〜作 品 解 説〜


「曽 根 崎 心 中」


(そねざき しんじゅう)



世話浄瑠璃の始まり

 ◆上 演=元禄16年(1703)5月7日。竹本座初演。世話物1段3巻。座本・太夫竹本筑後掾(義太夫)。作者近松門左衛門・51歳。
 興行の中心である建て浄瑠璃「日本王代記」の一番最後に上演された「切り浄瑠璃」。いわば添え物的な出し物だったが、お初・徳兵衛の純粋な心情や抜き差しならぬ葛藤が評判を呼び、興行が始まるとたちまち物すごい人気を呼んだ。
 当時の「今昔操年代記」という本は

「そねざき心中と外題を出しければ、町中よろこび、入るほどにけるほどに、木戸も芝居もえいとうとう、こしらへに物は入らず〜」

と書き、興行側の発想と工夫で、興行が大当たりしたことを伝えている。
 経営不振に陥り借財に困っていた竹本座は、この1作で一挙に借財を返して立ち直ったほどであった。
 この「曽根崎心中」を、世間は「世話浄瑠璃の始まり」(「世話」とは世間の話)といい、このあと庶民を主人公にした心中物・不義物・処刑物などを「世話浄瑠璃」と呼ぶようになった画期的な作品である。

作品の成立事情

 元禄16年(1703)4月7日、大阪の曽根崎・露(つゆ)天神の森で、堂島新地の遊女・お初と醤油屋の手代・徳兵衛の心中事件が起こる。=下の写真は、曽根崎にある露天神社。通称「お初天神」。
お初天神  当時、心中や殺人事件が起こると、現代のニュース速報のようにすぐさま歌舞伎に仕立てられて、舞台にかけられた。こうした慣習は、人形浄瑠璃になかったが、歌舞伎が心中劇を上演して盛況なので、経営不振で悩んでいた大阪の人形浄瑠璃の竹本座が「心中事件を人形芝居にしても、当たるのではー」と考え、ちょうど京から大阪に来合わせていた近松に「曽根崎での心中を浄瑠璃にしてくれ」と頼んだ。
 執筆を頼まれた近松は、心中物を書いた経験がなかった。しかし、わずか20日〜25日で台本を書き上げ、心中からちょうど1ヶ月後の5月7日、竹本座で初めての心中物「曽根崎心中」を上演したのである(この間の詳しい事情は「作品編・心中物執筆の背景」をご覧下さい)。
 こんな話もある。曽根崎で心中があった時、近松は京にいたが、大阪からの知らせで心中現場に向かうため、鳥羽から舟に乗った。近松は舟の中で事件のあらましを聞くや、早々と原稿を出して書き出したという。これは出来すぎの作り話だろう。

主な登場人物

 ◆徳兵衛=大阪の醤油屋「平野屋」の手代。25歳。真面目で勤勉な若者だが、少し世間知らずで一途すぎる点もある。しかし、当時の商人が持っていた「信用第一」というプライドを、”男の一分”(面目または体面の意)として貫いたあたり、シンがある。
 ◆お初=堂島新地「天満屋」の遊女。19歳。素人娘のような純情でひたむきな性格。しかも気丈なところがある。恋にすべてを賭けて、死をも恐れずに立ち向かった気概は大したもの。
 ◆九平次=徳兵衛の友人で、敵役。実説にはなく、近松が創造した人物。金を借りていながら、借りていないと偽る強欲さと、強く言われればすごすご引き下がる臆病さを併せ持つ小悪党。徳兵衛の身の上を案ずるようなこともいう。

作品の梗概

 [観音めぐり] 序幕の趣向。天満屋の遊女・お初が客の供をして、大阪三十三ヶ所の観音めぐりをする。当時、観音の霊場を順番に参拝すると、日ごろの罪が消えるご利益があると信じられ、人気を集めていた。登場人物の鎮魂または招魂という説もある。
 [上の巻=生玉社の場] そのお初が生玉社境内まで来て、出茶屋で休んでいると、得意回りの途中の平野屋の手代・徳兵衛と出会い、お初は、日ごろ深く愛し合う仲なのに便りのない恨みを並べる。
 これに対し徳兵衛は「店の主人が、奥さんの姪と自分を結婚させようとして、継母に持参金を渡した。自分がこの話を断ったところ、大阪追放と持参金の返却を求められ、継母からやっとの思いで持参金を返して貰った。ところが、その金を友人の九平次に泣きつかれて一時貸ししたものの、返してくれないので困っている」と窮状を打ち明ける。
 そこに九平次が町衆と姿を現わし、徳兵衛が金の返済を求めたところ、逆に九平次から「借りた覚えはない。いいがかりをつけて金を詐取するのか」と罵倒され、さんざん乱暴される。騙されたと知った徳兵衛は「男も立たず、身も立たず」と、”男の一分”を失って自害をほのめかす。
 [中の巻=蜆川新地天満屋の場] 天満屋に帰ったお初が徳兵衛のことを心配して 曽根崎心中 いると、徳兵衛が忍び姿でやって来る。店の人に呼ばれて、お初はとっさに徳兵衛を打ち掛けの裾に隠して縁の下に。そこにまた、九平次が仲間とやってきて徳兵衛の悪口を言い散らす。お初は、縁の下に潜んだ徳兵衛を足を使ってなだめながら「証拠なければ、理も立たず。この上は徳様も死なねばならぬしななるが、死ぬる覚悟が知りたい」と足で問えば、徳兵衛は足首とって咽喉笛をなで、死ぬ覚悟を伝える。= 左の写真は、お初の足に徳兵衛が死の決意を伝える場面。
 その夜更け、死に装束に着替えたお初は徳兵衛と天満屋を抜け出ようとするが、起き出した下女が邪魔で戸が開けられず、下女の打つ火打石の音にまぎれてやっと脱出する。
 [下の巻=道行・曽根崎天神の森の場] 「この世の名残り、夜も名残り〜」の名文に乗って、お初・徳兵衛2人は死に場所を求めさまよい歩く。男の一分が立たなくなった徳兵衛と、恋だけに生きるお初。梅田橋を渡って、曽根崎天神の森に辿りつく。
 松と棕櫚が枝をからませている連理の木を死に場所に決め、体を木に縛り付けたうえ、徳兵衛がお初を脇差で刺し殺し、徳兵衛はお初が持っていた剃刀で自害し心中する。  

大当たりの理由

 「曽根崎心中」が大当たりした理由は、いくつかある。その一つが、明快単純なストーリーであろう。若いお初と徳兵衛の思い込んだら死ぬまでよという純粋な恋心を、近松は脇道せずにただひたすら書き込んだのが、観客の心に新鮮な感じを与え、強く訴えた。
 それに、近松の巧みな文章力が浄瑠璃太夫の語りに乗って、鮮やかなイメージを浮かび上がらせ、語りが生む現実世界がありありと眼前に広がった。その優れた名文の最たるものが、お初・徳兵衛道行の文章である。

 「この世の名残り、夜も名残り、死にに行く身をたとふれば、あだしが原の道の霜、一足づつに消えて行く、夢の夢こそあはれなれ。あれ数ふれば暁の、七つの時が六つ鳴りて、残る一つが今生の、鐘の響きの聞き納め、寂滅為楽と響くなりー」

 ぞっとするような七五調の名調子。2人が手に手をとって死出の旅に向かうすごい劇的表現。情緒的な感覚がみなぎる。(詳しくは「死の道行名文考」をご覧下さい)
 江戸時代の太田南畝(蜀山人)が書いた随筆「俗耳鼓吹(ぞくじこすい)」には、当時の有名な儒者・荻生徂徠(おぎゅうそらい)がこの文章を読んで「七つの時が六つ鳴りて〜」のくだりまで来た時、

 「妙処此中にあり、外(ほか)は是にて推(おし)はかるべし(なんともいえぬ名文だ。ほかのことは問うには及ぶまい)」

 と絶賛したと書いている。以後、名文の代表といえば「曽根崎心中」の道行文といわれるくらい、有名な文章になる。

上演方法の新趣向も

 大当たりしたもう一つの理由は、上演方法の新趣向であろう。まずその陣容をみると、作者が近松門左衛門、語りが竹本義太夫、三味線が竹沢権右衛門、人形遣いが辰松八郎兵衛。いずれ劣らぬ当時の最高水準で、名手といわれる人たちばかりである。
 この公演初日、人形遣いの辰松八郎兵衛が出演者を代表して言った口上が残っている(原文を読みやすいように、言葉を補い、段落をつける)。

 「この度、仕(つかまつ)ります曽根崎心中の義は、京近松門左衛門あと月ふっと御当地へ下りあわせまして、かやうのこと御座いましたを承り、何とぞ、お慰みにもなりまする様にと存じまして、則(すなわち)浄るりに取り組み、お目にかけまするようにございます。
 方々(ほうぼう)の歌舞伎にも仕りまして、さのみ変わりました義もござりませね共、浄るりに仕りまするは、初めにてございまする。序(冒頭のこと)に三十三所の観音めぐりの道行がございます。(後は略)」


付け舞台  この口上を見ても、心中事件を最初に取り上げた浄瑠璃であることがはっきり分かる。
 さらに、この豪華な演技陣をより一層引き立てるため、近松はこれまでになかった新趣向を盛り込んだ。冒頭のお初の三十三ヶ所観音めぐりである。辰松は口上で「道行」といっているが、これまでに道行で始まる浄瑠璃はなかった。
 この観音めぐりには、出演者全員が「付け舞台」に姿を現わして、浄瑠璃を語り、三味線を弾き、人形を操った。竹本義太夫の出語り、辰松八郎兵衛の人形の出遣い(でづかい)である。
 左の絵は、江戸時代の絵入り本「牟芸古雅志(むぎこがし)」に載ったその当時の「付け舞台」模様図であるが、これは、興行側の妙手であった。事実、客を惹き付ける興行効果を十分に考えた一大デモンストレーションとなり、評判になった。


          [参考文献]
           藤野義雄著「近松名作辞典」(桜楓社)
           新編日本古典文学全集「近松門左衛門集A」(小学館)
           鑑賞日本古典文学・大久保忠国編「近松」(角川書店)ほか。

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