資 料 編・2



ペンネーム由来諸説



 近松が、34歳の時に初めて使った「近松門左衛門」というペンネームですが、この由来には、江戸時代から諸説があります。諏訪春雄著「近松世話浄瑠璃の研究」の中の「近松命名の由来」で紹介されている諸説をもとに、補足しながらその内容をまとめてみます。  

近江(滋賀県)の近松寺修行説

「橘庵漫筆」(きつあん まんぴつ)田宮仲宣著
 京都に移り住んだ近松は、公家の一条恵観らに奉公したあと、自分の行く末に悩んで近江国高観音近松寺(たかかんのん・ごんしょうじ)に入り修行したことから、この名を名乗ったという説。
 ◆明和ごろ(1764〜71)に成立の「音曲道智編」(著者不明)
 「始めは堂上方に仕官して、其後近江のちか松寺に遊ぶゆへ、此苗字を呼びけり」
 ◆寛政ごろ(1789〜1800)に成立の「浄瑠璃譜」(著者不明)
 「出生は近江国。高観音近松寺御坊の尊にて〜」
と書かれ、近江出生説の根拠にもなっています。
 この近松寺は「ごんしょうじ」と読むのが正しいようです。現在地は大津市逢坂。三井寺の五別所の一つであったが、音曲の祖神・逢坂山の蝉丸を祭った蝉丸宮を支配下におさめてから、音曲芸能への関係が深まり、免許状の発行を一手に引き受けていたといいます。いわば、近松寺は芸能の本家本元であったのです。
 近江は、近松の祖先の地で、大いにゆかりがある。もし彼が芸能入りに悩んでいたとしたら、祖先の地の芸能の寺で修行したいと考えても不思議ではなく、また自分の芸名に選んでもおかしくはないでしょう。
 しかし、近江の近松寺で修行したという確たる資料はありません。
 

肥前国(佐賀県)唐津の近松寺修行説

 こちらは「きんしょうじ」と読む。江戸時代から近江・近松寺説と競い合った説で、有名な文人たちが多数支持しましたので、どちらかというとこの説の方が有力でした。
 しかし、近松の出生地が「越前」と確認されてからは、否定的になっています。
  ◆二世並木正三の「戯財録」(けざいろく) 享和元年(1801)刊
 「肥前唐津近松禅寺小僧古澗、積学に寄て住僧と成り義門と改。僧侶を数多門人となせしが、所詮一寺の住寺と成てハ衆生化度の利益薄し、と大悟を開き雲水に出でしが〜」
  ◆滝沢馬琴の「羈旅漫録」 享和2年(1802)刊
 「今の並木正三が戯財録に云、肥前近松寺の僧の話に云、近松門左衛門ハ、元肥前唐津近松禅寺の小僧なり」
  ◆石上宣統の「卯花園漫録」 文化6年(1809)刊
「少(わかう)して肥前唐津近松寺に遊学し、後還俗〜」
 また喜多村信節の「嬉遊笑覧」(天保元年=1830)なども「幼いころ、肥前唐津の近松寺に学んだ」と触れています。さらに近松の長州出生説の資料では「10歳のころ、唐津の近松寺に引き取られて修行中、実家が崩壊し、還俗」としています。
 明治の文豪・森鴎外も、唐津の近松寺修行説を信じていたらしく、「小倉日記」の明治34年5月20日の項に、次のように書いています。
 「唐津町字表坊主町なる近松寺を訪ふ。臨済宗なり。土墻半ば頽れて境内頗る荒廃す。現住寺沢大典を見て巣林子が墓の趺石(ふせき)の事を問ふ」
 この寺は、天文8年(1539)建立。唐津藩主の小笠原家の菩提寺として続きました。現在の所在地は唐津市西寺町511。境内に近松の遺髪塚があるそうです。
 

祖父・父の通称名採用説

 この説は新しく、森修・大阪市立大学名誉教授が唱えた説。近松の父信義は通称名を「市左衛門」、祖父信重は通称名を「左門」といいました。この通称名から祖父の「門」と、父の「左衛門」とを貰って「門左衛門」としたのではという。
 また姓の「近松」は、実家の杉森家が「近江」の出であることから「近」を、そこから分かれ出た「松」であるという意味から、「近松」とつけたのだと解釈しています。

おどけ命名説

 この説も比較的新しく、近江の近松寺に着目して発展させた元慶応義塾大学教授・池田弥三郎氏の説です。池田氏は「門左衛門」という四角張った名前はおどけており、近松は近世初頭の隠者気分から「近江国近松寺の門前の小僧なり」「門前の小僧にすぎない」と自らを卑下し、謙遜してつけたごくおどけた名であるというわけです。
 さて、あなたは、どの説がいいと思いますか。


総合トップページへ
近松トップへ
目 次へ
前ページへ
次ページへ