近松のいろいろな面を見てきましたが、気がついてみると、近松が書いた浄瑠璃の原文にほとんど触れていません。みなさんも、ご存知ない方が多いと思います。そこで、浄瑠璃のサワリともいうべき「道行(みちゆき)」の原文について鑑賞することにします。
◎時代物「世継曽我」の道行文
まず最初に、時代浄瑠璃の道行文を一つだけ見てみましょう。確実な近松の最初の作品「世継曽我」の「道行」のほんの一部です。
「さりとても 恋はくせもの みな人の まよひの渕や気の毒の 山よりおちる ながれの身
うきねの琴や 調べかや 引手あまたに繁げれど 思い出すはかの一人〜」
この道行は、男女ではありません。遊女の虎と少将の2人が十郎・五郎の形見を持って、兄弟の母の許に旅するところです。
「さりとても 恋はくせもの」(恋はくせものというが、そうだとしても)という書き出しは、気がきいて面白い。「くせもの」とは、恋ほど手に負えないものはないという意でしょう。近松の才気が感じられ、面目躍如というところです。
上演当時、「さりとても 恋はくせもの みな人の〜」という言葉が、人々にはしゃれて聞こえたのでしょう。「口まねせぬ者なし」というくらい、流行語になったそうです。
このような文章を語る浄瑠璃太夫に合わせて、三味線が伴奏し、操り人形が演技をしたのが、人形浄瑠璃なのです。
では、ここで人形浄瑠璃や歌舞伎でいう「道行」とは、どういうことを指すのか、考えて見ます。
古く万葉集をひも解いても用例があります。文字通りの「道を行く」意味で使われていますが、時代が下がるにつれ、その意味合いがかなり変っていきます。
仏教の練り供養や神の巡幸を「道行」という時代もあり、中世の能になりますと、一つの地点(出発点)から他の地点(目的地)への移動、つまり旅を表現する場合が多くなります。
そうして江戸中期、歌舞伎が盛んになりますと、旅の場面である「道行」は次第に鳴り物と舞踊が入った音楽的な所作事となっていくのです。一日の狂言の中に必ずこのにぎにぎしい「道行」を嵌め込んで、観衆を喜ばしたのです。
人形浄瑠璃も同じ歩みをとりました。時代浄瑠璃で五段構成の形が整うと、三段目(悲劇的局面)に続く四段目に華やかな舞踊的所作の「道行」を入れて、最大の見せ場としました。
言葉を変えて言えば、歌舞伎、浄瑠璃の観衆にとって、ショー的な音楽・舞踊を楽しみ、気分転換を図る楽しい舞台ーそれが「道行」だったのです。
◎はかない「死の道行」に
元禄演劇の研究者・松崎仁氏は「浄瑠璃の道行」という一文で
「語り物の道行の本質は、地名や風物に託した流離の哀傷の抒情にあったが、節事としての音曲性が重視され、さらに華やかなスペクタクル的発達を遂げると、流離の哀傷はともすれば従になってしまった」
と、指摘しています。
「流離の哀傷の抒情」という面からいえば、人形浄瑠璃にとって「道行」は、もう一つ大きなねらいがありました。それは、場面にふさわしいうっとりとするような美しい浄瑠璃の曲節を聞かせ、観衆に共感させることでした。
そのために、道行文は調子のいい七五調で書き綴られ、当時の文章技巧、例えば縁語(えんご)・掛詞(かけことば)・頭韻(とういん)・ものづくしなどで、文飾に工夫を凝らしました。現代人からみれば、凝った文飾がわずらわしいほどです。
近松も、道行文の文章を練りに練り上げ、名文といっていいものを沢山残していますが、わずらわしさは当然つきまといます。そのつもりで、おつきあいを。
舞踊による旅の場面が続いた「道行」の意味を、がらりと変えた作品が現われました。それが近松の世話物「曽根崎心中」です。お初・徳兵衛の道行から、相愛の男女が死に場所を求めてさまよう、はかない「死の道行」となったのです。
「曽根崎心中」の道行文は、江戸時代の有名な儒者・荻生徂徠(おぎゅうそらい)が「名文」と絶賛したことで有名です。改めて見ていきましょう。少しくどくなりますが、丁寧に文脈を辿ってみます。
「この世のなごり 夜もなごり 死にに行く身をたとふれば、
あだしが原の道の霜 一足づつに消えて行く 夢の夢こそあはれなれ
あれ数ふれば暁の 七つの時が六つ鳴りて 残る一つが今生(こんじょう)の
鐘の響きの聞き納め 寂滅為楽(じゃくめつ いらく)と響くなり」
七五調の実にリズミカルな文章です。ぞっとするような、すごい劇的表現で、情緒的な感覚がみなぎっています。目で読むよりも、声を出して読んだ方がその旋律のよさが、よく分かります。
冒頭から「この世のなごり、夜もなごり」(この世とお別れだ。夜も今夜限りになった)と、さっと切り出す切迫感。死出の旅立ちがぐっと浮び上がるようです。
あだしが原(墓地)に通じる道の霜に例えて「一足づつに消えて行く」はかない命。一歩、一歩死が近づく。近松は「夢の夢こそ あはれなれ」(夢の中でまた夢を見ているような心地で、哀れである)と言い切りますが、ちょっと思いつかない出だしです。
「あれ数ふれば」と続く「あれ」という転換の文句がいい。夢から醒めてはっと我に返り、現実に戻る。そうすると
「暁の七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の鐘の響きの聞き納め」
暁の七つの時とは寅の刻、今の午前三時ごろ。当時は鐘で時刻を知らせました。その鐘が六つ鳴って、あと一つ。その時は二人が死ぬ時です。
しかも、その鐘は「寂滅為楽」(死ぬことによって、安楽が得られますよ)」と響いている。近松の筆先は、二人の魂の救済を約束するかのようです。では、次の文章に進みます。
◎叙景と抒情がぴったり
「鐘ばかりかは 草も木も 空もなごりと見上ぐれば 雲心なき水の音
北斗は冴えて影映る 星の妹背(いもせ)の天の川
梅田の橋を鵲(かささぎ)の橋と契りて いつまでも 我とそなたは婦夫星(めおとぼし)
かならず添うと縋(すが)り寄り 二人がなかに降る涙 川の水嵩(みかさ)も増(まさ)るべし」
鐘ばかりか 草も木も、空も最後の見納めかと思って見上げると、「雲心なき水の音 北斗は冴えて影映る」(雲は無心に浮かび、水の音は静か。北斗星も冴えて、光を水に映している)。
実に映像的な描写です。この辺りは技巧的でもありますが、冷え冷えとした鋭利な感触に読者の心を誘い込むような味わいがあります。
北斗星の連想から牽牛と織女の星を引き出し、梅田橋をカササギ(2つの星を逢わせる鳥)の橋に仕立てて契り合い、「いつまでも我とそなたは婦夫星」と歌い上げる。
そして必ず添い遂げるとすがりつき、涙を流すという哀切の場面です。劇的な場面の現出に、詞章の果たす役割がよく出ています。
ともかく、この道行文を読んで思うのは、過剰な文飾や回りまわった表現が少ないことです。そのせいで、すっきりしています。
一足づつに消えて行く霜にせよ、鐘の音の数にせよ、冴える北斗星にせよ、それは目や耳で確かめられた現実的な表現で、それも必要以上の形容詞を使わず、実に率直に表現しています。
確かに「霜」「鐘」「星」という言葉は、「はかなさ」「あわれさ」「さみしさ」など哀切を代弁する、常套的な言葉であるかも知れませんが、近松はこれらをうまく使って、叙景と抒情をぴったり一体化させ、文章効果を上げているのです。
この「曽根崎心中」の道行文は、以後、名文の代表格として後世まで残ったのですが、筆者も日本人の心にしみじみと訴える最高の名文と思っている一人です。
「曽根崎心中」から4年後の正徳元年(1711)、近松は「冥途の飛脚(めいどのひきゃく)」を書き、上演します。
飛脚問屋の養子忠兵衛が遊女梅川となじみ、身請け金をめぐって、のっぴきならぬ状況に追い込まれて、ついに公金の封印切り。親里の新口村(にのくちむら)まで逃げるが、捕まるという話。
その梅川・忠兵衛「相合(あいあい)駕籠」の道行は、心中に向かう「死の道行」ではありませんが、封印切りという大罪を犯し、2人は生きられるだけ生きて、それまでは連れ添おうという、刹那主義的な逃避行です。「曽根崎心中」の道行文とは全く違った、色っぽい表現で始まります。
「翠帳紅閨(すいちょう こうけい)に 枕並べし閨(ねや)の内
馴れし衾(ふすま)の夜すがらも 四つ門の跡夢もなし さるにても我が夫(つま)の
秋より先に必ずと あだし情の世を頼み 人を頼みの綱切れて
夜半の中戸も引き替へて 人目の関にせかれ行く」
「翠帳紅閨」というのは、緑のとばりをかけた紅色の寝室のことで、遊女の寝室をいいいます。漢語が並ぶ冒頭は、突飛ななようで硬い感じもしますが、言葉の響きは快い。そして「枕並べし閨の内、馴れし衾の夜すがらも〜」と続くと、その情景が頭の中を駆けめぐります。
この出だしの文句そのものは、謡曲「班女(はんじょ)」からの引用だそうですが、近松は少し変えています。謡曲に十分に親しんだ近松の古典的修辞の一つといえましょう。
文章を読んで行きますと、意外に表現は平易で、分かりやすく、梅川と忠兵衛2人のいじらしい情感が沸き上がってくるのです。
このくだりは、梅川のセリフです。「私の寝床で、貴方と枕を並べて夜もすがら馴染んだことが、夢のように果ててしまった。我が夫(忠兵衛)が秋までに必ず請け出すと約束してくれたことを頼みにしていたが、その頼みの綱が切れて、人目をはばかって落ち延びて行く身となった」という大意です。
「昨日のままの鬢(びん)つきや 髪の髷目(わげめ)のほつれたを
わげて進じよと櫛を取り 手さへ涙に凍(こご)ゑつき 冷えたる足を太股(ふともも)に
相合炬燵(あいあいごたつ) 相輿(あいごし)の 駕籠の息杖(いきづえ)生きてまだ
続く命が不思議ぞと 二人が涙 河堀(こぼれ)口」
「髪のほつれを直してあげようと櫛をとっても、手さえ涙で凍りつく。相乗りする駕籠の中で、冷えた足をお互い組み合わせてコタツ代わりにしていると、駕籠かきの息継ぎが伝わり、まだ生きているのだと思うと、また涙がこぼれ出る」。
これまで見た文章でも、現代の言語感覚からすると、分かりにくい文章がかなりあります。例えば
「さるにても我が夫の」(それにしても、わが夫が)
「夜半の中戸も引き替えて」(よく逢引した夜半の中戸とは違い)
「人目の関にせかれ行く」(二人を逢わせないように人目が邪魔をして。または急ぎに急いでの二つの意味)
「冷えたる足を太股に 相合炬燵」(冷えた足を互いに太股で暖めあって)
などは、注釈を必要とします。
しかし、梅川が忠兵衛の髪のほつれを直そうと櫛をとるシグサなど、相乗り駕籠の中での2人の思いやりが、手にとるように分かりますし、いじらしい心情を十分に汲み取ることができる文章です。
内容的には情愛描写が濃厚ですが、その割に文章はさらりとしています。
近松研究者の藤野義雄氏は
「近松作中でも屈指の名文で、その流暢至妙な詞章が語られるにつれて、形作られる美しい幾つかのポーズとその変化は、操人形浄瑠璃における美の極致を示すといってよい」(「冥途の飛脚・解釈と鑑賞」)
と評価しています。
いま一つウーンとうならせる文章のひらめきを感じさせないのが不満ですが、極彩色を思わせる場面の描写は優れており、名文の一つといっていいでしょう。
さらに下がって9年後の享保5年(1720)、近松の最高傑作といわれます「心中天の網島」が出ます。
妻子のある分別盛りの紙屋治兵衛が、遊女小春と馴染んで心中の約束をするが、夫の身を心配した妻おさんは小春の手紙を送って縁切りを頼む。
小春は承知するが、おさんは小春が一人で死ぬ覚悟と知って、女の義理から今度は治兵衛に身請けさせ助けようとする。しかし結局は治兵衛と小春は心中を決意し、死に場所を求めて網島の大長寺まで道行する。
この道行文が、有名な「名残の橋尽し(なごりのはしづくし)」です。小春・治兵衛が舞台に登場しますとー。
「頃は十月 十五夜の 月にも見へぬ 身の上は 心の闇のしるしかや
今置く霜は明日消ゆる はかなく譬(たとえ)のそれよりも 先に消え行く 閨(ねや)の内
いとしかはひと締めて寝し 移り香も なんとながれの蜆(しじみ)川」
「十五夜の月の光によっても、自分たちの身の上を見通すことができないのは、心の闇のせいだろうか。2人の命は、はかない霜よりも先に消えていく。閨の中でいとし、かわいいと抱きしめて寝た移り香も、今はなんとなろう」。
明るく輝く「十五夜の月」と、自分たちの身の上の「心の闇」とのドラマ的な対比と、「閨の内 いとしかはひと締めて寝し 移り香も〜」という濃厚な情愛場面が複雑に交錯して、悲しみを誘います。
「西に見て朝夕渡る この橋の天神橋はその昔 菅丞相(かんしょうじょう)と申せし時
筑紫(つくし)へ流され給ひしに 君を慕ひて大宰府へ たった一飛び梅田橋 あと追ひ松の緑橋
別れを嘆き 悲しみて 後にこがるる桜橋 今に話を聞渡る 一首の歌の御威徳(おんいとく)
かかる尊きあら神の 氏子と生れし身をもちて そなたを殺し 我も死ぬ〜」
そして菅原道真の飛び梅伝説から、治兵衛が朝夕渡った天神橋を引き出し、次いで梅田橋、緑橋、桜橋と「橋尽し」が続きます。内容的には、はかない二人の命の嘆きですが、あまり気取りのない、どちらかといえば、あっさりした文章になっています。
◎近松の道行文学の頂点
このあとに、「橋尽し」に事寄せた治兵衛の本音ともいうべき、ちょっと注目したい個所が出てきます。
「北へあゆめば 我が宿を一目に見るも見返らず
子供の行方 女房の あはれも胸に押し包み 南へ渡る橋柱〜」
(北へ行けば、我が家が一目見られるのに、まったく振り返ることもせず、子どもの行く末、女房の哀れさも胸に押し包んで、ただひたすら南に渡る〜)
「越ゆれば到る彼の岸の 玉の台(うてな)に乗りをへて
仏の姿に身の成橋(なりはし) 衆生済度(しゅじょうさいど)がままならば
流れの人の此の後は 絶えて心中せぬやうに 守り度いぞと
及び無き 願いも世上のよまい言」
(彼岸の浄土で蓮の台に乗り、仏の姿になって、衆生済度=生き物を苦しみから救い、悟りをえさせること=が思うようにできるならば、この後は流れの人=遊女=が決して心中しないように守りたいものだ。及びもつかぬ願いをするのは、俗世のぐちだろうか)。
心の底から吐き出すような真実味があり、思わず唸ってしまいます。そして2人は、南無阿弥陀を唱えながら最後に網島の大長寺に着き、ここで治兵衛は小春を刺し殺し、自分は水門の框(かまち)で首を吊って死にます。
「橋尽し」の橋は、此岸(しがん=この世)から彼岸(ひがん=浄土)へ渡る橋を意味しています。近松はこの「橋尽し」でもって、2人を未来浄土に渡らせたかったのでしょう。
この「名残の橋尽し」は、死に向かう男女の心理が、情景描写に託されて切々と訴えられ、近松の道行文学の頂点を示していると評価されています。
道行は、死せる魂を呼び寄せる鎮魂の行法であったとの説があり、物の精霊を呼ぶ呪術的な「物尽し」と結びつけて、近松は道行文学の形を完成したといえるでしょう。
[参考資料]
「近松全集」(岩波書店)
日本古典文学全集「近松門左衛門集」1・2(小学館)
岩波文庫「曽根崎心中・冥途の飛脚他五編」
鑑賞日本古典文学「近松」(角川書店)
藤野義雄「冥途の飛脚・解釈と鑑賞」(桜楓社)
廣末保「増補・近松序説」(未来社)
「古典を読む・心中天の網島」(岩波書店)
信多純一「近松の世界」(平凡社)
河竹繁俊「人物叢書・近松門左衛門」(吉川弘文館)
鳥越文蔵「虚実の慰め・近松門左衛門」(新典社)
森 修「近松門左衛門」(三一書房)など。
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