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*第1章 不況・低迷の大正時代大正に入ると、だんだん世の中、不景気に。大阪では彦六座系の近松座も不況の嵐にもまれ、内部が襲名問題でがたついたすえ休演・閉座に。一方、御霊文楽座は攝津大掾が引退し、3代越路太夫が紋下になるが、不景気風のうえ失火で御霊文楽座が焼失、再建できずに幕を下ろす。 |
*第2章 戦時色彩る昭和初期新しく四ツ橋に文楽座が開座して「四ツ橋文楽座」時代となり、上演を見どころ、聴きどころばかり集めた「見取り」方式に変える。次第に外題に戦時色が強まり、時局物を増やしたりして上演を続けるが、空襲で文楽座炎上。そして終戦。 |
*第3章 分裂で幕開いた戦後四ツ橋文楽座が復興されるが、終戦後の生活苦で、3業の座員は労組を作って松竹と交渉。松竹寄りの「因会」もできて、座員は2つに分裂する。こののち組合側は劇団制の「三和会」に組織を改めて独自の興行を続け、「因会」との対立時代に入る。 |
*第4章 対立から両派一本化へ人形浄瑠璃が重要無形文化財に指定され、「道頓堀文楽座」が開座したりして、「因会」「三和会」両派に対立から和解の気運が出始め、両派が一つ舞台に立つ合同公演が実現、一本化へ加速する。その一方で「因会」の山城少掾が引退、後継問題がもめる。 |
*第5章 よみがえる伝統の文楽松竹が赤字でついに「道頓堀文楽座」の興行権を放棄。その受け皿として「財団法人文楽協会」が設立され、文楽は一本化して引き継がれる。昭和41年(1966)には、東京に「国立劇場」ができて、文楽も国の手で保存・伝承されることになり、「静かな文楽ブーム」が起こる。 |
*第6章 大阪にも「文楽劇場」「大阪にも国立劇場を」の声が強まり、昭和59年(1984)大阪に「国立文楽劇場」がオープン。次第に観客数が増えて2倍以上になり、「大阪では文楽は不入り」のジンクスは破れる。この昭和文楽の最後を4代竹本越路大夫が華やかに飾った。 |