「近松つあん」



生い立ちとその謎




出生地は越前・福井

 近松門左衛門は、どこの生まれで、本名は何というのでしょう。現在、刊行されている近松に関する本は、ごく一部を除いて出生地を「越前・福井」としています。
 「朝日・日本歴史人物事典」(朝日新聞社刊)を例にとりますと

 「本名杉森信盛(のぶもり)。幼名次郎吉。越前福井に生まれ、越前藩主松平忠昌、その子吉品(よしのり)に仕えた信義とその妻・忠昌侍医岡本為竹法眼受慶の娘喜里の間の第2子」

 と書いています。

長らく謎だった出生地

 実をいえば、この出生地が長年の難物だったのです。近松が浄瑠璃作者として名を成してからも、出生地が「越前・福井」に落ち着くまで250年もかかっているのです。
 なぜかと言えば、近松が生涯にわたり自分の出自や経歴を全く書き残していないのです。
 このため、江戸時代は諸説ふんぷん。多い時には全国11ヶ所に近松出生伝説が生まれ、お互いが近松を取り合いっこしたというわけです。
 江戸時代をリードした文人たちの筆もさまざまで、例えば滝沢馬琴が「越前の産とも、三州(三河)の産ともいえり」と書けば、蜀山人や斎藤月岑(げっしん)は「長門・萩の人なり」と書きました。
 具体的な地名でいえば、越前説をはじめ長門・萩(山口県)説、出雲(島根県)説、越後(新潟県)説、近江(滋賀県)説、京都説などがあり、近松の出生地は読んだ本によって異なるという有様でした。
 その中でも有力だったのが、近江説、越前説、京都説でしたが、決め手はありませんでした。
 (詳しくは次ぺージの「資料1・出生地の諸説一覧」をご覧下さい)

50年前にやっと確定

大正時代になって郷土史家の田辺密蔵さんが、淀藩士杉森家の系譜をもとに、大正14年「近松門左衛門の所出に就て」を発表、近松が杉森家の出であり、信義の次男であることを紹介しました。
 さらに昭和4年、木谷蓬吟さん(詳しくはこちらへ)が別にあった杉森系譜で同じ家系を明らかにしましたが、さほど注目されなかったようです。
 その出生地に決定的と見られる結論を出したのが、昭和30年代になって行った森修元大阪市立大学教授らの調査研究でした。

系図の一部

 石川県加賀市山代温泉に居住の杉森家に「杉森系譜」3種類と同家代々の「杉森親類書」が伝わっており、これを詳しく調べたのです。=上の系譜はその一部。
 特に、当時の戸籍であった「杉森親類書」に注目した結果、これらは杉森信盛=近松門左衛門の出生を「越前・福井」とする間違いない資料と判断しました。
 そして、昭和33年10月に論文「近松門左衛門と杉森系譜について」を発表。近松の家系・出自について多くのことを明らかにしたのです。

父親の事柄も明らかに

 近松の父親・信義(またの名を市左衛門)は、幼い頃から越前藩主松平忠昌の児小姓として仕え、忠昌の死後は、幼い忠昌の三男・昌親(のちに吉品)の養育係の一人に任命され、三百石を禄しました。
 昌親は、越前吉江藩(現・鯖江市)2万5千石を与えられていましたが、幼いために家臣とともに福井に住み、明暦元年(1655年)16歳の時、家臣を引き連れて吉江藩に移り住みます。
 近松は、父が福井に住んでいた承応2年(1653年)、5人兄弟の次男として生まれ、幼名を次郎吉といいました。元服して「信盛」と名乗ったのです。
 明暦元年の移封で、近松は家族とともに吉江に移り、3歳から10年ほど暮らしますが、この時代の父は不遇の時期だったようです。
 こうしたことが森論文で明らかにされて以来、研究書の大半が近松は「越前・福井生まれ」と書くようになり、学会の定説となりました。
 しかし、一件落着といかぬのが研究者の世界で、いまなお「長門(山口)出生説」を唱えて本を出し続けている人もあります。
(長門出生説関係のホームページを「近松関連のリンク集」に紹介しています)
 こうした一連の出生地探究の経過を見てきますと、重要な1級資料が残され、その存在も明らかにされているのに、確定までこんなに時間がかかるとは信じられません。謎といえば大きな謎です。




 (次ぺージの「資料1・出生地の諸説一覧」に興味のない方は、「武士を捨て浄瑠璃に」ページへどうぞ)

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