「近松つぁん」



「近松門左衛門」名乗り




確実な最初の作品

 近松は、天和3年(1683)、31歳の時に最初の確実な時代浄瑠璃「世継曽我」(よつぎそが)を宇治嘉太夫のために書き、上演します。
 曽我兄弟が仇討ちを果たした後、2人の愛人だった遊女の虎と少将、郎党の鬼王と団三郎らが、兄弟を侮辱した悪人どもを懲らしめて討つという斬新な当世風の筋書きが成功して、好評を博します。
 「さりとても、恋はくせもの。みな人の、迷ひの渕や気の毒の、山より落つる流れの身。浮寝の琴の、しらべかや〜」
 「廓住まいは、しぐれの雨よ、降つつ濡らしつ、むらむらさめの、まだひぬ、露もまだひぬやよや〜」
 などの文句が人々の気に入られ、子どもたちまでが口真似したというほどの流行になったそうです。

新(当流)浄瑠璃の始まり

 この好評で、近松は習作時代に終止符を打ち、いよいよ一人立ち。そこへ2歳年長の竹本義太夫(たけもと ぎだゆう=1651-1714)が、大きく登場してきます。
 貞享元年(1684)、義太夫は大阪・道頓堀に興行師の竹屋庄兵衛と組んで「竹本座」を旗揚げ。嘉太夫の語り物であった「世継曽我」を上演して、大評判をとります。大声ではっきりした口調の硬派の語り口、義太夫節のスタートです。
 これに対して翌貞享2年(1685)正月、京の宇治加賀掾が一座を引き連れて大阪・道頓堀に乗り込み、評判の人気作家・井原西鶴の作品を掲げて興行。義太夫に挑む事態が起こりました(加賀掾と義太夫は、浅からぬ因縁がありますが、その理由はのちほど)。
 この対決、結局は加賀掾の小屋が火災に見舞われ、チョンとなるのですが、迎え撃つ義太夫が近松に依頼して書いてもらった新作が「出世景清」(かげきよ)でした。
 この作品は、平家の侍大将・悪七兵衛景清の骨太な心情と彼を愛する遊女・阿古屋の嫉妬による裏切りという悲劇的な葛藤を描き、”新しい悲劇”の誕生を告げた画期的な作品です。(詳しくは「作品解説」を)
 近松は、たちまちのうちに世間にその才能を認められ、上昇気流に乗るのです。
 後世の書は、この「出世景清」を「新浄瑠璃の初め」と書き、これ以前を「古浄瑠璃」、以後を「新(または当流)浄瑠璃」と区別して呼ぶようになります。

古浄瑠璃のこと

 ここで、「古浄瑠璃」の歩みを振り返ってみましょう。人形浄瑠璃が始まった慶長の頃から、「出世景清」が登場してくるまでに、約60年の間があります。
 この間、同じ語り物の説経節にも人形操りが結合して説経操りができ、人形浄瑠璃は合戦話や霊験話を中心に大いに流行しました。江戸では荒荒しい語り口の金平(きんぴら)浄瑠璃(坂田金時の子・金平ら頼光四天王の子が活躍)が人気を得たりします。
 一方、大阪では伊藤出羽掾や中興の祖といわれる井上播磨掾が活躍します。京都では、この「古浄瑠璃時代」の最後を飾る時期に、近松と縁の深い宇治嘉太夫やライバルの山本角太夫ら優れた浄瑠璃語りが出て、濡れ場や節事をいれて、曲風に新境地を開いていたのです。

竹本義太夫(のち筑後掾)のこと

 改めて、竹本義太夫の経歴を見てみましょう。本名・五郎兵衛。大阪・天王寺の農家の生まれ。芸事が大好きで、浄瑠璃を習ったのが病みつきになり、農業を捨ててついに本職の太夫になります。
義太夫  京都に上って宇治嘉太夫の一座に入り、嘉太夫の柔と義太夫の剛の組み合わせで人気を集めます。しかし、嘉太夫と不仲になった興行師・竹屋庄兵衛に声をかけられて、一座を飛び出します(2人の因縁とはこのことです)。
 そうして、最初は「清水理太夫」と名乗り、地方を転々として実力を養ったあと、大阪に戻って竹本座を旗揚げ。「竹本義太夫」と改名したのです。左の図像は、竹本筑後掾肖像(東京大学教養学部図書館蔵)。
 義太夫は、豪快な語り口が特徴です。「まな板に釘かすがいを打つように、はっきりした口調で、しかも大声」で、作品に込められた情を語ったといいます。のち「竹本筑後掾藤原博教」を受領。門弟に竹本頼母、竹本政太夫、竹本采女らがいます。
 この義太夫の出現以後、数ある浄瑠璃の中で義太夫節は主流となり、現代でも「浄瑠璃」といえば「義太夫」といわれるほどです。浄瑠璃史上の偉大なる人物と一人です。

禁を破って作者名

 近松から記述が少し離れましたが、近松に戻ります。これまで「近松」「近松」と書いてきましたが、実際にはまだこの名前は、世に出ていません。
 「出世景清」を上演して浄瑠璃作者として世間に認められた翌年、近松34歳の時、初めてペンネーム「近松門左衛門」を名乗り、世間に知られるのです。
 貞享3年(1686)、近松は竹本座で「佐々木大鑑」(内題・佐々木先陣)を上演します。その浄瑠璃正本第1ページに、はっきりと「作者近松門左衛門」と署名して、ここに作者としての存在感を強烈に示したのです。
 当時、浄瑠璃作者は太夫の影の存在で、作者名を堂々と名乗ることを禁じられていました。
 その裏付けが、翌貞享4年に出た役者評判記「野良立役舞台大鏡」(やろうたちやくぶたいおおかがみ)にあります。この中で評判記の筆者は
 「おかしたいもの(やめさせたいもの)、南京のあやつり、近松の作者付け」
 と厳しく批判しています。
 さらに「古ならば、何とてあさあさしく作者近松などと書き給うべきや」と書き続けて、近松の心情を
 「時、ぎょう(業)に及びたるゆえ、芝居事で朽ち果つべき覚悟の上也」
 と代弁しています。
 つまり、近松は「自分の仕事となったからには、死ぬまで芝居に打ち込む覚悟」と表明しているというのです。
 確かに、近松は浄瑠璃作者として一生を過ごすには、迷いがあったかも知れません。作者名を公表することで、その迷いを断ち切ったとも考えられます。
 しかし、それよりも作者の署名には、絶大な権力を持った太夫の協力がなければできません。作者・近松と太夫・義太夫の関係がほぼ対等になった状況もあったと考えられます。作者の地位が向上したのです。

ペンネームの由来

 本名の「杉森信盛」から考えても、「近松門左衛門」というペンネームの出所は想像できません。その一つの考え方として、江戸時代には「近松寺」の存在をキーワードに有力な2つの説が出ました。
 いずれも、若いころ「近松寺」という寺で修業したため、これを縁に名乗ったという説です。確かに「近松寺」が、2ヶ所にあります。
 滋賀県大津市の三井寺近くにある「近松寺」(ごんしょうじ)と佐賀県唐津市にある「近松寺」(きんしょうじ)の二つです。両寺とも「近松が修行した、学んだ」との伝承があるそうですが、その確証となる資料はありません。
 このほか、最近になって「祖父・父の通称名採用説」や「門前の小僧なりという、おどけ命名説」も出ていますが、これだという決め手はありません。

 (詳しくは、次ページの「資料2・ペンネーム由来諸説」をご覧下さい。興味のない方は「歌舞伎で藤十郎と組む」のページへどうぞ)




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