その2・歴史コース


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楽屋風景

元禄期の京都・山本角太夫座の楽屋風景(「人倫訓蒙図彙」より)



初めに当たって

   「操り浄瑠璃」あやつりじょうるり―またの名を「人形浄瑠璃」といいます。約400年前に誕生したこの伝統芸能は、現在では「文楽」ぶんらくといった方が分かり易いかも知れませんね。
 昭和の激動期に滅亡寸前まで追いやられましたが、国などの手厚い保護を受けてよみがえり、現在では東京と大阪にできた2つの国立劇場を足場に定期公演を続け、文楽に対する一般の関心が高まってきたことは実に喜ばしいことです。
 操り浄瑠璃は、浄瑠璃・三味線・人形の3つの要素からできた極めて珍しい総合芸術です。形成過程からいいますと、まず15世紀半ば(室町時代初期)に新しい語り物・浄瑠璃が誕生したあと、16世紀後半(室町後期〜織豊時代)に三味線の伴奏がつき、最後に操り人形が合体しました。
 その合体時期について、近年の研究では「16世紀末から17世紀初頭の慶長年間」とする説が有力になっています。具体的にいえば、江戸時代が始まる直前の慶長元年(1596年)から同19年(1614年)までの間です。
 この浄瑠璃・三味線・人形の3つの要素からできた独特の芸能形態を、江戸時代を通じてずっと「操り」または「操り浄瑠璃」「浄瑠璃操り」「操り芝居」などと呼びました。この時代は、語り物の浄瑠璃が主導権を握った時代です。
 ところが次第に視覚的な人形の存在が強調されて、明治に入ると「浄瑠璃人形入り芝居」とか「人形入り浄瑠璃」とかいろいろの名称をつけられ、次いで「文楽座」が台頭して「人形浄瑠璃」という呼び名を大々的に前面に打ち出し、統一されていったのです。
 さらに文楽座という座名が人々になじまれるにつれ、大正末〜昭和初めにかけて人形浄瑠璃そのものが文楽と呼び変えられるようになり、今日では人形浄瑠璃よりも文楽と言った方が通りがよくなったのです。
 この長い400年間の歩みを辿ろうというのが、この歴史コースのねらいですが、明治になるまで人形浄瑠璃という言葉は存在しなかったという事実を踏まえて、タイトルは「操り浄瑠璃史」としました。
 また「素人控え」とつけ加えたのも、この内容が先賢の文献や研究にすべておんぶし、素人の目で書き綴ったものであるという弁解の気持の現われと受け取っていただければ、有り難いと思います。

人形浄瑠璃・文楽関係の情報やご意見・ご感想があればお寄せ下さい。



目  次  
 

(各部のタイトル部分をクリックしていただくと、各部の「目次と概要」に入れます。そこからご希望の各章をお選び下さい)




第 1 部


操り浄瑠璃の成立

 

 浄瑠璃の起こりから三味線の伝来、人形との合
体の道程を辿り、操り浄瑠璃成立までを見たうえ、
義太夫節に先行する古浄瑠璃の時代を通観します。



第 2 部


義太夫節の誕生と発展


 近松門左衛門と竹本義太夫の登場で、道頓堀に
竹本座が、次いで豊竹若太夫の豊竹座が開座。そ
の竹豊両座の対抗時代を、近松死亡まで見ます。




第 3 部


浄瑠璃の黄金時代

 

 「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」「仮名手本忠
臣蔵」という3大名作を生み出した黄金期から、次
第に衰退し、竹豊両座とも姿を消すまでを辿ります。




第 4 部


「文楽座」の起源と軌跡

 淡路から大坂に進出した植村文楽軒の芝居が、明
治になって松島に「文楽座」の看板を掲げ、競争相
手「彦六座」も登場。2座対抗時代の様相を見ます。




第 5 部


激動の大正から昭和へ

 戦争下の辛酸をなめた文楽座は、戦後、2つに分
裂して対立、滅亡の危機を迎えますが、「文楽協会」
ができ、国立劇場も建ってようやくよみがえります。




第 6 部


平成文楽のいま

 文楽が「世界無形文化遺産」に選ばれて、海外の
評価が高まり、人間国宝の技芸員も次々に誕生。そ
の大夫・三味線・人形3業の顔ぶれを紹介します。






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