〜作 品 解 説〜
「国 性 爺 合 戦」
(こくせんやかっせん)
★作品の成立事情
◆上 演=正徳5年(1715)11月15日。大阪竹本座初演。時代物五段。座本竹田出雲。太夫竹本政太夫・竹本頼母。作者近松門左衛門・63歳。
竹本座の竹本筑後掾(義太夫)が前年の正徳4年9月に死亡して、その遺言で24歳の若い弟子・竹本政太夫(後の二世義太夫)が後継者に指名されると、多くの先輩を差し置いての抜擢に反発が出て、内輪もめが起こる。
それに政太夫は、語らせると感情表現や性格描写の節回しが上手だが、なにしろ声が小さく、そのうえ人気も信用もない。竹本座の危機である。長老の近松と座本の出雲は、なんとか事態を収拾して、政太夫を立てた新体制を作らねばならない。
そこで翌5年、政太夫の声の長所を生かし、興行的にもヒットする浄瑠璃として打ち出したのがこの作品。からくり上手の座本の竹田出雲が発案し、その意向を汲んで近松が筆を下ろした。
中心の3段目切には若い竹本政太夫を起用し、要所、要所を竹本頼母らが締める顔見世興行となったが、主人公の父が中国人、母が日本人という話題と、隣国・中国という異国情緒の富んだ舞台展開が、鎖国下にあった日本の観客に人気を呼んで、興行的に大成功し、3年越し17ヶ月の上演記録を打ち立てた。
近松の時代浄瑠璃の代表作であり、初演以来、江戸時代で浄瑠璃で約70回、歌舞伎で約60回の再演を数えるという。また読本としても出版され、「国性爺ブーム」を巻き起こした。
★執筆の原資料
主人公の国姓爺鄭成功(1624-1662)は実在の人物。近松の時代から、130年ほども前の事件として、次のような話が日本に伝わっていた。
清が、明を倒して中国を支配し始めた時、明の忠臣・鄭芝龍を父に、日本人を母とした森(幼名福松)は、清の支配に反旗をひるがえして明朝再興を図る。その功で国姓の「朱」を賜るが、そのまま名乗ることをはばかり、鄭成功と改名して「国姓爺」と呼ばれた。
その後も清と交戦を続け、一時は攻勢に出るが、戦いに敗れて台湾に入り、鄭成功は39歳で病死した。
この話、元禄末ごろに錦文流の浄瑠璃「国仙野(こくせんや)手柄日記」や通俗軍談「明清闘記」に取り上げられていたが、座本の竹田出雲が新体制の出し物としてこの雄大な話に目をつけ、近松が「国仙野手柄日記」や「明清闘記」を参考にして、渾身の力をこめて書き上げたものである。
なお、題名が「国性爺」となっているが、正しくは「国姓爺」である。
★主な登場人物
◆和藤内(わとうない)=中国人を父に、日本人を母に持つ勇者。のち戦功で国姓を賜り「国性爺・鄭成功」と称す。「和藤内」とは「和(日本)」でも「唐(中国)」でも「ない」という近松の洒落。
◆小むつ=和藤内の妻。
◆鄭芝龍(ていしりゅう)=和藤内の父。日本での名は老一官。大明国の忠臣で、明再興に一身を捧げる。
◆栴檀皇女(せんだんこうじょ)=皇帝の妹。
◆甘 輝(かんき)=獅子が城主の将軍。初め韃靼(だったん)王に従うが、のち和藤内に味方して明の復興に尽す。
◆錦祥女(きんしょうじょ)=鄭芝龍の娘で、甘輝将軍の妻。親と夫の板ばさみで自決する。
◆李踏天(りとうてん)=韃靼王に内通し、悪巧みをする右軍将。
★作品の梗概
[1段目](南京城皇帝御座所の場・栴檀皇女御殿の場・海登の港の場)
大明国に韃靼(だったん)から使者がきて、懐妊中の皇妃を韃靼王に献上するよう難題を持ち込む。そして韃靼に内通する明の家臣・李踏天が、韃靼の軍勢を手引きして城を攻撃し、明帝は殺される。
明の忠臣・呉三桂は、皇帝の妹・栴檀皇女に妻の柳歌君(りゅうかくん)をつけて逃し、自分は皇妃と我が子を連れて脱出する。
しかし、懐妊中の皇妃が敵弾に当たったので、呉三桂は皇妃の腹を裂いて皇子を取り上げ、連れていた自分の赤子を身代わりにして、皇子とともに落ち延びる。一方、柳歌君は敵と戦って深手を負い、栴檀皇女のみ小舟で明の土地を離れる。
[2段目](平戸の浦の場・唐土の浜の場・千里が竹の場)
明朝の臣・鄭芝龍は明帝から遠ざけられて、日本の平戸に亡命し、日本人妻との間に和藤内をもうけた。和藤内も、また日本人妻小むつを娶って暮らしていたが、和藤内は浜辺で見た鴫(しぎ)と蛤(はまぐり)の争いから「両雄を相い戦わせ、その虚をつく」という軍法の奥儀を知る。
そこに小舟に乗った栴檀皇女が流れ着き、明の動乱を聞いた和藤内は、明再興のため親の鄭芝龍夫婦とともに中国に渡る。
和藤内ら親子3人は、父が中国に残した実の娘が錦祥女と呼ばれ、韃靼に組する将軍甘輝の妻になっていたので、甘輝を味方に頼もうと獅子が城に向う。その途中、和藤内は千里が竹で猛虎と出会い、格闘のすえ虎を従え、軍兵も配下にする。
[3段目](獅子が城楼門の場・獅子が城内の場)
獅子が城に着いた3人は、運悪く甘輝が不在のため城に入ることを断られ、鄭芝龍と錦祥女は楼門の上と下で親子の確認をするが、入城は許されず、母親1人だけ城に入る。
やがて帰城した甘輝は、和藤内の母から味方を頼まれるが、韃靼王から和藤内の討手を命じられたばかりであり、また「妻の縁で味方したとあっては恥辱だ」と承知しない。
親たちと夫の板ばさみになった錦祥女は、夫の気持を察して自ら命を断ち、甘輝も妻の死を見て援助を誓い、和藤内を「国性爺鄭成功」と名乗らせる。そして母も、娘1人だけをを死なせないと自決する。
この3段目は、最大の見せ場。「紅流し」としても知られる。錦祥女は、城外にいる和藤内らに対し、甘輝が頼みを入れたら、堀の水に白粉(おしろい)を、駄目な場合は紅粉(べにこ)を流すと約束する。そして、錦祥女は自分の腹を切った血を堀に流し、犠牲になって親と夫の間を取り持つという、哀れを誘う愁嘆場になっている。
[4段目](松浦住吉大明神社頭の場・栴檀皇女道行・九仙山の場)
日本にいる和藤内の妻・小むつと栴檀皇女は、住吉の霊験を得て中国に渡る。幼帝を守る忠臣・呉三桂は、九仙山で碁を打つ2人の老翁に出会う。2老翁は碁盤の上に下界の和藤内と韃靼の軍勢の戦いを見せ、その間に瞬時に5年が経つ。この場は、からくりの見せ場。=下の絵は、亨保期の絵番付けに載った「九仙山の場」の数々のスペクタル・シーン
そして呉三桂は、鄭芝龍や小むつ、栴檀皇女と再会し、奇計によって敵の軍勢を打ち破り、和藤内の城に入る
[5段目](龍馬が原の場・南京城外の場)
呉三桂や甘輝らと合流した和藤内は、韃靼の軍勢と正攻法で戦う決意を固めたところに、父の鄭芝龍が1人で敵の南京城に向ったことを知り、急行する。
鄭芝龍は李踏天との一騎打ちを望むが、生け捕りにされたうえ、盾に使われる。しかし呉三桂と甘輝の機転で韃靼王を捕え、和藤内らは李踏天を討ち果たす。
★作品鑑賞の参考メモ
●題名の不思議=中国では、国王の姓を賜った人物を敬って「国姓爺」と呼んだ。「姓」は女偏だが、この作品の題名は「性」。どうしてかというと、最初は「国姓爺」と正しく表記していたが、内容が虚構なので、実在した主人公へ遠慮して、わざと「性」に変えたのだという。
●大当たりした理由=藤野義雄氏は「近松名作辞典」に、次の5点を挙げている。
@中国を舞台に国際的事件を素材に構成したことA華やかな宮殿や戦争場面、義理人情、からくり仕掛けなど構成の巧みさB文学性と演劇性C時代の要求にマッチD通俗的興味に対応。
●5段構成の完成=「外題年鑑」によると、これよりのろま人形による間狂言が廃止されたとある。その理由を森修氏は、「国性爺合戦」が各段ごとに「悲しみ」と「おかしさ」を交互に入れたので、これまで1段ごとに入れられたチャリ的(注・滑稽的)な間狂言が不要になって、浄瑠璃の5段戯曲が大成したと書いている。
そういえば「千里が竹の場」などは、荒事の勇壮さとともに子供向きの冒険談とも思えるおかしみが強く出ている。
間狂言の廃止で、聞かせ場・見せ場が多くなり、一曲の長さも長くなっていく。
●後日狂言は失敗続き=近松は、後日狂言として享保2年(1717)「国性爺後日合戦」、同7年「唐船噺今国性爺」を書いたが、第1作のような人気は出ず、いずれも失敗作となった。
[参考文献]
藤野義雄著「近松名作辞典」(桜楓社)
新編日本古典文学全集「近松門左衛門集B」(小学館)
鑑賞日本古典文学・大久保忠国編「近松」(角川書店)ほか。