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一里塚データベース、などと言って意気込んで始めたはいいが、なかなか整理も進まなければ、追加情報も更新できぬまま放置していた。ところが、嬉しいことに参照している方々がいらっしゃるようで、間違いなどを指摘をいただく。
その都度、こっそりと修正していた(連絡を戴いた方で、連絡が取れる方には、お礼の一言を添えて)のだが、最近、公私ともの忙しく、その手のメールに対応するのがおっくうになっていた。今回、まとまった情報を下さった方がいらっしゃったのと、この手の情報は共有財産に近いものである、との判断から、この場を使って解説をすることにした。
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まず最初は、看板に記載された説明文に関する指摘です。当初、私が持ち歩いていたデジタルカメラは、(当時としては高級機種だったのですが)画素数が低く、説明看板を写真に収めて、帰宅後に書き写せば良いと思っていたら、なかなか読み取れない場合が多く、仕方無しに、●●として読み取れない部分を、勝手に想像することなく記載していました。ここに対して、他のサイトで記載されている情報を元に、全て、指摘をいただきました。
| 26里:接待茶屋一里塚
江戸時代●●の参勤交代や 江戸時代、諸侯の参勤交代や |
上の行が、私のサイト、下の行が、「旧東海道夫婦旅」のサイトに記載された物です。旧東海道夫婦旅のページを見に行くと、「山中新田の一里塚」として紹介されているところに、記載がありました。ところが、
「江戸時代、諸侯の参勤交替や旅人の・・・」
と書かれています。改めて写真を見直してみると、確かに普通に用いられる「参勤交代」ではなく、「参勤交替」となっていました。そして、「諸侯」の部分も読めます。修正させていただきました。
| 39里:由比一里塚
良●軒清心という僧 良用軒清心という僧 |
これも言われてみれば、確かに読めます。修正させていただきました。
| 65里:馬込一里塚
四方の●を盛り上げて 四方の土を盛り上げて この辺り中世●●●向宿と呼び
|
ここもご指摘通り。
何故、こんな単純な「土」の文字が読み取れなかったとかと、写真を取り出してみると、悲しいことに、この文字不明の原因は、急いでいたため、街路樹の葉が邪魔をして読み取り不能になっていたためでした。落ち着いて写真に収めていればこんなことは無かったでしょうに。
| 66里:若林一里塚
慶長六年●丑正月 慶長六年辛丑正月 |
この文字は、読めなくも無かったのですが、確証が得られず不明にしていました。この情報のみ「つれモル-音楽と神奈川と東海道」です。
| 69里:新居一里塚
慶長九年●●二代将軍秀忠が一里塚●●といわれ東海道では、百●●個所あった 慶長九年(一六〇四)二代将軍秀忠が一里塚を築かせたといわれ東海道では百四ヶ所あった |
これは本物を見てもらえば判りますが、絶対に読めません。想像で読み進むならば、下の行のような内容であることは容易に推測できますが、看板に忠実に示すならば、後半の大半は風雨により流れてしまい全く読めません。
| 71里:豊橋一里山一里塚
荒●に任せられた 荒廃に任せられた |
これは看板の造りがあまり良くなく、小さな文字が広い間隔で並んでいました。全体を写真に収めると、文字の一つ一つが小さくなり、文字がつぶれて読めません。文の前後から類推しても、下の行の通りでしょう。修正しておきました。
| 105里:野村一里塚
大正三年に南側の●●は●去られ 大正三年に南側のものは取り去られ 目●り●囲五メートル
|
ここは珍しくコンクリートで造られた碑に説明文字が刻まれています。肉眼でも読み取り難かったため、写真から判断するため、あらゆる画像処理を施して読み取りましたが、限界でした。おそらく推測で補完したものと思われますが、修正しました。
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続いて、主に、一里塚の場所に関するご指摘です。
はじめに言い訳をさせていただきますと、一里塚のデータベースにおいて、緯度・経度が記載されているのは、日本測地系にて記載していました。当時、まだGPSの表示は、日本測地系が一般的で、その後、世界測地系に統一されたのですが、その変更により、あちこちから指摘があり、直したもの直していないものが混在する状態になってしまっていました。いずれ見直すつもりで放置されています。
この測地系の変更により、Yahoo!地図を参照する地図も、当時の示すポイントから大きくずれてしまっており、今となっては、おおよその場所を示すだけの地図になってしまっています。これも、いずれは修正せねばと思っていますが、時間が取れません。そんなことから、地図がずれている、云々の指摘については、現状では対応しかねます。
| 57里:伊達方
右ではないでしょうか? 【ふらっと旧東海道】:伊達方一里塚 ウォーキングMAP (写真とMAPを参照すると) |
これは、私の記憶では左(東海道を京に向かって左、海側)との記憶があったのですが、間違っているかもしれません。萩さんのページでは確認ができなかったのですが、おかもとさんのページでは、明らかに影が画面奥に対して伸びています。あの場所において、この方向に影ができるのは、街道の右側にあればこそですから、私の記憶違いということになりそうです。
いずれ確認の上、修正させていただきます。
| 86里:阿野
左右現存? HP【姫街道を歩く】:東海道と一里塚:86.阿野一里塚 2000/2,2002/9等の写真が掲載されています |
はい。ご指摘のとおり左右両方にあります。写真も残してあり、また、昨年春にも確認のために訪れているのですが、更新を忘れていました。修正いたします。
| 97里:縄生
98里:冨田 117里:六地蔵 |
ポイントのずれのご指摘ですが、これは上記理由により、信頼できない状態にあるので、いずれ修正するということでご勘弁願います。(Yahoo!地図にしろGoogleマップにしろ、測位系を勝手に変えないで欲しい)
| 108里:元坂下・荒井谷
三重県亀山市関町坂下 【ウィキペディア】東海道の一里塚一覧 |
すみません、何をご指摘いただいたのかわからないので返答しかねます。百八里目に関しては、いろいろな説がありますが、一般的に、坂下の一里塚は村と共に流されてしまった、という説ですので、不明としてあります。
| 44里:長沼
50里:志太 73里:飯村 HP【一里塚画像集】:一里塚・足と車で捜し求めて 左右記載と写真の影(日当たり)を見ると
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長沼は、この方が、何を思って右としたのか不明ですが、左にあります。
志太は、確かに、現在は右にあります。修正しておきます。以前は右側に建っていた石碑が、道路拡張工事のために右側に移設され、写真を取り直したのですが、右左を入れ替えるのを忘れていました。
飯村(いむれ)は、どちらとも言いかねます。この方は、自動車で行動されているので、おそらく、車道を基本に「右側」と言ったのでしょうが、実際の旧道は、車道(国道1号線)に対して、右側を通っており、こちらを旧街道とするのが街道ウォーカーの定説になっています。従いまして、この碑が建っているのは、「街道の左側」になります。
人それぞれなので、別に私はこの方に指摘するつもりはありません。
以上です。