人物像と家庭生活
「近松つぁん」
人物像と家庭生活
▼「世話にくだけた人」で博学多才
近松は、劇作以外に自分の経歴や感想をもらした日記や随筆などを一切残していません。かたくなに私生活を語ろうとしていないのです。
作品からは、庶民の心の中に深く入り込み、人情の機微に通じた話の分かる人物の顔が浮かび上がってくるのですが、果たして、そんな人物だったのでしょうか。
トップページの自画像を、もう一度見てみましょう。
左の自画像は、近松が死ぬ2週間前に書いた「辞世文」に描かせたものです。烏帽子(えぼし)をかぶり、布衣(ほい)という礼服姿。威儀を正して座る近松は、近寄り難い威厳を持ち、いかにもしかめ面(づら)をしています。
頭の烏帽子は、武士が被る「風折(かざおり)烏帽子」と呼ばれるもの、布衣という装束は江戸時代の無位無官の幕臣またはその身分の者が着用したもので、近松は武士の出身であることを誇示したのでしょう。
右の肖像画は、大阪市立博物館蔵の複製「近松画像」です。
なごやかな表情ですが、羽織袴で、小刀をさして正座した姿は、確かに武士の出を強く窺わしています。
次の左の画像は、当時の儒学者・穂積以貫
(詳しくは、こちらへ)が書いた「難波土産」という本に載っているものです。机に片ひじをついて、原稿の想を練るというポーズですが、庶民的な雰囲気で、かなりくだけた感じです。
どの肖像画が、近松の風貌をより正しく伝えているか判断できません。しかし残された画像を見ますと、共通してちょっと「こわ持て」ですが、後世の書は「世話にくだけた人」と評価しています。
「此人博学碩才にして、しかも当世の人気を察し、世間の世話を能く呑み込みて、百余番の浄瑠璃を作られり」(竹豊故事)
と書いている本もあります。
▼進取の気性と反逆の気概
しかし、近松の若いころの行動からすれば、世の常識に明らかに反抗しています。反逆児、はね返りというか、社会に逆らう強い気概と、じつに行動的で、思いきりがよく、新しいものへの進取の気性で溢れています。
芸能の世界に飛び込んだこと、禁じられていた作者名を名乗ったことなど、それを裏付けています。
これは、機を見るにさとい如才なさともいえます。浄瑠璃から歌舞伎に移り、また浄瑠璃に戻った時期をみますと、ちょうど浄瑠璃と歌舞伎の隆盛期と合致するのです。時流に合わせて泳ぐ近松の姿がよく分かります。
しかし、その裏返しとしての心のわだかまり、武門の出という誇りが意識の底にあったようです。自分をさらけ出さない言動も、その現われといえましょう。
▼屈折した自虐の心情も
近松が病に苦しんでいた晩年、知り合いに送った手紙の中にこんなことを書いています。原文はむつかしいので、現代文にしますと
「若い時から心がけて自分をへり下り、世間を第一に考えて人々にうとまれないようにしてきた。誠実のある相手には、こちらもも誠実につきあった。とかく憎まれぬのが身の徳。私は逆らわぬように生きてきた」
ということです。
相当にへりくだった言い方で、自虐の感じがしないでもありません。これも屈折した心情の現われで、晩年になってやっと本当の気持が吐露できたのでしょうが、近松の人生観が窺われて面白いですね。
▼温かみのある愛情の持ち主とも
確かに晩年は、円満な人柄だったようです。「近松さんの顔をみるだけで、いいんだ」といって、わざわざ雲州(島根県)から訪ねて来た人もあったのです。顔を見るだけで満足を与える、そういった風貌を近松は持っていたのでしょう。
演劇史家の河竹繁俊氏は、近松のことをこう書いています。
「近松が記憶力にすぐれた、いい頭脳の持ち主であったことは伝えられている。しかし西鶴のように鋭く、あるいは狷介不羈(けんかいふき)という人柄でもなく、芭蕉のように超脱した風格の人でもなかったらしい。作品全体の味に示されているように、何事にも愛情を持ち、温かみのある、物分かりのいい、客観性をもった人物だったらしい。そこが坪内逍遥らによって、シェイクスピアと比較されるわけであろう」(「日本演劇全史」)
▼家族は妻と子ども3人
近松には、妻と3人の子どもがいたといいます。妻は大阪の松屋という家の出で、尼崎市久々知の広済寺にある近松の墓碑に並んで刻まれた「一珠院妙中日事信女」です。どんな人かは分かりませんが、享保19年(1734)2月に死去していますから、近松が死んだあと、10年長生きしています。
子どもとして、多門、景鯉(けいり)、太右衛門3人の名が上っています。長男の多門は49歳のときの子で、のち画家に。景鯉は竹本座の合作作者の1人に、太右衛門は浄瑠璃芝居の経営者になったといいますが、景鯉と太右衛門は同一人物との説もあり、はっきりしません。
妻と3人の子ども、当時としては標準的な家庭像が想像できます。家族に対しては、始終細かく気を配っていたようで、こんな話もあります。
近松が竹本座の座付き作者をしていた時、給金を百両に増やそうかといわれた。近松は「私は生涯50両で足ります。私が死んだ後、その差額50両を息子に下さいませんか」と言ったとか。
子どもの将来を心配する父親のやさしい顔を覗かせています。