近松は、浄瑠璃書きと同時に歌舞伎の狂言書きにも手を出し、京都にあった都万太夫座に入って修業します。
当時の歌舞伎は、遊女が中心の女歌舞伎から若衆歌舞伎を経て、男ばかりの野郎歌舞伎へと変わり、内容もただ単なる物真似芸事から、俳優の演技や狂言の筋書きを重視する元禄歌舞伎に体裁を整えようとしていた時期です。
上方(関西)では、
初代・坂田藤十郎(さかた とうじゅうろう=1647?-1709)
が出て、新しい和事(わごと=やつしや傾城事などの色男役)を開拓して評判を高めていました。その藤十郎のいた芝居小屋が都万太夫座で、近松と藤十郎との結び付きができるわけです。
また、藤十郎が浄瑠璃の宇治嘉太夫と親しかったことも、近松を歌舞伎に近づけた一因と思われます。
近松より6歳年長の藤十郎は、京都の座本の子に生まれ、幼時から劇壇の空気になじんで、20歳代に花車方(老女形)の名手・杉九兵衛について写実的な演技を習います。
そうして32歳の時に「夕霧名残の正月」で、名妓・夕霧の相方、藤屋伊左衛門の役を演じたのが、出世芸となって大人気。傾城事と呼ばれる演技に天分を発揮します。
まもなく歌舞伎は元禄期を迎え、人気役者が芸と人気を競い合う「元禄歌舞伎」の最盛期に入ります。
藤十郎は、この激戦を勝ち抜くために役者本位の演技中心であった歌舞伎から、内容のある脚本を重視した歌舞伎を考えるのです。
そこで、目をつけたのが浄瑠璃でめきめき売り出し中の近松。その才能を買って藤十郎は元禄6年(1693)、41歳になった近松に初めて藤十郎主演の「仏母摩耶山開帳」(ぶつもまやさんかいちょう)を書かせ、がっちりと手を結びます。
元禄8年(1695)、藤十郎が都万太夫座の座本になると、近松を専属の座付き作者に迎え入れます。
そうして約10年間、近松は浄瑠璃をちょっと横に置いて歌舞伎だけに打ち込み、藤十郎の傾城買いの演技を生かす作品を次々と書くのです。
この近松の狂言つくりの協力者として、金子吉左衛門の存在が明らかになっています。金子は道化(どうけ)方の役者であり、狂言作家でもあります。狂言つくりの話が出ると、近松はいつも金子と相談して仕組んでいたことが平成4年に発見された「金子吉左衛門日記」で分かってきたのです。金子は近松より10歳は上の先輩格で、俳名が一高。連日のように近松と会って狂言の相談をしていることが記述されているのです。
藤十郎のために書いた歌舞伎作品は、30編近くあります。
ほとんどが元禄上方歌舞伎の典型的なお家騒動物ですが、その中で傑作として評判が高かったのは
「けいせい仏の原」と「けいせい壬生大念仏」
です。藤十郎扮する落ちぶれた若殿が、なじみの遊女や忠臣たちの手助けで、悪臣どもを討つという二つとも趣向に富んだ筋書きで、当時は大評判をとりました。
このほか「傾城阿波の鳴門」や「一心二河白道」「姫蔵大黒柱」などを書いて、次々と大当たり。近松は評判記に
「花に酔へり、其の近松の門の海老」
と書かれるほど、作者としての名声をほしいままにしたのです。
一方、藤十郎もこれらの近松の作品を通じて、「やつし」「濡れ事」「口説(くぜつ)」の和事の名手としての地位を固めて、京劇壇の代表的立役になり、評判記でも「まじりなしのお上手芸なり」と賞賛されるのです。
元禄の上方歌舞伎の特徴をあげますと、近松のような狂言作者が出現したこと、高度な俳優術が要求され、写実的な演技が進歩したことです。
内容的にはお家騒動物が中心ですが、その中に廓(くるわ)場をはめ込んで、藤十郎は
@廓遊びに身を持ち崩し、落ちぶれて紙衣姿になった若殿または大尽、若旦那に扮す=「やつし」
A男女間のやりとりを巧みな話術でする=「口説(くぜつ)」
Bなじみの遊女らとのしっぽりした情事の場面=「濡れ場」
この3つを見せ場にしたいわゆる「和事(わごと)」の演技や、遊女を買って遊興する「傾城買い」を特意芸にしたのです。
当時の評判記にも
「都名物男、当流濡れ事の開山、やつし事の名人、傾城買いは古今似た人もなし」
とか「狂言めかず、実にみせる」と評されました。=左の写真は、当時の評判記に載った藤十郎の絵姿。
「やつし」などは、当時の社会に多分に存在していたことで、いわば現実社会の反映だったのです。
みなさんも、菊池寛の名作「藤十郎の恋」をご存知でしょう。不義の男の演技を知るため、茶屋の女将に偽りの恋を仕掛けるという話です。
これも、藤十郎が本物の芸を求めた現われですが、藤十郎は写実的な芸風によって新しい科白劇を開拓した役者といえるでしょう。
(近松が書いた歌舞伎作品のうち、主だった16編を次ページの「近松の主な歌舞伎狂言」にまとめました。ご覧下さい)
そのような順風満帆の近松が50歳の時、「壬生秋の念仏」の上演を最後に突然、藤十郎との提携を打ち切り、まもなく歌舞伎と訣別して浄瑠璃の世界に逆戻りします。元禄15年(1702)のことです。
どうしてでしょうか。後世の見方は二通りあります。
まず第一は、藤十郎の健康問題です。56歳になってやうやく体力と演技の限界が見え始め、老いが迫ってきます。そのうえ「病気勝ちになった」(河竹繁俊氏)のです。
そうなると歌舞伎では、役者と作者はお互いの信頼関係が大切でしたから「藤十郎が病気で倒れたとき、近松は歌舞伎を離れる覚悟をした」(鳥越文蔵氏)と考えられるのです。
第二は、狂言作者としての地位の問題です。当時の歌舞伎は、作者が書いた粗筋(あらすじ)を役者に口伝えして、役者が勝手に演技をつける形であったので「役者のもとに隷属する第2次的な歌舞伎台本の作者に、甘んじることができなかったのが、その大きな理由の一つであったろう」(郡司正勝氏)と考えられます。
そのうえ「作者の受ける制約が歌舞伎に比べて、浄瑠璃の方が少ないということ」(森修氏)、つまり浄瑠璃の方が自分の才能を十二分に発揮できると見たのでしょう。
藤十郎の老齢と作者としての地位の低さ。歌舞伎に見切りをつけ、浄瑠璃に戻った近松は、そうしてあの有名な世話物「曽根崎心中」を書くのです。時に近松、51歳。
しかし近松の歌舞伎作品は、現在では舞台にかけられることはほとんどなく、忘れられた存在になっています。残っている資料が少なく、復元がむずかしいという点もありますが、実に残念です。
(「近松の主な歌舞伎狂言」に興味のない方は、「曽根崎心中・大当たり」のページへどうぞ)
|
|
|
|
|
|