人形浄瑠璃は、「人形芝居」「操り人形」「操り浄瑠璃」「操り」などとも呼ばれますが、近松の時代は「操り」が普通だったようです。
そのころの小屋や舞台は、どのような仕組みだったのでしょうか。知りたいところですが、記録がほとんどなく、また舞台研究も大変遅れていて、分からないことが多いのです。
その中で、当時の興行と観客に触れた森修著「近松門左衛門」の数少ない記述などを基に、ごく大雑把になりますが、近松の頃に焦点を合わせてまとめてみましょう。
●芝居小屋のこと
近松の頃、京都には7軒、大阪は8軒、江戸は4軒の芝居小屋があったようです。小屋は、周囲を板塀で囲っただけで、屋根なしでしたが、次第に屋根がつくようになり、近松当時は完全な屋根がありました。
「小屋の大きさ」は、京都で間口12間(22b)、奥行き27間(49b)、大阪で間口10間(18b)、奥行き20間(36b)ほどが平均的な規模でした。
芸能に対して、幕府の統制がきびしかった時代ですから、芝居興行は幕府の認可がいりました。認可が下りますと、小屋の正面に興行権の印しとして座の紋のついた幕で囲んだ「櫓」(やぐら)を立て、その下に絵看板をかけて、出し物や出演者の名を記しました。
この櫓の太鼓で芝居の開場を告げましたが、5段物の時代浄瑠璃を上演する場合、大体、朝の8時〜9時に開演して、午後2時〜4時ごろに終りました。遠くの人はかなりの早起きで出かけ、大体6時間の芝居見物。まったくの1日仕事でした。
左の写真は、ある歌舞伎小屋の入り口風景を描いた絵です。屋根の上に乗っているのが櫓。出演者と演題を書いた看板の下、矩形で切り抜いた個所が観客の入り口です。
狭い入り口で、みんな跨いで背をかがめて入りました。茶室の「にじり口」のような感じで、「鼠木戸」(ねずみきど=または鼠戸)といいました。人形浄瑠璃小屋も、ほぼ同じ形です。
入り口のそばに木戸番がいて、入場券の売り場・札場(ふだば)があります。
「入場料」は、京都と大阪、江戸で違い、正確に知るには資料が少ないのですが、元禄のころの京阪で歌舞伎・操り浄瑠璃とも、平土間の一般席で34文から40文(850円から1000円)ぐらいでした(1文=約25円の勘定。秋本鈴史・松陰女子学院大学教授が現在の価格に換算した試算値による)。
一般席の平土間は、もともと芝の上に坐って見たので「芝居」といいました。土間ですから「半畳」という敷物を5文(125円)ほどで借り、これを敷いて坐って見たのです。いわば座席指定料です。
舞台に不満があると、客が「半畳」を舞台に向けて投げたことから「半畳を入れる(ヤジる)」という言葉が生まれました。
平土間の客は、普通の町人の家族や奉公人らが中心で、これに地方の人が混じったと考えられます。
平土間以外に、高級席の「桟敷」(さじき)がありました。舞台の正面と左右両側に上下2段にしつらえた席で、一つの桟敷は6人収容。
料金は、秋本教授の調べで平均して銀10匁〜18匁(銀1匁=約1670円の勘定で、1万7千円〜3万円)ほどでしたから、1人当たりにしますと平土間の数倍ほど。「家賃より高い桟敷へ のつちゃがる」と雑俳に詠われたぐらいでした。
この桟敷は予約制で、芝居茶屋を通じて買い、舞台を見ながら酒宴を楽しみました。だから、客層はかなり富裕な商人、武士階級の人々に限られたことでしょう。
人形浄瑠璃小屋では、約5間(9b)ほどの舞台が使われました(今の文楽の舞台は幅10b86センチ)。正確な舞台の構造ははっきりしませんが、大体、次のように推測できます。
初めは、舞台の上下に幕を張って、この間で人形を遣ったようです。その後、上の幕が高くなり、下には手摺りをつけたといいます。
近松の時代になると、舞台の形がかなり変わります。客席から見ますと、まず「ここから先に入るな」という区切りの柵。続いて、平らな「付け舞台」があって、出遣いや間(あい)の狂言などを演じました。この舞台は自由に移動でき、必要に応じて付けられました。
続く本舞台には、一番手前に「一の手摺り」があり、次いで「本手摺り」(ほんてすり)が付けられ、ここで人形を操りました。一番奥まった場所には御簾(みす)がかかり、太夫の語り場でした。今の文楽の舞台とはかなり違った構造ですが、当時すでに文楽に近い3段手摺りの舞台もあったようです。
ところで、興行の中心になる浄瑠璃を「建て浄瑠璃」といいました。5段物の時代浄瑠璃の場合、森修説に従いますと、近松当時は次のようなプログラムになりました。
三番叟(さんばそう)・初段・狂言・二段・狂言・三段・狂言・四段・狂言・五段・祝言
最初の三番叟と最後の祝言は、おめでたいものです。
浄瑠璃の間に挟まれた狂言は「間(あい)の狂言」といい、道化人形を見せたり、人間が軽業や曲芸、三味線弾きなど、全体に見世物的な滑稽な芸を披露したそうです。「間の狂言」は、付け舞台で行われました。
しかし、建て浄瑠璃の分量が増えるにつれて、「間の狂言」はだんだんと間引きされ、正徳5年の「国性爺合戦」の時からは、時代物1本の上演も出てきます。
建て浄瑠璃の最後の五段目が「切り」(最後の意)で、その前にいう口上を「切り口上」といったのですが、元禄のころから歌舞伎に見習って、五段目のあとにもう一段つけて、これを「切り浄瑠璃」と呼びました。いわば、おまけみたいなものです。
正確に把握することは困難ですが、宇治座のある出し物の記録に「太夫7人、人形16人、からくり師2人、さいく人3人、作者1人」とあり、ざっと30人。
こうした点から見て、元禄後では平均して、太夫は6人前後、人形20人弱、三味線3〜4人で座本以下総勢30人、多い時は50人になったようです。
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