「近松つぁん」



趣向を競う「時代物」




近松の「時代物」は90編

 これまでに近松の浄瑠璃の作品として、「世話物」のほかに「時代物」という名前が出てきましたので、ここら辺りでひとつ「時代物」を取り上げてみましょう。
 その前にちょっと寄り道して、近松が書いた浄瑠璃の作品数は、いったい何編あるのかを調べてみます。
 作品数は、研究者によって100とも150とも言われ、いまだに確定していません。これは、近松の作かどうか分からない「存疑作(そんぎさく)」が、まだかなりあるためです。
 そこで今回は、最も信頼できる全集といわれる岩波書店版「近松全集」(17巻)の収録作品を調べてみました。その結果、114編という数字が出てきました。
 このうち「世話物」は24編とはっきりしていますので、 従来の主流であった
   お家騒動など武士を主題にした「時代物」は、90編
 ということになります。

 「時代物」は、署名がないと近松作と確定するのがなかなかに難しいのですが、岩波版の「近松全集」は、90編の作品を吟味して
   ◆近松確定作=77編 ◆近松作と推定し得る参考作=13編
 と仕分けしています。
 いまのところ、近松作とはっきりしていますのは77編ということですが、「世話物」に比べて「時代物」が3倍以上も多いのがよく分かります。

「時代物」の特色・内容

 「時代物」とは何か。その性格を、近松研究家の藤野義雄氏はこう書いています。
 「歴史的人物の名を借りながら、実説に束縛されることなく、作者の自由な構想にまかされて作られたものである」
 「人間を表現するというよりも、むしろ筋書きの方便に駆使されていることが多く(略)、時には普通の人間性さえ認められぬものさえある」(「近松と最盛期の浄瑠璃」から)
 また、廣末保氏は
 「復讐劇であれ、謀反劇であれ、私的な義理・人情の葛藤を超えた公的次元のプロットを縦筋として構想されている」(「近松の時代浄瑠璃」)
 と指摘しています。
 要するに、「時代物」とは例えばお家騒動など公的な次元のものをテーマに、作者が自由な発想で書いた現実離れのドラマであるということができます。
 人が知り尽くした話に、どういう趣向を盛り込むかが「時代物」の作者の腕の見せどころであったのですね。この厄介な「時代物」を、近松は巧みな趣向と優れた文章力でドラマ性のあるものに仕上げていったのです。
 近松は、内容的にどのような「時代物」を書いたかといいますと、「謡曲を経由したもの」が最も多く、次いで「曽我兄弟物」、源義経の「判官物」、「太平記物」などとなっているそうです。
 こんなお話が、当時の観客には受けて、操り人形の舞台に打ってつけだったのでしょう。

「時代物」の構成

 興行的にみますと、「時代物」は、興行の中心になる出し物で、「建て浄瑠璃」と呼んでいます。
 芸能の先輩である能が「五番立て」になっている影響を受けて、全体を五段で構成するのが基本形式です。上方では、寛文末(1670)頃から五段曲が多くなり、延宝期(1673〜1680)に五段が定式になります。
 その各段ごとの内容を、竹本義太夫が「貞享四年義太夫段物集」の序に、次のように端的に表現しています。
 「一段目恋、二段目修羅、三段目愁嘆場、四段目道行、五段目問答」
 かみ砕いていいますと、一段目が「事件の発端」、二段目でその「事件の展開」となり、三段目が「悲劇の頂点」、つまり最大のヤマ場。四段目に道行があって「事件の新たな展開」となり、五段目で「事件の解決」、大団円または破局ということです。
 この構成から分かるように、三段目が最大のヤマ場。義太夫も特に三段目について
 「愁嘆の事、真実をわすれず、一番の浄るりを胸にこめて語ること也」
 といっています。
 道行は大体、四段目に据える作品が多く、近松も半分は四段目に道行を持ってきています。

「時代物」の発展

 近松研究者の向井芳樹・同志社大学教授は、五段構成について
 「作品の内にある葛藤の展開に従って作られたのではなく、それとは関係なしにもっぱら観客の側の気分をいかにして舞台の側にひきつけるかという方向で、五段組織が構成されているのである」
 と書いています。
 近松も、ご多聞に漏れずにこうした点を大いに考えたでしょう。宝永2年(1705)の「用明天王職人鑑」で大当たりをとったのも、そうした意思の現われです。
 その後、近松は「時代物」と「世話物」を並行して書くのですが、宝永末から正徳年間(1710〜1715)にかけては「時代物」を重点に大量の作品を制作します。
   「碁盤太平記」「大職冠」「嫗山姥」「天神記」「相模入道千疋犬」など、30編近くに上ります。
 内容も変化します。特に歌舞伎の作劇技巧と「からくり」を取り入れ、演劇的要素の強い興行本位の作品を作っていくのです。

竹本義太夫の死亡

 そうした中で、正徳4年(1714)、62歳の近松にとって衝撃的なことが起こります。最大の協力者で理解者であった竹本義太夫が病いにかかり、64歳で死亡するのです。
 近松は、5年前に坂田藤十郎を、3年前に宇治加賀掾を失っていますが、中でも義太夫の死亡は影響が大きく、さぞ気落ちもしたことでしょう。
 義太夫の遺言によって、24歳の若い弟子・竹本政太夫(後の二世義太夫)(詳しくはこちらへ)が後継者になります。
 政太夫は、語らせると感情表現や性格描写の節回しが上手でしたが、なにしろ声が小さく、そのうえ人気も信用もないのに、多くの先輩を差し置いて一座の長になったものですから、反発が出て、内輪もめが起こります。
 竹本座の危機です。長老の近松と座本の出雲は、なんとか事態を収拾して、政太夫を立てた新体制を作ります。

「国性爺合戦」で長期興行新記録

 そして翌5年、政太夫の声の長所を生かし、からくり上手の出雲の意向をくんで上演した時代物が「国性爺合戦」(こくせんやかっせん)でした。
 実在の著名な人物・和藤内こと鄭成功を主人公に、明の再興を図るという中国を舞台にした国際的な物語ですが、巧みな構成とからくりをふんだんに取り入れたのが成功して、なんと足掛け3年、17カ月のロング・ラン(長期興行)を記録するのです。
 余談ですが、「国性爺」とは国王の姓をもらった人物の敬称ですから、「国爺」と書くのが当然です。なぜ外題は「性」なのでしょうか。上演当初は「国爺」と書いていたといいますが、どうも実在の主人公に遠慮して、わざと「性」にしたようです。
 その後も、近松の創作活動は「時代物」を主に続くのですが、70歳ごろから身体の衰弱を訴えるなど、老いがだんだんと深まっていきます。
   (詳しくは「時代物作品一覧T・U・V」をご覧下さい。興味のない方は「人物像と家庭生活」のページへ)



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