2つの墓
「近松つぁん」
臨終の地と2つの墓
◆分からぬ臨終の地
近松は、死亡した後も大きな謎を残しました。それは、出生地が長らく分からなかったと同様に、具体的な死亡場所が判然としないのです。
江戸時代から「近松は、大阪で死んだ」というのが通説になっています。そのために、臨終の地は大阪寺島の船問屋・尼崎屋吉右衛門宅とも、南堀江の鋳物師・山城屋宗左衛門宅とも、心斎橋通りの書林・風月堂ともいわれてきました。
近松が懇意にしていた家でしょう。例えば、尼崎屋吉右衛門宅には近松もたびたび逗留して、船頭や旅人らから各地の話を聞き出しては、それを作品の題材にしていたといわれます。だから、最後の息を引き取った場所としておかしくはないのですが、どこも決め手はありません。
◆同じような2つの墓
ところで、近松のお墓が2ヶ所にあります。近松の檀那寺(自分が帰依している寺)であった現在の尼崎市久々知1丁目の日蓮宗広済寺(こうさいじ)と、現在の大阪市中央区谷町8丁目にあった日蓮宗法妙寺(ほうみょうじ)跡地で、お墓はいずれも昭和41年(1966)国指定史跡になりました。
広済寺は、阪急神戸線塚口駅の南東にあり、バスで10数分。お墓は、広済寺の境内に入って本堂右横手にあります。
墓石(左の写真)は、高さ48センチの自然石でできた比翼墓(夫婦の戒名を、一つの墓石に並べて彫る形式)です。
近松の戒名「阿耨院穆矣日一具足居士(あのくいん・ぼくい・にちいち・ぐそくこじ)と妻(名前不詳)の戒名「一珠院妙中日事信女(いちじゅいん・みょうちゅう・にちじ・しんにょ)」が並んで刻まれています。
もう一方の大阪市内の法妙寺跡の墓石(右の写真)は、大きさ・形とも広済寺の墓石とよく似ています。こちらも比翼墓で、近松と妻の戒名が刻まれています。
法妙寺は、妻の生家・松屋一門の菩提寺だったのですが、昭和42年に道路拡張で大東市寺川に移転し、現在では近松の墓だけがその跡地にあるのです。
地下鉄谷町線の谷町9丁目駅から、8丁目に向い谷町筋をしばらく歩くと、右側のガソリンスタンド横にひっそりとあります。墓域は昭和55年に改修されました。
大東市に移転した法妙寺にも、近松の墓の摸刻が建ち、正確にいうと3つあるということになります。
◆広済寺本墓説
通説では、まず近松は広済寺に埋葬され、その後に法妙寺に分骨されたのではないか、と考えられていましたが、確証はありませんでした。
昭和60年(1985)、近松研究家の向井芳樹・同志社大学教授が「広済寺本墓説」を発表しました。
向井教授は、広済寺の過去帳にも載っている近松と妻の戒名などを分析して、まず広済寺に近松とまだ存命中の妻の墓が作られたが、大阪の人たちが墓参に不便なため、死後数年経って法妙寺に、広済寺とそっくりの供養塔を建てたというのです。
◆近松と広済寺との関係
確かに、近松と広済寺(左の写真)は深い関係があります。同寺を再興した日昌上人は、近松と親しかった尼崎屋吉右衛門の子で、開山当時の有力寄進者の中に近松も名前を連ねています。
近松は、この寺を檀那寺として日昌上人をよく訪れて親交を深めており、母(享保元年=1716=没)が亡くなった時も菩提を弔うため、公家の二位大納言・阿野実藤(詳しくはこちらへ)筆の「法華経二十八品・和歌集二巻」や同じく公家の町尻家から拝領の「後西天皇(詳しくはこちらへ)直筆色紙三葉」などを奉納しているほどで、縁も篤信も深かったのです。
このように考えていきますと、近松が広済寺に埋葬されたことは、まず間違いなさそうです。地元の尼崎市は、この墓の所在を縁として同寺周辺に近松記念館や近松公園をつくり「近松のまち」づくりを進めています。また、近松を現代に甦らせる「近松ナウ事業」も行っています。
しかし研究者の中には、墓の形が普通と違う点、両寺の墓石がそっくりという点から、両方ともかなり後世に作られたものとして、広済寺本墓説を疑問視する人もいます。
”近松つあん”は本当に、死して後もいろいろ問題を持ち出す人ですね。