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*第1章 「文楽軒の芝居」台頭寛政期になって、大坂の操り浄瑠璃はやっと息を吹き返し、太閤記物が流行する。そのような状況の中で、淡路から素人浄瑠璃大夫「植村文楽軒」が大坂に進出、神社の境内に小屋掛けする宮地芝居で、次第に人気を集めていく。 |
*第2章 天保の改革と興行界天保の時代は大飢饉で幕を開け、打ち壊しもあって世情騒然。「天保の改革」が始まると、歌舞伎・浄瑠璃など芸能に対する統制が厳しくなり、江戸では芝居町の移転、大坂では「宮地芝居」の禁止などで、操り浄瑠璃の大夫らは窮地に追い込まれていく。 |
*第3章 装い新た「松島文楽座」時代は明治の世に。大阪府が設置されると同時に、大阪の新開地・松島開発に強圧的な宮地芝居誘致が計画され、明治5年「文楽軒の芝居」はリスク承知で松島に移転。初めて「文楽座」の看板を掲げ、上々のスタートを切る。 |
*第4章 文楽座、経営安定せずしかし、松島の地の利の悪さが響いて客足が減り、文楽座の財政が悪化。紋下の5代竹本春太夫らの退座騒ぎも起こるが、2代竹本越路太夫・2代豊澤団平・初代吉田玉造の3人紋下制で乗り切り、通算33年に及ぶ2代越路時代が始まる。 |
*第5章 競争相手に「彦六座」文楽座に対抗して明治17年、博労町稲荷に「彦六座」が開座、2代団平を引き抜いて大評判をとる。危機を募らせた文楽座は、松島から同じ市内の御霊神社境内に移転して「御霊文楽座」を開く。2座対抗時代の幕開けである。 |
*第6章 苦闘する「彦六座」系好調を続ける「彦六座」に、放火や紋下の死亡など不幸が続いて、ついに明治26年に解散。その座員たちは、「稲荷座」「明楽座」「堀江座」と名前や拠点を変えて、必死で生き残りを図る。そして近代的な劇場「近松座」の誕生まで漕ぎつける。 |
*第7章 文楽座、破綻への道「御霊文楽座」では、紋下の2代竹本越路太夫が「攝津大掾」を受領、この人気でわが世を謳歌するが、長年の体質的欠陥を露呈して次第に財政破綻に。明治42年ついに「松竹合名会社」に経営のすべてを身売りし、松竹の傘下で再出発を図る。 |
*第8章 東京勢、再興へ模索明治初めの東京には、人形浄瑠璃の常打ち小屋が一軒もなく、東京在住の大夫ら3業の関係者は常打ち小屋再興を考えた。そこに大阪の文楽座一座が東京興行に来るが失敗。そこで新たな拠点「新声館」を見つけて興行を再開、再起を期すがー。 |