治らず、レントゲン照射で結核菌を殺すという治療の最中に一高を受験し、合格したのである。指に包帯を巻いていても、鉛筆は何とか持てた。いずれ治るだろうから、と理科端艇部に入りたいと志望届を出した。

 病院に行き、担当の医師に一高に合格した旨を報告したら「それはよかったな」と喜んでくれたが、「ボート部に入る」と聞いて目をむいた。「とんでもない」の一言である。包帯の下の指はその時でも急に動かしたりすると痛みが走り、出血することがあった。医者に止められては仕方がない。寮の理端の部屋を訪れ「入部をやめる」と申し出たら、そこにいた先輩二人は初対面の私にけげんな顔をした。「君はだれかから理端に来いと勧誘されたのか」と聞く。私は「いや、だれにも誘われていません。自分だけの意思で、入りたいと思って届けを出していたんです」。二人は「そんな奇特な人がいたのか」と驚いて、それまでの経緯を私に説明させた。「君は陸士にいたのか。その前の中学は?」「開成です」「なるほど。それでボート部を志望したのか」というやりとりが続いた。我が母校の開成中学は、昔からボート部があり、高等師範付属中学と毎年レースをしている。私は中学校時代もボート部に入ろうとしたが、母親から「体力を考えろ」と止められ、悔しい思いをした。今は指が不自由でも、陸士で鍛えたお陰で体力は人並みになったから、晴れてボートに、というわけだった。

 「いくら勧誘しても断るやつばかりで弱っていたんだ。惜しいなあ」としきりに二人は残念がる。私も残念でしょうがなかったのだが、こうして私の一高の寮生活は、一般部屋を流浪することになった。理端の部屋を出てとぼとぼと寮の渡り廊下を歩いていたら、予備校で顔見知りの須藤康永君(理甲二組)に呼び止められ、彼の入ることになっている中寮十五番に誘われ、大いに感謝して入れてもらった。

 この部屋は高橋良平さんを始め柔道部の残党が作っている一般部屋らしく、先輩は文科または戦後文転した人がほとんどだった。私は理甲を受けて理乙に合格したのだが、ご多分に漏れず、先輩から文科的洗礼を受けて専ら文学書とドイツ語に熱中し、岡田先生の数学などはたちまち分からなくなってしまった。加えて生活費の外に指の治療代がかさみ、アルバイトに次ぐアルバイトで授業にもろくに出られない。期末試験だけは受けておいた方がよいぞ、と言われた通りにしていたが、ビッテンに精を出すことになる。一年生の時の担任はドイツ語の安藤煕先生で、日曜日に桜上水の先生のお宅に伺ったら、玄関に背の高い、品のよい老婦人がお孫さんと一緒に現れた。これが幸田露伴の妹のバイオリニストで、安藤先生のご母堂、安藤幸さんだな、と思って仰ぎ見た。幸さんは一高の制服で察したのか、こちらが口上を述べるより早く、にこやかに「ビッテンですか」とおっしゃる。「ただいま息子は留守にしています。あなたの横の下駄箱の上の箱の中に、お名前と科目と希望の点数を書いてお入れなさい」。見ると箱のそばに紙と鉛筆がある。ドイツ語、英語、国語、歴史などを除いて理科の科目全部を一つ一つ紙を別にして書き、箱の中に入れた。まるで入札のような感じであった。終えて一礼し、そこそこに退散した。

 期末試験のあと、教務課の廊下に「番付」が発表になる。むろん私の名前は末尾の方にある。これを見た部屋の先輩の一人が「片山のやつ、日ごろは大きな顔をしているが、なーんだ、成績はビリに近いじゃないか」と大きな声で笑った。この番付は科目全体の点数の総和で順位が付けられていると知って一策を案じたこれから理科の勉強をしても追い付けないので、次の学期には体操の時間は必ず出ることにしたのである。精勤しても、指に包帯を巻いているから、人並みにボールを投げたりはできない。ただ突っ立っている時が多かったので、体操の先生は「これでは点がつかない」と思ったのか、ある日「片山、片手でこの鉄棒の上に上がることができるか」と言った。「はい」と答えた私は、片手で鉄棒に飛びつくと腕をぐーっと曲げ、あっという間に鉄棒の上によじ登ってまたがった。こんなことは陸士の体育で鍛えたことなので、極めてたやすいことなのである。体操の先生は大いに感心して「よろしい。上出来だ」と言った。

 次の期末の番付は、何しろ前期はゼロだった体操の点数がほぼ満点に近くなったのだから、私の名はたちまち上位に位置することになる。これを見た例の先輩は「へえ、片山は勉強しているところを見たことなかったが、いつの間にやったんだ? よっぽど頭がいいんだねえ」と、私を見直したようだった。

 番付は上がっても、落第−留年の恐怖は去らない。落第すれば後はない。何しろ一高は私たちで終わりになるのだから。新制大学を受け直しても合格の保障はない。母と姉を抱え、私は一刻も早く大学を出て生計を立てなければならない。考えれば考えるほど前途暗澹だ。しかし不思議なことに落第せず、三年生になってしまった。理乙だから医者になるはずのところだが、医学部はアルバイトをする暇はない、と聞いた。しかも右手の中指が曲がってしまったのでは、まず外科は無理だ、と言う先輩もいた。理科系の学部はあきらめて二年生の中ごろから、文科の教室の講義を盗聴することにした。教室に行ってみると出席の生徒が多くて、廊下にあふれている時もあった。私と同じような連中がたくさんいるのである。学校側も察したのか、三年生になった時、「転類転科を許す」の掲示が出た。待ってました、とばかり文転した。

 なぜ落第せず卒業できたのか。これはずっと私の頭を去らない疑問だったが、東大経済学部を卒業して朝日新聞記者生活も十余年になった昭和四十年代の初めごろ、文芸春秋で木村健康教授の随筆を読んで初めてナゾが解けた。同教授によると、あのころ一高・東大の教授たちの頭の中は「新しい東大をどうするか」で一杯で、「気の毒だが、その時の一高生のことはほとんど念頭になかった」そうである。つまり「一高生は落第させず、さっさと追い出してしまわなければならない」という方針なのであった。いくら点数が悪くても期末試験を受けてさえいれば進級させてくれたのである。私にとっては大変幸いであった。先述のように前途暗澹だった時もある。三年間のうち、少しは人並みに悩みもあったということにしておこう。

 二年生の時の一九四八年十二月、私は本川誠二委員長・八谷金太郎副委員長の時の営繕委員になった。翌年の記念祭の寮歌祭では本川委員長・八谷副委員長は二人とも寮歌の音頭を取らず、京須実風紀点検委員が代行した。彼はこれで大満足で、記念祭が終わると途端に辞任してしまう。その後を私が引き継ぎ、一高最後の風点を約二カ月勤めた。その後「耕す会」に入れてもらい、私は一般部屋の流浪を終えたのである。

 この本川・八谷内閣に参加したのも私の人生の一つの転機ではあった。つまり日本共産党との接触の始まりである。このあと、下山事件、三鷹事件、松川事件と続き、一九五〇年六月に朝鮮戦争が起こる。このような時、私はアメリカ進駐軍の正義は信じられず、三つの事件はすべてアメリカ軍の仕業である、と確信した。これは陸士にいたものの勘ともいうべきもので、日本軍が満州事変や上海事件を起こしたのと同じことをやっている、と直感したのである。当然私は共産党の立場に同情することになる。ただ、幸か不幸か、何しろ自分の家の生活がどん底状態にあり、とても党活動どころではなかった。そしてそのまま現在に及んだという次第である。

                  ◇

記念祭などに催された全寮晩餐会は、私が一高に入学して最も感激した行事の一つだった。偉い、有名な人士が先輩として招待され、一場のスピーチをするからである。さすが一高だな、と思った。二年生になった一九四八年(昭和二十三年)、我々の後一年間だけ一高生になる諸君が入ってきた。この新入生の歓迎晩餐会が五月一日に開かれた。この日の目玉は芦田均首相であった。例によって紅白の幔幕を張りめぐらした大食堂は、このためか満員である。小生は遅れていったため座る席がなく、大勢の寮生とともに立って見ていた。

 芦田氏(明治四十年仏法卒)は民主党総裁、この年三月十日に社会党・国民協同党との連立内閣の首相に指名されたばかりで、大いに晴れがましかったことだろう、と想像するが、にこやかに演壇に立つ。軽妙な語り口で肩の凝らない話をしていたが、やがてあらたまって姿勢を正し

 「今、日本は荒廃のさなかにある。日本をこのような荒廃に導いたのは、残念ながらこの一高の、諸君らの幾多の先輩たちに外ならない」

 さらに一段と声を大にして「しかし、この私は違う。日本を悲劇に追い込むようなことは、これまで一切してこなかった、と断言できる」

 この時、寮生の一角から大声一番「これからだ!」の野次が飛んだ。満場どっと爆笑の渦となった。芦田首相も一瞬絶句した。何となく頬が紅潮しているように見える。やがて気を取り直して

 「いい世の中になったもんだ。君たちはのうのうと、酒を飲んで、歌を歌って、偉い先輩をからかっていりゃあいいんだから楽なもんだ。私は君たちと腕相撲すれば負けるだろう。駆けっこすれば敵わないだろうよ。だが、頭と経験で勝負するなら、私は君たちには負けないぞ」と腕をまくって見せた。

 後年読んだ、政治評論家の阿部真之助の著書によると、芦田氏は外交官から政界に入り、常に冷静、そのため冷たい男だという者もいる、とあった。この時も内心カッとなったのだろうが、「若い者を相手に怒っても仕方がない」と笑いに紛らせてしまったわけである。この一幕は翌日の朝日新聞の夕刊社会面の記事となった。見出しは「これからだ、の野次」。この晩餐会にも芦田番の記者がついてきていたのだろう。

 このあと間もなく昭和電工疑獄が始まる。六月二十三日に日野原節三社長が逮捕され、九月には栗栖赳夫経済安定本部長官、十月には西尾末広前国務相が逮捕され、芦田内閣は総辞職する。十二月に入って芦田氏自身も逮捕されてしまうのである。まるで、あの晩餐会の野次が予言したような格好になってしまった。タイミングとして歴史的な野次となったわけである。晩餐会の後で、小生と理乙一組同級の高野喜一君から聞いたところによると、野次の主は社研の上田健二郎(不破哲三)君だったらしい。当時から国会議員並みの野次を飛ばしていたわけである。

 尾高朝雄東大法学部教授がある年の晩餐会で話したことは面白かった。敗戦の直前、尾高さんは陸軍要路の将校に、「アメリカ軍が上陸してきたら本土決戦、とあなた方は言っている。一高生も当然戦うことになるが、飛行機もなく、武器もろくにない現在、どうやって戦うのか」と問いただした。将校は「うーむ」と考えていたが、やがて「一高生は紅顔の美少年ばかりだから、女装して敵に近づくのがよい。アメリカ兵は女に弱いから、気を許す。そこを隠し持った短刀でぐさり」。尾高さんは晩餐会に集まった寮生を見回して「いくら君たちが美少年でもねえ」と笑った。今思うと、この話は甚だ牧歌的である。ドイツの敗戦時の話はもっと陰惨なものが伝わってきていた。結局本土決戦はなかったことが、日独の事情の分かれ目だったのだろう。あるいは、一高という環境が、戦争も含めてすべてを一種牧歌的なものにしてしまうのかもしれない。それにしても、この将校もなかなかの者である。尾高さんに詰め寄られて答えに窮する。もはや何も言うすべがなく、何を言っても空々しいことは分かっている。そういうとき、まじめな顔で冗談でない冗談を言えるのは立派だ、と私は感心してしまうのである。

 一九四八年(昭和二十三年)二月十二日、天野貞祐校長送別会での校長告示は忘れられない。「理想はあくまで高く、生活はあくまで低く、ということを忘れないようにしてもらいたい」と結んだのである。何しろ寮の食堂は「おかとん」しかないころで、私自身アルバイトに追われ、それでも食うや食わずの時である高い理想を持てというのは分かるが、このご時世に「生活は低く」と心掛けよ、とは何たるお言葉か、と思った。これ以上低い生活などというものは考えられるか、というわけである。

 しかし、その後次第に国民の生活水準は上がり、一九六〇年代に入ると所得倍増計画が順調に進み、日本経済の成長率には世界中が驚いた。こうした今、天野先生のあのお言葉を思い起こすと、なるほどと思わざるを得ない。天野先生は、あのころの貧困日本を一時的なものと見ておられたのだ、と思う。やがて暖衣飽食の時代が来る、とも予想されていたのだろう。教育者として天野先生は、どんな環境の中でも永遠の真理は若者の心に植えつけなければならない、という信念を貫かれたのだと思う。

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