資 料 編・3



近松をめぐる人たち




(お好みの項目をクリックして下さい)

*阿野 実藤

*荻生 徂徠

*太田 南畝

*紀 海 音

*木谷 蓬吟

*後西 天皇

*竹沢権右衛門

*竹田 出雲

*竹本政太夫

*辰松八郎兵衛

*穂積 以貫

*山岡 元隣

◎阿野実藤

(あの さねふじ=1634-1694) 由緒のある公卿家。公業といっていたが、権大納言を辞めて実藤と改名する。「法華経二十八品・和歌集二巻」は、実藤が元禄6年(1693)に書いたものといわれ、巻末の奥書に近松の奉納の署名がある。    「2つの墓」に戻る

◎荻生徂徠

(おぎゅう そらい=1666-1728) 江戸中期の著名な儒学者。柳沢吉保の保護を受けて学問に専念。江戸に私塾を開いて、自由な学風で多くの逸材を育てる。     「曽根崎心中」に戻る

◎太田南畝

 (おおた なんぽ=1749-1823) 江戸時代中・後期の戯作者で文人。「蜀山人」の別名も持つ。狂歌の名手として有名。
 幕臣として職務に励むかたわら、漢詩、日記、紀行、随筆を書き残す。彼の随筆には「俗耳鼓吹」(ぞくにこすい=1788年刊)、「仮名世説」(かなせせつ=1825年刊)などがある。
 「俗耳鼓吹」の「近松戯文評」の中で、「曽根崎心中」の道行について「徂徠先生云、近松が妙処此中にあり。外は是にて推はかるべしと。宇佐美恵助(名は恵、字は子廸)の話也」と書いている。             「曽根崎心中」に戻る

◎紀海音

(きのかいおん=1663-1742) 近松と同時代のライバルとされる浄瑠璃作者。大阪の生まれで、近松より10歳年下。若くして出家を志して、海音と号す。40歳ごろ還俗して医者になり、俳諧・狂歌・和歌を学んで名をなす。
 宝永4年(1707)、豊竹座を再興した豊竹若太夫に招かれて、座付き作者に。享保8年(1723)に引退するまで、時代物36編、世話物10編計46編の作品を書いて、近松の竹本座に対抗するだけの豊竹座の基礎を作った。
 代表作は「椀久末松山(わんきゅうすえのまつやま)」「傾城三度笠」「八百屋お七」「鎌倉三代記」「鬼鹿毛無佐志鐙(おにかげむさしあぶみ)」「心中二つ腹帯」など。
 作風は、抒情味に乏しく、技巧的な筋立てで注目を引いたが、近松には及ばなかった。寛保2年、80歳で死去。                 「」に戻る

◎木谷蓬吟

(きたに ほうぎん=1877〜) 本名・木谷正之助。大阪・堀江生まれ。父は文楽座に属した五世竹本弥太夫(伝次郎)で、その次男。幼時から芸能界の空気になじみ、商業学校を出て神戸貿易銀行に就職。新聞に芝居の見物評など書く。
 銀行を辞めたあと、義太夫芸妓の指導や近松研究に努め「大近松全集」(全16巻)をまとめたり、近松作品の復活上演を試みたが、現在は忘れられた存在に。               「生い立ち」に戻る

◎後西天皇

(ごさい てんのう=1637-1683) 第111代の天皇。後水尾天皇の第8皇子。霊元天皇の成長を待って譲位。9年間在位。「直筆色紙三葉」は、従二位町尻兼量(まちがみ かねちか)卿から、近松が拝領したものという。                「2つの墓」に戻る

◎竹沢権右衛門

 (たけざわ ごんえもん=生年・没年不詳) 義太夫三味線の祖。和泉国尾崎の生まれ。目が不自由だったが、井上播磨掾(大阪浄瑠璃の中興の祖)のもとで三味線を習い、播磨掾の死後、若い頃の竹本義太夫と組んだ。竹本座旗揚げ後は、立て三味線として活躍。「曽根崎心中」初演の時のメンバーでもある。
 竹沢権右衛門以後、義太夫の三味線は「竹沢」の姓を範として豊沢・鶴沢などを名乗るようになる。引退後は、弟子の指導や養成に当たった。     「曽根崎心中」に戻る

◎竹田出雲(初代)

(たけだ いずも=生年不詳-1747) からくりを本業とした「からくり名人」。興行主であり、浄瑠璃作者でもある。大阪・道頓堀の竹田芝居の名代・座本であった初代・竹田近江の子といわれる。
 竹本義太夫が「曽根崎心中」の大当たりで大儲けし、「座本を辞めたい」というのを押し止めて、宝永2年(1705)竹本座の座元を引き受ける。
 太夫に義太夫、座付き作者に近松を迎えて一流の新体制を作り、義太夫の死後も「国性爺合戦」で大当たりをとるなど、経営者としても高い手腕を見せた。
 彼は、もともと人形の操作や舞台技巧に優れていたので、人形浄瑠璃をスペクタクルなものに改め、人形の機能を十分に発揮させた。
 また、近松に深く師事して浄瑠璃作者の修行を10年余も積んだ。最初の作品は亨保8年(1723)の松田和吉との合作「大塔宮曦鎧(おおとうのみや あさひよろい)」(近松添削)。翌9年に単独で「諸葛孔明鼎軍談(しょかつこうめい かなえぐんだん)」を書いて独立。単独作は7編書いている。
 代表作に葛の葉伝説で有名な、亨保19年の「蘆屋道満大内鑑(あしやどうまん おおうちかがみ)」がある。
 出雲は、人形浄瑠璃の発展にともなって合作制度を取り入れて、黄金時代を築いた。浄瑠璃の3大傑作といわれる「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅ てならいかがみ)」も、出雲が指揮した合作の一つである。なお、二世出雲は息子の小出雲。「夏祭浪花鑑」「義経千本桜」「仮名手本忠臣蔵」などの合作がある。
                「華麗な世話物」に戻る

◎竹本政太夫

(たけもと まさだゆう=1681-1764) 若い頃から音曲を好み、義太夫に入門する。しかし、音声が小さくて出演する機会がなく、他の座に変わったが、時たま政太夫の語り口を聞いた義太夫がその出来に感心して、竹本座に呼び戻される。
 正徳4年(1714)義太夫が64歳で死亡し、遺言によって弱冠24歳の政太夫が後継者に指名される。先輩太夫らとの摩擦が起こるが、近松らの協力で「国性爺合戦」を上演して大人気。3年越しのロングランを続ける。
 後継者としての地位を確立するまでにかなりの歳月を要したが、享保19年(1734)に2代目義太夫を名乗る(義太夫の子どもが一時「義太夫」を名乗ったとして、政太夫を3代目とする説もある)。のち「上総少掾」を受領したあと、「播磨少将」を再受領。声が小さかったが、努力と工夫で人間の情を語り切った。
                    「趣向を競う時代物」に戻る

◎辰松八郎兵衛

 (たつまつ はちろべい=生年不詳ー1734) 人形遣いの名手。とくに女形(おやま)人形をよく遣った。経歴はよく分からないが、手妻人形の遣い手・山本飛騨掾の許で修業して最新の手妻芸を身につけたらしい。
 義太夫と協力して竹本座を盛りたて、「曽根崎心中」では観音巡りの出遣いなど演出に新境地を開いた。人形の裾から両手を入れて操る「突込み人形」の技術を、完成させたのも彼である。どんなに自在に人形を操っても、決して彼の身体は乱れなかったという。
 八郎兵衛は、スター性のある優れた人形遣いであったうえ、芝居小屋の経営にも関心が強く、竹本座の競争相手の豊竹座が再興される時は、豊竹政太夫の相座本になって努力した。

 後年、江戸に移って「辰松座」を創設。江戸城二の丸で将軍に、義太夫節の操り人形を披露するなどした。          「曽根崎心中」に戻る

◎穂積以貫

(ほづみ いかん=1692-1769)  江戸中期の儒学者。京都で古義学派の伊藤東涯について学んだあと、大阪に移住して26歳で私塾を開き、儒学などを教授。著作も多数。
 享保初年から約10年間、儒学者でありながら、身分の低い芝居者の竹本座に入って顧問となる。才気煥発で、花街にも、芝居小屋にも出入りするような人だったらしい。
 近松の身近にいて、脚本作りに参画し、近松の演劇論を聞く機会も多かった。近松愛用の硯箱を貰っており、それほどに信頼された間柄であった。
 よく近松の芸論の引き合いに出される「難波土産」は、浄瑠璃の注釈書で、著者は三木貞成という人。その序文に、以貫が近松から直接聞きた話を書いて載せた。これが有名な「虚実皮膜論(きょじつひにくろん)」などの近松の芸論。
 この本のおかげで、近松の人形浄瑠璃に対する考え方が、後世に伝わった。浄瑠璃作家・近松半二の父でもある。

      「人物像」に戻る         「浄瑠璃の秘訣」に戻る

◎山岡元隣

(やまおか げんりん=1631-1672) 貞徳派の北村季吟に和歌、俳諧を学んだ国学者で俳人。仮名草子の作者でもある。
 商家の出だが、病気勝ちのため家業を廃し、医学で身を立てる。季吟に認められて俳諧で名を残す。
 俳人として優れた実力を持ち、寛文11年(1671)には俳文の初めとされる俳諧文集「宝蔵(たからぐら)」を出す。
 その巻末に「追加発句」が付けられ、「春」の部の中に「杉森信盛」〜つまり近松の句が載っている。同時に載った杉森一家の句を、参考までに紹介すると。

 かへるにも時正たがへぬ雁字かな   信親(信盛の曽祖父)
 花をさかせ又ちらするは異風かな   信義(父)
 花にいやな風は空ふけ月の雲     信秀(弟)
 さかりいかにちるをもてなす雪の花  喜里(母)
               「武士を捨て浄瑠璃に」に戻る




総合トップページへ
近松トップへ
目 次へ
「道行名文考」へ
「浄瑠璃の興行形態」へ
「浄瑠璃のキーワード」へ