元禄16年(1703)4月7日、大阪の曽根崎・露(つゆ)天神の森で心中事件が起こります。
添い遂げられぬと知った堂島新地の遊女・お初と醤油屋の手代・徳兵衛が死んだのです。=左の写真は、曽根崎にある露天神社。通称・お初天神。
この心中事件は、すぐさま歌舞伎の世話狂言に仕立てられて、京都で舞台にかけられました。心中や殺人事件を、現代のニュースのように歌舞伎が取り上げるのは、当時の一つの流行でした。
人形浄瑠璃には、このような慣習がありません。しかし、歌舞伎が心中を上演し、多くの客足を集めるものですから、経営不振で悩んでいた大阪の人形浄瑠璃の竹本座が「この心中事件を人形芝居にしても、当たるのではー」と考えついたのは当然でしょう。
ちょうど京から大阪に来合わせていた近松に「この心中を浄瑠璃にしてくれ」と頼んだのです。
こんな話もあります。心中があった時、近松は京にいたが、大阪からの知らせで心中現場に向かうため、鳥羽から舟に乗った。近松は舟の中で事件のあらましを聞くや、早々と原稿を出して書き出したというのですが、これは出来すぎの作り話でしょう。
近松にとって心中物は経験のないことでしたが、才能があったのですね、わずか20日〜25日で台本を書き上げ、心中からちょうど1ヶ月後の5月7日、竹本座で初めての心中物「曽根崎心中」を上演しました。
人形浄瑠璃「曽根崎心中」の話のあらましは、こうです。
遊女のお初と手代の徳兵衛は、深く愛し合う仲でしたが、徳兵衛の主人は妻の姪と結
婚させようと、徳兵衛の継母に持参金を渡しました。
徳兵衛は、この話を断ったのですが、そうなると持参金を返さねばなりません。その持参金を返すつもりでいたところ、友人の九平次にうまく言いくるめられて、騙し取られてしまうのです。
返す持参金はない。九平次からは罵倒される。男の一分が立たなくなった徳兵衛とお初は、曽根崎の森に死に場所を求めてさまよい、心中するというのです。= 左の写真は、文楽「曽根崎心中」中の巻・天満屋の場。お初の足に、縁の下に潜んだ徳兵衛が死の決意を伝える有名な場面です。
お初・徳兵衛の純粋で、ひたむきな心情や抜き差しならぬ葛藤が評判を呼び、興行が始まると、たちまち物すごい人気を呼んで大当たり。
「今昔操年代記」という本は
「そねざき心中と外題を出しければ、町中よろこび、入るほどにけるほどに、木戸も芝居もえいとうとう、こしらへに物は入らず〜」
という状況を描いて、興行の大当たりを伝えています。
経営不振に陥り借財に困っていた竹本座は、これで一挙に借財を返して立ち直ったほどでした。
この「曽根崎心中」を、世間は「世話浄瑠璃の始まり」といいました。「世話」とは、世間の話ーつまり庶民の生活を扱ったものです。
それまでの浄瑠璃は、お家騒動とか曽我兄弟物とか武士を主題にした時代浄瑠璃ばかりで、世間の庶民的な出来事は扱っていなかったのです。
このあと、庶民を主人公にした心中物・不義物・処刑物などを「世話浄瑠璃」と呼ぶようになります。
「曽根崎心中」が大当たりした理由は、いくつかあります。その一つが、明快単純なストーリーでしょう。
若いお初と徳兵衛の思い込んだら死ぬまでよという純粋な恋心を、近松は脇道せずにただひたすら書き込んだのが、観客の心に新鮮な感じを与え、強く訴えたのでしょう。
それまでの浄瑠璃は、あれもこれもと趣向をこらし、横道も多かったのです。
それに、近松の文章力が加わります。近松の巧みな文句が浄瑠璃太夫の語りに乗って、鮮やかなイメージを浮かび上がらせ、語りが生む現実世界がありありと眼前に広がったのです。
その優れた名文の最たるものが、「お初・徳兵衛」道行の文章です。
「この世の名残、夜も名残、死にに行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜、一足づつに消えて行く、夢の夢こそあはれなれ。あれ数ふれば暁の、七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め、寂滅為楽と響くなりー」
2人が手に手をとって死出の旅に向かう冒頭の部分。七五調の名調子が続きます。ぞっとするような、すごい劇的表現です。情緒的な感覚がみなぎっています。(詳細については「死の道行名文考」をご覧下さい)
江戸時代の太田南畝(蜀山人)が書いた随筆「俗耳鼓吹(ぞくじこすい)」には、当時の有名な儒者・荻生徂徠(おぎゅうそらい)(詳しくは、こちらへ)がこの文章を読んで「七つの時が六つ鳴りて〜」のくだりまで来た時、
「妙処此中にあり、外(ほか)は是にて推(おし)はかるべし(なんともいえぬ名文だ。ほかのことは問うには及ぶまい)」
と絶賛したと書いています。以後、名文の代表といえば「曽根崎心中」の道行文といわれるくらい、有名な文章になります。
ここで「曽根崎心中」上演の陣容をみますと、作者が近松門左衛門、語りが竹本義太夫、三味線が竹沢権右衛門、人形遣いが辰松八郎兵衛(詳しくはこちらへ)。いずれ劣らぬ当時の最高水準で、名手といわれる人たちばかりです。
この公演初日、人形遣いの辰松八郎兵衛が出演者を代表して言った口上が残っています(原文を読みやすいように、言葉を補い、段落をつけてあります)。
「この度、仕ります曽根崎心中の義は、京近松門左衛門あと月ふっと御当地へ下り合わせまして、かやうのことございましたを承り、何とぞ、おなぐさみにもなりまする様にと存(じ)まして、則、浄るりに取くみおめにかけまするようにございます。
方々の歌舞伎にも仕りまして、さのみ変わりました義もござりませね共、浄るりに仕りますは、初めにてございまする。序(注・冒頭のこと)に三十三所の観音めぐりの道行がございます。(後は略)」
この口上を見ても、心中事件を最初に取り上げた浄瑠璃であることがはっきり分かります。
◆新趣向も盛り込む
この豪華な演技陣に加えて、近松はこれまでになかった新趣向を盛り込んでいます。
冒頭のお初の大阪三十三ヶ所観音めぐりです。辰松は先の口上で「道行」といっています。これまでは、道行で始まる浄瑠璃はなかったのです。
この観音めぐりを最初に持ってきたのは、登場人物の鎮魂であるとか、招魂であるとかの説がありますが、当時の観客にはなじみ深い宗教体験であり、身近に感じたことでしょう。
しかも、観音めぐりの演じ方にまったく新しい演出方法をとりました。出演者全員が舞台の前面に姿を現わして、浄瑠璃を語り、人形を操るという珍しい試みをしたのです。
竹本義太夫の出語り、辰松八郎兵衛の人形の出遣い(でづかい)です。
左の絵は、お初人形を使って観音めぐりを「付け舞台」で行った時の模様を描いたものです。
「付け舞台」というのは、手摺りの本舞台の前に張り出した臨時の平舞台で、みんな裃姿で勢ぞろいしています。
これは、客を惹き付ける興行効果を考えたデモンストレーションですが、近松の妙手でした。事実、これも評判なりました。
申し遅れましたが、「曽根崎心中」は、本公演の中心である建て浄瑠璃「日本王代記」の一番最後に上演された「切り浄瑠璃」でした。
いわば添え物的な存在だったのですが、興行側の発想と工夫で、ついに”本家”を食って大当たりしたというわけです。
(次ページは作品編「心中物執筆の背景」です。興味のない方は「華麗な世話物の世界」へどうぞ)
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