資 料 編・5



浄瑠璃のキーワード




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*浄瑠璃の語源

*「三味線」と「人形操り」

*人形の操り方

*景事・道行

*なぜ「文楽」と呼ぶか

*「近松座」の歩み





「浄瑠璃」の語源

 「文楽」といえば「あぁ!人形浄瑠璃」と合点される方が多いのですが、「浄瑠璃」という言葉は、なんとなくよそよそしい感じで、現代ではなじみの少ないものになっています。しかし、芸能史の上で「浄瑠璃」は、歌舞伎とともに抜きにしては語れない重要な存在なのです。
 語り物の歴史をみますと、中世(鎌倉時代〜室町時代)の語り手は、なんといっても琵琶法師です。琵琶の伴奏で、もっぱら社寺の霊験話や平家物語などの合戦物、民間伝承を題材に語ってきたのです。
 そうした中世の16世紀半ば、ラブ・ロマンスという新しい当世風の語り物が考え出されました。それが「浄瑠璃御前物語」(「十二段草子」ともいう)です。
 源氏の御曹司・牛若丸が東国に赴く途中、矢作(やはぎ)の宿の長者(遊女の長)の娘・浄瑠璃御前と恋に落ちて結ばれるという、叙事詩的ながら抒情のある長編の恋物語。琵琶法師の一部が語り出して、これが大変な評判になりました。
 「浄瑠璃」という名前は、薬師如来に願って子を授かった長者が、薬師如来の浄土である「浄瑠璃世界」に因んでつけたもの。仏教から出た言葉なのです。
 人々は、この新しい語り物を「浄瑠璃御前物語」「浄瑠璃御前」と熱狂的に迎い入れている間に、いつしか「浄瑠璃」という言葉がこの音曲の名称になっていったのです。研究者は「浄瑠璃御前物語」という題名が「浄瑠璃」の語源だとしています。

「三味線」と「人形操り」

 浄瑠璃は、初め琵琶の伴奏か扇で拍子をとっていたのですが、そのころ新しい楽器として普及してきた三味線を伴奏楽器に使うようになりました。
 三味線は、琉球(沖縄)の蛇皮線(じゃびせん)をもとに、日本的に改良して作られたといいます。その蛇皮線は、中国から渡ってきた三弦の楽器・三線(さんしん)に由来し、16世紀の後半、永禄年間に泉州・堺に渡来しました。
 「さみせん」「しゃみせん」という呼び方は、日本に伝わってきてから転訛したもので、蛇の皮に変えて猫や犬の皮を使いました。その音色が当時の人たちの嗜好に合ったのでしょう。新しい物語音楽となったのです。
 ちなみに、現在の三味線は棹の長さが約97センチ。棹の幅によって太棹(重量感のある力強い音色で、義太夫節や津軽三味線に使用)、中棹(常磐津節や新内節、地歌など)、細棹(長唄や小唄など)の3種類があります。
 この三味線伴奏の浄瑠璃が、次に目をつけたのが人形遣いです。1660年頃に出た浅井了意の「東海道名所記」は、「京の次郎兵衛」という浄瑠璃語りが「西宮の夷かき(人形遣い)と語らい、京の四条河原で人形操りをした」と書いています。
 また1712年刊の「和漢三才図会」は「淡州ノ傀儡(人形遣い)ヲ語ラヒ」と、こちらは淡路の人形遣いと組んだとしています。
 日本には、古い芸能の「傀儡子(くぐつし・かいらいし)」以来、あちこちに人形回しの技術があったのです。どちらにせよ、浄瑠璃に合せて舞台で人形を操ることを考えて、四条河原に小屋を建てて試してみると、これが大当たりしたのです。
 ここに、浄瑠璃語りと三味線と人形遣いが合体して、17世紀初めの慶長年間に操り芝居〜人形浄瑠璃が始まったのです。

人形の操り方

 現在の文楽では、一つの人形を3人で操っていますが、江戸・元禄の近松の時代は、1人で操りました。いわゆる「1人遣い(づかい)」です。
 操り方は、二通りありました。「突っ込み人形」と「差し込み人形」です。
 「突っ込み人形」=人形の裾(すそ)から手を突っ込み、胴串(首を支える棒)を握って遣う基本的操法。高い手すりの陰で遣いましたので、「陰遣い」といい、人形遣いの姿は見えません。
 「差し込み人形」=人形の背中の部分の衣装を割って、手を差し込んで遣う方法。足を持った人形で、台の上で舞いをさせるなど特別の演技の場合は、この方法を用いました。人形遣いの姿は見えるので、「出遣い」といいました。
 このほか、手品や手練の早業を見せる、「手妻」(てづま)と呼ばれる特殊操法もありました。
 時代が下がって、享保19年(1734)竹本座で「芦屋道満大内鑑」を上演した時、初代・吉田文三郎という人形遣いの名手が「操り3人がかり」という操法を創始したといいます。
 「3人遣い」の始まりです。以後、徐々に1人遣いから3人遣いに変わり、すべての人形が3人遣いになるのは、宝暦期(1750年代)です。
 3人遣いは「主(おも)遣い」「左遣い」「足遣い」に分かれます。人形の中心を動かす主遣いになるまで「足十年、左十年」といわれるほど、その技術は難しかったようです。

景事・道行

 浄瑠璃には、よく「節事」(ふしごと)、「景事」(けいじ・けいごと)とか、「道行」(みちゆき)という言葉が出てきます。昔は、使い分けがあったようですが、今ではほとんど同意語に使われています。
 [景 事] 人形浄瑠璃において、道行の叙景的な部分や名所尽しなど、歌に合わせて人形が華やかな舞踊的所作をする場面を指します。
 登場人物は1〜3人といろいろで、目先の変った舞台装置を凝らし、観客の気分を転換しました。
 上方歌舞伎の方では、「舞踊」または「舞踊劇」の称として使います。
 [道 行] 一つの地点から他の地点に移動する旅の場面を指し、にぎやかな鳴り物と舞踊的所作の入った最大の見せ場です。ショー的な場面といっていいでしょう。観客も大いに楽しんで、気分転換を図ったのです。
 この道行の意味を、がらりと変えたのが近松です。「曽根崎心中」以来、相愛の男女が死に場所を求めてさまよう、はかない「死の道行」となったのです。でも、音楽的・舞踊的な要素は大いに残っています。

なぜ「文楽」と呼ぶか

 現在、「人形浄瑠璃」といえば「文楽」を指し、この2つの言葉はまったくの同意語になっています。なぜ、人形浄瑠璃を「文楽」というのでしょうか。最初に、これまでの通説を紹介しましょう。
 近松の時代から100年近く経った寛政の頃(1789-1800)、淡路の興行師で、素人浄瑠璃の太夫だった植村文楽軒(1751-1810)という人が、大阪に出てきて浄瑠璃の稽古場を開設。文化2年(1805)には高津新地に小屋を建て、人形浄瑠璃の興行を始めます。
 文楽軒は本名・正井嘉兵衛(与兵衛とも)。大阪に出てきた時にはすでに50歳前後になっており、10年足らずで死去します。
 その初代文楽軒が死んだ翌年の文化8年(1811)、二代目文楽軒が博労町の稲荷神社境内(現・中央区博労町4丁目、難波神社。俗に「博労町稲荷」と呼ばれていた)に進出して、常打ちの人形浄瑠璃小屋で興行。これが人気を集めて大当たりします。
 その後、社寺境内芝居禁止令が出て、小屋は北堀江などを転々としますが、傑物であった三代目の文楽翁が、安政3年(1856)、再び博労町の稲荷神社境内に浄瑠璃小屋を再興し、通説では人々は「文楽軒の芝居」または「文楽の小屋」と呼んで、次第に「文楽」という言葉が広まり、人形浄瑠璃の代名詞になっていったというのです。
 この通説に対して、向井芳樹・同志社大学教授は「名称の由来について、一番無造作に誤ったもの」として、次のように説明しています。(「浄瑠璃の世界」=阪口弘之編より)
 「文楽」の語源とされている「文楽軒」という言葉は、経営者一個人の雅号にすぎず、文楽軒の経営する浄瑠璃小屋も、決して「文楽座」という名称ではなかった。
 また大阪には他に沢山の浄瑠璃芝居小屋があったので、その中で特に「文楽」という言葉が浄瑠璃界を代表する名称になれるはずがない。
 「浄瑠璃芝居を文楽と呼ぶのは、もっと時代を下げて考える必要がある」として向井教授は、明治5年(1872)、稲荷にあった文楽軒の小屋が大阪府の地域繁栄策によって松島へ移転し、小屋の名称を「松島文楽座」に改めた時期を挙げます。
 この時、個人の雅号に過ぎなかった「文楽」という名称が初めて劇場名になり、しかも大阪にいままでなかった「座」という新鮮な表現に改められて、「文楽座」という言葉が一人立ちして公けに歩き出したと見るのです。
 その後「文楽座」は明治17年(1884)、足場の悪い松島から繁華な御霊神社境内(現・中央区淡路町4丁目)に移転し、繁昌しますが、37・38年の日露戦争ごろから民衆娯楽に変化が起こり、存亡の危機にさらされるのです。
 そうして明治42年(1909)、ついに御霊文楽座の経営のすべてを松竹合名会社に売却。文楽座の名前は残りますが、ここに「文楽軒が始めた芝居小屋」は人手に渡って、幕を閉じたのです。
 明治時代、大阪ではこの「文楽座」のほか、「彦六座」「稲荷座」「明楽座」「堀江座」「近松座」などという人形浄瑠璃の小屋が開場したり、解散したりを繰り返していましたが、次第に時代の波に呑み込まれて姿を消し、大正末には御霊文楽座ただひとつになりました。
 その御霊文楽座も大正15年(1926)に火を出して、またたく間に小屋を全焼。人形浄瑠璃の拠点を失うのですが、昭和5年(1930)に大阪・四ツ橋に文楽座が再建されて開場。ふたたび人形浄瑠璃を独占上演したのです。
 こうした浮き沈みの動きを見ますと、「文楽」が自他ともに認められる人形浄瑠璃の代名詞になったは、大正末か昭和初めと見た方が妥当といえましょう。
 その後、「文楽座」は昭和20年(1945)に戦災で焼失し、31年(1956)道頓堀に新築されます(のち朝日座と改称)。
 その一方、衰微する伝統芸能を守るため、38年(1963)に財団法人文楽協会が設立され、41年(1966)に東京に「国立劇場」ができたのに続いて、59年(1984)に大阪にも「国立文楽劇場」がデビュー。劇場名に「文楽」という名称が復活したという次第です。

「近松座」の歩み

 三代目・中村鴈治郎が昭和56年(1981)11月に結成。翌年、旗揚げ公演として、国立劇場小劇場と大阪・朝日座で「心中天の網島」を上演しました。
 結成の動機を「近松門左衛門の作品を通して、近松の精神(こころ)を現代に生かしたい、新しい時代の近松劇を創造したい、そうした思いの高まりから」と言っています。
 これまでに「嫗山姥」「女殺油地獄」「冥途の飛脚」「双生隅田川」「けいせい仏の原」「出世景清」「夕霧阿波鳴渡」「堀川波鼓」「大経師昔暦」「曽根崎心中」「けいせい壬生大念仏」などの作品を取り上げました。
 毎年、演目を変えて国立劇場小劇場や国立文楽劇場をはじめ、青山劇場、大阪・中座、尼崎市など各都市劇場を足場に上演を続けています。
 2001年には、結成20周年を記念して海外に進出。5月30日ロンドンで人間国宝・中村鴈治郎がお初を演じる「曽根崎心中」を上演し、満員の観客から盛大な拍手を浴びました。国内では「傾城反魂香」と「嫗山姥」を舞台にかけました。
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         [参考資料]
            諏訪春雄「近松世話浄瑠璃の研究」(笠間書院)
            芸能史研究会編「日本芸能史」(法政大学出版局)
            阪口弘之編「浄瑠璃の世界」(世界思想社)
            高木浩志「文楽の芸」(東京書籍)など。             今尾哲也「歌舞伎の歴史」(岩波新書)




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