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多治見駅
 
元は時事ネタだったのだが、中身が充実したため再編集し、こちらに移動

 今でこそ、駅前通りが落ち込んで郊外が発展するという地方の現状があるものの、それでもやはり、駅前と言うのは一つの求心力のある地域ではある。歴史的に、発展した街の中央を避けて設置されたりした場合もかなり多く、駅が本当の中心地から外れているというのも珍しくない。しかし、他の地域から訪れて来る者にとっては、ひとつの大きな目標物であるため、まずは駅から探索をスタートすることが多いだろう。
 そのため、駅が中心から大きく外れている場合、呆然とすることが多々ある。例えば鹿児島。初めて訪れたとき、全く予備知識なく、時刻表も地図も持たずに放浪していたため、当たり前のように「鹿児島駅」に降り立ってしまった。あまりの駅前の閑散ぶりに呆気に取られたのだが、すぐに間違いに気付いた。西鹿児島駅(現在の鹿児島中央駅)が、中心駅なのである。時刻表を見れば、停車数の違いから分かりそうなものだったが、やはり名前に惑わされて、あえて鹿児島駅で降りてしまったのである。

 そんな風に、地元民にとっては当然のことでも、他地域民にとっては大きな影響を与え続けている駅であるが、「名称」という点では、さらに地元にも影響がある。駅の名称は、ほとんどの場合、その設置された地域の代表する名前が付いているのであるが、たまに、大きな間違いがあったりする。設置した当時、主に国主導で行われたために、設置場所の地元の意見など完全に無視した物がよくある。例えば、すぐに思い付く有名な例として「米原駅」「鶴舞駅」などがある。
 「米原駅」は、「マイハラ」に設置されたのに、国は、間違えて「マイバラ駅」と命名してしまった。それが長年、放置されていたら、とうとう、自治体側があきらめて、地名を「マイバラ」に変更してしまった。東海道新幹線駅もあり、北陸への分岐駅でもある「マイバラ駅」が、全国的にも知名度が高く、いまさら「実はマイハラです」とは言えずに、米原町から米原市へ市制施行するにあたって、読みを変更してしまったのである。可愛そうなのは、その名称変更に振り回された施設。例えば高速道路のインターチェンジは、長らくやはり同様に「マイバラ」と誤記していたものを、わざわざ自治体名にあわせて「マイハラ」と変更したばかり。合併、新設市名変更によって、再び「マイバラ」に戻すかどうかを検討中。他にも、学校名とか公共施設の名称を全て変更・統一したのだとか。しかし、個人営業の物までは自主性に任せるしかなく、やはり混乱は続いている。
 このような、正式自治体名と駅名が濁点の有無で間違っている例は数多く、他にも「かるいさわ」「あさひがわ」などがある。「かるいさわ」は、米原と同様、駅名が勝ち、町名を「かるいざわ」に変更。逆に、「あさひがわ」は、地名に合わせて「あさひかわ」に変更している。(但し、ここがもう少し複雑なのは、駅開設当時は、「あさひかわ」で、明治末期に、何故だか「あさひがわ」に改称している)

 「鶴舞」は、地元の名称は「ツルマ」なのだが、国が間違えて「ツルマイ」と読ませてしまい、一般的には「ツルマイ」が定着してしまっている。そもそも「ツルマ」は、「水流間」が転じたもので、現在の鶴舞公園あたりが沼地だったところから来ている。だから当然のことながら「鶴舞公園」は「ツルマ公園」。しかし、他は、ほとんどが「ツルマイ」を用いるようになってしまっている。
 この例だと、他には、「くまがや(熊谷)」「はくば(白馬)」などの例がある。熊谷は元々「くまがい」だったのが、駅名に合わせて「くまがや」に変更。従って、間違っている人を見かけるが、中山道宿の名前は、当然のことながら「くまがい宿」が正しい。
 白馬村は、元々「しろうま」 「代馬岳」が村名の元だったのだが、駅名「白馬」を「白馬」と呼んで、それが村の名前になってしまった。しかし、未だに、山の名前だけは「しろうまだけ」。なのに、山荘は「はくば山荘」が正式名称という混乱も。

 他の例では、設置当時、設置場所が地名度のある地域でないために、近くの有名な地名を付けてしまい、長年を経て駅周辺の方が本来の地名の場所よりも有名になってしまい、便宜上、駅の周辺がそう呼ばれるようになった物がある。例えば真っ先に思い付くものとしては「品川」 大抵の人は品川駅周辺のことを指して「品川」と呼ぶ。しかし、知っている人にとっては当たり前の話だが、品川駅周辺の地名は高輪、あるいは港南であり、そもそも、品川駅は港区にある。品川区ではない。
 本当の品川とは東海道品川宿のあたりであり、その宿場の北側に京急の「北品川駅」がある。JRの品川駅の方が圧倒的に有名になってしまったものだから、同居する京急の駅も(京急)品川駅になってしまい、品川駅の南に北品川駅が在る、といった面倒な状況になってしまっている。
 目黒駅も、目黒区ではなく品川区上大崎にある。目黒駅ビルに出張に出向くことがあるのだが、出張先の報告書に、地名(市区町)+目的地(ビル名・社名)を書くのだが、「品川区目黒駅ビル」となる。提出すると変な目で見られるのだが、これが正しいのだから仕方がない。

 筆者の最寄駅の「武蔵中原」などさらに不思議な状況。この辺りでは、例えば宴会の場所などを探すときに交される会話で、当たり前のように「中原周辺で・・・」などの表現がされる。
 しかし、中原、などという地名は存在しない。川崎市中原区はあるのだが、この区の中心地は隣の「武蔵小杉駅」周辺だし、中原駅周辺の地名は「上小田中」「下小田中」のみ。単に、「中原街道」が横切っていることと、他に特徴が無い街だったから、武蔵中原と命名されたに過ぎない。(設置当時、川崎市に編入する前だったため、神奈川県橘樹郡中原町であったという歴史もあるが、それでも中心地は今の武蔵小杉駅周辺)
 まあ、適当に(?)命名されてしまった名前が80年を経て定着してしまった一つの例。しかし局所的な話であり、同じ川崎市住民でも、他区の人に、うっかり「中原」という地域名を使うと、中原区全域と勘違いされてしまう場合が多い。
 ただ、武蔵小杉駅ができたのは比較的後のことで、向河原駅の次は武蔵中原駅だった。と言うことは、武蔵中原を中原町の中心と考えて設置したと考えられなくもない。元々、現在の武蔵小杉周辺は何もなく、広々としていたために工場が建設されたのだろうし、人が住んでいたのは中原街道沿いだったはず。だとすると、中原街道に近い中原駅が、中原町の代表駅と考えられても変ではない。※追記2008.02.05

 このように、駅の名称は地名などに大きく影響を与えている。詳細検討をせずに命名した国の責任は大きい。(念の為、最後の例の「武蔵中原」は、南武鉄道という私鉄が命名)

 さて、ここからが本題。

 岐阜県東濃地方にある都市、多治見市の話である。関係ないが、この多治見市、何故だか愛知県だと勘違いされることがある。以前、ある掲示板にて、「愛知県多治見市」という表現で議論されていたので、

「# いつから多治見市が愛知県になったのでしょうか? :-)」 

 という軽い冗談で返したら、

「いつからも何も、成立以来ずっと。そしてこれから先もずっと愛知県です」

 と、冗談とも本気とも不明な反応が返ってきたことがある。
 まあ、住民ですら勘違いしているそうだから、部外者がとやかく言う話ではないが。それぐらい、名古屋との繋がりが強く、岐阜県との繋がりが希薄である。と言うのも、多治見(と言うか、東濃と言われる地域一般)において、岐阜の中心と思われる岐阜市に出るためには、通常、一旦、愛知県を通過する必要がある。電車で移動しようとしたら、名古屋に出てから東海道本線に乗り換えることになる。これでは、愛知県の一部と言われても仕方あるまい。(あえて愛知県を避けたいならば、太多線で美濃加茂に出て高山本線という手があるが、普通の人はしない。自動車移動でも、高速道路(中央自動車道)を用いると愛知県小牧を経由してしまうので、国道248号で美濃加茂に出て国道21号という方法がある。しかし、普通はしない)

 また話が逸れてしまった。

 この多治見市の代表駅、JR多治見駅の話である。実は、考えてみれば行ったことが無かった。岐阜に暮らしていたときも西濃と呼ばれるどちらかと言うと地形的中心の岐阜市よりも西側寄り。愛知県に暮らしていたときは、かなり近い場所ではあったものの、ここへの移動は自動車しかありえなかった。と言うのも、当時(国鉄時代)は今ほど電車が発達しておらず、とても中央本線など使い物になる路線ではなかった。だから、何度も行ったことはあるのだが、駅は見たことがなかった。その後、中山道関連のために東濃を訪れるようになってから、何度か中央本線を使うことはあったが、中津川、恵那、といった駅のみの利用で、中山道から外れている多治見駅を利用することはなかった。

 そんなわけで、あまり馴染みが無く、土地勘がほとんど無い多治見駅であるが、地図を眺めていてふと不思議に思うことがあった。
 多治見駅から南方向に駅前通りを進むと、土岐川を渡る。そして土岐川の対岸にあたる場所が、多治見市の中心街(と思われる場所)なのである。
 昔の郡の境界を見る限り、土岐川の北側(多治見駅がある方)は可児郡、南側(市役所がある中心街地区)が土岐郡である。

 多治見市は、土岐郡多治見村から始まり、明治22年に町制施行、その後、可児郡の領域からは、豊岡町、小泉村池田村姫治村の一部を編入している。多治見市が1934年8月1日に編入合併した豊岡町の役所は、現在の地裁の場所(ここ)。多治見駅のすぐ近くである。

 これは、どう考えても、多治見駅の設置された場所は、可児郡のおそらく豊岡町である。

 多治見町が、可児郡豊岡町を編入合併したのは、1934年8月1日。
 中央本線多治見駅が開業したのは、1900年7月25日。

 34年も前の話だから、将来を見越しての命名でも無さそうである。

 開業当時の多治見駅の正式な所在地を知りたかったのだが、いろいろ調べてみても詳細情報が得られなかった。判ったことは、名称は開業当時から「多治見駅」であったらしいことである。
 平成の大合併において新たに多治見市に合併した笠原町との協議会の資料の一つに、旧多治見の合併に関する資料を発見した。この2ページ目の「多治見市の成り立ち」の地図は、デフォルメされており、正確ではないが、実際の地図に重ね合わせて境界線を辿ってみたところ、間違いなく、多治見町と豊岡町の境界線は、土岐川に沿っていることが判る。つまり土岐川の北西側は豊岡であり、多治見駅が開業した当時、駅は豊岡町であったことになる。

 残念ながら、開業当時の1900年の資料が無いので、最も近い1908年の統計資料であるが、このとき、土岐郡多治見町の人口が 4,992人。 対する、可児郡豊岡町が、3,283人。 若干、多治見町の方が人口が多いものの、大差があるわけでもない。ただ、一つ確認できたのは、土岐川を境に、多治見側、つまり土岐郡側の方が、人口が多い町村が多かったようだ。例えば、平成大合併で最後に多治見市になってしまった笠原(当時、笠原村)など、4,642人であり、土岐郡第二の地域であったりする。そんなわけで、この地区に開業した駅の名前が、土岐郡側の地名、多治見を名乗ってしまったのだろうか。
 結果、多治見が発展し、周辺地域を続々と吸収。可児郡の一部にまで徐々に進出し、多治見駅周辺はその名のとおり、多治見の中心へと変貌する。と言った流れだろうか。しかし、それが事実であることの証明は見付からなかった。

 ひとつ確認できたのは、廃線になってしまったが、かつて存在していた東濃鉄道笠原線(さらに遡れば笠原鉄道)の駅で、現JR多治見駅に接続していたのが「新多治見駅」で、土岐川を渡ったところにあった駅が「本多治見駅」というのがあった。省線鉄道の多治見駅に接続していたために「新多治見駅」を命名したものの、本当の多治見の駅は「本多治見駅」ということだろうか。
 “本”多治見駅 で思い出した。そうそう、今でも近い例がある。小田急厚木駅。 厚木駅は海老名市にあるのだが、本当の厚木の駅は「本厚木駅」 当初、相模川に橋を架けられなかったので、とりあえず厚木に最寄の場所に「厚木駅」を開業。その後、ようやく川を越えて「本(本当の)厚木駅」が開業、という歴史がある。

 いろいろ努力して探してみたものの、これが証拠だ、という物件はとうとう発見できなかった。鉄道に関する文献もかなり探したつもりだし、合併に関する資料も隅々まで読んだ。非常に残念な結果であったが、いずれにしろ、当時の唯一の巨大輸送機関である鉄道の駅が、その町周辺に大きな影響を与えたであろうことは、充分に理解できる結果である。

 多治見市史あたりでも丹念に探せば答えは出るかもしれないが、最寄の図書館を検索しても、置いてないんだなぁ。やはり最低でも名古屋の図書館あたりまで行かないと無理か。しかし平日に訪ねるのは難しい。



※追記2008.02.05
 実は、根気よく探していたら、理由が判明した。前述の通り、南武鉄道が敷設した当時、武蔵小杉駅は存在せず、武蔵中原駅だけがあったのだが、なぜ、ここにできたかと言うと、まだ橘樹郡中原村であった当時、中原村役場は、中原街道沿いにあったのである。
 大正10年頃の地図を下に示す。

 青矢印の先の○印が中原村役場である。
 南武鉄道は、大正9年設立のため、まだ路線は引かれていない。川崎〜登戸間が開業したのは、昭和2年3月9日のことである。開業当時の(昭和初期の)地図は、あいにく持っていなかったのだが、少し遅れて昭和26年頃のものがあった。以下である。

画面を横切っているのが南武線(南武鉄道)である。中原街道沿いにあった役場が消えているのが判る。
中原町は、昭和8年に川崎市に編入合併し消滅。支所としても残らず、役場は廃止しているようだ。中原の名前が復活するのは、川崎市が政令指定都市になり、中原区が誕生した昭和47年である。しかし、この時、東横線が横切る武蔵小杉の方が発展しており、当然のように役所は武蔵小杉にできた。
そんなわけで、中原区の中心地が武蔵小杉、少し離れて寂れた方が武蔵中原、ということになったのであろう。
中原史跡めぐり
川崎歴史ガイド



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2008.2.5