◆…論 考 編…◆



浄瑠璃作りの秘訣




穂積以貫と「難波土産」

 江戸期随一の劇作家・近松門左衛門は、浄瑠璃作品を書く上で、なにか秘訣みたいなものを持っていたのでしょうか。その謎を解くカギが一冊の本にあります。穂積以貫(ほづみいかん)(詳しくはこちらへ)「難波土産」(なにわみやげ)です。
 近松関係の研究書を開くと、必ずといっていいほど出てくる本でもあります。以貫は、近松より39歳年下の儒学者で、近松に私淑して竹本座に入り、近松の脚本作成に参画したといいます。
 晩年の近松のごく近くにいて、いろいろの話を聞ける立場にあった人です。以貫は、約10年間にわたる近松からの聞き書きをうまく整理して、近松が死んで14年後の元文3年(1738)に「難波土産」の序文部分に当たる「発端」に掲載したのです。

芸論伝える貴重な資料

 内容は、人形浄瑠璃を書く際の文章の心得や作劇法などですが、この中に有名な「虚実皮膜論」なども含まれ、近松の芸論を伝える唯一の貴重な資料となっているのです。
 まずこの本、近松について
 「元禄年間に近松氏出て始て新作の浄るりを作り出し、竹本氏が妙音にうつさせたりければ、聞く人感情を催し、ひそかにその本をもとめて其の作文をみるに文躰拙(つたな)からず〜」
 と書いています。
 そして「往年某近松の許にとむらひける比、近松云けるは〜」として、6つの項目を挙げています。原文すべてを掲載できませんので、ポイントだけ紹介します。

浄瑠璃作り6つの要素

 (1)「文句は情をもととすと心得べし」
 浄瑠璃は、生身の人の芸ー歌舞伎と軒を並べて興行してはいるが、魂のない人形なので、さまざまな感情をもたせて、見物の感銘をとらねばならない。
  だから地の文章・せりふ事はいうに及ばず、道行などの風景をのべる文章も、感情を込めることが肝要である。
 (2)「文句に、てには多ければ、何となく賎しきもの也」
 無理に七五調を守ろうとすると、無用な言葉を使い、文の品位を下げてしまう。浄瑠璃は語りで調整できるので、自分は音数にこだわらない。
 (3)「文句のうつりを専一とす」
 浄瑠璃では、人物の身分によって動作・装いから言葉遣いまで区別して、それぞれ本物らしく書かねばならない。登場人物の心情が、読む人の心情にそのままそっくり反映することが肝要である。
 (4)「芸になりて実事になき事あり」
 浄瑠璃の文章は、実事をありのままに写すとはいえ、芸になって実際と違うことがある。虚が混じることで、返って観客の共感・感動が得られるものである。
 (5)「憂(うれい)はみな義理を専らとす」
 浄瑠璃は、憂い(悲哀・哀愁の情)が肝要だが、やたらに「あはれなり」と書くのは賛成できない。憂いは、義理(この場合は道理、筋道の意)につまって出てくる。悲しむべき破目に至る道理、筋道を大切にしなければならない。

「虚実皮膜論」

 (6)「芸といふものは実と虚との皮膜の間にあるもの也」
 有名な「虚実皮膜論」(普通は「きょじつひまくろん」と読むが、原本には「きょじつひにくろん」と振り仮名があるという)の文句です。
 芸は、実際に似せて演じるが、同時に美化する。ある御所方の女房が、恋人と寸分違わぬ姿をした木像を作り、彩色させたところ、あまりに似すぎて、かえって興ざめ、恋もさめてしまったそうだ。実際すぎても、いけない。
 「虚(うそ)にして虚にあらず、実にして実にあらず、この間に慰(なぐさみ)が有るもの也」
 虚と実との微妙な境目にこそ、芸の面白さがあり、観客は魅了されるものである。浄瑠璃の文章も、その心得を忘れてはならない。

近松の芸術論まとめ

 近松は、以貫に対してこのように劇作の秘訣を語ったようです。確かに近松は、浄瑠璃の文章に、新しい文体や視点を持ち込みました。
 人々は、浮世草子(小説)を読むように近松の浄瑠璃本を読んだといいます。近松の文章力が、読むことに耐えうるものだったことの証明です。
 これで、近松の芸術観を一通り見てきましたが、まとめるとなるとお手上げです。そこで、河竹繁俊著「近松門左衛門」の「近松の芸術観」が、近松の考え方をうまくまとめていますので、少し長くなりますが、引用させていただきます。
 「なによりも『情』である。『情』を心がけなければすべてのものが死んでしまう。その『情』を表わすためには、個々の人物にふさわしい『うつり』をもたねばならぬ。
 そして、七五調の美辞麗句に飾られることなく、生きたことばで書かねばならない。
 このような描写の方法を踏まえて、描かれるものは『憂い』である。しかし、それは劇的な表現によって、自然とかもしだされることが大切である。
 その劇的な葛藤の契機となるものは『義理』にほかならない。そうしてこそ、はじめて社会の真実を描く浄るりが生まれる。
 しかし真実といっても、それは『芸』という衣でおおわれていなければならない。それはあくまでも虚構の真実「まことらしきうそ」でなければならない。
 そこにいたってこそ、浄るりはその享受者に真の『慰め』をあたえうるのだ」
 近松の考え、なんとなく分かりますね。これが今から300年も前のことだと気づけば、近松の偉大さが迫ってきます。




       [参考資料]
            河竹繁俊著「近松門左衛門」(吉川弘文館)
            「鑑賞日本古典文学・近松」(角川書店)
            「講座元禄の文学4・近松と元禄のの演劇」(勉誠社)




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